ノート:ハリル・クート

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内容[編集]

ハリルに直接関係のないことの羅列が多すぎます。1915年1月にハリルはタブリーズに入ったのでしょうか?イブラヒム・フェヴズィやオメル・ナージなどは入ったようですが。また、ハリルのシャルカトの戦いへの関与度はめちゃめちゃ低いと思いますが。Takabeg 2012年1月30日 (月) 22:53 (UTC)[返信]

その冒頭の文章は私のものではありませんが、1914年の暮れにワンでcommanderになったはずです。すくなくとも文章の時間的な順序がおかしいです。ワンから指揮を行なったと思いますが、タブリーズに行ったかどうかは確証はありません。シャルカトの戦いについてはリンクを貼りましたが、元の文章は私のものではありません。関与度の意味が判りませんが、同行していなくても、降服に関して、司令官としての責任は少なからずとは思いますので、これは残しても良いかと思います。--121.115.105.38 2012年1月31日 (火) 06:50 (UTC)[返信]

東部軍集団は、1918年10月21日に解散しています。シャルカトでの戦いが始まったときには既に軍集団はなかったのです。実際に、後に主に責任を問われ非難されたのは、(本当に彼の責任なのかは議論の余地がありますが) 第六軍司令官のアリ・イフサン (サービス)でした。Takabeg 2012年1月31日 (火) 07:16 (UTC)[返信]

シャルカトについては、数日前に締結したムドロス休戦協定に違反してイギリスがモースルを占領したという説があったり、イギリスの終戦処理に「?」と思うところが多々ありますよね。シャルカトの戦いの二日前に解散したことはオスマン側の杜撰な終戦処理を示していますが、ハリルの「関与度はめちゃめちゃ低い」と言えるでしょうか?むしろ責任があるとも思えますし、直接関係が無いというのは言い過ぎに感じますが、ソースが。。。--121.115.105.38 2012年1月31日 (火) 08:18 (UTC)[返信]
ムスルの一件は、違反というか「脅し」と「騙し」とでとっちゃったということだと思いますが、11月です。ハリルの責任問題になるとわかりませんが、すでに行っちゃってたので、別の記事に移したほうがいいでしょう。Takabeg 2012年1月31日 (火) 08:31 (UTC)[返信]

オスマン帝国は、第一次世界大戦に参戦したとき、タブリーズからダゲスタンに進出しようと計画していました。その目的を達成するために、オスマン帝国軍は既存の師団から連隊や大隊を抽出して二つの遠征部隊 (en:1st Expeditionary Force (Ottoman Empire)en:5th Expeditionary Force (Ottoman Empire))を編成し、第一の司令官にはカラベキルが、第五の司令官にはハリルが任命されました。これはだいたい1914年12月のことです。ワンでcommanderになったわけではありません。しかし、サルカムシュでの惨敗などがあり、本来の目的とは別に使用されることになりました。しばらくして、ハリルは第一の司令官になったようです。ハリルの部隊は国境を越えており、ワンでアルメニア人の反乱が起きたときには、ウシュヌ (Oshnavieh)にいて、そこから後退せざるを得なくなりました。ロシア軍のほうでも、トゥルーヒンとナザルベイコフの各部隊がワン方面を目指して前進していたので、ワンに向かって競争のようになりました。結局、ロシア軍の接近によりジェヴデト・ベイはワンから撤退してハリルに合流しました。アルメニアが勝利と主張しているワン包囲は、こうやって解けました。というわけで、ハリル自身は、ワン攻囲戦そのものには参加していません。攻囲戦にちょこっと関わりがある、といえばあるのでしょうが。少し古いかもしれませんが、この本にはわりと詳しく書いてあります。読めないページもありますが、読めるページのほうがぜんぜん多いので、図書館に行くのが面倒くさくても、これで代用できてしまうと思います。Takabeg 2012年1月31日 (火) 07:43 (UTC)[返信]

ありがとうございます。冒頭がおかしいというのは一致していましたが、ワンでcommanderになったと思っていました。例えばドイツ語のページでもそう書いてあります--121.115.105.38 2012年1月31日 (火) 08:14 (UTC)[返信]

Bis zum Ausbruch des Ersten Weltkrieges 1914 war Halil Pascha Kommandeur der Jandarma im östlichen Van. とあるので、第一次世界大戦勃発までのお話で、ワン機動ジャンダルマ連隊かなんかにいたんでしょうかねぇ。もし、その連隊なら、キャーズム (オザルプ)も連隊長をつとめたジャンダルマ連隊で、大戦勃発後、しばらくして師団に拡大されています。イランにもちょっとだけ侵入しました。Takabeg 2012年1月31日 (火) 08:40 (UTC)[返信]

また、ディルマンは、Salmasの旧名です。ペルシャ語の音的に、ディールマーン、ディルマーンならありえそうですが、ダイルマンはちょっと厳しいと思います。Takabeg 2012年1月31日 (火) 08:07 (UTC)[返信]

ありがとうございます。修正済。--121.115.105.38 2012年1月31日 (火) 08:24 (UTC)[返信]

退役[編集]

WWI後、モスクワ、ベルリンと渡りあるいて、トルコ独立戦争が終ってから帰国がみとめられ、帰国してすぐに退役したそうです。Takabeg 2012年1月31日 (火) 11:58 (UTC)[返信]

「1918年10月」は、まずあり得ないと思いますよね。正確には判りませんが1923年頃に帰国していますから、その時に退役でしょうか。--121.115.105.38 2012年1月31日 (火) 12:22 (UTC)[返信]

Cemal Kutay (あまり好きじゃないけど。。。)は、そう書いています。Takabeg 2012年1月31日 (火) 12:27 (UTC)[返信]

バトゥミ返還[編集]

「トルコからソ連へのバトゥミ返還の代償」ですが、この文章は多少問題がありました。北側はアルメニアからグルジア・ソビエト社会主義共和国へ割譲されて、Artvinを含む南側はトルコが併合ですよね。モスクワ条約の第二条では「トルコはバトゥミとSARP村の北部隣接エリアをグルジアに割譲」とあるのですが、代償については記載がないです。カルス条約の方にも無いようですし、支援という形で金塊を受け取っているようですね。--121.115.105.38 2012年1月31日 (火) 15:31 (UTC)[返信]

バトゥームの「代償」は、武器援助などだと思います。ただ、ハリルのもたらした10万リラの金塊というのは、モスクワ条約よりだいぶ前のお話でして、東部領土の一部のアルメニアへの返還の代償といしてということでした。モスクワにはアリ・フアトがアンカラ政府の大使として派遣されていましたが、彼はこの件に関わっていないようです (少なくとも表向きには、そういうことになっています)。「正式なルートじゃないけど、もらえるものはもらっとくかぁ、でも、正式なルートじゃないから、領土割譲は無効だよ」って感じでしょうか。バトゥームについては、グルジアの臨時政府がトルコにやるくらいならソヴィエトにくれてやろうと議決しています。古老のお話では、「チョルフ川の北をどちらに帰属させるか」という形で住民投票もおこなわれたようです。結局、アンカラ政府の部隊がバトゥームから逃げおくれ、フルぼっこにされてしまいましたが、そのあたりのことは、むかしtr:Acara Özerk Cumhuriyeti#Sovyetler ile Türkiye arasındaに書いたので、トルコ語がお解りであるのなら、読んでみてください。Takabeg 2012年2月1日 (水) 03:04 (UTC)[返信]

September Days[編集]

ロシア語版ru:Резня армян в Баку (1918)が資料も詳しいようなのですが、ハリルについては特に言及が無いようです。September Daysはアルメニア人虐殺とも関連するので、将来、日本語のページも作成されると思いますが、当面、ロシア語版へリンクを貼ります。

ロシア語のru:Резня армян в Баку (1918)にはХалильの名は見当たりませんし、そもそもこの記事がバクーの九月事件を扱ったものでありシュシャのものではありません。本当にシュシャでの虐殺の責任者なのかについてもソースが提示されているわけでもないので、偽情報拡散のリスクは大だと思います。シュシャ関連だと1920年の「ポグロム」の記事がありまり、英語版にはありませんが、露西亜語版では、1918年のこともふれられています。どうしてもリンクをしなければいやだぁ~というのであれば、現行の本文と照らし合わせるとこちらのほうがかなり近いので、こちらををおすすめします。 九月事件のほうは、この記事には不適正・不正確なリンクだと思います。ヌーリ・キルリギルにならリンクできそうですが。Takabeg 2012年2月1日 (水) 07:58 (UTC)[返信]
ありがとうございます。「シュシャでの九月事件」としてリンクを貼り直しました。1918年のシュシャについての情報が見当たらず、確認できるまでの間は最低限の情報源を提示しないと偽情報拡散源になると思い、せめて何か糸口になるリンクをと考えたのです。本当は真偽を直接確認出来れば一番良いのですが。--121.115.105.38 2012年2月1日 (水) 09:06 (UTC)[返信]
「シュシャ虐殺事件」というリンク名ですが、1920年の事件と名前を揃えてあるのだと思いますが、ロシア語版の文章では、「アゼルバイジャン・トルコ連合軍がシュシャを占領し、地元の知識人を大量検挙した」とは書いてありますが、虐殺したとは書いていないので、もしかしたら過剰な表現かもしれません。もっとも、ロシア語版もここにソースがないので微妙ではありますが、シュシャでの虐殺が偽情報である可能性も考慮した方が良いかもしれません。--121.115.105.38 2012年2月1日 (水) 10:42 (UTC)[返信]

可能性はあります。アルメニア-アゼルバイジャン紛争に関する記事には、偽情報、虚偽ソース、プロパガンダ目的の誇張がつきものです。九月ではなくて十月なので、「九月事件」というのをはずして、とりあえずシュシャ虐殺事件としておきました。Jon KirakosyanのThe Armenian genocide: the Young Turks before the judgment of historyという本にKHALIL PASHA, KUT (1882-1957) Turkish general, commander of Turkish troops invading Transcaucasia in 1918; organizer of Armenians' massacre at Shushi という記述がありますが、虐殺、ポグロム、ジェノサイド関連で、ソースがアルメニア人かアルメニア系の著者だけしか見つからない場合とか、アゼルバイジャン人か他のテュルク系の著者だけしか見つからない場合とかは、眉唾ものかもしれないと思ったほうがいいと思っています、個人的には。でも、ソース無しでは寂しいかもしれないので、当該ソースを貼り付けて、「ジョン・キラコスャンによれば、、、、」としましょうか? Takabeg 2012年2月1日 (水) 11:04 (UTC)[返信]

そうですね。ソースはen:John Kirakosyanとしておけば、アルメニア系の著者だと判るので、その辺で止めておいて、あらためて確認できたら加筆・修正すれば良さそうですね。--121.115.105.38 2012年2月1日 (水) 11:51 (UTC)[返信]

現状の課題[編集]

ワン包囲に関連した箇所、特に、

この後、ヴァン湖地区において、ハリルを長とする遠征団が編成された。同年3月、レワンドゥズ(英語版)から攻勢を開始しウルミアを占領したが、間もなく、フョードル・チェルノズボフのロシア・カフカース軍(英語版)により撃退された。4月、部隊はアルメニア人ゲリラの討伐に投入され、ハリルは作戦を指揮した(ディルマンの戦い(英語版))。5月、サウジブラク(英語版)とヴァン (ヴァン攻囲戦)、5月24日にはウルミアを奪取した

を解決しないといけませんね。アリ・イフサン・サービスの第一次世界大戦シリーズが公刊戦史以外ではおそらく最も詳細だと思うので、使えそうな気がします。それを読み進めていくと、遠征隊の部分も、少し正確性に欠けていると感じるようになってきました。それと、トラブゾンから追い返されたエピソードをもう少し詳しく書いたほうがいいと思います。この部分には、サーミ・サービト・カラマンの本が使えそうです。Takabeg 2012年2月1日 (水) 08:12 (UTC)[返信]

有益だとは思いますが、本文が少ないと画像貼るのを躊躇してしまいます。また、本来は、コーカサス戦線 (第一次世界大戦) (そんな記事はまだないですが)とかで使いたい地図ですね。もちろん、スペイン語ぢゃないやつで。Takabeg 2012年2月2日 (木) 01:40 (UTC)[返信]
よくみてみると、その地図はソース無しなのでは? こちらの地図のほうが正確です。残念ながら、まだPDではありません。Takabeg 2012年2月2日 (木) 14:11 (UTC)[返信]
そうですね。WikiMediaではソースが必要無いから残っているけど、Wikimediaではソースが必要ですよという議論があるようです。コメントアウトしました。英語版やスペイン語版でもソースが必要ですが、状況がよくわからないのでそちらは放置しています。--121.115.105.38 2012年2月3日 (金) 01:58 (UTC)[返信]
履歴を見るとイタリア語版は英語版の劣化コピーですね。en:Dilmanen:Salmasを間違えたのは地図を一度も見ないで機械翻訳したんでしょうかね。結構、地名ってしょっちゅう変わるから怖いですよね。ミャンマーなんて国中に呪いでもかけてるような改名だらけですし。--121.115.105.38 2012年2月1日 (水) 16:40 (UTC)[返信]
英語版修正済。イタリア語版修正済。--121.115.105.38 2012年2月1日 (水) 16:57 (UTC)[返信]
どうもです。ただ、上に挙げたアリ・イフサン・パシャの本を読んでいて気づいたのですが、Selmas とDilman は、それぞれ別の場所として使われています。Takabeg 2012年2月2日 (木) 01:40 (UTC)[返信]
旧市街の扱いについて特に決まりは無いようですが、ユネスコ世界遺産に登録された町は歴史地区(ナポリ歴史地区ルアン・パバンの町など)として別に起こしていますね。Salmasみたいに日本語ページがそもそも無いところはどうしましょう?--121.115.105.38 2012年2月2日 (木) 05:30 (UTC)[返信]
  • それと、

一方、1915年1月4日、バジルゲ国境大隊と、特務機関テシュキラートゥ・マフスーサのオメル・ナージ・ベイ指揮下の部族部隊は、ミヤンドアブの戦いの後、キルクーク郡知事ハリト・エフェンディ指揮下でスルドゥズ (現在のナガデ)-ウルミイェ方面を進んでいた部隊とともに、ウルミイェを占領した。イブラヒム・フェヴズィ・ベイの先遣隊は、1月12日にタブリーズを占領し、オメル・ナージ・ベイもそれに続いた。しかし、1月27日、ソフィアンの戦いで、オスマン軍はロシアのフョードル・チェルノズボフ(英語版)中将の指揮するコサック部隊に撃破され、1月30日にはタブリーズを占領された

という部分も本文から外したほうがよさそうですね。別の記事をたてるか、脚注に回すか、とか。Takabeg 2012年2月2日 (木) 01:46 (UTC)[返信]

  • 5月、サウジブラクとヴァン 、5月24日にはウルミアを奪取した。というのは、ロシア軍が奪取したということを意味しているのでしょうか?オスマン軍だとしたら、日付的に無理があります。Takabeg 2012年2月2日 (木) 04:27 (UTC)[返信]
そこの文章は利用者:元諜報員氏が書いた最古の記事にさかのぼれるようですが、当時からソースが無いので思い込みで書かれているかもしれませんね。削除して良いと思います。--121.115.105.38 2012年2月2日 (木) 05:17 (UTC)[返信]