勝田竹翁

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勝田 竹翁(かつた ちくおう、生没年不詳)は、江戸時代前期の狩野派の絵師。

伝記

名は貞信。他に士貞、定(貞)則、陽渓(養景)、沖之丞(隠岐之丞)と称した。竹翁は号で、翠竹庵の別号がある。

三河国加茂郡郷士勝田平左衛門の子。慶長13年(1613年)に切米200表20人扶持を受ける。8歳の時に土井利勝に召され2代将軍徳川秀忠の側禿となる。絵を良くしたことから狩野長信に師事し、寛永7年(1630年)4月には3代将軍徳川家光の御部屋絵師となった。側禿や御部屋絵師といった役職の実態は不明だが、将軍と身近なやや特殊な身分と想像される。

明暦元年(1655年)4代将軍徳川家綱の将軍就任祝賀のため、来朝した朝鮮通信使へ贈る屏風20双のうち5双を描く。この時の贈朝屏風は、狩野探幽ら竹翁含め8名が担当しているが、担当数が5双というのは抜きん出て多い。『徳川実紀寛文6年(1666年)正月六日の御絵始めを探幽、狩野安信兄弟と共に3人で勤め、安信と同価の時服を与えられている。こうした伝歴から総合すると、秀忠、家光、家綱の3代に渡って活躍し、特に1650年代以降は画壇の重鎮だったと言えよう。その後は貞享4年(1687年)以前に没したとされる。

子に貞寛(左兵衛)と狩野一渓(重良)の養子となった良信がいる。しかし、貞寛は早世したと言われ、竹翁の家系は絵師として存続しなかった。

代表作

参考資料

  • 門脇むつみ 「勝田竹翁筆「観馬図屏風」について ─徳川家綱との関わりから」、河野元昭先生退官記念論文集編集委員会 『美術史家、大いに笑う 河野元昭先生のための日本美術史論集』 所収、ブリュッケ、2006年 ISBN 978-4-43407750-0