池田長頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Anakabot (会話 | 投稿記録) による 2022年7月15日 (金) 05:05個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (セクションリンク修正)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
池田長頼
時代 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永9年4月6日1632年5月24日
別名 助三郎(通称)
官位 従五位下豊後守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川秀忠家光
氏族 池田氏(長吉流)
父母 池田長吉伊木忠次
兄弟 長幸森寺長貞長政、長頼、長賢
久留島通春
長忠長氏
テンプレートを表示

池田 長頼(いけだ ながより)は、江戸時代前期の旗本通称は助三郎。官位従五位下豊後守

略歴

池田長吉の四男として誕生。

慶長6年(1601年)、徳川秀忠に仕え、御書院番頭となり知行3000石を与えられる。寛永4年(1627年)、従五位下、豊後守に叙任。

寛永9年(1632年)4月4日、兄長幸の病が重く、親族が集まり後嗣について評議した。嫡男長常は病弱のため、次男長純(長教)と分割相続する案に長頼は1人反対し、評議の場から外された。怒った長頼は、長純とその親族の脇坂安信脇坂安経に斬りかかり、安経を殺害する。同月6日に責めを負って切腹した。翌日、安信も改易された。

系譜