ユーリー・ウラジミロヴィチ (ムーロム公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2020年9月4日 (金) 23:04; Cewbot (会話 | 投稿記録) による版 (bot: 解消済み仮リンクアンドレイ・ボゴリュブスキーを内部リンクに置き換えます)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

ユーリー・ウラジミロヴィチロシア語: Юрий Владимирович ? - 1176年1月19日)は歴代ムーロム公のうちの一人である(在位:1162年 - 1176年)。リャザン大公ウラジーミルの子。

1162年[1]1161年という記録もある[2])に父のウラジーミルが死去した後、上位の公位であるリャザン公には従叔父のグレプが就き、その子孫が継いだ。一方、ユーリーらウラジーミルの子孫の統治のもとで、ムーロム公国リャザン公国から分離した。ムーロムは、ウラジーミル・スズダリ公国の首都ウラジーミルに近接しており、ムーロム公もまた、ウラジーミル・スズダリ公と同盟して行動した。

1164年、ユーリーはブルガル族に対する、ウラジーミル・スズダリ公国のアンドレイ・ボゴリュブスキーの遠征軍に援軍を送った。また、1169年末にはノヴゴロド公ロマンに、1172年冬には再びブルガル族に、1173年にはキエフ公国のロスチスラフの子に対して軍勢を差し向けた。

1174年にアンドレイが死ぬと、ウラジーミル大公国(アンドレイ以降、ウラジーミル・スズダリ公国の統治者は大公を称した)では権力闘争が勃発したが、この時はヤロポルク(アンドレイの甥)を支援し、ミハイル(アンドレイの弟)に対する遠征に参加した。ユーリーはその2年後の1176年に死去した。

[編集]

出典[編集]

  1. ^ Ипатьевская летопись // ПСРЛ, т. II. М., 1962, стб. 519.
  2. ^ В Воскресенской летописи (ПСРЛ, т. VII; стр. 75)

外部リンク[編集]