歌川芳延
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(松本芳延から転送)
歌川 芳延(うたがわ よしのぶ、天保9年(1838年)11月 - 明治23年(1890年)8月14日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。
来歴
[編集]歌川広重及び歌川国芳の門人。松本八郎の男。姓は松本、通称は弥三郎。俗称は狸の芳延。幼少時に士族の松本氏の養子になっている。歌川を称す。一雲斎、後に一侠斎、一桂斎と号す。狂歌名は遊狸庵都逗美。初めは歌川広重に学んでいたが、その士風の窮屈さを嫌って後に国芳の門人となった。国芳の門に入ったのは18歳の時とも壮年時ともいわれ、国芳の描いた狸の絵をみて入門したといわれる。作画期は安政(1854年 - 1860年)から明治10年代の頃であった。財産を失って義兄の吉田屋宇三郎に寄食していた頃、2世絵馬屋と交流、狂歌も学んで能くした。浅草田甫に狸汁の店を開いたため、「田甫の狸」などとあだ名をつけられた。
以下に、芳延と狸のエピソードの一端を示す。
芳延は横浜行の陶器に絵を描いていた。狸を集めて火鉢や茶碗や、その他の器具も狸尽しであったが、当時浅草奥山には狸がいたもので、迷子の狸をポリス君から貰(モラ)って千束(センゾク)町の自分の門口につないでいた。ところが座敷へ上られ、たれられたりして困っていたが、終に病死したから、石で狸の形を刻んで、門口に立てて、狸の墓を拵えてやったが、今は跡方もない — 淡島寒月著 『梵雲庵雑話』「趣味雑話」「二」P140(大正七年(1918年)三月『大供』第二号)
間もなく、横浜に移住、後に浮世絵をやめ、名古屋へ行き、武者絵や浮世絵風俗を得意として描いていた。初めて陶器に錦絵風のものを描いている。狸を得意であったため、狸の芳延と呼ばれ、産をなして東京へ帰った。また、肉筆浮世絵の幽霊画なども描いている。享年53。墓所は足立区南花畑の長建寺。法名は松還院本誉芳延居士。