ノート:光武帝

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雲台三十二将の李通が、三国時代の武将である李通にリンクされていたため"李通 (後漢)"というように、仮の形でリンク先を修正しておきました。--きつねそば 2006年12月14日 (木) 02:55 (UTC)[返信]

要出展となっている“評価”の部分ですが、大部分こちらの「光武帝と建武二十八宿伝」からの転載に見受けられるのですが……ご意見を求めます。--210.139.201.207 2008年11月9日 (日) 07:29 (UTC)[返信]

要出展となっている“評価”の部分ですが、田中芳樹著「中国武将列伝」が同様のことを述べています。--59.140.51.246 2008年12月22日 (月) 13:26 (UTC)[返信]

要出典となっている部分ですが、ここまで詳細ではありませんが、守屋洋氏も『中国皇帝列伝』において似たような主旨の評価をしています。また、「光武帝と建武二十八宿伝」の件ですが、そこのサイト主は、所謂「布教」のつもりでサイトを作っている様子ですので、当人が記事を書いた可能性も捨てきれません。もし、可能であればそこのサイト主に連絡を取り、確認をとってみるべきではないでしょうか。--臨邑 2009年10月9日 (金) 04:31 (UTC)[返信]

履歴追って見て分かりました。「利用者:Kay28」をそのまま信じると当人ですね。--火扇 2009年11月2日 (月) 13:47 (UTC)[返信]

「評価」の節には問題が多々あるように見受けられます。中でも「政治方針」の小節で法家思想の側面のみ強調し、儒教の影響が一切なかったかのように述べるのは偏頗に過ぎるのではないでしょうか。漢王朝が儒教と法家のいずれに重きを置いたかは東洋史学界における一大論点です。また後漢王朝の儒教的側面を重視すれば、これまたこの時代の大論点であるいわゆる豪族連合政権説を肯定しやすく、法家的側面を重視すればこれを否定しやすくなるかと思われます。このように見解が分かれる重要な問題については両論併記が望まれるでしょう。一朝一夕に書き直せるものでもありませんが、いずれ改められるべきと思います。
今回はとりあえず「二十八将」の小節についてのみ書き直させて頂きました。拙文「雲台二十八将」で一通りのことは述べさせて頂いたので、この小節は簡潔に書けばよろしいかと思います。なお、念のために改変前の文章について卑見を述べておきます。「光武帝の即位時に(中略)二十八人を、親族外戚を除いて選んだ」とありましたが、二十八人が選ばれたのは光武帝の没後のことです。また、「運命であるかのように自らの地位や地盤を放棄して馳せ参じてきた」「みな戦場で馬を並べて命を共にした戦友として」などは主情的に過ぎる表現ではないでしょうか。この時代に造詣の深い人による編集と見受けられますが、28人が一堂に会したことは恐らく無かったであろうこととか、賈復・寇恂が反目しあっていたことなどは考慮されなかったのでしょうか。また「そのため星座の二十八宿にも擬せられ」とありましたが、なぜ直前の「志を最後まで違えることはなかったのである」を受けて「そのため」と言えるのでしょうか。そして、「雲台三十二将」という呼称に根拠のないことはノート:雲台二十八将#削除依頼提出のお知らせ/改稿の必要性についてで述べさせて頂いた通りです。--Fish40 2011年7月31日 (日) 16:57 (UTC)[返信]
とりあえず出典2つを示した上で本文を多少改めました。まず諸葛亮によるとされる「論光武」は、「光武帝は漢の高祖と違いミスをしないので家臣が目立たない」などとかれの無謬をことさらに強調している訳ではないと思われます。
また、司馬光による議論は光武帝のみを対象とするものではなく、後漢で教化がおこなわれたことを光武帝ひとりの功績としてかれを「神話時代というべき夏、殷、周の聖王に匹敵する」と述べたようには解し難いのではないでしょうか。さらに、司馬光は「曹操は漢王朝の『名義』を畏れて漢を廃しなかった」と述べているのであって、光武帝個人の事業を畏れて簒奪しなかったとは読み取り難いように思われます。
ここでいう「名義」とは何かを明らかにすることは自分には荷が重いですが、司馬光が「臣聞く、天子の職は礼より大なるは莫く、礼は分より大なるは莫く、分は名より大なるは莫しと。何をか礼と謂う、紀綱是なり。何をか分と謂う、君臣是なり。何をか名と謂う、公・侯・卿・大夫是なり」(『通鑑』周紀1・威烈王23年条)と論じていることからすれば、漢王朝の「名」とは「教化によって秩序立てられた君臣・上下の別」というほどの意味になろうかとは思います。いずれにせよ曹操が「名義」を畏れて簒奪しなかったという司馬光の見解は光武帝個人の評価に直結させられるものではないように思われます。
そして、そもそもここでいう「教化」とは儒教を振興することであって司馬光の述べる通り後漢における儒教の影響力は相当に大きいはずなのに、光武帝を評価した人物として司馬光を挙げておきながら、一方で「政治方針」の小節で光武帝の治世における儒教の影響をまったく認めないのは自家撞着というべきではないでしょうか。今回は出典を示すことしかできませんでしたが、このような矛盾はいずれ解消されるべきでしょう。--Fish40 2011年8月14日 (日) 05:51 (UTC)[返信]

「評価」節などの問題点について[編集]

本項目の「評価」の節以降には史料の甚だしい曲解や根拠不明の記述などがあまりにも多過ぎると考えます。光武帝を称揚するために編集者の望む光武帝像に合わせて作られた文章という印象しか受けません。上記以外に問題があると考えた主な点を以下に指摘させて頂きます。

更始帝・高祖との比較論[編集]

「同じ劉氏でも本家筋の更始帝は酒に溺れて見放されることとなった」と更始帝との比較がなされていますが、例えば唐の劉知幾は「当時の史官が筆を曲げ、更始帝を惰弱な人物として描くことで後漢王朝におもねり、更始帝に殺された劉エンの怨みをすすいで独り光武の美を成した」(『史通』内篇・曲筆)という趣旨の見解を述べ、范曄『後漢書』がこの当時の史観を受け継いでいることを指摘しています。現行の概説書にも劉知幾の議論を踏まえて『後漢書』利用に際しての注意を促すものがあります(『中国史』1・先秦〜後漢、山川出版社、p573)。すでに唐代には『後漢書』に描かれた更始帝像を相対化して読み取ることが行われていたのであり、今日の歴史叙述においてこの視点が放棄される理由はないでしょう。にもかかわらず勝った光武帝と負けた更始帝とを単純に比較し、更始帝をおとしめるのは素朴に過ぎる上に中立性の観点からも問題があると考えます。

高祖との比較では光武帝が功臣を害しなかったことを称える点で何となく『後漢書』の議論に似たようなことが述べられていますが、そこでは功臣を害しなかったことが「当時としては珍しく道徳観念を失わなかった君主である」ことのあらわれとされています。「当時としては珍しく」というからには、「道徳観念」とは現代の道徳観念であり、これに照らして高祖や呂后は残忍、光武は仁君ということなのでしょう。

しかし、この箇所は典拠不明で私的な感想文のように思われる上、現代の価値観に基づいて前近代(しかも2000年前)の人物を評価する点で無理があるのではないでしょうか。確かに范曄は光武帝が功臣の家を残したことを評価していますが、そうかといって高祖による粛清を批判するものではなく、むしろ「出自の卑しい武人が過大な封邑や地位を与えられて増長すれば誅殺されるのは当然である」という趣旨の見解を述べています(『後漢書』列伝12)。 ここで范曄がいう「前事の違」とは功臣を粛清したこと自体ではなく、功臣を増長させるきっかけを与えたことと解されます。

また、例えば明の王世貞は「将の将たることにおいては韓信らを起用した漢高祖と李善長らを起用した明太祖とが双璧であり、光武帝はこれに及ばない」 という趣旨の意見を述べています(『読書後』巻2・書鄧禹伝後)。そこでは韓信・李善長が誅殺されたことについては言及されていません。 つまり功臣の粛清は必ずしもマイナス評価にはつながらないのが前近代中国における「道徳観念」であるともいえるでしょう。

また高祖・光武の比較論は古来行われてきたものですが、本項目のように功臣を害したかどうかの観点のみから論じられてきたものではありません。 例えば曹植の「漢二祖優劣論」は両者の仁徳の厚さや将才を比較しているし、范曄がいう「前事の違」とは功臣を害した後に朝廷で権力の世襲による弊害を生じ、在野の賢人が用いられなくなったことをも指しています。広く在野の賢人を求めた光武帝は偉い、ということなのでしょう。このような幅広い議論が史上に積み重ねられてきたのに、両者を比較するに際して功臣に対する処遇しか取り上げないのは疎漏であるように感じます。

さらに、先述の王世貞『読書後』が臣下の用い方の優劣を論じて高祖に軍配を上げていることからも知られるように、高祖との比較論はことさらに光武帝の優越を主張するためのものでもありません。中立性の観点からはこのような見解をも併記するのが望ましいのではないでしょうか。

要するに高祖・光武帝を比較して論じるのであれば、根拠の明らかでない上に「道徳観念」を持ち出して光武帝を評価しようとする現行の叙述よりは古来行われてきた高祖・光武帝のさまざまな比較論を併記することのほうが適切であろうと考えます。奴隷政策にしても、これを評価するのであれば無理に「道徳観念」のあらわれなどというよりも、例えば「当時の社会の底辺に鬱積する不満を解消するとともに、王朝の基盤となる庶民の充実を意図したものであろう」(西嶋定生氏『秦漢帝国』講談社学術文庫、p458)という見解を踏まえて言及すれば足りるかと思われます。

『金楼子』「論光武」の来歴[編集]

諸葛亮が光武帝を論じたとされる南朝梁代の『金楼子』の文章は、諸葛亮に偽託されたことを疑う余地はないのでしょうか。前回の編集ではこの点を考慮してとりあえず「諸葛亮の見解として〜と記す」としておきましたが、そもそも来歴の明らかな『通鑑』と併記できるようなものか疑問なしとしません。

この文章の初出は『金楼子』より以前のものに求めることはできないようです。『金楼子』の当該箇所は『諸葛亮集』に収められていますが、このことは必ずしも当該箇所が諸葛亮の文章であることの根拠とはなりません。諸葛亮にもっとも近い時代の陳寿『諸葛亮集』は散佚し、現存の『諸葛亮集』はより後世に輯されたものであって、そのうちいくつかの文章は諸葛亮に偽託されたことが知られています(例、中林史朗氏の指摘[1])。

また『金楼子』の文章の内容にも問題があるように思われます。『金楼子』の当該箇所は曹植の「漢二祖優劣論」に対する諸葛亮の反論の体裁を採りながら、「曹植曰く」以下は『曹子建集』巻9や『芸文類聚』巻12、『太平御覧』巻447に収められた「漢二祖優劣論」にはみられない文言を曹植の見解とするものです。「諸葛亮曰く、『曹子建、光武を論じ…』」以下もやはり「漢二祖優劣論」にはみられない文言を曹植の見解として取り上げることから始まっています。『曹子建集』・『芸文類聚』・『太平御覧』の各テキストの間にも多少の異同がありますが、『金楼子』との齟齬ほど甚だしいものではありません。このように内容に著しい齟齬があることも、『金楼子』の当該箇所が諸葛亮に偽託されたことを疑う理由となるかと思います。このような問題のある文章を諸葛亮による光武帝の評価の根拠とするのは望ましくないのではないでしょうか。

個人的にはむしろ偽託であることを前提として、南朝梁代に求められた光武帝像とか当時の蜀漢正統論と光武帝との関係とかを示す資料として挙げるほうが意義があろうかと考えますが、偽託であることを明らかにした先行研究もないとすれば(ろくに探していませんが)『金楼子』の当該箇所はいっそ無いほうがマシだとすら思います。

儒教の排除?[編集]

「徹底した法家思想の政治方針で、太守を初め県令に至るまで自ら直接面接して任命した。(中略)儒家的な思想は一切なく、大臣たる三公で職務を全うできたものはごくわずかで獄死する者もいた。(中略)儒家である士大夫たちに不評であり、班固には「刑罰の根本が正しくない」と批判され、章帝の時代に宰相となった第五倫には秦の酷政、王莽の苛政に匹敵すると非難された」という部分がこの節の中でももっとも致命的な誤りを含んでいると考えられます。

後漢はときに礼教世界とか礼教主義の時代などと表現されます。光武帝の政治方針に儒教の思想を一切認めないことは果たして可能なのでしょうか。

儒教の国教化がいつ頃完成したかについては議論のあったところであり、前漢武帝の頃とする説、前漢末・王莽の頃とする説(例、西嶋定生氏)、光武帝の頃とする説(例、板野長八氏)に大別されると思われますが、どの説を採っても遅くとも光武帝の頃には儒教の国教化が完成していたということです。

また例えば郷挙里選の孝廉の科については「孝行・廉潔という儒教的道徳の濃厚なこの科が最も名誉とされたのは、光武帝の意志によるという」(谷川道雄氏『世界帝国の形成』講談社現代新書・新書東洋史2・中国の歴史2、p31)とか「孝廉が重視されたのは、光武帝がはじめて孝廉による登用者を尚書郎に任命してからであるとされ」(前掲西嶋氏p478)などと指摘されています。

したがって、かれの政治方針に儒教の思想が一切ないということはまずありえません。光武帝がしばしば高官を罷免したなどのことは確かに史書の伝えるところですが、これを理由として光武帝の政治方針における儒教の思想をまったく認めない説は存在しないか、存在するとしてもとうてい学界の支持を得られるものではないでしょう。

また、斑固が「刑罰の根本が正しくない」と光武帝を批判したという話の根拠は何に求められるのでしょうか。『後漢書』光武帝紀や班固『白虎通』など一通りみてみましたがそれらしいものは見当たりませんでした。また仮にこの話が信頼できる根拠を有するものであるとしても、光武帝が儒教を振興したという通常の理解がこの一事で完全に否定されるほど重要な事件といえるのでしょうか。

そして、第五倫が上書して始皇帝や王莽に言及した(『後漢書』列伝31・第五倫伝)のは章帝の時代に酷吏が幅を利かせていたのを戒めるものです。これを光武帝の厳罰主義を批判するものと解釈するのは曲解というべきでしょう。

本項目との類似性が指摘されている上記外部サイトのように儒教をなぜかことさらに嫌悪して光武帝を法家思想の体現者として描く立場からは儒教が光武帝の政治に用いられたことを認めるわけにはいかず、その一方で光武帝が儒家から批判されたことが名誉なこととして捉えられるのかも知れません。 しかし、光武帝が儒教を国家の統治理念としたことを否定することはできないし、光武帝が班固や第五倫から批判されたことが根拠薄弱であることは上記の通りです。そもそも前漢以来儒家と法家との併用がおこなわれてきたことからも知られるように、漢代では儒教と法術とは互いに排斥しあうものではないでしょう。

その他、「太守を初め県令に至るまで自ら直接面接して任命した」ことの根拠もよくわからない上に、たとえこれが事実であったとしてもなぜ徹底した法家思想のあらわれといえるのかが理解できません。これは記事全体の問題ですが、光武帝の事跡に相当の字数を費やしながら、かれが緯書を多用したことには言及されていないのも儒教を不自然に遠ざけているようで奇異に感じられます。

全ての詔勅の自作?その他[編集]

以下は「人物」節の問題です。

「太学で尚書を学んだ学識人であり、詔などすべての文章が直筆である」とありますが、光武帝が詔勅を「すべて」自作したとする根拠は何なのでしょうか。

趙翼は後漢歴代皇帝の詔に用いられた文言に着目し、専ら皇帝が用いる語句が存在することを根拠としていくつかの詔を皇帝による自作と判断しています。光武帝については3つの詔勅をかれの自作として例示しているに過ぎません(『二十二史箚記』巻4・漢帝多自作詔)。趙翼が例示した以外の詔が全て代書とは限らないとしても、専ら皇帝が用いる語句の存在しないものを含めた全ての詔が光武帝の自作であるとも断定できないでしょう。また趙翼によれば後漢では明帝・章帝・馬皇后も詔を自作しています。あたかも光武帝「のみ」が詔勅を「すべて」自作したかのように述べるのはwikipediaの「大言壮語」ルールに抵触するようでもあり、適当ではないと考えます。

その他、「戦場では、多くの戦いで最前線に立ち、自ら得物を奮って戦う勇士であった」「豪傑であった」とあります。光武帝が即位後も前線で戦ったことは確かですが、これを「勇士」「豪傑」などと表現して果敢さをことさらに強調するのは中立の観点や「大言壮語」ルール上問題があるのではないでしょうか。

まとめ[編集]

以上のように「評価」節などの誤謬は重大かつ多岐にわたるものであり、もはや典拠を探して示すとか史料の曲解を正すとかの小手先の修正では救済しがたいように思われます。この節には2008年10月に要出典テンプレートが貼り付けられましたが、節の大部分がそもそも根拠のない文章である以上、 このままではいつまでもテンプレートが除去されることはないでしょう。

節ごと削除するなりコメントアウトするなりして単純に見えなくするだけで記事の正確性・中立性・検証可能性が向上するし、とりあえずの措置としてはこれが最良の方法だと考えています。減税政策に言及した箇所など有用と思われるものは他の節に移すなりすればよいと思いますが、いかがでしょうか。 --Fish40 2011年12月6日 (火) 16:39 (UTC)[返信]

上記の通り「評価」節は削除すべきと考えます。削除をおこなうに先立ち、予告としてcleanupを貼り付けさせて頂きました。ご異論のない限り本年中には削除させて頂きます。減税・奴隷・軍縮の各政策については「生涯」の節で、「柔道」の逸話は「人物」の節でそれぞれ言及し、残りは削除するのがよろしいかと考えます。梁元帝の『金楼子』、司馬光『資治通鑑』のいずれも不要と考えます。
まず『金楼子』の該当箇所は上記の通り諸葛亮による文章か疑わしい(と個人的には考えている)ものであり、曹植「漢二祖優劣論」をさしおいてまで提示すべきとは考え難いです。光武帝の無謬を強調するような曲解を正したところで、ここに残す必要性が増したとは思えません。
また司馬光の議論は『通鑑』漢紀の末尾に置かれたもので、「後漢後期の悪政のもとでも清廉の士が朝野に現れたのは最初の三代の教化のおかげ、曹操が漢を廃する意志を有しながら自制したのも最初の三代の教化によって確立された君臣の別を畏れたせい」と後漢一代を総括する趣旨です。もともと光武帝にこじつけて曲解された上で記載されたものであり、いくら正確に訳出しても本項目に不可欠であるとまでは考え難く、むしろ正確に訳出すれば本項目との関係が薄くなる文章というべきでしょう。
「評価」節を改めて設けるのであれば編集者の感想文に類する文章は不要であり、史上に残された光武帝に関する議論を列挙すればよいかと思います。ただし、数ある後世の評価の中からどれを取捨選択するかの判断は独断でおこなうべきではないと思われるため、他の編集者の方々にお任せしたいと考えています。--Fish40 2011年12月13日 (火) 13:02 (UTC)[返信]

ご異論がなかったため、「評価」節を削除させて頂きました。--Fish40 2011年12月29日 (木) 09:31 (UTC)[返信]

「人物」節などの問題点について[編集]

「人物」節などについて問題があると考えた点を次の通り指摘させて頂きます。

「標準身長」?[編集]

光武帝の身長について「身の丈7尺2寸(168cm)、当時としては標準身長」とされていますが、「当時としては標準身長」ということの根拠は何に求められるのでしょうか (なお、「7尺2寸」は誤りであって『後漢書』その他の史料によれば7尺3寸です)。管見の限り当時の人物の身長の統計は取られていない以上、「当時としては標準」であるなどと断言することはできないはずです。

漢代の1尺=23cmとして、『後漢書』その他の史料にみえる光武帝とほぼ同時代の人々の身長をできる限り多く挙げれば次の通りです(書名を特記しないものは『後漢書』を典拠としています)。

  • 巨無霸 1丈(230cm、本紀1上・光武帝紀上)
  • 李守 9尺(207cm、列伝5・李通伝)
  • 虞延 8尺6寸(197.8cm、列伝23・虞延伝)
  • 馮勤 8尺3寸(190.9cm、列伝16・馮勤伝)
  • 銚期、賈逵 8尺2寸(188.6cm、列伝10・銚期伝、列伝26・賈逵伝)
  • 蓋延、郭涼 8尺(184cm、列伝8・蓋延伝、列伝12・杜茂伝)
  • 馬援、王莽 7尺5寸(172.5cm、列伝14・馬援伝注引『東観漢記』、『漢書』巻99中・王莽伝中)
  • 光武帝 7尺3寸(167.9cm、本紀1上・光武帝紀上)
  • 馬皇后 7尺2寸(165.6cm、本紀10上・明徳馬皇后紀)

これを見る限りむしろ光武帝は当時でも小柄であったと解する余地すらあるのであり、少なくとも身長が記録された同時代人の中では小柄であることは確かです。また馮勤の祖父・馮偃は身長7尺(161cm)に満たないことを常に恥じ、子孫が自分に似ることを恐れて子の馮伉に長身の妻を娶らせたところ、その子の馮勤は8尺3寸に達したという逸話があります(『後漢書』列伝16・馮勤伝)。漢代では7尺に足りなければ相当な短躯とみられたことが窺える逸話であり、7尺を3寸上回れば「標準」といえるのか疑問なしとしません。

「当時としては標準身長」というたかだか10文字ではありますが、この項目のずさんさが如実に表れた箇所であると考えるため、以上の通り指摘させて頂きます。

「よく笑う」「気さく」「ジョークを好む」などの描写[編集]

「ただし戦場での豪傑的振る舞いと異なり、平時はよく笑う気さくな人物であった。ジョークを好み軽率な発言も多かった」として、ジョークを好んだことの例として逸話が2つ挙げられていますが、このような人柄の描写に問題はないのでしょうか。

光武帝が『尚書』を学んだことや、同時代人がかれを「謹厚」「謹信」と評したことなどを伝える『後漢書』光武帝紀の叙述に沿うように、内藤湖南は「(劉)秀は至つて謹直な人である」「光武は高祖と違ひ學問を治めた人で、尙書なども讀んで居る」とし、両漢の成りたちの相違をそれぞれの創業者や功臣の人柄の相違から説いています(『内藤湖南全集』巻10所収『支那上古史』pp226-227、筑摩書房)。

そして、光武帝が儒学を修めた謹直な人物であったとの理解は日本の東洋史学界において湖南以来普通に行われてきたものと思われます。

例えば谷川道雄氏は『支那上古史』の上記箇所を引いて「湖南のこうした比較論は、結局前漢と後漢の性格の相違にかかわるのである」(『世界帝国の形成』講談社現代新書・新書東洋史2・中国の歴史2、pp28-29、講談社)と述べ、前漢王朝が荒けずりな時代の風潮のもとで法家の立場を交えた専制的色彩の濃いものであって中央の皇帝権力は地方郷里社会を力により支配したのに対し、後漢王朝は儒学の振興によって地方郷里社会を中央の皇帝権力に取り込むことで国家として完成を遂げたと指摘されています。

このように史書にみえる光武帝の謹直な人柄は論者によっては後漢王朝の性格を決定する要素のひとつとして位置づけられます。光武帝の人柄をどうとらえるかは光武帝個人の問題にとどまるものではないということです。

さらに本節で「ジョークを好」んだ例として引かれる「何ぞ用て僕に非ざるを知るや」の逸話について、安居香山氏は図讖に対する光武帝の憑依を読み取った一方、渡邉義浩氏は安居説を批判して「これは普段『謹厚』な劉秀が、いつになく『戯れて』大言壮語したことに、『坐する者、皆な大いに笑』った、と理解する方が自然な読み方であろう」と解釈し、平素謹直な光武帝が軽口を叩くのは珍しいことであったということを、挙兵以前の光武帝が図讖にさほど関心を持たなかったことの根拠とされています(『後漢国家の支配と儒教』pp43-44、雄山閣出版)。

このような理解と異なる光武帝像を提示したいのであれば、例えば「光武帝紀に記された劉秀の容姿や謹直な性格(中略)帝王としての性行は、 当時の叛乱群が『真主』の出現を期待したという『後漢書』の著者の筋書きに沿って描かれているとも考えられる」(五井直弘氏『漢代の豪族社会と国家』p240、名著刊行会)といった『後漢書』に対する史料批判を起点とする見解を参考にすべきと考えます(こうした見解を本項目に盛り込むかどうかは別にして、このように『後漢書』の光武帝像を相対化してみる観点も重要ではあるでしょう)。

以上のように光武帝の人柄についての考察は、時に後漢王朝の性格や図讖に対する光武帝の姿勢、さらには『後漢書』の撰述態度といった 東洋史学上の論点との関連で展開されてきたものです。にもかかわらず、こうした先行研究の積み重ねを一顧だにせず、軽々に「平時はよく笑う気さくな人物であった。ジョークを好み軽率な発言も多かった」などと述べることはまったく適切でないと考えます。

また「よく笑う」「気さく」「ジョークを好む」といった表現はいずれも光武帝をこのように描きたいという編集者独自の価値判断に基づいて史料を解釈した結果であると思われます。できる限り価値中立的であることを求め、かつ独自研究の発表を避けるべきであるとするWikipediaのルール上も問題があるというべきでしょう。なお、「戦場での豪傑的振る舞いと異なり」という表現じたいが「大言壮語」ルールに反することと、「豪傑的振る舞い」と「よく笑う気さく」な人物であることとがなぜ相反するのかもよくわからないことを付言しておきます。

微行の逸話の扱いについて[編集]

「皇帝に即位後の建武年間の初期、刺客が首都に横行する時期においても、微行を好んで遠くまで外出し、狩などで遊んで夜中に帰ったため、家臣の幾人かにしばしば諫められた。あまりに繰り返されたため、怒った家臣に門を閉ざされて閉め出しをくったことが少なくとも2度ある」という箇所について。

これに類する逸話は、本項目との類似性が指摘されている上記外部サイトにおいても取り上げられています。そこでは夜遊びの度を過ごした光武帝が家に帰りそびれるという天子らしからぬ姿に可笑しみを誘われるようなエピソードとして扱われているようであり、身軽で親しみやすく気さくなイメージを助長する話として用いられているようにみえます。

しかし、光武帝に気さくなイメージをことさらに付与しようとすること自体すでに述べたように問題がある上、そのようなイメージを補強するものとして微行の逸話を取り上げることは適切といえるのでしょうか。そもそも微行を好んだことは光武帝の人柄をあらわすものとして特筆に値することなのでしょうか。

本項目では典拠が示されていませんが、「少なくとも2度」の「閉め出し」とは郅惲と何湯との事例であると思われるので、以下ではこれを前提として述べます。この両人の事例の概要は次の通りです。

  • 郅惲が上東城門候を務めていた時、夜に猟から戻った光武帝の入城を拒んだ。光武帝は門のすき間から顔を見るよう従者に伝えさせたが、郅惲は明かりが遠い(から光武帝の顔が見えない)として詔を受け入れず、光武帝は他の門から入城した。郅惲は翌日に夜行を「暴虎馮河」であると諫めて褒賞され、入城を許した門候は降格された(『後漢書』列伝19・郅惲伝)。
  • 郎中の何湯が開陽門候を守していた時、夜に微行から戻った光武帝を入城させず、光武帝は他の門から入城した。翌日、光武帝は何湯を賞して食を賜い、他の門候には俸給を没収する処分を下した(『後漢書』列伝27・桓栄伝の李賢注に引く謝承『後漢書』)。

これらの事例が歴史上どのように扱われてきたかを知る手掛かりのひとつとして、類書への採録のされ方があると考えられます。

すなわち、『冊府元亀』巻536・諫諍部·直諫第3には郅惲の事例が、同書巻844・総録部・守官には郅惲・何湯の事例が収録されています。郅惲の他に直諫第3の条に収められた光武帝期の事例としては銚期・董宣・鄭興・桓譚・陳元の諌言があります。いずれも身命や地位を賭した極諫といえるものであり、郅惲の諫めもこれに並ぶものとみられていたということです。

また郅惲・何湯の他に守官の条に収められた光武帝期の事例としては祭遵・侯霸・第五倫の事例があります(ただし侯霸の仕事は新王朝で淮平大尹を務めていた頃のもの)。いずれも職務を忠実に遂行した例であり、郅惲・何湯の仕事もこれに並ぶものとみられていたということです。

さらに何湯の事例は『太平御覧』巻215・職官部13・総叙尚書郎にも収められています。郎中の職務遂行の具体例のひとつとして数えられているということです。

要するに両人の事件は光武帝の気さくなイメージを助長するようなのんきな話としては扱われてこなかったことが知られます。

仮に本項目において郅惲・何湯の逸話が光武帝の気さくな印象を強める目的で提示されたものではなかったとしても、これらが光武帝の人柄に言及する際に優先的に取り上げられるべきものか疑問なしとしません。

先述の通り学界で有力な光武帝像は謹直さを最大の特徴とするものであって(少なくとも管見の限り 上記の五井氏の見解も含めて光武帝の謹直さを真っ向から否定する見解は存在しない)、史書の伝えるかれの謹直なさまは微行を好んだことよりも学術的に重要な意義を有するものと認められているのであり、この光武帝像を根拠づけるような逸話のほうが提示するによりふさわしいと考えます。

そもそも『後漢書』光武帝紀こそが光武帝に関する根本史料であるのに光武帝紀の伝えるところである謹直なさまには言及せず、 その一方で列伝やその注釈にしか根拠がない微行癖を書き立てるのは本末転倒というべきではないでしょうか。

まとめ[編集]

以上の理由により、「当時としては標準身長」という字句、「よく笑う」「気さく」「ジョークを好む」とする人物描写、微行の逸話のいずれも「人物」節には不要であると考えます。ご異論のない限り近日中に「人物」節を適宜編集させて頂く予定です。

「人物」節には従前の「評価」節でみられた「光武帝の政治方針には儒教の思想が一切なかった」などのような致命的な誤りこそありませんが、 編集者の願望に従って書かれたという点では共通していると考えられます。「標準身長」の件ひとつ取ってみても、168cmという身長が現代日本人の感覚ではやや低く感じられることから、少しでも身長が高い印象をつくるためにことさら「当時としては標準身長」などと書き立てられたのではないかと邪推してしまいます。

なお、記事全体の問題について以下の通り申し添えます。

光武帝の根本史料たる『後漢書』光武帝紀の叙述や教科書的な通説が本項目でないがしろにされているのを見るにつけ、「光武帝にはこうあってほしい」という編集者の願望を満たすためにつくられた項目という印象しか受けません。小長安で敗戦したことや隴蜀の平定に苦戦を強いられて数年を要したことが「生涯」節で黙殺されているのもかれの負け戦には言及したくないという編集方針に基づくものなのでしょう。これらは光武帝の統一事業をコンパクトにまとめた西嶋定生氏『秦漢帝国』(講談社学術文庫)でも相当の字数で言及されているものであり、光武帝の事業を叙述する上であえて避けるのは不自然に感じられます。本項目では河北での危機が唯一負け戦らしい事件として紹介されていますが、読み手によってはある種の感慨を伴うであろう「麦飯・豆粥」の逸話を挿入するためだけに書かれたようにも思われます。

上記の問題点を根本的に解決するためには、例えば光武帝紀の抄訳を中心に項目全体を最初から書き直すぐらいの大幅な変更をしてもよいのではないかと思います。

ただしこれを行う用意はないので書き直しの提案をさせて頂くにとどめます。--Fish40会話2012年7月23日 (月) 16:03 (UTC)[返信]

「人物」節の編集に先立ち、予告としてcleanupテンプレートを貼り付けさせて頂きました。今月中をめどに適宜編集させて頂きます。なお、以上に述べさせて頂いた以外に「人物」節で問題があると考える点を申し添えます。
「農作業」に励んで劉エンに揶揄されたことが「温和」「質素」な性格を描いた逸話として扱われる一方、親類の税務問題を処理したことなどが「温和」「質素」な性格と対比して「極めて胆力のある」さまを示す逸話として挙げられていますが、このような人物描写には次のような問題があると考えます。
挙兵以前の光武帝のこうした逸話については、例えば宇都宮清吉・三田村泰助の両氏が以下のように言及されています。
  • 宇都宮清吉氏「古代帝国史概論」(弘文堂『漢代社会経済史研究』所収)
「かれ(引用者注:光武帝)は地主青年の有能な事務ぶりを発揮した。一族の訴訟事件を処理し、一族の家々をとりまく賓客たち、いわゆる遊侠の連中を適当にあしらい、荘園生産の穀物の販売に、自ら都市との間を往来する。このような活動を通じて、かれはいやおうなしに、地方豪族社会のリーダー格に押しあげられた。それは劉邦のような英雄人格のリーダーなのではなく、どこまでも有能な事務家としてであった」
  • 宇都宮氏「劉秀と南陽」(同上所収)
「劉秀の家も、農業経営者であった。兄のエンは農業などに不熱心で、遊侠のなかまと交わっていた。しかし、劉秀は謹直な経営者で、事業に精通していた」
  • 三田村泰助氏『宦官―側近政治の構造』(中公新書)p115
「光武は若いころ、都の長安で儒学を学んだ教養人であるが、同時に荘園の管理をする事務家肌の人でもあった」
このように宇都宮・三田村両氏は光武帝を「荘園」経営者として捉えています。光武帝が挙兵以前に励んでいた「稼穡」、劉エンに笑われた「田業」(ともに『後漢書』光武帝紀上)は、両氏によればいずれも本項目にいうような「農作業」ではなく、耕作者を使役して収益を挙げる土地経営の事務ということとなるでしょう。
仮に「稼穡」「田業」が「農作業」を指すものであるとしても、農作業に従事した一事をもって性格が「温和」「質素」であるとすることは、農作業に従事する人に対する編集者の先入観を述べているに過ぎないのではないでしょうか。
また、宇都宮氏は光武帝が農業経営に携わったことと親類の税務問題を処理したこととを、いずれもかれの事務能力を示したものと捉えられています。上記の逸話を「温和」「素朴」な性格や「極めて胆力のある」さまを示したものとすることは先行研究を顧みない編集者独自の解釈に過ぎないと考えます。
そもそも「極めて胆力のある」という表現じたい「大言壮語」ルールに反し不適切であるというべきでしょう。--Fish40会話2012年11月17日 (土) 06:19 (UTC)[返信]


「人物」節を編集させて頂きました。以上に述べさせて頂いたことに加えて、今回の編集にあたっての卑見を申し添えます。

光武帝の容姿は『後漢書』本紀のはじめに記されているのであり、わざわざ厳尤や朱祜に語らせる意義があるとは考えがたいです。

「極めて胆力のある」ことを示すためのいくつかの逸話は、編集者の望む光武帝像に合わせて挙げられたものと判断したため削除させて頂きました。「赤心を推して人の腹中に置く」の逸話については、『後漢書』光武帝紀の該当個所には「降者猶自ら安んじ」なかったところ「光武其の意を知り」「自ら軽騎に乗りて」降兵を視察したと述べられているのであり、「不穏な空気の中を鎧もつけずに」などとはされていません。これも光武帝の「極めて胆力のある」さまをことさらに強調する意図のもとに曲解されたように思われ、たかだか数文字ながらやはり不適切というべきでしょう。

今回は狩野直禎氏『後漢政治史の研究』(同朋舎出版)p88で、銅馬の降兵が「安心していないと聞」いた光武帝が「軽装で」巡察した、と述べられているのを参考に訂正させて頂きました。この逸話は、例えば狩野氏が光武帝の「人心収攬の術」として挙げられているように、先行研究に基づいて何かしらの意義付けをする余地はあろうかと判断したので手直しした上で残しています。

「言論に寛容であった」とする個所は、桓譚・鄭興・尹敏ら讖緯説を批判した者たちが光武帝に殺されかけたり左遷されたりしたことをみれば、光武帝が「言論に寛容」であるなどといえるのか甚だ疑問であるため削除させて頂きました。

また隠者にも寛容に接した例として挙げられた周党や厳光の逸話については、以下のような問題があると考えたため削除させて頂きました。

例えば西嶋定生氏は、逸民の王覇が光武帝に召されてもしきたり通り「臣覇」とは自称せず「覇」とのみ称したことを例として、隠逸の士の生き方からみえる後漢社会の特徴を論じておられます(『秦漢帝国』講談社学術文庫、p481)。そこでは隠逸の士が光武帝の時代から注目され、礼教主義の世俗化に反発して隠逸の世界に逃れる者が増えていったことが述べられ、「人士たるものの生きる場として、天下の中に国家の内と外とを区別するものであり、国家だけが天下を包むものではないという考え方」が出現して「中国の歴史が後漢末以後新しい性格をもつようになる発端」となったという趣旨の指摘がなされています。

また谷川道雄氏は、『後漢書』が正史としてはじめて逸民伝を立てたのは、後漢時代になって現実社会から超越した生き方を志向する人々が増え、それがひとつの風潮になったからであるという趣旨の指摘をされています(『世界帝国の形成』講談社現代新書・新書東洋史2・中国の歴史2、p47)。

こうした先行研究に従うならば、隠逸の士の身の処しかたからは、そうした人物が多く現れた後漢社会の風潮や中国思想史上の変化の兆しを読み取るべきであって、これを光武帝の寛大さを強調するために紹介するのは筋違いのように思われます。

なお、光武帝が儒学を修めたことはその後かれが儒教をどのように用いていったかなどとの関係で、農業経営に熱心であったことは新末の反乱集団がどのような社会階層の人物に指導され、後漢王朝がどのような社会階層の人物によって樹立されたかなどとの関係で、それぞれ重要な意義を有するものであって本来は挙兵前の事跡として項目のはじめの方で言及されるべきではないかと思います。ただし今回は光武帝が尚書を修めたことを「人物」節で言及するにとどめています。

従前の「人物」節に比べて分量は相当に減りましたが、これは編集者の望む光武帝像に合わせるように解釈された逸話や過剰な価値判断を含む文言などを削除した結果、「人物」節には今回挙げさせて頂いたようなことしか残らなかったということです。--Fish40会話2012年11月30日 (金) 12:11 (UTC)[返信]