在原善淵

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在原 善淵
時代 平安時代前期
生誕 弘仁7年(816年
死没 貞観17年2月2日875年3月13日
改名 善淵王(皇族時代) → 在原 善淵(臣籍降下後)
官位 従四位上大和守
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 在原朝臣
父母 父:高岳親王、母:素性不詳
兄弟 善淵安貞
素性不詳
一貫
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在原 善淵(ありわら の よしふち)は平安時代前期の貴族。四品・高岳親王の子で、平城天皇の孫にあたる。


経歴

薬子の変で父・高岳親王皇太子を廃された後、臣籍降下して在原朝臣を賜姓される。

嘉祥3年(850年)4月17日に正六位上から従五位下叙爵斉衡3年(856年)正月7日に従五位上に進み、6月14日に大舎人頭に任ぜられる。11月21日には中務少輔に転じた。天安2年(858年)正月16日に紀伊守となり地方官に転じ、貞観元年(859年)11月19日、正五位下に昇叙。同年12月21日に大和守に転任し、翌年8月26日に内匠頭となり京官に復した。

貞観4年(862年)2月14日、大蔵大輔に任ぜられる。貞観5年(863年)2月10日に内匠頭、3月28日には次侍従に補任。貞観6年(864年)の正月に従四位下紀伊守に叙任され、3月8日には山城権守に転じた。貞観9年(867年)2月11日に神祇伯に任ぜられ、4月19日に河内権守を兼任。貞観10年(868年)正月、従四位上近江守となり、ほどなく大和権守となる。

貞観11年(869年)の正月には再度山城権守となり、貞観14年(873年)に大和守に転じた。貞観17年(875年)2月2日卒去享年60。最終官位は從四位上行大和守[1]

官歴

※ 以下、『六国史』の記載に従う。

  • 嘉祥3年(850年)4月17日:従五位下に叙す。
  • 斉衡3年(856年
    • 正月7日:従五位上に叙す。
    • 6月14日:大舎人頭に任ず。
    • 11月21日:中務少輔に転ず。
  • 天安2年(858年)正月16日:紀伊守に任ず。
  • 貞観元年(859年
    • 11月19日:正五位下に叙す。
    • 12月21日:大和守に任ず。
  • 貞観2年(860年)8月26日:内匠頭に転ず。
  • 貞観4年(862年)2月14日:大蔵大輔に任ず。
  • 貞観5年(863年
    • 2月10日:内匠頭に任ず。
    • 3月28日:次侍従に補す。
  • 貞観6年(864年
    • 正月7日:従四位下に叙す。
    • 正月16日:紀伊守に転ず。
    • 3月8日:山城権守に転ず。
  • 貞観9年(867年
    • 2月11日:神祇伯に任ず。
    • 4月19日:河内権守を兼ぬ。
  • 貞観10年(868年
    • 正月7日:従四位上に叙す。
    • 正月16日:紀伊守に任ず。
  • 貞観1-年(86-年)-月-日:大和権守に転ず。
  • 貞観11年(869年)正月13日:山城権守に任ず。
  • 貞観14年(873年)正月13日:大和守に任ず。
  • 貞観17年(876年)2月2日:卒去。享年60。

系譜

脚注

  1. ^ 日本三代実録貞観17年2月2日条。