チャールズ・フレイザー (第4代フレイザー卿)

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第4代フレイザー卿チャールズ・フレイザー英語: Charles Fraser, 4th Lord Fraser1662年9月以前生 – 1716年10月12日)は、スコットランド貴族

生涯[編集]

第3代フレイザー卿アンドリュー・フレイザーと1人目の妻キャサリン・フレイザー(Catherine Fraser、1663年10月18日没、第7代ラヴァト卿ヒュー・フレイザーの娘)の息子として生まれた[1]。1674年5月22日に父が死去すると、フレイザー卿の爵位を継承した[1]。父が莫大な負債を残して死去したため、領地を全て処分することを余儀なくされたという[1]

1688年の名誉革命でははじめジェームズ2世を支持したが、1690年10月にヒュー・マッケイ英語版将軍に降伏した[1]。1693年3月29日にはエディンバラで反逆罪により起訴されたが、最終的には「ジェームズ王」の健康を祝って乾杯した廉で200ポンドの罰金に処されただけだった[1]。1694年7月2日に宣誓を行い、スコットランド議会英語版議員に就任した[1]

1706年にスコットランド王国イングランド王国の合同に賛成したが、1715年ジャコバイト蜂起ではジャコバイトとして参加した[1]

1716年10月12日、ペンナン英語版で転落死した[1]。これにより、フレイザー卿の爵位は断絶したか、休眠状態(dormant)になったとされる[1]

死後の1723年7月20日、妻が先夫との間でもうけた三男チャールズがジェームズ老僭王よりマッコルズのフレイザー卿(Lord Fraser of Muchallsジャコバイト貴族におけるスコットランド貴族)に叙された[1]。この三男チャールズは第4代フレイザー卿の遺産を継承した[1]

家族[編集]

1683年9月、第7代バカン伯爵ジェームズ・アースキンの娘メアリーまたはマージョリー(MaryまたはMarjory)と結婚した[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 568–569.
スコットランドの爵位
先代
アンドリュー・フレイザー
フレイザー卿
1674年 – 1716年
休眠状態または断絶