四賀ノ峰辰之助

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四賀ノ峰 辰之助(しがのみね たつのすけ、1876年明治9年〉 - 1958年昭和33年〉5月?)は明治、大正時代の大相撲力士。本名:不明。

略歴

青森県三戸郡五戸町出身。高砂部屋に入門。梅常陸時代の古い元十両とあり[1]1898年5月四ツノ谷辰之介で序ノ口。1900年1月四賀ノ峰に改名。1905年1月十両。1場所で陥落し、1906年5月再十両で4場所務め、十両4枚目まで進む。1908年5月に幕下に陥落し、その後も幕下以下で長く現役を続けたが三段目、序二段と落ち1921年1月序二段で引退[2]世話人となった。

大正の終わりごろ脳溢血で亡くなり、葬式をしていたところ、息を吹き返したという[1]。それから30年以上生き1958年に数え83歳で亡くなる[1]。世話人が1949年より番付記載されるようになり四賀ノ峰も記されているが、1958年5月を最後に消えるため、その前後に死去したと思われる[1]

三代の高砂親方に仕え、高砂親方(前田山)も一目置き、四賀さんといっていたという[1]

浅井万金膏の販売を武蔵川(鴨緑江)から譲り受け、いつも背中の風呂敷に浅井万金膏を持ち歩き、若い衆にはタダで配っていた。虫眼鏡と分厚い手相の本を持ち、若い衆の手相を見るのが楽しみで、「出世の相だ、幕内まで行く」と引退しかけたのちの幕内力士たちを引き留めたという。高砂部屋の阿久津川もその一人とのこと[1]

土俵成績

十両成績:10勝15敗1分1預

春場所 夏場所
1898年 東序ノ口5枚目
1899年 東序二段7枚目
1900年 西三段目19枚目 西三段目
1901年 東三段目14枚目
1902年 西幕下 西幕下
1903年
1904年
1905年 東十両10枚目 東幕下2枚目
1906年 西幕下筆頭 東十両8枚目
1907年 東十両10枚目 東十両4枚目
1908年 東十両7枚目
1909年
1910年
1911年
1912年 西幕下3枚目 西幕下18枚目
1913年 西幕下 東幕下
1914年 東三段目2枚目 東三段目
1915年 東三段目5枚目 東幕下
1916年 西幕下 東幕下
1917年 西三段目4枚目 東三段目
1918年 西三段目

出典

  1. ^ a b c d e f 「真説大相撲見聞録」石井代蔵、新潮文庫
  2. ^ 四賀ノ峰 力士情報”. sumodb.sumogames.de. 2019年10月6日閲覧。