渋染一揆

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渋染一揆(しぶぞめいっき)は、江戸時代末期(幕末)の1857年(安政4年)に起こった、備前国岡山藩の被差別部落住民53団による強訴である。事件名称は昭和時代に一揆とされている。

経緯

岡山藩の被差別部落民は、藩士より農業指導を受け農業生産を生業としていたため、他藩の被差別部落民より生活水準は良い状況であったと言われる。しかし、池田慶政の財政再建のための藩政改革の柱の一つである藩内の全ての者に対する質素倹約の方針のあおりを受けて、1856年(安政3年)に出された倹約令・別段御触書により、被差別部落民は公式の場の無し・柿渋による渋染の着衣(部落民にとっては渋染は、それまで着ていた古着より高価な物であった)、下駄履きの原則禁止などを強制された。これに対し、各部落の代表者が集まり、白い死装束を着て非武装で強訴を行い、武装した藩士と交渉した。その結果、嘆願書を藩主に渡すという要求は実現し、御触書は撤廃された。ただし首謀者は、厳しい取り調べなどにより死亡した。なお、その記録は儒学など学問の教養もあった強訴指導者によりなされ、今に伝えられる。

主要文献

  • 『禁服訟歎難訴記』(原題「穢多渋着物一件」[1])神下村(こうのしたむら)の豊五郎

参考文献