コンテンツにスキップ

ノート:ホツマツタヱ/203.168.92.153氏のコメント

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

悪質な荒らし行為と判断します[編集]

私は上の、『現代の日本語で表記してあった記事が、不完全なカタカナヲシテ混じり文に改竄された問題について』の最後の部分に、こう書いておきました。特定のサイトの記事などを妄想呼ばわりする誹謗中傷行為などの横行によって、さらに今後無用な混乱を招くトラブルへと発展していく危険性があることは、想像に難くありません」こう警鐘を鳴らしておいたにもかかわらず、『学問的な検証に耐える議論のみに記事を限定することを提案』において、うまやどを名乗る者によって、事実に反する嘘の事柄が執拗に書き込まれる問題行動が再び発生したようです。これを一部の賛同者が正しいものと誤認することで、中立的な観点からはなはだしく逸脱した、致命的な傾向(ネット上で展開されている焚書行為扇動問題と絡んでいるように見えるため、通常のトラブルとは異なると思われます)を示す、偏った視点から記事を大幅に改竄する行為を許したことを残念に思います。「繰り返し質の低い投稿がなされている」という、私に関する虚偽認識をこの場に書き込んで、ネット上に広く知らしめる行為が、うまやどを名乗る者によって再び行われているようですが、この者はすでに同様の問題行動をこのノートで繰り返して、先日私にその非行を叱られて、謝罪を求められています。また、議論するに値する正しい書き込みが出来ない問題性があると、私から判断されています。そのためうまやどを名乗る者が、ほぼ前回と同じパターンで、虚偽認識を書き込む非行を働いたのを見ても、同様の堂々巡りの議論が繰り返され、この者による荒らし行為を煽る結果を招くだけだと判断して、私はうまやどを名乗る者との接触を危険視して避けていました。この者が執拗に繰り返すストーカー的な悪質な非行を、嫌う者はいても、賛同する者などいないと信じていたからです。

ところが、今回は、うまやどを名乗る者が再び大量の嘘が含まれた悪質な書き込みを行ってきたのに対して、残念ながらその言動を認める賛同者が複数現れたようです。うまやどを名乗る者は、私が同意などしていないにもかかわらず、勝手にコンセンサスが得られていると、再び虚偽の事実を書き込んで、大量の記事を削除する行為を行ったようです。この場に嘘を書き込んで、身勝手に削除した記事を、元に戻すと同時に、今回私に対してうまやどを名乗る者が行った、大量の虚偽の事実を書き込んで、広くネット上に知らしめる悪質な非行に対する謝罪と、これによって、不当に毀損されたと思われる私の名誉を、この場で回復するように要求します。--203.168.92.153 2007年1月27日 (土) 21:19 (UTC)[返信]

言霊[編集]

うまやどを名乗る者が『言霊』に言及しているので、これを観察することで、この者の指摘と主張の真偽を確認しましょう。「ヲシテ文献には、ことだまという言葉が存在しない」ことを理由に、「言霊とヲシテ文献は無縁」と、この者は勝手に断じています。言霊は現代の国語辞典に載っている日本語ですが、ホツマツタヱが書かれた当時の言葉ではないため、ホツマツタヱにその記述が無いのは当たり前です。存在しないことが当たり前の言葉が文献中に存在していないことを理由に、無縁と断じるのは、うまやどを名乗る者の論理が破綻して、詭弁に陥っていることを意味します。「粗雑な議論」と私に向かって平然と悪口を書きたてているように読めますが、これは非常に単純なレベルで論理的に破綻したことを、平然とこのノートに書いている、うまやどを名乗る者自身に向けられるのが妥当と思われる非難を、礼儀をわきまえず、他人に向かって自ら吐露する異常言動と理解します。

反論しておきます。『言霊』という言葉の初出は、万葉集です。記紀にも用例はありません。ホツマツタヱにももちろん用例はありません。そこで、ホツマツタヱと記紀の比較からは、ホツマツタヱには言霊なる概念はないということになります。「ホツマツタヱ・記紀の成立後に、言霊の概念が成立した」これは事実です。ここを出発点にして、これに対し、
    • ホツマツタヱには、後世『言霊』と呼ばれるようになった同じ思想があったかもしれない
と考えることは、先に言霊の概念をもってホツマツタヱをみることに他なりません。当然、「あったかもしれない」と考えることは自由です。そのように考える場合は、同時に、
    • ホツマツタヱには、後世の『言霊』と異なる、ことばにまつわるなんらかの力を信じる傾向があったかもしれない
とする考えも必要でしょう。そこで次の確認が必要になります
    • そもそも万葉集における『言霊』とは何か、その定義を確定する。
    • ホツマツタヱの中にある、ことばにまつわるなんらかの力を信じる傾向を整理する。この中には、ホツマツタヱの中の時代の進行にともなうその傾向の変化も整理する。
    • 以上の2つを比較する。
このことを確定するには、言霊を定義し、加えてすくなくともホツマツタヱ全編の信頼に足る現代語訳が必要です。現状はどうなのでしょうか。無理矢理につくったホツマツタヱの現代語全文訳はありますが、到底信頼に足るというレベルではありません。言霊は定義可能でしょうか。テーマが言霊ですから、相当な困難が予想されます。訳のわからないものはとりあえず言霊の作用ということにしておこうということも十分おこり得ます。一方霊能者には可能かもしれませんが、それでは宗教ではあっても学問にはなりません。こうなると、言霊を根拠にすることは、現時点では無理があるのと同時に、他者が検証可能であるかどうかという点でも疑問符をつけざるをえません。現に、彼の主張でも「ある」の一点ばりです。
言霊論を熱心に展開されている方のひとりに鳥居礼という方がおられます。「言霊ホツマ」という本も出版されています。この本については、必要であれば、問題箇所を指摘しましょう。鳥居礼さんの論は、はじめに言霊ありきです。論の根拠とされている資料の選び方、論理の展開のしかたに難があります。--うまやど 2007年1月30日 (火) 17:07 (UTC)[返信]
うまやどを名乗る者が行った、重大なマナー違反に対して抗議します。人が書いたものを勝手に分断しないでください。段落間の繋がりを裂くことによって、新たな曲解などが生じる余地が生まれます。他人の記述の間に、身勝手に自分の意見を割り込ませる他人の発言の改竄行為は、明らかなマナー違反の非行であり、正しい読者の解釈を妨げる行為に他なりません。即刻元に戻すように要求します。人の発言を蔑ろにするにもほどがあります。
ホツマツタヱに言霊という言葉が見当たらないことを理由に、概念は存在しないなどと、まだ言い張っているようですが、私が指摘した論理が破綻した状態を、そのまま無視して、身勝手な理屈を並べて強引に押し通すつもりのようです。このようなやり方をすれば、まともな議論をする意思がないと受け取られることになります。言霊という単語が当時存在したかしないかという議論と、言霊思想が当時存在したかどうかは、まったく別問題です。
うまやどを名乗る者は、さらに今回も間違ったことを、書き込んでいるようです。「宗教ではあっても学問にはなりません」はあきらかに事実に反します。ホツマツタヱのような体系化された世界観を記述している文献は、哲学の対象となりえます。哲学はきちんとした学問です。そして、ホツマツタヱ学などというものはないし、歴史学会はホツマツタヱをまともな歴史書として扱っていないのですから、「学問的検証」といううまやどを名乗る者が持ち出してきた言葉は、客観的事実ではなく、主観で構成された、誰も正当性を評価できないもののようです。間違いだらけのことを書くうまやどを名乗る者の主観だけで構成された、著しく偏ったと思われる認識に基づく記事など、誰も信じられないのが現状でしょう。おかしな理屈をもっともらしく並べていないで、嘘を二度と書きませんと、制約していただけませんか。そうでないと、読む人全てが迷惑します。--203.168.92.153 2007年1月30日 (火) 19:35 (UTC)[返信]

ホツマの宇宙観や日本古来の精神と哲学を研究している方々は、ホツマツタヱに記された言霊思想の存在を、明確に指摘しています。この認識はホツマツタヱの研究者の間で広く認知されており、書籍や多くのサイトで紹介されている以上、「無縁」と断じれば明らかな嘘を書いたことになります。しかも、言霊という言葉が原文中に見当たらないなどと、見え透いた破綻した理屈を書いて、詭弁を用いていると読めるぶんだけ、この嘘は悪質と理解します。うまやどを名乗る者は「ホツマツタヱ」に対する「敬意と感謝の姿勢」について、いろいろもっともらしく書いていますが、ホツマツタヱが伝承している古代和歌の心、精神文化や哲学や宇宙観の概念を、正しく汲み取っているとはとうてい読めません。少しでも学問としての哲学を学んだことがある者は、文献が伝承する哲学的概念が存在しないなどと、間違ったことを平然と書けないと思います。うまやどを名乗る者は、学問だの検証だの議論に耐えないといった言葉を、もっともらしく書き並べてはいますが、実が伴わない、読者に錯覚を与えて惑わすための虚言にすぎないと感じます。うまやどを名乗る者は、ある人物のもとでホツマツタヱを学んでいると書いているようです。もしもそれが事実とするならば、読者に歪んだ認識を植え付ける嘘を書き並べる行為を行い、編集の場を荒らしていると読める以上、今までこの者に教育を施してきた人々や、そのコミュニティにまで、非難のクレームが及ぶことにもなりかねません。知識を授けてくれた恩人達に対して、恥をかかせる心ない行いをしていると、読み手に受け取られることになるでしょう。ホツマツタヱが伝承する和歌の、最も基本となるその心、言霊思想すら正しく学び取れていないと読める以上、彼が書き記した「学問に対する姿勢」うんぬんもまた、虚妄なものであると考えざるをえません。

鳥居礼さんのホツマの宇宙観は、言霊論を基礎としています。それゆえ、言霊論が成立しなければ、宇宙観も成立しません。いくら広く認知されていても、その論の根拠があやふやであれば価値があるといえるのでしょうか。宮内庁本も同様の問題ですね。鳥居さんの言霊論の問題点を解決している言霊論もあるのかもしれませんね。上記の理由で解決できる問題だとは思えませんが。--うまやど 2007年1月30日 (火) 17:07 (UTC)[返信]
私が指摘した、「「学問に対する姿勢」うんぬんもまた、虚妄なものである」について、的確な反論がないということは、認めたと考えてよろしいですね。--203.168.92.153

また、うまやどを名乗る者は今回、実質的にバッシング行為と受け取れる、絶対にしてはならない、私個人の言動に関する嘘の悪口を、このノートに書き込んで流布する、重大なマナー違反を行っていると読めます。これについては、何度も行った抗議を無視して繰り返されていると読めるため、悪質な名誉毀損目的の誹謗中傷行為と受け取ることが可能と指摘する人もいます。そこで、嘘を書いたことに対する謝罪と、毀損されたと思われる私の名誉の回復を要求します。

具体的には、「言霊を信じていてそれに使えるものを探していたところヲシテ文献というものがあった。これで言霊を正当化しよう」という記述部分です。これもまた、今まで同様、うまやどを名乗るこの者が、事実を踏まえずに邪推にもとづいて勝手に捏造した嘘の作文に他ならないようです。この者はどこまでも嘘を書き並べる悪質な行為を、指摘されても反省することなく執拗に繰り返すつもりのように見えます。この者に同調し賛同すれば、同じように悪質視されることになるでしょう。このような非行の横行には注意を払い、距離を置いて近付かないようにし、安易に感化されて同調しない心構えが大切です。

インド系の文字が、ハングルやモンゴルの文字のベースになったという説が記事に書き込まれました。インドから日本に和歌の元になった歌のリズムが伝わった可能性が、インドと日本の専門家の共同研究によって示唆されて、ネット上で紹介されています。私がこれを簡略に記事に書いて紹介しておきました。同様に、インドからは言霊も、複数のルートを通して、さまざまな時代に日本に伝来してきています。たとえば、空海が持ち帰った密教のマントラ(真言)と呼ばれるものもその一つです。今日では、ヨガの健康体操などの形で、再び日本にもたらされています。声を出す健康効果は広く実践されているため、よく知られています。そして、マントラがキー音として脳に働く効果は、大脳生理学その他の研究分野からのアプローチによって、おおよそのメカニズムと効果が科学的に解明されてきています。今でもこれを似非科学と信じているのは、この方面の基礎知識を持たない人々だけでしょう。多くの人が、今日でも健康維持の目的で用いている、マントラなどの言霊の体系が現存する事実があります。それなのに、うまやどを名乗る者が指摘しているように、私がはるか遠い昔に失われたホツマツタヱの言霊を「探し」出してまで、自らの「主張を正当化する」必用などあるのでしょうか。ホツマツタヱの時代の言葉など、今日では話せる人がいないので、探し出すことなど実質的に不可能に見えます。うまやどを名乗る者の論理は、ここですでに破綻しています。科学的にすでに研究されたものを「探し」たり、理論があるのにわざわざ「正当化」を試みる必要などありません。うまやどを名乗る者の論理は、ことごとく破綻しているように見えます。ヨガの健康体操などで日常的に使われて実用になっている言霊の存在を、正しく理解していないからこそ、私が「ヲシテ文献を用いて言霊を正当化しようとした」などと、勝手な邪推によって生み出した、事実に反する嘘の作文をこの場に書き込んだものと考えられます。うまやどを名乗る者は「妄想」と私に向かって平然と悪口を書きたてているように読めますが、これは事実に反する見事な嘘の作文を空想して、この場に書いてしまっている、この者自身に向けられるべき非難の言葉を、礼儀をわきまえず他人に向かって自ら吐露した異常行動であると理解します。

もちろん、このような場を通して、嘘の悪口をネット上に流布されるのは、著しい迷惑行為です。また、「最終的に人格を問うことになります」とうまやどを名乗る者が書いている以上、私がさも、さまざまな問題性を問われるべき人物であるかのように仕立て上げるために、邪推を巡らせた嘘を故意に作文してこのノートに書きこんだと思われても仕方がない状況にあるようです。当然これは、名誉毀損目的の誹謗中傷行為に該当する疑いが生じると思われます。謝罪がない場合には、社会的制裁措置を取る必要があると判断されると思います。このような特定の人物をターゲットにして、嘘を流布するバッシング行動に賛同者が現れれば、同様の社会的制裁措置が取られると思います。感化されて踊らされることがないように、十分注意する必要があると思います。このような、どうしようもない低次元の紛争に巻き込まれたくない方は、この場に書き込んだ同調発言を、取り下げるのが賢明でしょう。また、うまやどを名乗る者の主張を採り上げて、記事の編集の指針にするなど、もってのほかです。ノートに嘘の悪口を書きまくって暴れれば、自分の思いどうりに記事を改竄できるといった、荒らし行為を肯定する悪しき前例を作るべきではありません。

補足しておきますが、ホツマツタヱのなかで最も有名なアワの歌は、子供達が元気に遊び回りながら歌って育っていく、健康法になっていたという説が、研究者の間で定着してきています。同じインド系のルーツを持つからかどうかは、今の時点ではなんとも言えませんが、現代に伝わっているヨガの健康体操と無関係な話ではないように感じます。これは文献によって記され、具体的に伝承されている、文化そのものです。言霊などヲシテ文献と無関係と否定する記述を行っている以上、うまやどを名乗る者が書いた「「ホツマツタヱ」に対する敬意と感謝」という作文が、白々しく見えてきます。ホツマツタヱが伝承している文化を軽視し、無縁だと否定することで、そのことに触れている記事を、ゴミのように放り捨てる精神的態度が認められるようなので、完全に心得違いした間違った行動取っていると、私は受け止めるしかありません。書の心を知らずして、精神文化を伝承する文献を学んだとは言えないでしょう。もちろん、そのような認識レベルの人物が、こういった種類の文献に関する記事を書いたり編集すれば、問題性のある記事へと変質していっても、なんら不思議はないと思います。--203.168.92.153 2007年1月27日 (土) 21:19 (UTC)[返信]

反論しておきましょう。「ヲシテ文献には、ことだまという言葉が存在しない」ということはお認めになるのですか?お答えください。--うまやど 2007年1月29日 (月) 05:07 (UTC)[返信]
うまやどを名乗る者は、私が書いている謝罪を求める文書に対して「反論しておきましょう」と答えました。どうやら、謝罪の意思がないようです。「嘘の悪口をネット上に流布されるのは、著しい迷惑行為」に対して、弁明の言葉が一切見当たらないようです。また「反論」と書いていながら、中身は私に対する質問です。論理的に破綻したことしか書けない様子なので、議論が不可能な人物と判断するしかありません。--203.168.92.153 2007年1月30日 (火) 19:35 (UTC)[返信]

宮内庁本[編集]

うまやどを名乗る者は、宮内庁本について、今回もあれこれ指摘していますが、ここでも、不適切な騙しを含む記述を行っていると読めます。偽情報を出した前歴のある「吉田史学会」の記事を根拠に議論を展開しているなどと書きたてていますが、私は「吉田史学会」がもともとのソースではなく、研究者の間で流通している他のメディアを通してネット上に広まった情報だと、記事内ではっきりと説明しています。たまたま、「吉田史学会」のサイトにその情報の痕跡が記事として残っていたので、リンクを貼ったにすぎません。その説明を身勝手に無視して、「吉田史学会の記事を根拠に議論を展開」と書けば、ここでも事実に反する嘘を書いて、読み手を騙そうとしていることになります。もちろん、これだけ執拗に嘘を書く目的はただひとつ、このノートの読者を誤った認識へと誘導し、誤った判断を導き出させることにあると解釈するのが、このケースでは妥当と思います。

「ホツマ」十二号(平成八年十一月)掲載の鏑邦男氏「古事記・日本書紀はなぜ編集されたか(1)」が元々のソースであることは、リンク先の記事を読むことで、いとも簡単に分かります。私はこの意味の説明を記事内でしていたわけですが、うまやどを名乗る者は、身勝手に都合よく私の説明を無視して、このノート内に不適切なことを書きたてることで、無用な混乱を招いているように見えます。うまやどを名乗る者が、これまでにも、執拗に繰り返し嘘を書き連ねてきたことから、このケースも、騙しのテクニックを使っていると私は判断します。取材を受けた旅館の主人の談話が、研究者の間で流通している定期刊行物を通して広く報じられていれば、十分に研究者の間で通用した情報と解釈できます。情報発信元とは直接関係のないサイトが、偽情報を出した前歴があるから、宮内庁本の存在は怪しいなどと、まったく筋違いの理屈にもならないことを、調子よく書き立てているようですが、これは、今回のケースとは無関係な特定の研究者の過去の出来事を持ち出してくることで、読み手を錯覚させ、私が書いた記事の信用を落とそうとする、稚拙なトリックになっていると感じます。もちろん、このような姑息な論理的に破綻したトリックを用いて騙そうとしている相手は、私ではなく、このノートの読者達ということになるようです。ノートの読み手を騙し、誤った認識へと導く迷惑行為を、うまやどを名乗る者は行っていると判断します。うまやどを名乗る者は、このノートの読み手全てに対して、迷惑をかける書き込みを行ったことを、謝罪すべきだと考えます。

さらに、『地球語便り「イメージの統合」 01年5月』でも、宮内庁保管本について、別ルートからの情報によって言及されていると読めるため、情報源は3つ別々の出所を持つものが、リンクによって示されていることになります。研究者達の報告を「妄想」に仕立て上げる作文をする行為は、悪い心が丸見えになっていると感じます。ホツマツタヱの研究者の間で飛び交っている有名な情報を、十分把握しておらず、言霊の件同様、本人の認識レベルが必要水準に達していないように読めます。知らない情報があるからといって、「妄想」などと暴言を吐いて、故意に決め付ける書きかたをして、人が書いた情報を闇に葬ろうとしても無駄なことです。「質の低い投稿」などと悪しざまに侮れば、精神的態度が悪いと受け取られて終わりです。自分が知らないことを逐一否定していては、百科事典の記事から、新しいことを学ぶことは出来ません。「古事記・日本書紀はなぜ編集されたか(1)」の記事を書いた著者、取材を受けて当時のことを語った旅館の主人、旅館を訪れて命名なさった皇族の方、宮内庁で研究なさっている方々、ネット上のサイトにこの情報を掲示しているホツマツタヱの研究者の方々と、掲示板などを使ってこの情報をやり取りしているホツマツタヱの愛読者など、大勢の関係者一同を、妄想と決め付けて罵る行為によって、嘘つきに仕立て上げかねない、礼を失する間違った言動を働いていると感じます。うまやどを名乗る者の身勝手な言動の被害を蒙る人々が、広範囲に及ぶとなれば、非行が度を越した迷惑なものになりつつあると、判断するしかないでしょう。ここは百科事典の編纂用ノートですから、歪んだ認識によって生まれた言葉を書き込んで、荒らしてよいような場所ではありません。社会的影響も普通の発言の場より大きいのです。うまやどを名乗る者は、場をわきまえるべきです。

現存する平安時代末期のものと思われる写本に関する情報は、勝手な了見で妄想と罵って捨ててよいゴミなどではなく、今後宮内庁が公開すれば、一気にホツマツタヱが真書として広く認められるきっかけを作る可能性があるものです。また、内容いかんによっては、これまでのホツマツタヱの研究全てが、否定される余地も残している重要な案件です。そのため、研究者の間では、核ミサイル搭載原潜クラスの爆弾情報として注目されています。研究者の間でよく知られている以上、記事内容の公平性を期すためにも、きちんと残しておくべきだと思います。もちろん、もっと読みやすく編集したり、宮内庁長官が銀行に保管されたフィルムを確認したことを報じたテレビ番組その他のマスコミの報道などがあれば、紹介する補足を試みることなどはかまわないと思います。今までこのノートに事実に反することを書き立てすぎてきたと思われる、うまやどを名乗る者の言に惑わされて、記事を削除すべきではないと考えます。嘘を書き連ねたと先日私に手酷く叱責された逆恨みから、感情に走って歪んだ心で間違いだらけの認識を作り上げ、稚拙なトリックを交えながら事実に反することを次々と書き殴る個人攻撃の非行を行っていると感じられる以上、この者の提案を退けるのが賢明でしょう。--203.168.92.153 2007年1月27日 (土) 21:19 (UTC)[返信]

宮内庁が公開しない以上、どうにもなりません。先の記事で例示した、「新聞記事」、「宮内庁の工事記録」、「富士銀行の記者会見」。あるいは、実際に調査した大学の教授の名前等、傍証を提示して下さい。旅館の主人がいうのは当事者ですから、証拠になりません。--うまやど 2007年1月29日 (月) 05:05 (UTC)[返信]
またおかしな理屈を出してきましたね。解体工事と宮内庁本の管理は、宮内庁が主導で行ったことです。旅館の主人などは、宮内庁から手を触れるなと指示されて、見ていただけの目撃者です。現場にいた目撃者は当事者に該当するから、その証言は証拠にならないなどという理屈は、論理的に破綻しています。当事者は宮内庁、旅館の主人は見たことをインタビューに答えて語っただけ。事実を曲げて、誰が読んでもすぐに分かるような間違ったことを、堂々とこの場に書かないでください。読まされる人々が迷惑します。嘘を書いて人を騙す行為を、今後も続けるつもりですか。--203.168.92.153 2007年1月30日 (火) 18:40 (UTC)[返信]

音韻[編集]

うまやどを名乗る者は、ホツマ文字の時代の母音の数を5つとしかいいようがないともっともらしいことを書いているようですが、これまた議論に値しない、事実に反する稚拙な虚偽発言に他ならないと思います。現実の日本語の発音は、文字表記と一致しない部分が多く、非常に複雑です。たとえば現代の日本語の『ん』の発音を、一般の人は1種類と信じていますが、それは文字と音韻を対照した場合そうなるのであって、じつは発音上は4種類あります。「ング(ng)」と発音する「ん」は「考える」などと声を出してみれば、簡単に確認できます。「簡単」などの「ん」は、舌が上の歯につくもので、nの発音です。「乾杯」の場合は、唇がくっつくmの発音です。無音の「ん」もあって、「関心」などは、唇や舌がどこにもくっつかない、口が開いた状態で発音されます。これら4種類は明確に舌や唇の使い方が区別できるものです。試しに「関心」という言葉を、口を閉じる「ん」を使って発音してみてください。「関心」ではなく「かむしん」と聞こえるように不自然に感じて、違和感を覚えると思います。つまり、ヒアリング上明確に別の音なのですが、文字が「ん」一つなので、日本語の「ん」は一種類だと錯覚しているだけなのです。

私は、このようなことを詳しく知っていますが、うまやどを名乗る者は、書き込みのレベルが低いことから、そうではない可能性を考えざるをえません。「ん」だけでなく、母音の場合も、明らかに口の形、舌や唇の使い方が違っているため、錯覚して同じ音のように認識していても、実際には別の音として発音されているケースがたくさんあります。「ん」に比べると少し分かりにくい例になりますが、「痛い(いたい)」「遺体(いたい)」に含まれる4つの「い」の音は、同じ音価ではありません。つまり、「い」という母音が現代の標準語でもすくなくとも4つは存在していることになります。アクセントも関係していますが、「痛い」の場合は、最初の「い」に比べて語尾の「い」は明らかに舌の緊張度が緩んでいるため、先端の舌の位置が中舌になっていて、ï の発音になっています。方言の特殊な言い回しまで含めて、地域差などを細かく分類しはじめると、もっとたくさんあります。うまやどを名乗る者は、素人でも少し観察すればこのように短時間で確認して理解できる程度の基礎的なことすら勉強しないで、事実に反することを平気で書いている可能性があります。1980年代ならばともかく、音声入力のワープロソフトなどが研究開発された90年代に入ってからは、音声解析上日本語の母音が5つなんて話は通用しなくなっています。今から十数年前に行われていた古い研究ですら、きちんとまともに勉強していないレベルで、この場に間違ったことをもっともらしく書き殴っている可能性が高いと思われます。

私はホツマ文字の「ヒ」が4つあることに着目した記事を書きましたが、もちろん、現代でも「い」の母音は4つぐらいはあるのですから、当時も存在していたことが考えられます。そして、現代人と違って、文字が4つあるのですから、それらの音が意識上も明確に区別されていた可能性があると考えるのがごく自然です。上代特殊仮名遣いでは、「日(fi・pi)」と「火(fï・pï)」は発音が違っていたことが知られていて、ホツマ文字ではこの二つに別の字が当てられて、使い分けられていた痕跡が認められるようです。方言について少し補足すると、津軽弁には古代からの中舌母音が現代でも根強く生きています。こういった、うまやどを名乗る者にはよく理解できていないと思われる知識に触れると、「粗雑な議論」「妄想」という言葉を持ち出してきては、悪しざまに罵りながら私が書いた記事を削除されては、いい迷惑です。質が低すぎて専門的な視点からは議論にもならないような、事実に反することをこのノートにもっともらしく書き殴っていると思われる、うまやどを名乗る者自身に向けて行うべき批判が、不適切に私に向けられて、誤った記事の削除が行われていると、私は以上の理由から判断します。もちろん、学問的な検証に耐える議論うんぬんの言葉などを、この者の認識レベルで私に向けられるのはたいへん迷惑です。とんでもない素人考えで、とんでもない迷惑をかけられていると感じるので、きちんと問題行動を取ったことを謝罪すべきでしょう。本人に謝罪の意思が認められなければ、書き込みや記事の編集を禁止する措置をとるべき状況に至っていると感じます。

そうそう、私が、五七調の和歌のリズムは、音声の詳細な時間解析を行った結果、じつは全て8調子に休符が付いて出来上がっているものだと判明したことを、記事に書いておいたのに、これを勝手に消し去っています。これはNHKなどでもお正月の和歌を詠む番組報道の中などで、この十数年間何度か繰り返し放送されてきているウンチクなので、少し和歌について感心がある多くの日本人は、普通に知っていることです。五七調のリズムを持って詠われる和歌とは何かを考える、最も重要な出発点になる、大衆周知の基礎知識です。この情報の意味と価値が正しく理解できているならば、絶対に削除したりはしません。人が書いたことを低次元の視点から侮って解釈し、素人考えで出鱈目に記事を改竄していることは、この一件一つ取っても明らかだと思います。結論として、うまやどを名乗る者は、五七調のリズムを持って詠われる和歌とは何かを、学術的な視点から正しく理解していない、ということになるようです。本人が学術的うんぬん書き並べても、私の目には白々しく虚妄なことを書いているとしか映りません。私はここには、素人分かりしやすいように、易しく丁寧なことしか書いていないため、無知で礼儀知らずな歪んだ認識を持った人物からは、自分以下のゴミと見えてしまうのでしょう。そのため、嘘の悪口を書き立てて誹謗中傷して排除すべき人物という結論になって、歪んだ悪質な心ない迷惑行動に結びついているものと思われます。

また、うまやどを名乗る者は、先日「ホツマツタヱの音韻は研究されていない」とこのノートで断言していたことを、記憶している読者もいると思います。にもかかわらず、今回は「母音は5つのみ」などと、違うことを書き込んできています。不完全で稚拙なものにしろ、何かしらの情報を得ない限り、「母音は5つのみ」とこの者が前言とはまるで異なることを書き込むのは、無理があると思われます。結果的に、うまやどを名乗る者が、ヲシテは「音韻について研究されていない」と先日このノートに書いたことも、じつは嘘だったと判断する人が大部分だと思います。誤った記述を書き連ねたものを読まされて、認識を歪められる迷惑を蒙った、このノートの読者一同に対して、きちんと謝罪して、誤った言動と記事の改竄行為の全てを正しく訂正したほうがよいと思います。明らかに何も勉強してないように見える、知識があやふやな人物が、学問的な検証に耐える議論うんぬんを口にしたうえで、出鱈目な記事の編集を行うなど始末が悪いと感じます。このようなことをすれば誰からも迷惑がられ、嫌われて避けられても当たり前でしょう。私はまともな正常な議論ができるとは感じていません。--203.168.92.153 2007年1月27日 (土) 21:19 (UTC)[返信]

いくつか反論しておきましょう「五七調の和歌のリズムは、音声の詳細な時間解析を行った結果、じつは全て8調子に休符が付いて出来上がっているものだと判明したことを、記事に書いておいたのに」。この件につき、査読つきの論文があるのなら提示してください。このテーマは、ホツマツタヱが真書か偽書か関係なく成立できる議論です。「ホツマツタヱにおける音韻律に関する時間解析」といった論文であれば、内容次第で学会に通ります。そういうものがあるのなら撤回いたしましょう。--うまやど 2007年1月29日 (月) 05:01 (UTC)[返信]

その他目に付いた、嘘や間違った記述など[編集]

うまやどを名乗る者は、私が「当時は一音一意、秀真文字は219文字あり、音韻が豊富。上代特殊仮名遣いを満たすことができる。」と主張していると書いていますが、これは信じるに値する事実なのでしょうか。私は「上代仮名遣いを満たす」などと書いた覚えはいっさいありません。当時は現代より音が多くないと会話に不自由したと思われる点を指摘しただけです。たとえば、現代でも「箸」と「橋」をイントネーションで区別して読みます。これを同じにしたら意味が通じません。このような差を意図的に付けることは、弥生時代にも行われていた可能性があると思います。それが字形に表れているケースも考えられます。私は「ヒ」が4つはあっただろうと推理を展開しましたが、上代仮名遣いの通説の発想は、きちんとした音声解析理論や、発話機構の解析などに基づいていないと思われるため、混同されてややこしい話になることを考慮して、私は言及を避けています。

私が実際に書いたことと、うまやどを名乗る者が、私の主張と書き立てている内容が、こうも次々と大きく異なるということは、この者は私が何を書いているのか、正しく読み取れていないことを意味していると思われます。世の中には、難読症と呼ばれる病気なども存在するようです。執拗に相手が書いたことと違う指摘を繰り返していれば、病気ではないにしても、何らかの原因で、同じような知的情報処理に問題を抱えた状況下にある人物が書いた不可解なもの、と受け取らざるをえなくなるケースもあると思います。いずれにしろ、事実に反する虚偽の作文の羅列に付き合わされて、このようにいちいち訂正させられている私は、非常に迷惑しているし、嘘を読まされる他の方々も、怒りを通り越して、うんざりだと思っていることでしょう。反省と謝罪が無いようならば、この人物の今後の書き込みは無視するか、嘘を平気で書き込む非行を繰り返す常習犯として、書き込み禁止の措置を取るのが正解と判断します。

うまやどを名乗る者は、「ハングルは、神代文字であるアヒル文字に酷似している。」と私が主張したと書いています。もちろんこれも嘘でしょう。私は書いた覚えがありません。「酷似」といった言葉を使用すれば事実に反しますから。ハングルのほうがはるかに複雑なので、酷似などしていません。私は寝惚けてでもいない限り、通常こういう発想で、こんな理屈に合わないトンチンカンなことを書かないタイプの人間です。うまやどを名乗る者は、相手がどのような思考パターンで物事を考えて判断する人物かということも、まともに理解できないまま、次々と見当外れの、私に対する批判を書き殴る迷惑千万な行為を執拗に繰り返しているようです。このような非行を平然と行っていることを、先日私に叱られているにもかかわらず、暴走が止まらない、異常な状況に陥ってしまっていると感じます。

うまやどを名乗る者は、私が「宮内庁本をもとに、木簡だったと主張」したことを問題だと指摘しています。現在の記事は、布や板だったという反証になっていますが、これはホツマツタヱに記されていても、考古学的な発見、目撃例や物証が一例もありません。古墳などからまったく何一つ出てこないのはあまりにも不自然と見ている研究者もいると思います。ところが、木簡に書かれていたことは、目撃者がいて証言がきちんと得られているのです。その証言は、研究者の間で流通している定期刊行物を通して、広く行き渡っています。ならば、証言のあった木簡のことのほうを優先して書くのが当然です。目撃例や物証がない反証を用いることがさも正しいかのように書くのは、論理的妥当性がないと感じます。

つぎに、うまやどを名乗る者は、私のことを「ホツマツタヱは真書であると主張しておいて中には変造されている箇所もあると主張してみたり」と、なにやらひつこく指摘してきています。もちろんこれも、まともな議論にならないレベルで間違っていると私は思います。多くの人の手を解して紀元前から詠われてきたと思われる、長大な古代の叙事詩が、全て100%正しいことを現在まで伝えているなど、ありえないと思っています。ありえそうもないことを、さも信じているかのような書き方をすれば、うまやどを名乗る者が書き立てている「妄想」と指摘されかねません。うまやどを名乗る者は、変造箇所を指摘するのはおかしいと、平然と指摘してしまっていると読めるため、ありえそうもない幻想を信じていることにもなりかねません。何事も安易に信じようとせず、常に見落としがないか注意を払う姿勢を保つのがこの種の文献に触れる場合の基本でしょう。うまやどを名乗る者は、こういった、古い文献を読む場合の基本的な注意点についても、正しく理解していないと思われます。そのレベルで学術的うんぬん言われても迷惑です。

つぎに、うまやどを名乗る者は「神武天皇は皇位を簒奪した」などと私が書いたと指摘していますが、これも事実ではありません。この者特有の迷惑な虚偽の捏造文と判断します。神武天皇が天皇の初代とされていて、それ以前の原書の呼称は天君(アマキミ)で、天皇ではありません。天君は日本の複数の国々に存在したようです。天皇でない者から皇位を簒奪するという表現は論理的に破綻していて無理があります。天照朝から神武朝へと変わったことは、神武天皇が天皇の初代を名乗った以上、誰の目にも明らかで、異論の余地はないでしょう。私はこのことを当時の伝承内容を解説するネット上の記事を参考にして書いたにすぎません。また、神武天皇の東征と銅鐸文化の消滅を関連付けて、九州勢が朝廷を乗っ取った可能性を示唆する説は、かなり有名なので、記事にすることを試みました。これは、当時大量に銅鐸が出てくるにもかかわらず、ホツマツタヱや記紀にその描写が一切ないのはおかしいので、何らかの形で問題として採り上げておかないわけにはいかないと考えてのことです。もちろん、このことは広く一般に知られて議論の対象になっているため、軽視されるゴミのような説ではありません。

神武天皇の東征に関する記事の一部を私が削除した件に触れて、なにやら書いているようですが、これは、撃ちてし止まんの記事を書くために調べていたものです。魏志倭人伝と比較したり、朝鮮半島の歴史書と見比べているネット上の記事を読み漁っていて、どうやら年代の推定を間違えているサイトの情報(といっても、邪馬台国論争であのように主張する人は多い)を頼りに書いていると感じたので、このようなことは各自が専門書をあたって学べばいいことだと判断して、自ら不必要な部分を撤回しただけのことです。

また、うまやどを名乗る者は「聖徳太子の不在説」を記事にしたことを、削除すべきと論じていますが、これは大切な意味を持っています。記紀の情報の信頼性を問い、ホツマツタヱの伝承と食い違う部分をどう埋め合わせるか考えるうえで、重要です。天照大神を姉と呼ぶ記述は古事記には存在せず、日本書紀にのみ記されているようですが、女帝を肯定するために記事を改竄したとする説があるため、女帝がいた聖徳太子の時代の記紀の記述がどういう組み立てになっているかは、重要な検討対象です。ネット上から有名な説に関する情報を引き出してきて書くことに、何の問題もないでしょう。私は新理論を考えるときには、同時に相反する仮説を複数作って、多くの説を戦わせて、どれが優れた説かを判断します。傍目からは、私がどの説を本気で唱えているのか理解出来ないと感じて、奇妙なことをしていると受け取られることがあるようですが、もちろん、どの説もただしい道筋に繋がる可能性を試みているのです。このような場合、妥当性が低い説にも一通り目を向けて、見落としがないように、詳細に検討します。しかし、推理の手筋が悪いと悟れば、視点をさっさと変えてしまうこともあります。

天照大神は、男神か女神かを巡って、いろいろ言われていて、男神説が有力になってきていますが、現在最も可能性が高いと私が考えている説は、古事記もホツマツタヱも両方とも正しくて、まったく改竄を受けていないというものです。宇気比(うけひ)のエピソードは、ホツマツタヱではシタテルヒメとソサノオの間で行われ、古事記では、女性の髪形を解いて男装した天照大神と須佐之男命の間で交わされたことになっています。登場人物が異なっているように見えますが、じつは実際に起こったまったく同じ出来事を、異なる話者が異なる視点から発話して伝えているために生じた、見かけ上の矛盾にすぎず、どちらの伝承も正しくて(会話内容の細かい食い違いなどを除く)、作られた時点から改竄などは一切されていないという推理が成り立つ、特別な状況設定が可能であることを見付けています。天照大神には、男性と女性の要素が内在すると、記紀やホツマツタヱ以外の媒体を通して伝承されてきた事柄などとも、矛盾を生じない形で綺麗に全てを円く解決することが可能な見地に立てたと考えています。聖徳太子捏造説を考慮に入れつつ、記紀の改竄によって天照大神を故意に女神に仕立て上げたなどとする、従来からの乱暴な根拠の薄い説を選択する必要は、一切なくなったと思っています。ちょっと柔軟な発想をすれば、すぐに気が付く、じつに分かりやすい謎解きでした。ホツマツタヱの編纂者達は、当時の天照朝の安定した政権を維持するために、非常に重大な事実を隠して、ホツマツタヱにすら真実を記さない措置を取っていたようです。しかし、後世の人には実際に起こっていた出来事がそれと見て取れるように、巧みに歌を詠んでホツマツタヱを組み上げて、神社などの形でヒントとなる足跡を残しておいてくれたのだと、当時の伝承の作り手達の真心に触れて、微笑ましく感じています。私と同じ謎解きを楽しみたい方に、ヒントを差し上げておくと、和歌姫夫妻は結婚後どこに住んで何をしていたかを、よく推理してみることです。広田神社から紀州の日前神宮までの足跡が、現在でも確実に神社の姿で残っていて拾えるように、結婚後の足跡も、ちゃんと現在まで残っています。でないと、「ホツマツタヱと神社の関係は間違いないから、ホツマツタヱは真書だ」と、胸を張って主張することは出来ませんからね。そして、天照朝8年の内乱のなかで何が起こり、その事態をアチヒコはどのような策を用いて乗り切ったかを、伝承から推理すれば、答えはおのずと見えて来るのです。アマテルカミがフトマニの編纂をやったことや、和歌姫が神上がってから歳徳神と称えられたってエピソードも、この謎解きの重要なキーパーツです。--203.168.92.153 2007年1月27日 (土) 21:19 (UTC)[返信]

反論しておきましょう。Wikipediaが自説を展開する場所でないということをご理解していらっしゃいますでしょうか。この点については、 NiKe 2007年1月3日 (水) 02:53 (UTC) に、すでにあなたは指摘を受けています。--うまやど 2007年1月29日 (月) 05:12 (UTC)[返信]
「自説を展開」などしていません。事実と正反対の間違ったことを、さも事実であるかのように、臆面もなく平然と書いて、言いがかりを付けないで頂きたい。迷惑です。嘘を書くなと何度叱られても直らないうまやどを名乗る者の言動には、問題がありすぎます。
私は、天照大神は、男神か女神かを巡る新説を思いついたことをここに書きましたが、同時に自説を記事にはしていないことを明示しているのです。私は個人的には天照大神男神説を信じていないわけですが、記事にはこの男神説のほうを書いているのです。これを「自説を展開」と指摘すれば、事実からかけ離れた話になるでしょう。文献やネットを通して広く知られている説や、議論しか書くつもりはありません。そのことが正常に読み取れずに、「自説を展開」と書いているのか、故意に事実に反することを書いているのか知りませんが、どちらにしろ、この者は事実に反する記述を繰り返し行い、不必要にこの場を乱しています。
そうそう、私が天照大神の衣装などに言及したら、出典の明記を求められました。情報源を示すのをかなり遅らせたので、「自説を展開」しているなどと勘違いされたようですが、これは、最も事情を良く知る、伊勢神宮の関係者の方からの書き込みを期待していたからです。最終的に古い平安時代の文献の記載内容を紹介しましたが、本当は、伊勢神宮の関係者の方から、もっと明確な根拠となる情報がもたらされたほうが、良かったのではないかと思っています。--203.168.92.153 2007年1月30日 (火) 18:16 (UTC)[返信]

うまやどを名乗る者が行った、大量の記事を削除する行為の妥当性[編集]

さて、これまで見てきたように、うまやどを名乗る者は、間違ったことや虚を、さも正当性があるかのようにこのノートに書きたてているにすぎず、論理的に正しい記述とみなせるものが、この者の今回の書き込みの中に、ほとんど存在していないように見えます。このような結果は、尋常なのもとは考えられず、悪しき心の歪みが、認識を歪ませ、口から出る言葉を捻じ曲げていると考えるしかないように思います。邪(よこしま)な心からは、残念ながら正しい言葉は出てこないようです。学問的な検証に耐えない記述を繰り返しているのは、うまやどを名乗る者自身であると判断します。

たとえば、うまやどを名乗る者があからさまに蔑視していると思われる、ペトログリフにしても、縄文時代の文化を今日に伝える重要な物証です。擬似科学などと、記事にレッテルを貼る扱いをしていたようですが、疑似科学の定義にはあてはまりません。北海道の洞窟内に描かれたものなどは、きちんと形が残っているため、適切に保全されて閲覧が可能です。多くの人に認められています。縄文時代のペトログリフ イコール似非科学は、この者の事実に反する歪んだ短絡発想の産物であり、このような非論理的な主張をしている、うまやどを名乗る者の言を認めるべきではないと思います。実際に数多く存在しているペトログリフを否定して退け、あたかも存在しないかのように語ることこそ、科学とは呼べない虚の認識を流布する行為に他ならないと言えるでしょう。今後の研究の芽を摘むと思われるうまやどを名乗る者の精神的姿勢は、好ましいものと感じません。「学問に対する姿勢」という項目を設けて、「敬意と感謝」というもっともらしい言葉をこの者は書き連ねてはいますが、自分が携わっていない学問を、侮って軽視し、ゴミのように捨て去る態度が見て取れます。このような言動は、ペトログリフの研究者達の仕事を、似非呼ばわりする、非常に失礼なものでしょう。それから、ペトログリフが刻まれた岩の表面を分析することで年代を確認する方法について、幾つか可能と思われるものを検討中です。近日中に鬼退治で有名な岡山県の遺跡の文字の年代は、私が推定出来るかもしれません。自己診断では記事に出来ないので、どこかの大学の先生に論文書を書いていただくことになると思います。あれはホツマ文字の「お」の字形をしていて、見間違いではないと感じます。

私はかなり確信に触れていると感じる情報から、怪しげな情報まで、幅広くピックアップして記事にしましたが、うまやどを名乗る者は、私が書いたなかでも、曖昧な根拠の薄い記事だけを、故意に選別しては、執拗に嘘の指摘を交えて、悪しざまにノート上で批判を繰り返しているようにも見えます。もちろん、このような嘘を交えた批判行為は、ターゲットにされた人物に対する歪んだ認識を読者に植え付け、読み手の精神を害し、歪んだ言動へと誘導する、著しい迷惑を及ぼす行為と考えられます。ノートを用いた正常な議論などである筈もありません。このような行為に賛同した人物も、ともに問題性のある同調者として対処される可能性があることを、よく心得て、不必要に賛同しないように心掛ける必要があると思います。

うまやどを名乗る者は、「生洲問答」に記された、「皇位を狙った僧の道鏡が、女帝を正当化する目的で『日本書紀』を改竄し、天照大神を女神と書き直させたとき、ホツマツタヱは焚書の憂き目にあうところを、大加茂臣赤坂彦が命とひきかえに救い、子孫に伝えた」という伝承を、記事として載せておくことに反対し、これを削除したようです。しかし、これは、適切な行為ではないと判断します。もちろん私は、今では道鏡が日本書紀を改竄したという言い伝えとやらを、あまり信じていません。そんな不自然なことをしなくても、記述内容に問題はないと説明可能だからです。しかし、肯定派否定派双方からの意見があるため、論点の一つになっているため、採り上げておく必要があると思います。研究者の間ではこれが有名な話である以上、削除対象にはならないと思います。ホツマツタヱという文献が、現代まで伝わるように平安時代から保管してきたとされる家の方が、なぜ今までホツマツタヱの写本が生き残ったのか、その由来を説明している文献は、重要な意味を持ちます。和仁估容聡氏が、過去に捏造疑惑をかけられた怪しい人物だからというのなら、現在研究されているホツマツタヱの写本全てが怪しいということになりかねません。これは、ホツマツタヱ否定派にとっても、非常に重要な意味を持つ情報です。うまやどを名乗る者の口車に乗せられて、綺麗さっぱりこの怪しげな伝承を捨て去れば、肯定派にとってこれほど都合が良いことはないでしょう。しかし、ウィキペディアの公平な記事編集という方針からは、かけ離れた不適切な記事改竄行為とみなされかねないでしょう。私は、ホツマツタヱは紀元前の昔に遡ることが出来る、当時の多くの情報を現在まで伝える文献で、伝承内容の多くは、詠い手の思考パターンの解析などからも、ほぼ当時の事実を伝えていると見ていますが、和仁估容聡氏が何らかの古い文献をもとに、ホツマツタヱを再構成した可能性は、まったくゼロではないと思っています。ことの真偽は、宮内庁保管本でも表に出てこない限り、永遠に確かめようがない気もします。その意味で、たとえ怪しかろうと怪しくなかろうと、触れないわけにはいかない、今日研究されている全ての写本の出所とその真偽に関わる、最重要の情報です。和仁估容聡氏の個人的な人物像に関する情報ともども、削除すべきではないでしょう。私は正直、このような、真偽の確認が困難な事柄を、記事として書きたくなかったのですが、研究者の間で広く認知されていることでもあり、公平を期すため仕方ないと判断して書いたのです。そのことを理解できず、私の判断力を問う話へと仕立て上げてみたり、臭いものには蓋の発想で、闇に葬って片付ける態度は、適切で公平な百科事典の記事の編集を志す者とは正反対の、身勝手な悪い発想が頭を持ち上げていると感じます。記事の公平性を損じる改竄は、速やかに元に戻しておくべきでしょう。

削除された記事の中には、和歌姫に関するエピソードがありました。私が和歌姫のことをわざわざ日本語で分かりやすく記事として紹介したのは、一般の専門書と違う、大衆向けの百科事典でならば許されて有効に機能する書き方をすることで、若い研究者達が生まれ育つ場となることを期待してのことです。偽書と疑ってかかっている人も、和歌姫の足跡が全て神社の形で正確に残っていると知れば、ホツマ文字が捏造疑惑の渦中の神代文字だから信用できないといった、従来の話とはまったく違う考えへと、自然に心が動かされていくことになります。そして、この叙事詩に書かれている内容は本当にあった出来事かもしれないと、しだいに思い始めます。和歌姫の解説が終わった時点で、ぐっと読み手の関心を掴むことができていればしめたもので、天照大神がじつは男性だったという説が、最近正しいものとして評価されてきつつあるが、じつは、女神などと誤ったことを書き記している記紀よりも、正しい事柄を正確に伝えていたさらに古い文献があるのだと紹介することで、今まで疑いを持ってきた読み手に対して、大手をかけることが出来ます。さらに、記紀はホツマツタヱを書き写すときにたくさん間違えてるんだよと、具体例を示せば、これは読まなくてはならない歴史書だと、ほとんど九割の歴史に興味を持っている読者が思うようになります。こういう3段重ねの櫓を組んだ攻略法で、ホツマツタヱ否定派を説得できる紹介記事を、しっかり構成していたのです。ところが、うまやどを名乗る者は、このノートでのやり取りを読めば分かるように、人が書いたものに対して、間違いだらけの解釈を行っています。和歌姫から箸塚古墳までの記事が、どのような意図で組み立てられているか正しく理解しないまま、稚拙な間違った認識レベルで、ゴミとして削除を提案したと思われます。記事の手スジが理解できる能力を持っていれば、中学生でも読めるように配慮して読みやすい日本語で書かれていたものを、ほとんどの人がすらすらとうまく読みこなせない、カタカナ入り混じり文に改竄して、生きた記事を死なせてしまう迷惑行為を働いたまま、私からの、日本語で書く意思があるのかという議論に真摯に応じず、議論に値しないと侮った態度で放置するような、明らかに身勝手なルール違反をしてみたり、この記事をゴミと解釈して扱うようなことはありえないと思います。もちろん、「学問を敬う」どころか、傲慢な蔑視的態度と、歪んだ心根が、事実に反する嘘の記述を大量にこの場に書き並べる非行を生み出し、そのことを指摘されても平然としていられる、異様な印象を与える精神的姿勢となって現れていると読めます。

大幅に削られた現在の記事は、ただ専門知識が箇条書きで並んでいる、一般の専門書と代わり映えしない、研究者を増やすことが出来ない死んだ記事になっています。今の状態の、なんら好奇心も呼び覚まさない箇条書きなど読まされても、歴史を研究する者は、なにかズラズラと書いてあるが、やっぱり偽書だろう、という印象を持ったまま立ち去って終わりです。ホツマツタヱの研究を盛んにするうえで、何の役にも立ちません。私が日本語で易しく記事を書いたことを問題視しているようでしたが、易しく意訳されていることを理由に、歴史学の専門家達が、侮って偽書と判断するようなことはありません。百科事典を読む人に与えることができる情報のうち、何が大切で何がそうでないのかが、適切に判断できているとは、とうてい思えません。これまでの専門書が、ホツマツタヱの初心者(著名な歴史学者を含む)がとりつきにくい文言を、ただ機械的に箇条書きにした、無機質な文章を並べてきたからこそ、うまく普及してこなかった問題点を、正しく理解せずに、この種の一般の読者向けの百科事典で、同じことを繰り返せば、実質的にホツマツタヱの普及を妨げる、迷惑行為に他なりません。もちろん、多くのホツマツタヱの研究者は、このような人を侮った精神的態度で繰り返し行われた非行を、肯定的に受け止めたりはしないでしょう。その批判が最終的に誰に向けられるか、よく考えたほうが良いと思います。うまやどを名乗る者にではなく、この者の言動を教育指導する立場にある者に向けられる結果を招けば、学問上の恩師にあたる方々に対しても、迷惑を及ぼすことにもなるでしょう。--203.168.92.153 2007年1月27日 (土) 21:19 (UTC)[返信]

反論しておきましょう。和歌姫(あえてこう書きましょう)の話で、真偽を論じることが危険だということは理解しておられますか?あなたは得意げに書いておられましたが。--うまやど 2007年1月29日 (月) 05:18 (UTC)[返信]
神社に伝わる伝承のほうを、後世になって偽書と差し替えることで、ホツマツタヱとの間の整合性を捏造することが出来るという意味でしょうか。これはまず考えられません。ホツマツタヱの内容を、神社と完全一致させる必要があるなら、日前神宮にムカツ姫が祭られていないのに、ムカツ姫がこの地を訪れたと作文するのはかなり不自然なことです。なのに書いてあるということは、神社の伝承と照らし合わせる作業などしていない、ということになります。書き手の思考パターンの解析といったことも可能ですから、補強することはいくらでも可能ですよ。--203.168.92.153 2007年1月30日 (火) 18:16 (UTC)[返信]
偽書との差し替えとか捏造とか、お好きなようですが、そういう次元のお話ではありません「和歌」は音読みです。そして後世の語彙、初出は万葉集で、記紀ではありません。例えば、http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/kagaku/waka_y.html をご参照ください。「和歌姫」がアマテルカミの時代からいたという話は、普通の学者にとって、漢字伝来前に漢字の音読みの名前の人がいる、また、「和歌」という後世に作られた音読みの語を文中に利用している、これはおかしい、ゆえに偽書と、簡単に識別する根拠を与えることになります。
わめきたてるのは簡単ですが、例えば、この「和歌」問題は、どのように説明されるのでしょうか。まさか、このような簡単なことにも気づかないような「粗雑」な議論をされているのではありませんよね。--うまやど 2007年1月31日 (水) 04:55 (UTC)[返信]
開いた口が塞がらないとはこのことです。自分の悪口をここにあまり書かないほうがいいですよ。必要もないことをわめきたてているのはあなたでしょう。あなたは上で「和歌姫の話で、真偽を論じることが危険」と書いているのですよ。「和歌姫のエピソードをもとにして真偽を論じることは危険」と書いていると読めるのです。自分が何を書いたのか、それすら正しく理解していないのですか。「和歌姫の話」と書いておいて、「音読みが問題」というテーマを持ち出してくるのはなぜですか。話がチグハグで、まともな議論が出来る人にはとても見えません。次々と話を逸らす書き込みを繰り返して、この場を引っ掻き回すのが目的ならば、このような展開もありえると思いますが、荒らし行為の一種と受け取ってよろしいですか。
「偽書との差し替え」「捏造」は、「和歌姫の話」で最も深刻な問題視される重要事項です。こう考える根拠は、写本を江戸時代まで保有していた人物が、神社におかしな文書を奉納しようとした贋作者のように、悪しざまに名指しされている問題があるからです。そのため多くの歴史学者が、ホツマツタヱ捏造説を考えるときに、注目する点です。ホツマツタヱ否定派から見て、最も重要なテーマの一つです。私はこのような優先順位が高い側から、順に考えて書いています。そのような思考の道筋があることすら分からないのですか。それでは話になりませんよ。まともな議論など出来る人とは思えませんね。もちろん、あなたはこのテーマの記事を削除しましたから、ホツマツタヱ否定派の根拠になる記事を勝手に消して、中立的でない編集をしたことになるようです。
そして、またもまともな議論にならないおかしな理屈を持ち出してきたようですね。こんなことより、もっと重要な回答を私から迫られているのではないのですか。訓読みの漢字を人名に当てなければ駄目だなんて、あなたの自分流のルールを勝手にこの場に持ち出してこないでください。音読みと訓読み、後世の人間がどちらの方法で漢字を当てるのも自由です。現代の日本語では和歌のことは和歌と書くのですから、日本語の解説文には和歌の文字を使うのが当然です。没後、和歌三神のお一人、和歌の女神和歌姫様として祀られているのだから、その表記は和歌姫様でいいのす。当時のワカのクニが、後世和歌山県となったのは事実であり、現代の日本語では和歌と書くのですから私に文句を言ってもはじまらないでしょう。もしも、現代の国語辞典や地図の表記を、自分の思うように書き換えたいおつもりなら、頑張ってくださいとしか私には言えません。あなたが個人的に文章に勝手にワカと書くのは自由ですが、ウィキペディアの記事に和歌のこと、和歌の女神のことを書くときは、きちんと和歌という現代語の表記を用いるべきです。もちろん、生前のワカヒメのことを語るときには、ワカには若(稚)の意味が当時あったらしいことに配慮した記述を、一言付け加えておいたほうが、より望ましいのは確かでしょう。その点は現代語表記の制限は受けないと思います。後世の人間が音読みの字を当てたから、ホツマツタヱの伝承がおかしいと、歴史学者が当て推量した論文を書いたら、稚拙な間違った推理と指摘しておけば、それで十分です。そんな貧弱な洞察力や推理力で、短絡的な勘違いした結論を出すような歴史学者の評価など、必要とされていないでしょう。そういう次元が低い勘違いに付き合ってまで、国語辞典の表記を変更するように、出版社と編集記者にかけあう必要がどこにあると言うのですか。あなたの理屈は、まるで話にならない印象を受けます。--203.168.92.153 2007年1月31日 (水) 08:20 (UTC)[返信]
やはり、おわかりになっていないようですね。あなたのこだわっているレベルの話ではないんですよ。「和歌」は現代語でわかりやすくしているだけだとか、カタカナで書けば「ワカ」で「ワカ」には「若い」という意味がある、という話ではないんですよ。
ここでの問題は、ホツマツタヱにおける「ワカ」という言葉には、ヤマト言葉の「ワカい」「ワカガエる」という意味と、後世の語で音読みする「和歌」という意味の両方があるという「意味」レベルの話(これは自明)が存在している上で、その「発音」レベルの話、すなわち「和歌」という意味で「ワカ」という音自体が存在しているとよめること、の問題です。
ホツマツタヱの本文に、「ワカ」という語が、間違いなく「ワカ」という読みでかつ「和歌」という意味で存在しているでしょう。これは、ホツマツタヱの本文の中に、漢字の音読みの語が、後世につくられた語彙の意味どおりで存在しているということですよ。お分かりですか?
これを解決しないと、「ワカ」という音読みの語彙が利用されているということを認めざるを得なくなります。「和歌姫」がアマテルカミの時代からいた。普通の学者は本文にあたって確認する。すると、ホツマツタヱは本文中に漢字の音読みの名前の人がいる、また、「和歌」という後世に作られた音読みの語を文中に利用している、これはおかしい、ゆえに偽書と、簡単に識別する。これが、「和歌」問題です。--うまやど 2007年1月31日 (水) 09:32 (UTC)[返信]
追記しておきますが、この場合、「ワカヒメ」と書いてあろうが「和歌姫」と書いてあろうが、ヲシテでワカヒメにあたる字で書いてあろうが、上記の問題がおきますね。「ワカ」だろうが「和歌」だろうが、ヲシテのワカにあたる字だろうが同様です。--うまやど 2007年1月31日 (水) 15:40 (UTC)[返信]
何を得意げに、情けないことを書いているのですか。あまり寝惚けたようなことを書き立てると、ますます自分の評価が下がると分からないのですか。あなたを教育する立場にある恩師の方々の評価も、同様に下がって迷惑をかける結果を招いてしまうのではありませんか。ホツマツタヱの最初の部分、天の巻一綾の中に明確に答えが書いてあるじゃないですか。読んでも意味が拾えなかったのですか。和歌は本来「和の歌」なんて意味ではないですよ。この漢字が後世の人の手によるただの当て字にすぎないことぐらい、当たり前でしょう。ホツマツタヱは、和歌がどうして和歌と呼ばれるようになったのか、単純明快に由来をこう説明しています。【それ和歌は 和歌姫の神】(それワカは ワカヒメのカミ)とね。意訳すると『五七調の歌に和歌と付けたその理由は、生前歌が上手だった若姫という和歌の神様の名前をもらったからです』となります。そして、若姫がどのように歌が上手で、人々から慕われるようになったかは、こうありますね。【若姫の 心お留む 玉津宮 枯れたる稲の 若返る 若の歌より 若の国 玉津の勅使】(ワカヒメの ココロおトトむ タマツミヤ カれたるイネの ワカガえる わかのウタより ワカのクニ タマツのヲシカ)紀州の地で、若姫が詠んだ穂虫祓いのおまじないの歌で、枯れかけていた稲が若返って、人々が飢饉から救われたから、「若の歌(和歌の歌)」と呼ばれるようになったんです。「姫様が歌ったら稲が返る奇跡が起こった」という駄洒落(掛詞)が由来なんです。状況説明から見て、本当は、歌が持つ物事を生み出す「事の生」(コトのハ=言葉、物事が生まれる母胎の意味)の言霊効果ではなくて、教え草ってハーブを使った、燻煙駆虫処理技術だったと思われますが、とにもかくにも若日女(ワカヒメの原意に沿って現代で使われている漢字を当てるとこういう表記になる)様は、神秘的な言霊効果があるマジナイ歌(労働促進効果がある労働歌)を即興で詠むのがじつに上手かったようです。人を使役する天照皇朝を支えるトップブレーンの一人、絶世の美女として知られていた天照大神の自称妹なのですから、檜扇片手に優雅に田畑を巡視しながら、おまじないの歌を状況に合わせて即興で歌って、人々を勇気付け励まして稲を守って回れば、聞くだけで不思議と疲れが取れて労働がはかどり、枯れかけた稲さえよみがえる神秘的な霊力の持ち主と、慕われて当然だったでしょうね。というわけで、答えがストレートに書いてあるのに、どうして「和歌問題」など考える必要があるのですか。和歌の原意は【若日女の神】にあると端的に書いてあるのに、この場で何を議論する必要があるのですか。この程度のことも知らずにホツマツタヱ肯定派の研究者を名乗っても、誰も本物だとは信じないと思いますよ。あなたに対する私の評価は零点以下、ホツマツタヱの研究者のコミュニティにとって非常に有害な言動をしているという認識になっていることを、お忘れにならないほうが良いでしょう。
「やはり、わかってない」などと書く暇があったら、あなたこそ原書をもう一度よく読んで、ちゃんと勉強しなさい。この程度の知識も持たないようでは、ホツマツタヱの記事がまともに書けるとはとうてい思えませんよ。それから、「和歌問題」を持ち出す学者に対しては、原書をまともに読みこなす能力がないってことですから、一通り解説しても理解できないようなら、放置しておけばいいんです。そんな理解力がない人など、たとえ肯定派に回ってもほとんど役には立たないでしょうから。そうそう、あなたが存在を否定している言霊思想が、ちゃんとホツマツタヱ 天の巻 一綾から登場していることがお分かりですか。マジナイ歌の労働促進効果は、言霊思想の産物以外の何者でもないでしょう。そして、こういった歌が持つ音声の脳への作用は、科学的にも説明が可能なもので、迷信ではないと考えられます。歌に励まされて元気付くことは、誰でもが体験できることですからね。生前の若日女様が凄かったのは、穂虫払いが言霊の霊力による効果と人々から錯覚されるくらい、歌が上手かったことでしょう。当代きっての名女性歌手だったようですから、人々を励まし気力をよみがえらせるのはもちろん、和歌が持つ言霊の力で、枯れかけた稲までよみがえらせる、奇跡を起こした歌姫伝説として2千年以上を経た現代まで、その行いが言い伝えとして残って神社に和歌三神の一人として祀られているのでしょうね。このように、ズバリ答えが書いてあっても、読みこなせる人と、そうでない人はいるってことなのでしょうか。ホツマツタヱに明記されている古代和歌のもともとの呼称の原意や、言霊思想すら知らない状態で、古代和歌で書かれたホツマツタヱの記事をまともに編集できるつもりだったのですか。はっきり言って無謀だと思います。あなたが触った記事がおかしくなっても、当たり前かもしれませんね。ホツマツタヱの書籍のデータは書けるし処理できる様子ですが、具体的に伝承されている内容の理解のほうは、もしかして零点に近いのではありませんか。私は今回好き勝手に漢字を当てて表記して、ホツマツタヱの伝承内容を解説しましたが、「漢臭」がする「誤訳族」のレッテルを貼ることが可能な解説なのかどうか、読めば簡単に判断できると思います。漢字で書いたらアウトで即誤訳だなどという歪んだ心が丸見えのレッテル貼りは、短絡的な稚拙な偏見以外の何者でもありません。決定的に認識不足の状態で、ホツマツタヱの研究者のコミュニティに、歪んだ醜い心を持ち込むのは、好ましいことと思いません。そして、記事を削除するのが妥当かどうか、その歪んだ心と稚拙な認識レベルで判断するのは、かなり無理があると感じます。あなたは、自分の誤った記事削除行為を咎められていることを忘れていませんか。このようにして、まともな知識と判断力を持っていないと明らかにノート上で証明されてしまえば、あなたに投じられた賛成票は撤回され、記事削除は妥当でなかったとする票が、どんどん増えていくことになりますよ。自分に不利になることは、賢い人はしないものです。あなたの知力と認識レベルで私と対等の議論をするのは無理がありすぎると、正しく悟ったほうがいいのではないでしょうか。これ以上私に議論を挑んでもまるで無意味、あなたが不利になるだけと悟るべきだと思います。--203.168.92.153 2007年1月31日 (水) 20:24 (UTC)[返信]
また、「大幅に削られた現在の記事は、ただ専門知識が箇条書きで並んでいる、一般の専門書と代わり映えしない、研究者を増やすことが出来ない死んだ記事になっています。」とありますが、Wikipediaは自説を展開する場所でないということを理解できないようですね。--うまやど 2007年1月29日 (月) 05:18 (UTC)[返信]
曲解を披露するつもりですか。私が書いた記事は、有名な研究者達が指摘し、ネット上でも採り上げる人が大勢いて有名なものです。アプローチの仕方が良いか悪いかで、生きた記事にもなれば死んだ記事にもなる、という話を、「自説を展開」などという話へとすり替えて、場を乱すものではありません。議論にもならない言いがかりを付けているとしか見えませんが、まだ続けるつもりですか。--203.168.92.153 2007年1月30日 (火) 18:29 (UTC)[返信]
ネット上で取り上げる人が多ければそれで正しいというお考えなんですか。随分、「粗雑」な考え方ですね。この考え方であれば、確かに学問は必要ありませんね。大勢でわめけばよい。それは政治ですね。正邪を見極めるには情報の質と方法論が重要です。それから、有名な研究者達とは具体的に誰ですか。こういう部分を抽象化し、だれもトレースできない議論にすると、この場の人たちには、判断ができませんから。--うまやど 2007年1月31日 (水) 04:55 (UTC)[返信]
また間違った曲解を書いていますね。私がいつ、「ネット上で取り上げる人が多ければそれで正しい」などと書きましたか。そんな稚拙な理屈をいつ展開しましたか。あなたが勝手に作文しているだけですよね。二度とこのような愚かな迷惑行為はしないでください。「有名な研究者達が指摘し、ネット上で採り上げる人が大勢いて有名なもの」と、すぐ真上にはっきり書いてあるのに、勝手に話を捻じ曲げるのは何故ですか。私が書いた文章とあなたが書いた文章は、意味内容がまったく違いますよ。何を悪質な歪んだことをやっているのですか。執拗に認識が歪んだことを書いてしまうあなたの行動は、心の汚れから生じているのではないでしょうか。人が書いた文章を読んでも、正しく理解できない人だということはよーく分かりましたから、今回は特別に説明しておきましょう。「有名な研究者達が個人的に指摘していても、情報として広く流通していない(評価をほとんど受けていない)有名でない説は、記事に出来ない」という意味なのです。分かりましたか。それから、私は必要なキーワードをネット上に載っている記事と合致するように書いているので、検索すれば楽に探し出せる筈です。「誰もトレース出来ない」などということはほとんどない筈です。まともな議論にならないレベルの、あなたのこのノートへの書き込みは、迷惑です。--203.168.92.153 2007年1月31日 (水) 08:20 (UTC)[返信]
本当に言葉が通じない人ですね。あなたが書いていることを書き直しただけでしょう。私の理解が至っていないならば、あなたのいいたいことをちゃんと伝えてください。「何を悪質な歪んだことをやっている」とか妄想に走るのはやめてもらえませんか。理解不能です。わたしが上記のように理解する根拠は十分にあります、「地球語」とか。ただ話が拡散するので、おいておきます。
あなたにとって重要なのは
 ・「有名な研究者達が指摘し」
 ・さらに、それをネット上で採り上げる人が大勢いて
 ・結果として有名な説
ということですね。
その「有名な研究者達が指摘し」とは具体的に誰ですか。
検索すれば楽に探し出せる筈でいいなら、苦労はいらんでしょ。「筈」ですよ。「筈」。これを「粗雑」といってるんです。--うまやど 2007年1月31日 (水) 09:32 (UTC)[返信]
「本当に言葉が通じない人ですね。」などと、意味が通じている様子なのに、通じていないような話を装うということは、やはりノートの撹乱が目的なのですか。「具体的に誰ですか」って聞かれても、私が特定の研究者に拘わらないで、広範囲に集められる情報を頼りにしていることは、記事を読めば分かった筈です。出来る限りネット上の参照できる場所からしか情報を引いて来ないようにしているから、その時々でぜんぜん出所は違います。あなたはたった一人の研究者しか、存在を認めていない信奉者のように見えるので「具体的に誰ですか」と質問することは意味がありますよね。私も同じだなどと勘違いしているということは、私が書いた記事をよく読んでいないということですね。あなたが私の記事を、見苦しくて初心者には読みづらい、カタカナヲシテ入り混じり文に改竄したとき、「ネット検索でヒットしなくなるから困る」とノート上ではっきり指摘したのを覚えていますか。何故だかあなたは今でもその理由の半分が理解できていないのかもしれないけど、文中に配置したキーワードを変えてしまうと、元記事をネット検索でトレース出来なくなったら記事としてアウトだから、迷惑行為はやめてくれという意味もあったのです。自分で元記事をトレース出来ない状態に改竄しておいて、「誰もトレース出来ない」と攻撃するのは卑怯者の悪党がやる悪質なクレーム捏造行為になるのではありませんか。普通は、迷惑だから記事を変に書き換えないでとお願いされたら、元に戻すと思います。戻さなければ、自分の好き勝手に記事を損なってもいいと思っていると、解釈されても文句は言えないと思います。「筈」という言葉に固執していろいろ書きたてていますが、「検索すれば楽に探し出せる筈」という言葉の意味は、「参考資料のリンク先のサイトから容易に検索可能な筈だったのに、記事を改竄されて台無しにされたおかげで、辿るのが困難になったケースもある」という、状況に沿った意味が含まれているのです。自分で人が書いた記事を荒らす改竄行為をやって、口実を作っておいて、人に向かって「粗雑」と言い放てば、ただの悪党にしか見えないと思うけど、記事を荒らして改竄してバッシングの口実を自分で作っておいて攻撃を仕掛けて迷惑をかけているように見える、現在の自分の言動をどうこの場で申し開きしようと考えているのか、教えて頂けませんか。私とこのように議論しても、あなたがますます不利な展開になるだけのようです。悪いことをいろいろ重ねていれば、そうなっても仕方がないと思いますよ。私との議論であなたが優位に立つことは、状況的に不可能と悟って、いい加減諦めましょう。--203.168.92.153 2007年1月31日 (水) 20:24 (UTC)[返信]

中立的立場から大きく逸脱する記事の改竄と、焚書行為扇動問題[編集]

もう一度書きますが、これだけノートに嘘を書き並べる、稚拙な歪んだ認識に基づく個人攻撃を平然と行い、コンセンサスが得られてないにもかかわらず、得られたと嘘を書いてまで、多くの人が興味深く読んで楽しめる内容を持っていた記事を、ただの無機質な死んだ情報が箇条書きに並べられた、まったく読み応えのない、一般の人には書いてある内容の意味がよく拾えない記事へと作り変え、普及の妨げになる迷惑行為をしたことが問題視されれば、これだけ幼稚な嘘を書き並べた者を、今まで教育してきた人物達にも、残念ながら、責任があると考える人が大半でしょう。嘘を書き殴ることは恥ずかしいことです。人の悪口を故意に書きたてることも、恥ずかしいことです。そして、そのことがホツマツタヱの研究者のコミュニティーに知れ渡り、今までこの者を教育してきた人々にまで、迷惑が及ぶようなことになれば、目も当てられません。うまやどを名乗る者は、これだけの嘘を並べたてたうえで記事を改悪し、ホツマツタヱの普及を妨げる行為を働いたことに対して、恥を知り行動を改めるべきです。これだけ嘘を作文して並べ立てる人物がいるのは、捏造されたと言われているホツマツタヱという文献の書としての精神そのものに問題性があるからで、その歪んだ心が表れたせいだろうと、多くの歴史学者達は誤解するかもしれません。うまやどを名乗る者は、「「ホツマツタヱ」に対する敬意と感謝」と書いていますが、この場に嘘を次々と書き込むことで、貶めているのはこの者自身なのだと正しく認識すべきです。 ホツマツタヱの研究者のコミュニティに対する、この種の悪影響などを考えもせずに、これまで私が叱ってきたことを軽視して、嘘出鱈目をこのノートに書きすぎていると感じます。二度と嘘の悪口を書く非行を行わない、周囲の人間に迷惑をかけないと誓約しない限り、うまやどを名乗る者に、この場への書き込みを許可すべきではないと考えます。歪んだ認識は心の汚れから生れてくることを、もう一度真剣に見つめ直して、この者が至らぬ言動と迷惑行為を正しく理解し、謝罪すべき点は謝罪し、反省すべき点は反省して、歪んだ言動を生み出すおごり高ぶって捻じ曲がった心を戒めて、二度と過ちを繰り返さない方向に改めるように仕向ける必要があるのではないかと思います。

否定派が気が付かないうちに、肯定派に有利な記事だけが選別されて、地固めされる状況になっているのは、好ましいことではないと感じますが、さらに、問題性がある状況へと記事が改竄されているようです。肯定派のなかでも、特定の研究者の意に沿う研究だけを選別して、他を退ける、公平性を欠いた記事へと改竄されている問題点を、ウィキペディアの編集者として、この場で指摘しないわけには行きません。学問的な検証に耐える耐えないという、嘘で固めた話を強調して見せ、私を悪しざまに罵って吊るし上げるバッシングを行うことで、巧みに視線を逸らしてカモフラージュを行いながら、ある特定の研究者の意にだけ沿うように、記事を故意に作り変えているように見えます。

これは、参考文献の項目を見れば明らかでしょう。和仁估安聡本を除くと、ある研究者とその師と思われるある研究者の本だけが何冊も選ばれていて、他の方の文献は見当たりません。鳥居礼氏の書いた本は、「その他の学問的な検証が不十分な関連資料」の項目に移動されています。ホツマツタヱの研究者の世界には、いまだ統一された学会などは存在していないようです。また、歴史学会などは、諸事情から明確な答えを出せる状況にないため、誰が公平な客観的視点から、鳥居礼氏の書いた本の学問的な検証が不十分だと判断する、レッテルを貼ることが出来るのか、疑問の余地があります。「学問的な検証が不十分な関連資料」という記事の出所を明らかにする必要があると感じます。記事のほうに、「この項目に掲載する情報の質」という項目がありますが、このような処置を取る根拠はノートにあるとなっています。ノートの内容は一方的に勝手に自分で作った歪みまくっている判断基準と読めますから、自分で勝手に「その他の学問的な検証が不十分な関連資料」と判断して記事を書いていることになり「独自調査」以外のなにものでもないようです。この場に執拗に嘘を書き並べている人間が行った記事の大幅な改竄を、適正なものと信じるべきではないと思います。和歌の心である言霊思想を否定し、和歌の五七調のリズムすら必要のない情報として切り捨てているのですから、うまやどを名乗る者の判断力に任せていたら、古代和歌の集積物であるホツマツタヱは、とんでもない無理解な、魂が抜けた扱いをされてしまうことになりかねません。すでに、私が書いた、ホツマツタヱ愛好者を増やせる生きた記事を、勝手に死んだ記事に改竄する、骨抜きをやってしまっています。カタカナ表記にすれば死んだ記事になると、繰り返し注意しても、私の話が正しく理解できなかったようで、人の言葉を侮って議論に応じず聞き入れなかったぐらい、良識を備えていないように見えるのですから。この者に、適正に記事を編集する判断力があるとは、とうてい思えません。

また、リンクサイト集も、ある研究者の意に沿うほんのわずかなものだけが、評価に値するとして残され、他の多くの研究者のサイトを「学問的な検証が不十分な関連資料」へと追いやって排斥する形になっています。私は、こうなることを予見して、先日警鐘を鳴らしておきました。「特定のサイトの記事などを妄想呼ばわりする誹謗中傷行為などの横行によって、さらに今後無用な混乱を招くトラブルへと発展していく危険性があることは、想像に難くありません」と。こう書いて懸念を示した状況になってきつつあると感じます。実質的に、「学問的な検証が不十分な関連資料」という悪口のレッテルを貼り付けられる形になっている、サイトを管理する研究者達が、内心穏やかな筈はありません。ウィキペディアは、身勝手な振る舞いを繰り返し、執拗に嘘の悪口を流布する非行を行う問題性を示している人物の、問題行動を増長させて、多くの人々に迷惑が及ぶ状況を手助けする場などではありません。もちろん、このようなことすれば、大勢の研究者から迷惑がられ、嫌われることになりかねません。事情をよく知るホツマツタヱの研究者は、何が原因でこのような偏った、多くの研究者が蔑ろにされる非行が、うまやどを名乗る者の手で平然と行われているのか、すでに漠然とでもお分かりのことと思います。

私の個人的な事情を書くと、ホツマツタヱは偽書という話を、去年の暮れまで真に受けていたため、あまり本気で触れたことはありませんでした。間接的に古代和歌を教えてもらって、琴の演奏に合わせて歌ったりしていたので、断片的には知っていましたが、本気で読む気にはなれなかったのです。去年の12月に始めて写本を手にしました。そのきっかけは、あるホツマツタヱの研究者のサイトを、どう扱うかという話が、内輪で浮上したからです。ある私立の学園の歴史関係の項目の一つとして、ホツマツタヱのサイトにリンクを張ろうとした方がいたのですが、そのサイトの記事を読み進んでいるうちに、このサイトは検討が必要だと気が付いて、特別有害サイトの指定を設定するかどうかという審議に入ったのです。具体的には、特定の条件にあてはまる研究書や文献に対して、まるでレッテルを貼るかのように、偽書、読むな、誤訳、破棄しろと、ネット上で「指令」を出して、実質的な焚書行為へと扇動し、その非行をあたかも推奨しているかのように読める情報を発信しているというものでした。教育上の影響を考えると、成長期のまだ十分な判断力が備わっていない学園の子達が、このようなサイトを閲覧して精神汚染される可能性を考慮に入れた措置が必要なのか、それとも放置しておいてもかまわない程度なのか、ということです。通常の特別な有害サイトの判定は、思想的に著しく偏っているサイトだったり、カルト教団の宣伝になっていて、成長期の子達が触れるのに適当でないと考えられる場合に、独自に設定すべきと判断されることがあります。今回のようなケースは珍しいと言えます。よく調べずに前例を作るべきでないと私達は判断して、調査を開始したわけです。そうして、ホツマツタヱを調べてみると、記紀に比べて倍以上の情報密度を持ち、より正確な記述がなされているため、どうやら偽書ではないと判断できる状況になったのです。そこで私は、ウィキペディアに初心者向けの記事を書いて、紹介しておいてあげれば、そのうち目が出て育つだろう、ホツマツタヱの世界観や哲学は素晴らしいものがあるから、良い精神的影響が期待できると、中学生や高校生でも読めるように、易しく書いて、若手の研究者が増える道筋を作ってみたのです。

ところが、突然事実に反する嘘をノートに繰り返し執拗に書き殴る、尋常でないと思われるうまやどを名乗る人物が登場して、私が書いた記事をことごとく死んだものへと改竄し、ついには消し去ってしまっただけでなく、特定の研究者の意に沿う研究だけが取り上げられて、他のものが全て排斥されるような、著しく偏った記事へと変質してきているようです。一文字も見る価値がないもの、誤訳、インチキ、偽書であるから破棄しろと、他の研究者が書いた文献について悪しざまに書き立て、実質的な焚書行為をネット上で扇動して、排斥運動を展開していると思われる問題行動が、そのままウィキペディアの記事の編集にまで反映されて、中立性を大きく欠いた不自然な記事編集となって現れているように読めます。『秀真伝』と漢字表記された文献などが、バッシングのターゲットにされているようです。残念ながら、ホツマツタヱの研究者のコミュニティには、「漢臭」と罵ったり「誤訳族」という、特定の研究者に対してレッテルを貼って誹謗中傷するための特別な造語が存在しているようです。この言葉だけなら、教育的指導目的で使われている可能性もあり、さほど問題性は感じませんが、これに焚書行為扇動問題が絡んでいるのならば、穏やかな話とは受け取れなくなってきます。「学問的な検証が不十分な関連資料」と蔑ろに扱われているもののなかには、鳥居 礼著『ホツマの宇宙観』 新泉社といった、ホツマツタヱの世界観や哲学を解説した、貴重な考え方が載っている本が含まれています。哲学をきちんと学んだことがない人にとっては、あるいはゴミのように見えることがある書籍なのかもしれませんが、私には、ホツマツタヱの精神を解説している立派な本に見えます。ゴミとして破棄する焚書扱いが妥当とは思いません。秀真伝の解説が、漢字で書かれているから駄目だなどと、身勝手な自分流の判断基準のルールを作って、レッテルを貼って他人の研究を排斥していくような態度は、慎むべきだと思っています。もちろん、そのような独りよがりの偏った視点から記事を編集すれば、ウィキペディアに書く記事の公平性という面から見て、明らかなルール違反です。書き下しタイプの文とは異なり、意訳した文章の表記の仕方は、基本的に書き手の自由ですから。

西洋では、相手の学説が自説と異なっていても、一方的にその存在を抹殺するような認識を、広く流布することはあまりしないものです。もちろんそれは、論理的に相手の間違いを指摘すれば、それで十分と考えているからでしょう。ウィキペディアの編集方針として、一方の側に偏ることなく公平であることが重視されていますが、うまやどを名乗る者は、編集ノート上で殊更に特定の個人を嘘を書き並べて攻撃する行為によって、他の編集者の目を曇らせ、このような致命的とも言える偏った編集に、さも正当性があるかのような錯覚を与える、トリックを用いて大勢の人を騙す、悪質な暴挙を働いていると、現在の状況から総合的に判断します。

どうも日本人は、自分勝手なルールを作ってはレッテルを貼り付けて、容赦なく人を攻撃して、特定の研究分野の世界から、自分の意に沿わないに者達を次々と消し去るような、非常に好ましくない問題性のある言動に走って、他人に著しい迷惑をかけることが多いと感じます。誰からも見捨てられたように扱われていた説が、思わぬ発見から通説を跳ね除けて敗者復活するようなことが、歴史を研究する世界でも希にあるようなので、どのような場合であっても、焚書に類する行為を扇動・推奨することは厳禁だと思います。もちろんそのような行為は、ウィキペディアで最も嫌われ、避けなくてはいけないとされている、禁止事項の一つです。それを、特定の人物を悪役に仕立て上げてバッシングする、稚拙なトリックを用いることで、ウィキペディアの編集に関わる多くの人々を実質的に騙す形で、無理やり押し通す暴挙に出たうまやどを名乗る者の、今回の所業をどのように処置すべきか、すでに答えは定まっているのではないかと思います。もちろん、ウィキペディアは、ホツマツタヱの特定の研究者個人の私物や、特定の研究グループの所有物などではありえません。

長年迫害を受けた人は、歪んだ認識に基づく身勝手な理由を付けて、他人を迫害する行動に走るようになることがあります。これはキリスト教が弾圧の長い歴史の後で、魔女を迫害する異常行動に走った場合などが典型的な例でしょう。実質的な焚書行為へと扇動して、多くの研究者達の研究成果を、社会的に迫害しているようにも見える動きは、ホツマツタヱが長年偽書として弾圧されてきた結果生じたものと考えれば、説明が付く社会現象のようにも感じられます。このノートに、特定の人物にターゲットを絞って、嘘の悪口を執拗に書き立てる迷惑行為を繰り返す人物が現れて、間違ったことを執拗に書き立てる非行を、咎められて叱られているにもかかわらず、まるで反省した様子もなく平然と繰り返し続けるバッシング行動を見て、尋常でないものを感じ取った読者は多いと思います。まるで魔女裁判になっている、と指摘する方もいます。十分問題点を観察出来たので、ある研究者の方のサイトを特別有害サイトに指定をするかどうかの判断材料は得られたと考えています。調査結果を検討して判断するのは私ではありませんが、良い結果は現状では期待できないと思います。判断の結果が他の教育機関などにも反映していった場合には、現在でも高齢化の傾向を示していると思われる、ホツマツタヱの本格的な研究者が、将来まったく育たなくなる事態に至る可能性もあると思います。もちろん、多くの人にレッテルを貼って切り捨てることで、自分達の運命を閉ざしていくのも、また、今回のことを真摯に受け止めて反省して、志を新たに人々に教育的指導を施すことで未来を切り拓くのも、本人達の心がけしだいでしょう。

これは最終的には良識の問題になってくると思われるので、こちらで考えて決めることはほとんどありません。私に対して執拗に行われた虚偽の事実を書きたてる非行の処置については、一定の範囲内で、すでに選択肢が定まっていると思います。残された問題は、実質的に焚書行為が反映した形になっているに等しいと思われる、一方的に偏った視点から記事が大きく傷付けられて、特定の研究者以外の研究が、うまやどを名乗る者の身勝手なレッテル貼りによって排斥されていると思われる、異様な記事の現状を、どうするのかという点です。私は今回のケースは度が過ぎていると感じるので、悪質な荒らし行為に該当すると判断して、対処する必要があると考えます。うまやどを名乗る者は、これまでのやり取りの結果を見る限り、すぐにそれと分かる姑息な嘘を並べ立てたり、読み手の認識を歪める騙しのテクニック繰り返してきていると読めるため、まともな議論を行える人物にはとうてい見えません。--203.168.92.153 2007年1月27日 (土) 21:19 (UTC)[返信]