池田長頼
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛永9年4月6日(1632年5月24日) |
別名 | 助三郎(通称) |
官位 | 従五位下豊後守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川秀忠、家光 |
氏族 | 池田氏(長吉流) |
父母 | 池田長吉、伊木忠次娘 |
兄弟 | 長幸、森寺長貞、長政、長頼、長賢 |
妻 | 久留島通春娘 |
子 | 長忠、長氏 |
池田 長頼(いけだ ながより)は、江戸時代前期の旗本。通称は助三郎。官位は従五位下・豊後守。
略歴
池田長吉の四男として誕生。
慶長6年(1601年)、徳川秀忠に仕え、御書院番頭となり知行3000石を与えられる。寛永4年(1627年)、従五位下、豊後守に叙任。
寛永9年(1632年)4月4日、兄長幸の病が重く、親族が集まり後嗣について評議した。嫡男長常は病弱のため、次男長純(長教)と分割相続する案に長頼は1人反対し、評議の場から外された。怒った長頼は、長純とその親族の脇坂安信、脇坂安経に斬りかかり、安経を殺害する。同月6日に責めを負って切腹した。翌日、安信も改易された。