プロジェクト‐ノート:日本史

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。


摂家のカテゴリについて[編集]

摂家について、Category:摂関家(2008年9月27日作成)とCategory:摂家(2023年3月3日作成)の2つの中心カテゴリが作成され、どちらかに統合する必要があると思われます。ノート:摂家#カテゴリの重複についてにて、皆様の皆様のご意見を伺えれば幸いです。--Ihimutefu会話2023年3月4日 (土) 13:56 (UTC)[返信]

上記のカテゴリ重複の件は、前者の存続と後者の削除ということで解決したことを報告いたします。--Ihimutefu会話2023年3月24日 (金) 15:43 (UTC)[返信]

荘園の地方別カテゴリについて[編集]

荘園の中心カテゴリのCategory:日本の荘園の下位カテゴリには地方ごとにまとめた中間カテゴリがあり、それらに旧国別の荘園カテゴリが収まっていますが、近代以降の都道府県を前提にしたこれらの地方区分を、中世末期に終焉した荘園にも適用するのは違和感を覚えます。ノート:荘園 (日本)#地方別カテゴリについてにて、皆様のご意見を伺えれば幸いです。--Ihimutefu会話2023年5月25日 (木) 16:10 (UTC)[返信]

上記の件について、現代の地方区分と都道府県別、五畿七道と旧国別の2系統でのカテゴリ整備を行ったことを報告いたします。--Ihimutefu会話2023年6月24日 (土) 09:28 (UTC)[返信]

継体天皇の項について[編集]

初めまして、物部天照比古と申します。 継体天皇の項で、利用者:大伴旅人会話 / 投稿記録さんが、侵入者ウィリアムさんや自分の貼ったテンプレを消しています。 侵入者ウィリアムさんのご指摘の通り、自分の百田尚樹氏の記事、大伴旅人さんの竹田恒泰氏の記事も歴史学者によるものではありませんので、信頼性に劣ってる記事だと思ってます。なので消されても仕方ないと考えてます。大伴旅人さんの書いた南原次男氏(元自衛官、会社経営) 永井津記夫氏(誰なのか?正体不明)の記事も、歴史学者ではなく、信頼性に問題有ると思っていたので、自分がテンプレ貼りました。 大伴旅人さんは竹田氏のテンプレだけ消して、百田氏はテンプレ貼ったまま、自分の貼った南原次男氏のテンプレも消しています。 自分としては、南原次男氏、永井津記夫氏の記事も、歴史学者ではなく、信頼性が低いと思いますが、如何でしょうか? お忙しいところすいませんが、もし宜しければ、継体天皇の記事において、どなたか?こういった問題の解決に詳しい方、御指導御鞭撻のほど、お願い頂けないでしょうか。Wikipedia:コメント依頼に提出してます。宜しくお願いします。--物部天照比古会話2023年10月5日 (木) 11:32 (UTC)[返信]

あまり詳しくはないんですが、素人なりに一言。
端的に言いますと、この項目長すぎてすごく読みづらいですね。この機会に記紀の記載以外はよほど有力な説以外全消しで良いんじゃないでしょうか。
歴史学者ではない方は全て消していいと思いますが、強いて残すとすれば知名度的に百田・竹田両氏を末尾に異説として載せるくらいですかね。
というより、歴史学者の説も大同小異のものをこの項目列挙しすぎですね。
  • 皇胤否定説と、皇胤肯定説を箇条書きでまとめて、皇胤否定説に従うもの何の某…という形でまとめちゃって良いんじゃないでしょうか。
皇胤否定説以降なんかすごい説が出てるわけでもないと思うんですよ、皇胤肯定説もそれに対する反論ですし。なんであれば「皇胤否定説」の大筋だけ書いて、それに対してかようかようの反論がある、で良いような気がしますね。違ってたらごめんなさい。--常陸のクマさん会話2023年10月13日 (金) 14:15 (UTC)[返信]
ご指摘の通り、長々とした引用はかえって読みづらくしているので丸写しのような長文の引用は是正したいと考えます。
継体天皇ページの「議論の経緯」に述べているようにこの継体天皇の出自の議論に関しては皇胤否定説=新王朝説が1950年代に出されてムーブメントを形成しましたが、1960年代以降はそれに対する反論が出されて新王朝説は下火になり、それ以降は様々な見解が出されているのが現状でどちらが正しいというものはない議論だと思います。
したがってみやみに記事を長々と引用したり、学説の発表年代を偽って最新のものに見せるかのような編集をして自説を有利に見せるかのような編集はおかしいと思っています。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 11:10 (UTC)[返信]
そもそも、議論の経緯は、継体が傍系王族派である大橋氏のみの引用から成り立っており、中立的ではありません。下火云々は、単なる感想でしょう。南原氏、竹田氏、永井津記夫氏と言った、歴史学者ではない者を長く引用してるのは良いのですか?最初に永井津記夫氏というよく分からない人物を書きだしたのは、大伴さんです。--物部天照比古会話2023年10月20日 (金) 03:07 (UTC)[返信]
この議論の経緯については水谷氏の書籍等でも確認できます。おかしいと思われるならばこの継体天皇の議論の経緯について論じた別の方の記事を引用して修正いただければいいと思います。もともとは出自を巡る議論の中での「説」ですから「学説」に限定されるものではないと認識しておりましたが、間違っていたでしょうか?。
学説に限定するというのなら、私も編集を改めますが、その場合は学説としての一般的な扱い通りに学説が発表された年次は初版年を基準とすることや、本来その学者が意図していないことを記事の切り抜きによって、自説にもってくるような引用資料の取り扱い方も訂正していただきたく思います。
また私の方としましては、すでに竹田恒泰氏の記事は削除し、南原氏の記事も一部を削除し、今後も記事の縮小を検討しております。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 02:20 (UTC)[返信]
議論の経緯で使用している著者に問題ありませんか?
大橋氏、水谷氏は、二人共、継体傍系派の人間ですよね?
大橋信弥『継体天皇と即位の謎』新装版 吉川弘文館の引用も、最初は2020年って書いてましたね?
それで自分が指摘したら、後から2007年を追加してますが、2020年はそのままに書いてます。
なんで佐藤長門教授の書籍の2022年の出版年だけを指摘するのでしょうか?
自分も提案があれば、同意したいと思ってます。
継体が傍系王族か?血縁の無い王族なのか?永久に答えは出ないはずなので、
両論併記するしかないです。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:26 (UTC)[返信]
繰り返しになりますが、大橋氏の書籍はタイトルにあきらかに「新装版」とあり、本人も「改定、修正を加えた」(5頁)とありましたので2020年の書籍として取り扱わせていただきました。佐藤長門氏の再版の書籍には初版と異なる内容である文言が記されているのでしょうか?。また指摘に対して訂正したことに何の問題がるのでしょうか?。繰り返しになりますが、逆に指摘されても訂正しない根拠を示してくださいという旨を繰り返し質問させていただいてります。--大伴旅人会話2023年10月29日 (日) 08:04 (UTC)[返信]
返信遅れて、すいません。
佐藤長門教授の書籍については、2009年で構いません。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 02:04 (UTC)[返信]
了解しました。ご理解ありがとうございます。--大伴旅人会話2023年11月6日 (月) 06:56 (UTC)[返信]
  • この件についてはノート:継体天皇#百田尚樹、日本国紀、竹田恒泰、天皇の国史にて議論しているところでした。議論場所があっちこっちに散らばるのはよろしくないので、一箇所で議論しましょう。場所はどちらでもよいのですが、ここのほうが分野の知識・関心のある利用者の目にとまりやすいかもしれないですね。--柒月例祭会話2023年10月13日 (金) 14:34 (UTC)[返信]
    どうもこんにちは。そちらのノートも拝見しました。
    よろしくお願いいたします。
    前にも言いましたが、私としては歴史学者の各説ですら現状煩雑過ぎるので、歴史学もしくは国文学のアカデミズム以外の方は全部一律に消すで良いと思います。竹田恒泰さんはご専門が憲法学者で旧皇族、という方向で謂うと…うーん、これはアカデミズムの中の方ではあるのですが別の分野ですよねえ。これは皆さんの意見次第でしょうかね。
    中国史の項目だと正史の列伝の説、正史の注釈などの異説、野史の説、演義小説の説、みたいな順番での掲載が確かあったと思います。周瑜の項目なんかがそうですね。これを機械的にこの項目に当てはめると、
    • 正史(記紀)の説
    • 正史の異説1(水野祐氏・直木孝次郎氏らの継体新王朝説)
    • 正史の異説2 継体新王朝説に対する批判(水谷千秋氏ら)
    • その他(野史、演義小説の説)
    ということになります。正直、水野氏、直木孝次郎氏と水谷千秋氏以外に色々載せてもなぁというのはちょっと暴論ですかね…
    それから野史小説の類ですが、なければないでもいいでしょう。見たところこの分野で三国志演義レベルに一般に認知されている小説ってあるんでしょうか。無いと思います。権威ある文学賞を受賞している作家というと直木賞作家の黒岩重吾レベルかなと思いますが、黒岩に『北風に起つ―継体戦争と蘇我稲目』(ISBN:978-4122018518)という小説が有るようです。これアマゾンの書評を見ると評判も良さそうです。それの粗筋を書いて他の小説の方はそれの後ろもしくは不掲載で良いんじゃないかなと思います。文壇で著名とかでもないような本を乗せる意義ってどこにあるのでしょうね。これは私もわからないのでご意見拝聴ですね。
    昨日は知名度の高い一般の方も載せても良いんじゃないかと思いますが、じゃあ知名度って何?という話になります。
    グーグルの検索のインプレッション数(検索でヒットする数)で上位2つは残す、みたいな合意形成も出来るかもしれませんがそれはそれで余り納得していただけなさそうです。だとしたら一律切っちゃうか、強いて言えば有名な小説の話を載せるかでしょうか。そうしないと史実と混同されるので。--常陸のクマさん会話) 2023年10月13日 (金) 23:29 (UTC)--常陸のクマさん会話2023年10月13日 (金) 23:31 (UTC)[返信]
    御意見有難う御座います。百田尚樹氏、竹田恒泰氏はもちろん、南原次男氏(歴史学者ではなく、旧帝国軍人、自衛官、会社経営者)も明らかに学説でもないし、信用性も無いと思いますが、如何でしょうか?あと水野祐氏・直木孝次郎氏の二人で継体新王朝説とされていますが、例えば國學院大學の佐藤長門教授の『日本古代王権の構造と展開』では、五世紀代のヤマト王権は、血縁による王権継承はなされておらず、豪族の合議制により決定されており、継体も合議制で選ばれた。継体は仁徳系統とは別系統の人物である。つまり新王朝説を採っているので、直木孝次郎氏で終わらせるのは良くないと思います。読者から、新王朝説は古いと誤解される可能性があります。むしろ、継体以前の五世紀前のヤマト王権は血縁継承は成されていなかったという説の方が有力だと思います。--物部天照比古会話2023年10月14日 (土) 23:35 (UTC)[返信]
    物部さん、こんばんは。
    >明らかに学説でもないし、信用性も無いと思いますが、如何でしょうか?
    そうですね、私個人的にはこの方々の説の信用性を判断できないのですが、ウィキペディアのルール(WP:RS)からしたら学術論文・専門書のないお三方は残念ながら除外でしょうね。永井津記夫氏は古代日本語がご専門の言語学者ですが、古代史関係は一般書しかも自費出版なので厳しいですね。他の方がよろしければ私は全て削除で良いかと思いますね。
    永井津記夫氏の論文は『臣(おみ)と連(むらじ)の語源と用字--辛亥銘の鉄剣銘文の「吾」と「臣」の関係』(「語源研究」2003)という論文があるようです。[1]https://cir.nii.ac.jp/crid/1521980705618262400
    専門書では『万葉難訓歌の解読―「新用字法」の提唱を中心に』和泉選書、和泉書院1992があります。ただ、継体天皇関係の本はすべて一般書、自費出版のようです。
    >継体は仁徳系統とは別系統の人物である。つまり新王朝説を採っているので、直木孝次郎氏で終わらせるのは良くないと思います。読者から、新王朝説は古いと誤解される可能性があります。
    これは失礼しました。お説の通りで問題ございません。佐藤長門教授の『日本古代王権の構造と展開』、素直に存じませんでした。2009年刊行ですね。--常陸のクマさん会話2023年10月15日 (日) 11:59 (UTC)[返信]
    返信有難う御座います。
    佐藤長門教授の『日本古代王権の構造と展開』は2022年10月にも出版されてます。
    2009年版と2022年版との比較は行なってないので、内容が全く同じなのか?分からないです。
    2022年出版の書籍では、「人物で学ぶ日本古代史 1 古墳・飛鳥時代編 吉川弘文館( 2022年8月出版)」古市晃教授(神戸大学教授)が王統譜と伝承の項で、「『宋書』は讃、珍、済、興、武の いわゆる倭の五王の血縁関係について、讃と珍を兄弟、済と興と武を親子とするが、珍と済の間に血縁関係を記さない。 これを『宋書』による事実とする説と、誤脱とする説があるが、『宋書』は他の王朝の血縁関係には注意を払っており、珍と済に血縁関係が無いのは事実とみるべきである。 (略) つまり『宋書』と「記紀」の系譜の対応関係に注目するならば、済すなわち允恭以降とそれ以前の倭王とでは血縁関係がなく、倭王を輩出する王族集団は少なくとも複数存在したことになるのである。P39」
    つまり、倭の五王が朝貢した五世紀には、倭王は血縁関係で継承されておらず、実力と素質などで選ばれていたとしています。
    2021年の書籍ですが、「持統天皇と男系継承の起源 (ちくま新書)2021年5月出版 武澤秀一」も五世紀以前は王統が一つではなく、王統が一つになったのは、継体の皇子の欽明天皇以降としています。P166-167
    なので、継体以前は、複数の王族集団が居て、王統が統一されていなかったというのは、有力な説だと思います。--物部天照比古会話2023年10月16日 (月) 16:55 (UTC)[返信]
    物部さん、どのように言われても佐藤長門教授は『日本古代王権の構造と展開』の2009年刊行の説ですよ。また新たに引用されている武澤氏やご自身で書かれている「複数の王族集団がいて」の説は血縁関係を否定するものにはなりえませんよ。
    またここはご自身の見解や説を披露する場所ではないと思います。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 10:29 (UTC)[返信]
    王族同士が血縁関係がある証拠も全く提示されていませんが。
    古市晃教授「人物で学ぶ日本古代史 1 古墳・飛鳥時代編 吉川弘文館( 2022年8月出版)」
    「珍と済に血縁関係が無いのは事実とみるべきである。 」
    倭王同士に血縁あったか怪しいのは事実であり、証明出来てないのも事実です。
    武澤氏「一つの王統が世襲によって、保たれていたのは考えにくい。」P165としています。本当に武澤氏の書籍を所持していますか?--物部天照比古会話2023年10月19日 (木) 22:08 (UTC)[返信]
    武澤氏の書籍は確認していませんでした。失礼しました。
    しかし、佐藤長門氏については学説として扱うならば初版年を基準とするのが一般的だと思います。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 02:25 (UTC)[返信]
    いえいえ、お気になさらず。
    佐藤長門教授は確かに直すべきだと思ってます。
    大橋信弥『継体天皇と即位の謎』新装版 吉川弘文館 [2007‐12‐20] 2020‐3‐1
    の表記は良いのですか?
    佐藤長門氏が駄目なら、これも駄目になると思いますが。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:29 (UTC)[返信]
    日本社会学会が提示している初版の出版年を明示する表記法に基づいています。繰り返しになりますが、ご指摘の大橋氏の書籍は内容に改定訂正を加えた「新装版」ですので以上の表記法にさせていただきました。逆に佐藤長門氏の再版を最新の学説として扱っている根拠を根拠となる該当箇所とともに示してください。--大伴旅人会話2023年10月29日 (日) 09:15 (UTC)[返信]
    横から失礼いたします。
    すでに「継体天皇」のノート頁で指摘している通り、物部天照比古氏が佐藤長門教授の『日本古代王権の構造と展開』2009年出版の学説を再版時の2022年10月を以て最新の学説であるかのような扱いを本ページ及び「倭の五王」頁でされているのはおかしいのではないかと指摘させていただいておりますが、御了解いただけていない状況です。
    またこちらもノート議論で指摘させていただいておりますが、物部氏は水谷千秋氏がそのように主張していないにも関わらず彼の説を部分的に切り取って「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」に入れておられますが、こういった編集は記事の信用性を低下させるだけでなく「独自研究」に該当するものではないでしょうか。
    また学説以外の説の書き込みははじめに物部氏が百田氏の説を書きこんだことが始まりだと弁解させていただきたく思います。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 10:22 (UTC)[返信]
    >継体は仁徳系統とは別系統の人物である。つまり新王朝説を採っているので、直木孝次郎氏で終わらせるのは良くないと思います。読者から、新王朝説は古いと誤解される可能性があります。
    この点で議論になっているのですが、ご指摘のとおり佐藤長門氏の『日本古代王権の構造と展開』は2009年の学説です。ただ、物部天照比古氏は再版した時の2022年の学説だというような扱いをされているので、それは公平中立的な編集ではないのではないかと指摘させていただいております。また水谷氏は継体天皇の出自について記紀の記述をおおむね認めているにも関わらず本ページにおいては「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」に入れてあるのは中立的な編集ではないのではないかと感じております。また、実際には本問題の継体天皇の出自に関する議論で佐藤長門氏の名前や研究が他の第三者の研究家にとりあげらているのはあまり見たことがありません。
    佐藤長門氏の説を否定する訳ではありませんが、最近では新王朝説をとる人が少ないのは事実で、それ以外の多彩な学説や見解が出されているのが現状ですので、多様な学説が載せられていることの方が本議論における現状を表しているのではないかと思います。ただ、それぞれの学説を冗長にならないようもう少し簡潔に載せるような編集にした方がいいと私は思っています。--大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 11:35 (UTC)[返信]
    最初に、大橋信弥氏の『継体天皇と即位の謎』を2020年出版だと書いていたのは、事実でしょう。
    >佐藤長門氏の説を否定する訳ではありませんが、最近では新王朝説をとる人が少ないのは事実で、それ以外の多彩な学説や見解が出されているのが現状ですので、
    これは間違いでしょう。
    血縁継承が行われるようになったのは、継体欽明朝以降だというのは、現在の有力な説です。
    水谷千秋氏を血縁関係無い方に入れたのは、もともとは貴方が和田萃の説を新王朝説側に立っているが、としながら、記紀の通りである説に入れたので、水谷氏をこっちに入れたのです。水谷氏のは後で修正します。それと応神の実在性や、上宮記の信憑性の論点についても、貴方は根拠を提示出来なかったですが。--物部天照比古会話2023年10月19日 (木) 21:53 (UTC)[返信]
    間違いだと言われるならば、その証拠となる文献資料を出すべきではないでしょうか?。大橋氏の「継体天皇と即位の謎」についてははっきりとタイトルに「新装版」とし、「内容に改定、訂正を加えた」(5頁)と明記してあるので、出版年で提示しましたが、その後、出版年と学説が問題になったので訂正を入れました。私の方が訂正した以上、あなたも訂正を検討していただけないでしょうか?。
    またご指摘の和田萃氏の記事についても既に外してあるのでご確認ください。--大伴旅人会話2023年10月24日 (火) 02:33 (UTC)[返信]
    八幡和郎氏は出すと思いました。
    いつ出してくるだろうって思ってました。
    八幡和郎は、百田氏や竹田氏と同様で、歴史学者ではないので、明らかにマズイと思いますよ。
    そのことを知っていて、出さないのか?と思ってたくらいです。
    八幡氏の起用は問題だと思います。
    自分が間違いではないか?と指摘したのは
    >最近では新王朝説をとる人が少ないのは事実
    の部分です。
    日本史の論点-邪馬台国から象徴天皇制まで (中公新書) 倉本一宏2018/8/17
    は 複数の王族グループが居て、大王が血縁関係で継承されるのは、欽明天皇以降からだとしている。
    調べてても、結構な数の学者が、大王家の血縁継承は六世紀の欽明天皇以降って説は多いと思いますが。
    むしろ、水谷氏みたいな傍系王族派は少ないのでは?
    大橋氏も、山尾幸久教授の説であるヤマト王権側からの擁立説を支持してたでしょう。
    百田氏の記事は消します。
    佐藤長門氏の年度の修正は
    大橋信弥『継体天皇と即位の謎』の2020年を2007年に直したら、修正しますよ。--物部天照比古会話2023年10月24日 (火) 12:54 (UTC)[返信]
    大橋氏の書籍の件の扱いについては私の方は説明させていただきましたので
    訂正する前にあなたが佐藤長門氏の書籍を最新の学説として扱っている根拠を説明していただきたいと思います。--大伴旅人会話2023年10月29日 (日) 09:27 (UTC)[返信]
    「水谷氏みたいな傍系王族派」としながらもなお水谷氏やその説を「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」に入れている根拠は何でしょうか?。記事の中立性に反していないでしょうか?。--大伴旅人会話2023年10月29日 (日) 10:05 (UTC)[返信]
    歴史学者の説以外は載せないというのならそのような方針でもかまいません。はじめに歴史学者以外の百田氏の説を書かれたのは物部氏のほうだと認識しておりますが、一般の方は興味ないかもしれませんが、南原氏の軍事の専門家による軍事的観点からの研究などはかえって斬新でおもしろいと思っていますので、継体天皇のノートページでSnap55さんがご提案くださった(「「信頼性検証 」について」の項 2023年10月5日 (木) 14:55)ように、
    「歴史学者による見解に以下のようなものがある。
    1. ・・・
    2. ・・・
    また、上記以外にも、作家などから以下の見解も提示されている。
    1. ・・・
    2. ・・・」
    というような編集に変更するというのではいかがでしょうか?
    --大伴旅人会話2023年10月18日 (水) 11:18 (UTC)[返信]
    コメント 横からすみません。既に議論の蓄積が大きいようなので不安ですが、コメントです。
    既に指摘があるように継体天皇の記事はまず整理を考えるべき状態だと思います。(§出自を巡る議論 以降の部分は特に)正直読んでいて何が説明されているのか理解するのが難しいです。最初の方でコメントにあるように、よほど有力なもの以外は全消しを基本に考えた方が良いのではないでしょうか。その意味では、作家の見解については相当の理由がない限り一切掲載しない方が良いと思います。軍事の専門家というのは一律削除すべきだとはならないかもしれないですが。
    資料については原則論として初出の年次で取り扱うものだと思います。学術書の論文引用でも、掲載紙とは別に初出年を掲載するのは一般的な慣習です(その上で、初出年次が新しいから最新の説だということにもならないとは思います)。記事で言及するにあたってはその学説が学界でどのような位置づけで取り扱われているかを確認することの方が重要だと思います。佐藤氏や古市氏の著作を読んだことはないのですが、物部天照比古さんが言われるように「新王朝」「倭王は血縁関係で継承されておらず、実力と素質などで選ばれていた」とする説だとしたら、個人的にはかなり「攻めた」説のように思われます。日本において世襲王権が成立したのが継体・欽明朝以降であるというのがほぼ共通認識になっているとは義江明子氏なども言及してはいますが、この議論は継体以降が「新王朝」であるとか、それ以前の倭王が血縁による結びつきを持っていなかったというような話ではないので、佐藤氏の説などに「新王朝説」という分類の仕方を適用することの妥当性にもやや疑問を感じます。--TEN会話2023年10月18日 (水) 16:28 (UTC)[返信]
    記事が見にくかったようで、申し訳ありません。
    一応、記事の分類としては、「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」
    に入れてます。
    つまり、厳密には新王朝説ではなく、そもそも血縁が重視されておらず、実力と素質などで合議制により選ばれていた説です。
    佐藤長門教授は、豪族らが自らの共同利害を体現する人物を合議で選出していた。としています。
    血縁が関係ないとする説なので、この中に新王朝説も入れてますが。『宋書』倭国伝の倭国王(倭の五王)、珍と済との間の続柄が記されていないことにより、倭王に血縁関係が無かった説は有力な説だと思いますよ。記紀はそもそも同時代史料ではありません(八世紀成立)、『宋書』倭国伝は極めて同時代に近い史料なので、信頼性が高いとされています。--物部天照比古会話2023年10月19日 (木) 22:34 (UTC)[返信]
    コメント 基礎的な方針というか方向性としては、世間一般の百科事典でにおける記述のバランスにあわせるのが、ひとつの「中立的な観点」的なバランス感・目安かと。(その百科事典自体に偏向があるかとかの検討は要するけども)
    で、てっとりばやくコトバンク[2]を眺めると11種ほどの情報源があります。コトバンクには「信頼できない情報源」が含まれることもあるのですが、今回は小学館・山川・平凡社・旺文社・ブリタニカ・講談社・朝日新聞が出版元であり、まあOKでしょう。(朝日だけは毛色が違うというかそこらへんは、まあ。)
    で、これらに書かれている内容は、数百~1500字程度のうち、
    • 記紀ではかくかくしかじか
    • 『上宮記』では…との説あり(小学館・小林敏男-黛弘道)
    • 記紀ではこうだが、「実は,前王統とは血縁関係がなく」「人格,資質により大王となった」云々「と考えられる」(朝日・平野卓治
    • (TENさんは「攻めた説」と表現なさっていますし、私も同感ですが)少なくとも、朝日を根拠としてこの説を記述するのは、まあ、「だめではない」かなという感じ。ただし他の情報源での取り扱いを考慮すると、この説を中心に据えることはできず、あくまで異説扱いとし、帰属化しながら書くべきかと。
    • 死後の状況についての異説がある(ブリタニカ)
    • 死後の状況に2王朝並立・内乱の可能性という主張がある(山川・平凡)
    基本的には、まずは記紀の記述を説明したうえで、「異説がある」というのにふれるのは妥当。その異説の文量は、文字数にすると180文字/650文字(30%弱)、28/325(10%弱)、75/350(20%程度)ぐらい(朝日は別)。Jawpの記事は文字総数がぜんぜん違うので、そのぶん詳述する形になること自体はありうると思いますけど、まあMAX3割程度まで。
    あとは「王朝交替論」(Jawp王朝交替説)という記事があり、「詳しくはそちらに」って感じですね。
    私も古市氏等については読んだことがないのでよく知りませんし、くわしくはわからない。
    一般論としては『○○学説史』のような俯瞰的な情報源をベースに、適切なバランスを定めたり、分野内での評価を書くのが理想形です。でもそうすると、この手の情報源はまあ10年20年は周回遅れになるので、「最新の研究」について言及することはできません。そこらへんを、ウィキペディアンで納得・合意できるかってとこでしょうね。
    こういう、世の中一般で議論があるようなテーマの場合は、我々ウィキペディアンが「この説が有力」とかって判断・記述するのは避けた方がいい(もめる)と思います。あくまで世間一般の標準的な情報源にしたがうのみ。上に書いたように、コトバンクレベルでは、「この説が有力」みたいな評価すら避けていて、(1)記紀、(2)異説がある、ぐらいに留めている、ってとこです。--柒月例祭会話2023年10月20日 (金) 06:58 (UTC)[返信]
    • 柒月例祭さん、私も同感です。記載の比率もそれでいいと思いますし、世間一般の情報源に従う方向で良いかと思います。
    • 物部さん、あなたの情熱はよくわかりますし、近著河内春人『倭の五王』も似た説のようですね。
    しかし、「倭王に血縁関係が無かった説」は正直どこまでいっても有力な異説止まりではないかと思います。決定打を欠くと思いますし、歴史学界の賛同を必ずしも得ていないようです。
    柒月例祭さんのコトバンクの各説の要約でも有りましたが、私も調べてみました。2008年の論文、2018年の新聞書評でも定説とは見なされていません。
    • 2008年の角林文雄論文「天王から天皇へ」でも「倭王に血縁関係が無かった説」は評価されず、松下見林の旧説が正しいとしています。
    • 河内春人氏『倭の五王』の書評を2018年に読売新聞で書いた中国文学者の加藤徹氏(明大教授)は、「定説はない」「この説はコロンブスの卵だ。なるほどとは思う。でも、やはり、日本の古代史はもどかしい。(要約)」と述べ、判断を留保しています。
    そもそも論として、この説の根拠となる『宋書』倭国伝の信憑性が東洋史学でかなり疑われております。
    『宋書』倭国伝は北宋時代初期(960年以降)の復元であり、沈約の原文を復元する時に誤字などがあった可能性が既に1981年の湯浅幸孫氏の「<研究ノート>倭国王武の上表文について」(1)という論文で指摘されております。倭国伝の倭武上表には『冊府元亀』所収の異本もあるようで、それだと内容も違うようですね。
    湯浅幸孫氏の宋書批判が否定されたという話は私も調べましたが見当たらず、むしろ湯浅説が相変わらず根強いようです。こういう状況で、この説をあまり多く書くのは私は止めたほうが良いと思うのですが、いかがでしょうか。--常陸のクマさん会話2023年10月20日 (金) 15:16 (UTC)[返信]
    利用者:常陸のクマさん会話 / 投稿記録さん、有難う御座います。
    自分としては、今、史料を詳しく見ない状態でも、2018年の河内春人氏『倭の五王』も倭の五王に血縁関係が無いと記載されていたと記憶してますし、2009年の佐藤長門(國學院大學教授)は、『宋書』の記事では、済は珍との続柄が何も記されておらず、ここで王統の断絶が起こっており、血縁の異なる王族集団から王権継承が行われた証拠である。「日本古代王権の構造と展開」、2022年の古市晃教授(神戸大学教授)『宋書』と「記紀」の系譜の対応関係に注目するならば、済すなわち允恭以降とそれ以前の倭王とでは血縁関係がなく、倭王を輩出する王族集団は少なくとも複数存在したことになるのである。『人物で学ぶ日本古代史 1: 古墳・飛鳥時代編』
    近年でも、普通に血縁関係無い説が提唱されているので、書くべきだと思ってます。
    御意見に添えず、申し訳ありません。--物部天照比古会話2023年10月20日 (金) 15:35 (UTC)[返信]
    佐藤長門教授の「日本古代王権の構造と展開」2009年の正確な文面です。
    さっきは、記憶に頼って書いてました。
    これは正確な記事です。A系統とB系統の2つの異なる王族が存在したとしているようです。さらに継体大王は、血縁が断絶してるとしてます。P139より引用します。
    「『宋書』倭国伝には、讃・珍のA系と済・興・武のB系とのあいだに続柄が記されておらず、五世紀の倭王権には大王を輩出できる王統が少なくともふたつは存在したことが推察できる。さらに前王統との血縁関係の断絶を前提として、近江・越前地域を統合する首長の立場から、王権を構成するほかの首長層の衆望をになって即位した継体大王も、このような意味から五世紀的王権の延長線上に位置する最後の大王ととらえることが可能で、右の推定を傍証する一例といえるのである。」--物部天照比古会話2023年10月20日 (金) 15:46 (UTC)[返信]
    河内春人『倭の五王』2018年、93ページから引用します。
    血縁関係を怪しむ問題の箇所です。
    「珍から済への王位継承には大きな問題が横たわっている。
    それは、少なくともこの二人の間に近親関係は見出しがたいことである。
    『宋書』倭国伝には、讃と珍が兄弟であることは明記されているが、珍と済の続柄は記されていない。
    済は倭姓を名乗っていることからすれば、それまでの倭国王と同族だったことは間違いない。
    だが、宋に対して珍との続柄を名乗らなかったことから、珍との血縁関係はそれほど近いものではなかったことが推測できる。
    それは、讃珍の兄弟で継承した倭国王位がその近親には引き継がれなかった可能性を示唆している。」
    やはり、血縁関係を疑ってるように見えます。
    事実、『宋書』倭国伝には、血縁関係は書かれてない見逃せない重大な箇所が有る訳でして、湯浅氏の論文は尊重しますが、これらの意見を全否定するのは難しいかと存じます。--物部天照比古会話2023年10月20日 (金) 15:57 (UTC)[返信]
    物部さん、私や柒月例祭さんの投稿を今一度見ていただきたいのですが、そもそも私も他の方もあなたが推されている説を全否定はしてないと思いますよ。
    もちろん、この説を書くことは問題ないですよ。
    この説をあまり多く書くのは私は止めたほうが良いと思う」と言ったに過ぎません。文意が伝わりづらかったですかね。そうであるとすればすいません。
    私案ですが、
    「『宋書』倭国伝には、倭の五王の血縁関係は書かれてない為、日本の古代史学界では倭の五王には血縁関係がなく、単に実力主義で決まっていたのではないか?という説が存在する。この説を取るのが佐藤長門・河内春人である」(学説は要約したほうが読みやすいと思います)
    「ただし、『宋書』倭国伝は一度散逸したものを後世復元した書物のため、湯浅幸孫のように『宋書』倭国伝の史料価値を疑う学者も有り、加藤徹が河内春人の本の書評でも述べたように2018年時点でも定説はないとされる」
    みたいな記載であれば私は問題ないと思います。--常陸のクマさん会話) 2023年10月20日 (金) 22:56 (UTC)やや修正--常陸のクマさん会話2023年10月21日 (土) 00:00 (UTC)[返信]
    こちらこそ、すいません。
    それと、この方も古市晃(神戸大学教授)も入れて下さい。
    2022年ですから、当然入れるべきだと思います。
    『人物で学ぶ日本古代史 1: 古墳・飛鳥時代編』吉川弘文館、2022年8月 ISBN 978-4642068741
    P39より引用
    「王統譜について、「記紀」は全ての天皇の系譜を男系による血縁継承として描いている。
    しかし『宋書』は讃、珍、済、興、武の いわゆる倭の五王の血縁関係について、讃と珍を兄弟、済と興と武を親子とするが、珍と済の間に血縁関係を記さない。
    これを『宋書』による事実とする説と、誤脱とする説があるが、『宋書』は他の王朝の血縁関係には注意を払っており、珍と済に血縁関係が無いのは事実とみるべきである。
    倭の五王を「記紀」の天皇の誰に比定すべきかについて、様々な見解があるが、済を允恭、興を安康、武を雄略とする点は一致している。
    「記紀」の王統譜との対応関係を重視すれば、讃、珍はそれぞれ履中、反正となる。 二人を応神や仁徳などにあてる見解もあるが、允恭以前の倭王であることが確認できればよい。
    つまり『宋書』と「記紀」の系譜の対応関係に注目するならば、済すなわち允恭以降とそれ以前の倭王とでは血縁関係がなく、倭王を輩出する王族集団は少なくとも複数存在したことになるのである。」--物部天照比古会話2023年10月22日 (日) 10:37 (UTC)[返信]
    物部さん、お疲れ様です。最新の説ですから古市氏の名前は入れるのは良いと思います。ただ、学説詳細はもっと削ったほうが読みやすいですよ。そして、この説の要点は末尾のところですね。
    「古市晃2022もほぼこの説に近く、済すなわち允恭以降とそれ以前の倭王とでは血縁関係がなく、倭王を輩出する王族集団は少なくとも複数存在したと考えている」でも良いのではないでしょうか。--常陸のクマさん会話2023年10月22日 (日) 10:55 (UTC)[返信]
    全然、構いません。
    自分としては、重要な文面を出来るだけ示す必要があると思いました。
    常陸のクマさん様、色々面倒おかけ致します。
    血縁が有る説と血縁は無い説の両論が有ることを示せれば、それで結構です。--物部天照比古会話2023年10月22日 (日) 11:14 (UTC)[返信]
    柒月例祭様、有難う御座います。
    自分としては、継体以前の倭国における王権継承が血縁関係ではないという説が、有力な説として存在することを、示して頂ければ、それで結構です。
    論拠としては、五世紀代以前に倭国が、血縁で王権継承を行っていた事を示す同時代文献資料は存在しない。(日本書紀は八世紀の成立であり同時代資料ではない)逆に、王権継承が血縁関係では無かった事を示唆する同時代文献資料は宋書倭国伝が実在する。『宋書』の記事では、済は珍との続柄が何も記されておらず、ここで王統の断絶が起こっており、血縁の異なる王族集団から王権継承が行われた証拠である。--物部天照比古会話2023年10月20日 (金) 15:19 (UTC)[返信]
    コメント 私の意見は、「こういう異説がある」と書くというだけ。「その異説が有力だ」という「評価」は書かない(書いちゃダメ)ということです。--柒月例祭会話2023年10月20日 (金) 16:56 (UTC)[返信]
    有難う御座います。
    結構です。
    倭の五王に血縁が無い事を主張する学説が有ることを、示せれば構いません。--物部天照比古会話2023年10月22日 (日) 10:24 (UTC)[返信]
    柒月例祭様、継体と前王朝との血縁が無いことを示す証拠として、倭の五王に関する「宋書」倭国伝の記事のみの引用で済ますのは、あまりにも少な過ぎますし、歴史学者達が多くの不審な点を指摘しているのは、紛れもない事実であります。
    他に以下のような点がありますので、それも記載して戴きたく申し上げます。
    • 応神から継体までの上宮記の系譜の信憑性が、実際には不明である。
    • 上宮記に記載されているのは、凡牟都和希王(ホムツワケ)と書かれており、ホムタワケ(誉田別、応神のこと)とは別人である。(つまり上宮記に記載されているのは応神ではなく、継体は応神五世ではない)
    • 応神の両親である仲哀天皇神功皇后が創作された人物だと疑われている。
    • 応神の実在本人も実在が怪しい。創作された人物ではないか?(応神が居ないので継体は必然的に仁徳系統と別系統の人物となる)
    • 古代の系譜とは、単に信条や派閥の結び付きようなもので、実際の血縁関係では無い。(山尾幸久教授による)
    • 五世紀代の倭国では、血縁に関係ない複数の王族グループの中から、人格や資質により選ばれた人物へ王権継承が行われたのであり、血縁による王権継承が行われたのは、六世紀の欽明朝以降である。(倭の五王の記事と重複してるが)
    • 継体の大和入りが20年もかかったのは、異常に時間がかかり過ぎであり、不審である。
    • 残虐非道の暴君である前代の武烈天皇の記事は、出自が疑わしい継体即位を正当化する為の創作記事である。
    などなど(既に継体の記事に結構書いてありますが)
    こういった事細かい記事の掲載もお願いします。--物部天照比古会話2023年10月22日 (日) 11:08 (UTC)[返信]
    物部さん、私はそれには反対ですし、それは書かないほうが良いでしょう。
    自説に有利な話を並べて、いかにもこの説をこの項目では推しているという印象をもたせること自体もよくないです。

    貴方の言われる説は大変失礼ですが、継体大和入りの遅れと武烈の話以外は異端の説ばかりです。

    柒月例祭さんに「「評価」は書かない(書いちゃダメ)ということです。」と言われて評価を書かないかわりに自説を補強する記述を補っているだけですね。

    「応神の実在本人も実在が怪しい。創作された人物ではないか?」というのはこれはもう随分前に否定されていますし、そもそもこれは通説ではないです。

    この説は昭和50年頃にモンゴル史学者の岡田英弘氏が言い出したことだったように思いますが、近年の発掘調査によって否定されています。昭和の頃は素朴に「大仙古墳はあれだけ大きいから、きっと初代天皇陵に違いない」という話も通りましたが、既に仁徳と大仙古墳の年代測定のズレは半ば通説化しています。

    逆に誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)の埴輪の炭素年代測定の結果、誉田御廟山古墳と応神との関係性は相当濃厚になっています。更に、真の継体天皇陵であるとされる今城塚古墳と誉田御廟山古墳は、当時の大王墓でないと使えない大型の埴輪が多く出ているという共通点が有り(木村理「埴輪生産の変遷と諸段階 : 中期後葉の再検討を中心として」待兼山論叢、2019)、森田克行氏は応神ー継体の王権での淀川開発路線の政策継承を論じています(白石2012)。

    また、文献史学でもコトバンク「応神天皇」の項は、日国・大辞泉・ブリタニカ・日本大百科全書(上田正昭執筆)・山川日本史小辞典・日本人名大辞典・世界大百科事典・旺文社日本史事典と8種の事典に出ていますが、応神天皇非実在説はどこにも出ていないですね。つまりこの説は学界では根拠不足として認められていないのが現状です。

  • --常陸のクマさん会話) 2023年10月24日 (火) 14:16 (UTC)--常陸のクマさん会話2023年10月24日 (火) 14:22 (UTC)[返信]
    了解しました。
    学界では主要な説ではないのは同意します。ですが同時に直木孝次郎教授や、岡田英弘教授と言った大学教授による学説が提唱されているのは無視できる話ではありません。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 02:00 (UTC)[返信]
    物部天照比古さん、「応神天皇」のページの「非実在性」の「信頼性」の指摘を解除するのはここでの議論が解決してからにしてください。
    常陸のクマさんは資料的根拠を出されたうえで「この説は学会では根拠不足として認められていない」と言われているので、反論にはこの説が現在でも学会で認めらている資料的根拠が必要だと思いますが。--大伴旅人会話2023年11月3日 (金) 10:45 (UTC)[返信]
    直木孝次郎教授や、岡田英弘教授と言った大学教授による学説が提唱されているのは無視できる話ではありません。山本博文(東京大学教授)も、応神の実在を疑う記事を書いています。『天皇〈125代〉の歴史』(西東社、2018年)p36 
    なら、神武天皇も学界で実在は否定されてますが、神武の項には安本美典(歴史学者でも大学教授でもない)の実在説が書かれてますが。そっちの方が問題でしょう。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 11:49 (UTC)[返信]
    物部天照比古さん、「歴史学者である直木孝次郎大学教授や岡田英弘教授が述べているので情報源としては問題ありません。よく調べて下さい。そもそも歴史の項目において、歴史学者の大学教授の学説を書いているのです。」とコメント欄に記載して応神天皇の編集を強行されましたが、これはどういうことでしょうか。
    歴史学者で大学教授であれば過去に否定された説でも問題ないなんて合意形成はないはずですよ。山本博文氏の書名も『ビジュアル百科 写真と図解でわかる! 天皇〈125代〉の歴史』でしょう。これは、学術的な本では無いように思えますが。山本氏は江戸時代史の学者で、しかも監修ではないですか。監修者と執筆者は違うでしょう。貴方が否定する八幡和郎徳島文理大教授(総合政策が専門)と山本博文氏はどう違うのですか。
    わたしも八幡和郎氏は非専門の方だから記載すべきではないと思いますが、江戸時代の専門家が監修した雑誌を典拠として持ってこられるのはおかしなことです。--常陸のクマさん会話2023年11月3日 (金) 11:55 (UTC)[返信]
    申し訳ないですが、過去に否定された云々はその資料はコトバンク「応神天皇」の項だけですよね。
    直木孝次郎氏の直木孝次郎 古代を語る〈5〉大和王権と河内王権 (直木孝次郎古代を語る 5) 単行本 – 2009/2/1は、現在でも販売されてます。
    もちろん、応神非実在説も載ってます。
    山本博文氏は歴史学者だと思いますが、八幡和郎氏はどうでしょうか。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 12:06 (UTC)[返信]
    物部さん、歴史学者ならモンゴル史の人でも江戸時代史の人でもウィキペディアでは良いわけではないですよ。WP:RSをもう一度読んでいただきたいですね。

    江戸時代の研究と古墳時代の研究は全く違う分野でしょう。総合政策学者(八幡氏)と江戸時代の研究者(山本氏)は、同様に古代史の専門家でない、したがって両者ともこの項目に書いてはいけないことはお分かりいただけるかと思うのですが。

    岡田英弘氏はモンゴル史だけではなく日本古代史も専門にされていたので山本氏・八幡氏とは違うとは思います。ただ応神天皇非実在説は学界では少なくとも同調者がいないんですよね。2022年に考古学者の新納泉氏(岡山大名誉教授)は「倭王讃は応神天皇である」という説を学術誌『考古学研究』に発表しており、これは毎日新聞産経新聞で取り上げられています。

    最新の説では応神天皇の実在が前提で、この人物の中国史料での比定を論じている段階が最新の説なのに、「実在しない」といって岡田英弘氏の昭和50年代の論文を持ってこられても。ちょっと賛同できないですね。あとは直木孝次郎氏の2008年の本ですか、「一般読者に親しみやすい直木孝次郎の論文・研究ノート・講演記録」だそうですね、だいぶ古いですし、一般書ですね。百科事典類でも取り上げられていない過去の非主流の論文と講演を、現在主流の説より強く書くわけにはいかないですね。
    過去の説でも書くのがいけないとは思わないのですが、やはり学界で否定的見解が強いと「岡田、直木はこう論じたが、現在の学界では応神の実在を前提に議論している」というようにしか書けないと思いますよ。山本氏が監修した雑誌は典拠たり得ません。その記事を書いたライターはどなたですか?山本氏が全部書いているわけではないでしょう。
    あなたの応神非実在説はWP:RSでいう「支持されていない主張や、関係学会に普及している見解に矛盾する主張」ですから、過去の歴史学者の話だけでは正直、肯定的に書けないのですよね。「今市販されている」ことは、その説が正しいかどうかを担保しません。
    安本美典氏について随分批判されますが、継体や応神の話で出てこない人がなんで突如として出てきたのですか。これは見なかったことにしましょう。もう少し落ち着くのと、編集の強行はおやめくださいませんか。--常陸のクマさん会話2023年11月3日 (金) 12:49 (UTC)[返信]
    疑問に思うのは、神武天皇は学界では実在は否定されてますが、神武の項には歴史学者でもない人物の説が書かれてますが、これはど如何でしょうか。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 12:09 (UTC)[返信]
    「学界では神武の実在は否定されてます?」
    それは違いますね。岡田英弘氏より後で、1995年に考古学者の樋口清之氏(國學院大學名誉教授、全日本博物館学会名誉会長)が神武天皇実在説を出されているんですよね。(『うめぼし博士の逆(さかさ)・日本史〈貴族の時代編〉平安→奈良→古代』祥伝社文庫)
    また、皇学館大名誉教授の岡田登氏が2017年に講演で神武天皇実在説を述べてますね。
    昭和の頃に出た新潟大の植村清二名誉教授の『神武天皇』(中公文庫)もありますね。--常陸のクマさん会話2023年11月3日 (金) 13:06 (UTC)[返信]
    ちなみに私は神武実在説を主張したいわけではないですよ。「学界で否定」と断定的に書かれたから「いえ、考古学の方では非主流だがいないわけでない」と言ったわけです。これらは正直、典拠としては弱い。でも、2017年に専門家が主張している以上「否定されています」と断定的には言えない。そういうことです。
    私は応神非実在説にしても「昔の説だから無条件でオッケーではないよ」と言っているだけなんですが、物部さんのように自説に固執されるとコミュニティを疲弊させていつまでも納得されないことになりますから、そこは他の方とも譲り合ってくださいとお伝えしたいですね。--常陸のクマさん会話2023年11月3日 (金) 13:14 (UTC)[返信]
    応神非実在説については、分かりました。
    継体新王朝論からは、応神非実在説は完全削除しておきます。
    多忙で、久しぶりに見たら、記事が大量に削除されていたので、熱くなってしまい申し訳ありません。
    お詫び申し上げます。
    応神天皇の項における、応神非実在説は異説として残すというのは如何でしょうか。
    応神非実在説の記事の痕跡を全て消した場合、応神非実在説がまた書き込まれる可能性がありますし。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 16:07 (UTC)[返信]
    横から失礼しますが、物部天照比古さん、「完全削除します」と言っておきながら、すぐそのあとに「異説として残すというのは如何でしょうか」との発言は如何なものでしょうか?。発言の信頼性を疑われかねない行為だと思うので、ご自身で明言したとおりいったん「完全削除」するのが筋ではないでしょうか。
    そのうえで再書き込み防止が必要ならば常陸のクマさんさんの発言を元に「この説は学界では根拠不足として認められていないのが現状です」と簡潔に記しておくのがいいのではないでしょうか?--大伴旅人会話2023年11月4日 (土) 05:39 (UTC)[返信]
    追記、見落としておりました。
    森のクマさんさん、物部天照比古さん、
    今回、応神天皇非実在説が完全削除するという合意に至ったので、継体新王朝説だけでなく、応神天皇のページに物部天照比古さんが書いた応神天皇非実在説についても本議論を踏まえて同じように完全削除すべきかと思います。
    参考までに一旦無断で削除された「信頼性」のタグをつけさせていたきますのでご対応の程お願いいたします。--大伴旅人会話2023年11月4日 (土) 06:47 (UTC)[返信]
    まず大伴さん、完全削除の合意形成は出来てないですよ。物部さんは削除に同意もしてないのではないでしょうか。みんなの意見を総合すると合意形成は「否定的かつ簡略的に書く」くらいではないですか。物部さんが否定説を覆そうとしてたくさん書いたり、信頼性タグを外すのもいけませんが。おふたりとも冷静に。

    それ以外は大伴さんと同意見です。物部さんのご要望どおり異説を残すとしても「この説はかつて存在したが、既に学界では否定的見解が強い」みたいな書き方をするしか無いですね。今の応神天皇の記載はなんだか非実在説が証拠もあって正しいみたいに読めます。

    応神非実在説を否定的に書かざるを得ないのはなぜかというと、白石太一郎氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)が編著の『天皇陵古墳を考える』(学生社、2012)で最新の考古学と天皇陵について言われていることなんですが、下記の話が覆らないと物部さんが言われる話は否定的見解が強いとせざるを得ない。
    「(岡田・直木説[応神非実在説]が出た)70年代はまだ科学が未熟だったので、年輪年代学がまだ古代遺跡の異物の年代測定で使えず、古墳の年代も誤ってしまっていた」(同書第二章「誉田御廟山古墳(現応神陵)の被葬者」より、執筆白石名誉教授)

    日本での遺跡の年代測定の実用化が1996年4月らしいので、これ以前の説はだいぶ信憑性が疑わしいわけです。

    岡田氏、直木氏が偉大な業績を挙げられたことは私も否定しませんが、彼らは基本的に文献史学の方です。岡田説の根幹をなしているのが
    • 「大仙古墳は仁徳陵で、あれほど大きな古墳なんだから初代天皇の御陵であろう」
    • 「仁徳天皇は倭王武上表に言う『祖禰』だろう」
    という当時の学界の通説なんですが、これが科学的にアウトなので、これを元に記載せよというのは難しいです。

    岡田説によれば祖禰は倭王讃より前の人ですが、仁徳陵大仙古墳からは西暦441-60年の木が出土しています。413年の倭王讃検使より仁徳天皇が前でないと、岡田説は成立しないわけですから。
    発掘品の年代測定については藤井寺市のサイトにまとまっています。

    応神陵の年代測定で応神実在がかなり強くなったのは、中国の古代史で武内義雄東北大名誉教授と貝塚茂樹京大名誉教授が「孫子兵法は孫臏の作に違いない」と断定したあとで、孫武作の竹簡孫子が出土して学説がひっくり返ってしまったようなケースだと思いますね。

    で、孫子の項を見ていただくと分かるんですが、「最も著名な学説は武内義雄が「孫子十三編の作者」で論じ、貝塚茂樹がそれに賛同したように、孫子の本文に出てくる事物や思想が春秋時代にはあり得ないものが複数指摘されているため、『孫子』13篇の著者を孫臏とするもので、『孫臏兵法』発見以前は非常に有力」と書いたあとで竹簡孫子が出て武内・貝塚説は否定されましたよ、と書いています。応神非実在説もこういう扱いにしかできないんじゃないでしょうかね。

    物部さんのご主張は竹簡孫子を無視して「武内義雄や貝塚茂樹が正しいんだ!だから一杯書こう」みたいなものですから、ちょっと無理です。孫子の項と同じく三行くらいにまとめるしか無いと思います。--常陸のクマさん会話2023年11月4日 (土) 07:41 (UTC)[返信]
    常陸のクマさんさん、冷静かつ学術的な見識の高いご意見ありがとうございます。
    大変勉強になります。--大伴旅人会話2023年11月5日 (日) 01:59 (UTC)[返信]
    大伴さん、お褒めいただきありがとうございます。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%B8%B8%E9%99%B8%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%81%95%E3%82%93/sandbox
    で、一応応神天皇の改稿案を作ってみました。
    1,過去の応神実在説(発掘調査以前のもの)を研究者ごとにほとんど一行くらいに。最新の説である河内春人氏のものは長く。(本人の文化人類学の知見もあり最新かつ重要)
    2,非実在説は主要論者である岡田英弘氏のものを中心に要約。3行といいましたが結構長くなってしまいました。直木孝次郎氏の説はよく読むと岡田説とほとんど同一ですね。略しました。
    3,発掘調査結果を白石太一郎氏の『天皇陵古墳を考える』(学生社、2012)、2018年の同氏の本、2022年の白石氏インタビュー記事を元に記載。
    これで問題なければこちらに直そうかと思います。
    物部さんなども是非ご覧いただきご意見をいただければと思います。--常陸のクマさん会話2023年11月5日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
    御指導有難う御座います。勉強になります。
    素晴らしくレベルの高い学術的見解だと思います。
    応神天皇の非実在説の記事の方は、常陸のクマさん様の御判断に従います。宜しくお願い申し上げます。--物部天照比古会話2023年11月5日 (日) 15:23 (UTC)[返信]
    確認させていただきました。
    多くの人の参考になる大変見事な編集であると思います。まったく異存ございません。ありがとうございます。--大伴旅人会話2023年11月6日 (月) 05:35 (UTC)[返信]
    物部さん、大伴さん、有難うございます。
    お褒めいただき恐縮です。
    もう少し用字を確認したいところもあるので、今週末に差し替えておきます。--常陸のクマさん会話2023年11月7日 (火) 15:04 (UTC)[返信]
    常陸のクマさん様、お伺いしたい事があります。隅田八幡宮人物画像鏡の件ですが、
    503年説(銘文の王は継体天皇であり、大和に居た)が有力なのか?
    十一から十三文字目の某王の銘文をもって、継体天皇であると決めるのは困難なので、誰の事を指すのか?不明なのか?
    どちらが良いでしょうか?
    御指導御教示の程、よろしくお願い申し上げます。--物部天照比古会話2023年11月8日 (水) 12:22 (UTC)[返信]
    物部さん、これについては私は不案内で分かりません。ちょっと申し訳ないのですが。--常陸のクマさん会話2023年11月8日 (水) 14:26 (UTC)[返信]
    お忙しい中、返信、有難う御座います。
    503年説に合意します。
    私もそもそも資料が少なくて、調べてもよく分かりませんでした。--物部天照比古会話2023年11月11日 (土) 13:46 (UTC)[返信]
  • ────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────インデント戻します。

大伴さん、物部さんとの合意形成を経ていた応神天皇の項目の草稿ですが、記事に反映しました。反映時に少し文章を手直ししました。

    • 冒頭の箇所、考古学的に実在が認められていない訳ではないので、文献史学的に実在が議論されていると書き換え。
    • 「考証」の項、非実在説の「かつて」を外す。直木孝次郎氏の講演が2009年なのでそんなに古くないため。

以上です。--常陸のクマさん会話2023年11月18日 (土) 22:49 (UTC)[返信]

  • コメント 柒月例祭さんや常陸のクマさんさんのコメントに大筋として同意なのですが、それとは別の話として物部天照比古さんも大伴旅人さんも、継体天皇の記事内容について現在進行形で合意ができていないことがわかっているのですし、記事本文の編集の手を止めた方が良いのではないでしょうか。八幡和郎氏などの見解を記載するのは私も適切だとは思わないですが、そういう話よりも、議論してる最中に本文が編集されるのでそれについての議論が新しくはじまり収集が付かないように感じます。記事全体の編集をどういう形に落ち着けるかを合意してから本文を編集すべきです。--TEN会話2023年10月24日 (火) 15:44 (UTC)[返信]
    TENさん、ありがとうございます。私もTENさんのお話のとおりだと思います。合意形成前の編集は止めたほうが良いと私も思います。議論中に本文に加筆するのはルールとしてはよくないと思います。--常陸のクマさん会話2023年10月24日 (火) 21:39 (UTC)[返信]
    皆さま、お世話になっております。
    すいません。今、こちらの議論の進展を確認いたしました。異説の追加等については一旦停止いたします。
    私もこれ以上の追加はやめて異説の内容等の表記についても簡潔な内容になるよう絞っていくべき段階にあると思っております。--大伴旅人会話2023年10月29日 (日) 08:22 (UTC)[返信]
    大伴さん、有り難うございます。よろしくお願いいたします。--常陸のクマさん会話2023年10月29日 (日) 12:02 (UTC)[返信]
    㭍月例祭様、大伴旅人氏は自分が覚えているだけでも、竹田恒泰(タレント)、南原次男(自衛官)、八幡和郎(小説家)、永井津記夫(調べても、誰か?不明な人物)高森明勅公式サイト「継体天皇は「皇族」として即位」など、歴史学者ではない人物を多く起用して、自分の記事を書くのに対して、継体天皇が血縁の無い人物である事を強く示唆する、自分の思想に合わない、自分の気に要らない記事は歴史学者であっても削除するのはおかしいのではないでしょうか?
    また、ノート:継体天皇でも、「左翼史観の歴史学者が云々」、とか発言してた記憶があります。
    大伴氏のダブルスタンダード(二重規範)は激しすぎます。
    例えば、
    ・『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの『上宮記』と違う系譜の載ってる書籍は都合が悪いので削除する。
    ・武烈天皇の暴虐に関する記事も都合が悪いのか?勝手に削除する。
    ・応神の実在性を疑う記事も削除する。
    これらの記事は歴史学者(大学教授も入っています)、出典も間違いなく確認出来る書籍により書かれた記事です。
    これは、誠実さを疑ってしまいます。
    他には
    ・考古学的な調査に基づく記事も消しています。(正式な考古学発掘調査書によるもの)
    是非とも、大伴氏が、中立公平な立場や思想に基づいて書いているのか?考慮して調べて頂きたいです。
    宜しくお願いします。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 12:00 (UTC)[返信]
    物部天照比古さん、それは一方的な意見だと思います。
    あなたがそのように書かれているので私の方も書かせていただきますが、あなたは同じく百田氏を書かれていますし、南原氏を「皇国史観」だからダメだというような見解を書かれました。
    そして削除したのがどの学者のことかわかりませんが、物部天照比古氏さんが出されている最近の学者は、この継体天皇の議論や歴史学においても他の第三者の学者にあまりとりあげられていないマイナーな方が多いような気がしますが、間違いでしょうか?。
    さらにご自分でも「王族派」と認められた水谷千秋氏の記事を「血縁官界はない説」などの記事を多数書かれていますが、これは中立性に欠ける独自研究に当たらないでしょうか?。
    また近江高島郡、鴨稲荷山古墳の記事においてこれも水谷氏の資料を参考文献にあげながら「これらの説は、古墳の築造時期が彦主人王の死亡時期と合わず、三尾氏の首長とするのが主流である」と書かれていましたが、私が該当文献(「継体天皇と朝鮮半島の謎」の該当ページを確認したところ水谷氏は「これまでは継体の・・外戚三尾氏の族長をこれに当てる見方が多かったように思う」と記しながらもすぐに次の文章で「しかし、近年になって果たしてそれでいいのか、私の考えにいくらか変化が生じてきた」とし、三尾氏の族長ではないとの説を展開していたのです。
    このような著者本人が意図していないような自説に都合のいい切り抜きを用いた編集は公平中立的と言えるでしょうか?。
    また佐藤長門氏の著書についても何度も指摘してきましたが、物部天照比古氏は再版時の年代をもって「継体天皇」および「倭の五王」のページにおいても佐藤長門氏の説が最新の説であるかのように扱ってきました。
    このことはこの プロジェクト‐ノート:日本史#継体天皇の項について
    においても第三者の方が「資料については原則論として初出の年次で取り扱うものだと思います」とあらためて指摘くださっています(-TEN会話) 2023年10月18日 (水) 16:28 )が、なぜ修正しようとされないのでしょうか?。
    また以下の指摘はそれぞれ
    ・『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの『上宮記』と違う系譜の載ってる書籍は都合が悪いので削除する。
    →「傍系王族派」と認めた水谷氏の文章であり、氏は「上宮記」の成立を分析しているだけであり、信憑性を疑って本記事を書いているわけではありません。
    ・武烈天皇の暴虐に関する記事も都合が悪いのか?勝手に削除する。
    →本ページ「プロジェクト‐ノート:日本史#継体天皇の項について」において第三者の方から載せるべきではないと指摘されています
    ・応神の実在性を疑う記事も削除する。
    →同じく本ページ「 プロジェクト‐ノート:日本史#継体天皇の項について」において第三者の方から載せるべきではないと指摘されています。物部天照比古さんも納得されてますよね(2023年11月3日 (金) 16:07 (UTC))。
    以上の理由によります。--大伴旅人会話2023年11月4日 (土) 05:14 (UTC)[返信]
    大伴旅人さん、継体新王朝論の『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの『上宮記』と違う系譜の載ってる事実、武烈の暴虐記事の削除に同意した覚えはありません。
    『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の系譜については、問題ないと考えます。出典元や原文も載せています。水谷千秋氏が、上宮記の系譜の所伝が正しい方だと主張しているのは確かですが、それがどうして記事を全削除して痕跡を消す必要になるのでしょうか?
    歴史学者について。そんな事は有りません。第一、五世紀代の倭国が血縁による王権継承が行われていた証拠など無いのは事実です。
    佐藤長門教授については修正しました。
    三尾氏の首長説については、水谷氏は三尾氏の皇子だと記載しています。
    継体天皇と朝鮮半島の謎 2013/7/19 水谷千秋 P133より引用します
    「三尾氏と深い関わりを持ちながらも三尾氏そのものではなく、 中央でもかなり高い地位にあった人物ではなかったか。
    私は、たとえば三尾氏出身の若比売を母に持つ継体の長子太郎子皇子を考えてみたい。
    母が三尾氏の女性であれば、その実家のある高島に埋葬される可能性は極めて高いであろう。
    一部に鴨稲荷山古墳の年代は今城塚古墳よりやや新しいという見解があるが、このことも継体より一世代若い大郎子の墓である可能性を示唆しよう。
    子どもと言っても大郎子皇子は継体の長男とみられるから、年齢差は二十数年くらいしか違わないはずだ。」
    確かに、水谷千秋氏の説を三尾氏の首長説として纏めたのは正確ではなく言葉足らずでした。これは読み込みが甘かったと思ってます。
    三尾氏の首長説については、高島市の高島歴史民俗資料館は「三尾(みお)族長の墓」だとしているので、三尾氏の首長説が有力なのは事実でしょう。
    南原次男氏に関しては、旧帝国軍人、自衛官、皇国史観を持っている等を指摘しました。皇国史観を持っていても、歴史学者なら問題ないと思いますが、そうでは有りませんでした。百田氏も歴史学者ではないのですぐに削除に同意しました。
    水谷氏の説は、大伴さんが継体新王朝派の和田萃氏を、傍系派に入れたので、水谷氏の意見もこちらに入れました。大伴さんが和田氏を外したから、私も水谷氏を外しました。--物部天照比古会話2023年11月5日 (日) 15:35 (UTC)[返信]
    物部天照比古さん、記事の削除は早まった対応でした。慎んでお詫びいたします。
    そのうえで「王族派」でかつ「上宮記の系譜の所伝が正しい方だと主張している」としている水谷氏の記事を引用して、「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」において、「上宮記についても信憑性に疑いがある」という文脈の中で使用するのは、ウィキペディアの編修方針の「中立的な観点」の
    意見を事実として記さない 
    に反していないでしょうか?。また同じくWikipediaの編修方針である「独自研究は載せない」の
    ・ オリジナルのアイデアを加筆する
    あるいは「独自研究は載せない」「資料」の項の
    「たとえ十分に出典が明記されていたとしても、その情報源を曲解して利用したり、その情報源によって直接的かつ明示的に支持されない観点を推し進めようとした場合には、あなたは独自研究を行っていることになります」に該当しないでしょうか?。
    ということです。
    また五世紀の倭国における血縁継承の有無は歴史学者でも諸説あり確定していないことなので、物部天照比古さんの「五世紀代の倭国が血縁による王権継承が行われていた証拠など無いのは事実です」という一方的かつ断定的な意見も客観的かつ学術的な見解とは言えないのではないでしょうか?。
    佐藤長門氏の件はご理解いただきありがとうございます。
    三尾氏の件の「三尾氏の首長説については、水谷氏は三尾氏の皇子だと記載しています。」と書かれているのは誤記でしょうか。
    物部天照比古さんが引用された水谷氏の文に「私は、たとえば三尾氏出身の若比売を母に持つ継体の長子太郎子皇子を考えてみたい。」と書かれてありますね。水谷氏が想定しているのは「継体天皇の皇子」です。高島市歴史博物館等の記述は否定しません。--大伴旅人会話2023年11月6日 (月) 06:12 (UTC)[返信]
    返信おそくなり、申し訳ありません。
    >物部天照比古さん、記事の削除は早まった対応でした。慎んでお詫びいたします。
    いえ、気になさらないで下さい。
    >五世紀の倭国における血縁継承の有無は歴史学者でも諸説あり確定していないことなので、物部天照比古さんの「五世紀代の倭国が血縁による王権継承が行われていた証拠など無いのは事実です」という一方的かつ断定的な意見も客観的かつ学術的な見解とは言えないのではないでしょうか?。
    確かに諸説あります。
    血縁が無いと言い切ったのは、言い過ぎでした。
    >三尾氏の皇子だと記載しています
    三尾氏と継体天皇との間の皇子と意味です。
    言葉足らずでした。
    『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの系譜が、問題ですが、今、見たら継体新王朝論の記事が消されかかっているみたいです。
    継体新王朝論の記事が、全削除される可能性があるので、一旦、置いておいて、新王朝論の記事が落ち着いてから、議論するで如何でしょうか。
    現在、元々の記事が消えてますから。--物部天照比古会話2023年11月8日 (水) 12:09 (UTC)[返信]
    >『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの系譜が、問題ですが、今、見たら継体新王朝論の記事が消されかかっているみたいです。
    継体新王朝論の記事が、全削除される可能性があるので、一旦、置いておいて、新王朝論の記事が落ち着いてから、議論するで如何でしょうか。
    記事が消されかかっていることはまた別問題だと思いますので、ご見解をお示しください。
    私は「水鏡」等の系譜について書かれることを否定しているのではなく、それならばそれを以て「上宮記についても信憑性に疑いがある」としている論者の記事を引用するべきではないかと思います。でなければ、水谷氏の記事でもって「上宮記についても信憑性に疑いがある」と論じている物部天照比古さんの記事は「中立的な観点」を欠いた「独自研究は載せない」に該当しませんか?、という指摘です。--大伴旅人会話2023年11月10日 (金) 06:45 (UTC)[返信]
    では、自分の意見としては、やはり『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の系譜については、問題ないと考えます。出典元や原文も載せていますし。水谷千秋氏が、上宮記の系譜の所伝が正しいと主張していますが、水谷氏の記事の引用はしてません。引用のリンクもしてません。どうして記事を全削除して痕跡を消す必要になるのでしょうか?
    常陸のクマさんさんは相当、こういうウィキペディアの問題に詳しい方とお見受けするので御意見をお伺いして、聞いて見ます。
    少し待って下さい。--物部天照比古会話2023年11月11日 (土) 13:28 (UTC)[返信]
    物部天照比古さん、系譜資料の所、以前は水谷氏の記事が使われていたと思っていましたが、そのご編集されたのを見落としていたようです。失礼いたしました。
    なお、「つまりこの段階での王族は、二世、三世となって王位継承資格を失うとともに地方に土着していく者が多く、 中央における政治力を大幅に失なったように推定される。 五世紀には王族が臣籍に降下する制度がまだ無かったから、どれほど遠い傍系でも某王と名乗れたと見られる。 したがって形式的には王族の範囲は無制限であって、継体のような五世孫でも王を名乗ることも可能であった。 しかし、彼ら傍系王族は原則的には王位継承資格を喪失していたから、実際には王族と言えない立場だった。 おそらく実質的な王族の範囲は、大王の后妃、皇子女など、王位継承資格を有する一世王か、せいぜい二世王までに限定されていたに違いない。」という部分に 「謎の大王 継体天皇」水谷千秋 P123 からの引用文が残されているようです。
    常陸のクマさんのご意見を伺ってということで了解いたしました。--大伴旅人会話2023年11月12日 (日) 07:43 (UTC)[返信]
    大伴さん、物部さん、どうもすいません。ちょっと身内の看病と仕事の多忙が重なりあまり対応できておらず申し訳ないです。今週末には見て対応します。--常陸のクマさん会話2023年11月15日 (水) 21:33 (UTC)[返信]
    物部さん、大伴さんお二人の議論をようやく読むことができました。
    私の結論を述べます。
    • 『水鏡』『神皇正統記』『愚管抄』などの系譜に記載がない件については、記載そのものは問題ないと思います。ただ、孫引きではなく原典からの引用のほうが良いのではないでしょうか。岩波の古典文学大系あたりが良いかと思いますが、やはり一次史料については校訂されたテキストを見たほうが良いかと思います。
    基本的にウィキペディアでは応神ー継体間につながりがないかどうか、あるのかについてはニュートラルな立場でしかかけないので、根拠があって「つながりがない」という信頼できる情報源があれば記載そのものは問題ないかと思います。純学問的な話で、思想的対立なども(少なくとも表面上は)あまりないと思いますので。
    ただ、お二人の議論を見ていますととにかく引用が冗長過ぎるので、主張は両論併記なら良いかと思いますが、もう少し簡潔な記載のほうが良いかと思います。--常陸のクマさん会話2023年11月16日 (木) 14:35 (UTC)[返信]
    常陸のクマさん、お忙しい所お付き合いいただきご回答いただき誠にありがとうございます。
    ・『水鏡』に載る系譜は古典体系等に載る原典資料から引用すること
    ・継体-応神間のつながりは根拠があって信頼できる情報源の記載は問題ないこと
    ・簡潔な記載にすること
    私の方はまったく異存ございません。全て了解しました。--大伴旅人会話2023年11月18日 (土) 10:16 (UTC)[返信]
    大伴さん、自分も異論は有りません。
    簡潔かつ、出典は古典文学大系に頼る。
    って感じで良いと思います。--物部天照比古会話2023年11月20日 (月) 20:56 (UTC)[返信]
    返信有難う御座います。
    全く異論は有りません。
    お忙しい中、本当に返信有難う御座います。--物部天照比古会話2023年11月20日 (月) 20:53 (UTC)[返信]
  • 横から失礼します。私も常陸のクマさんが提案しているような異説を簡潔に記す編集に賛同します。
一通り継体天皇のページを見ましたがこの現状では継体天皇なのか王朝交替説を扱ってるのかわかりにくいです。継体天皇に限らず歴史上の人物のページで生涯や来歴よりも学説に重点がおかれているのは記事のバランス的にまずいと思います。歴代天皇の記事で秀逸、良質な記事の評価を受けてる光厳天皇大正天皇を見ても直仁親王の出生や遠眼鏡事件を大々的に取り扱ってません。充実させるべきは生涯の項目であって出自を巡る議論に書かれている記事の大半は学説のページ王朝交替説でやる事項かと。5世紀の事情も多く記載されてますが直接継体天皇に関連するとも言えずこちらもヤマト王権または古墳時代でやった方が良いと思います。


生涯の項目は以下は書記によるものと記した上で日本書紀をベースに現行の日本書紀と古事記における継体天皇の記事の相違の部分も一緒にまとめられると思います。実在性の箇所は概略に、神武天皇のモデル説は神武天皇のページか関連項目に少々、仁徳系統断絶云々も生涯の冒頭で十分でしょう。--ヤマトネコノ王会話2023年10月25日 (水) 08:51 (UTC)[返信]
ヤマトネコノ王さん、私の意見にご賛同いただき有り難うございます。
ご指摘の点は私も全く同感です。
他のページへの移行も含めて考えたほうが良いでしょうね。--常陸のクマさん会話2023年10月27日 (金) 14:52 (UTC)[返信]
ヤマトネコノ王様、常陸のクマ様、ご指摘ありがとうございます。
私は「応神五世または皇統に属する人物とする説」の方に記事を追加編集して参りましたが、みなさまのご指摘に従い異説の追加については一旦停止し、かつ現在ある記事についてももう少し簡潔にまとめるよう編集したいと思っております。
つきましては対論である「応神五世では無く、血縁関係は無いとする説」を編集している物部天照比古氏についても異説の追加の停止ならびに現在記されている記事の簡潔化をしていただくことを希望いたします。--大伴旅人会話2023年10月29日 (日) 08:29 (UTC)[返信]
大伴さん、有り難うございます。また、異説の追加を思いとどまっていただき感謝いたします。--常陸のクマさん会話2023年10月29日 (日) 12:01 (UTC)[返信]
常陸のクマさん、他みなさんのご意見を元に本ページ(継体天皇)の編集を進めてみましたので、ご確認のうえご意見等あればお寄せください。--大伴旅人会話2023年11月2日 (木) 12:02 (UTC)[返信]
大伴旅人さん多くの編集お疲れ様です。常陸のクマさんも返信ありがとうございます。
お二方共出典を用いて記事を細かく書かれておりwikiの充実という点からも素晴らしいと思ってます。ただこれまでの編集が行き過ぎると継体天皇のページが崩壊しかねないと危惧し意見を出させて頂きました。(常陸のクマさんが物部天照比古さんにこの説をあまり多く書くのは私は止めたほうが良い、と仰られているのはそうした事態も憂慮されてのご発言だと推察しております。)私個人の意見としては水野裕、黛弘道両氏以外の昭和の説は全部王朝交替説に移動して21世紀以降の説を3説ずつ(肯定に水谷千秋、荊木美行、吉村武彦、否定に古市晃、佐藤長門、河内春人)くらいで十分かなって感じたりしますがそれだと両氏共ご納得されないと思うので現実的には常陸のクマさんの提案が無難な所に落ち着くかな、と。それを踏まえての現行の意見を述べるとそれでもやっぱり長いな、という感想に至ってしまいます。
例えば黛弘道氏の説に付随する形で上宮記の研究成果を重視する西條勉、大津透も同様の見解である。同じように吉村武彦氏の説に~考古学の成果を~和田晴吾も同様~と言った感じで肯定説否定説共に上宮記、記紀史料、考古学どの見地からの説なのか、似たような説は出来る限り纏めた方が記事も縮小出来且つわかりやすいと思います。(細々書く場合は王朝交替説のページがいいかなと)
私が編集する訳では無いですし大伴旅人さんには負担になってしまいますが。意見だけで申し訳ないです。--ヤマトネコノ王会話2023年11月3日 (金) 00:01 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。
賛成論、反対論も含めて各論は全て「継体新王朝論」の方に移しました。
各論はしばらく「継体天皇」のページでは触れない方がいいと考えておりますので一度ページを見ていただけるとありがたく思います。--大伴旅人会話2023年11月3日 (金) 10:26 (UTC)[返信]
大伴旅人さん、編集ありがとうございます。年代別にまとめられてかなり読みやすくなったのではないでしょうか。
ヤマトネコノ王さんのご意見ももっともだと思います。昭和期の説は王朝交替説に反論も含めて移行したほうが良いでしょうね。
そもそも、継体天皇の項が長すぎて読みにくい状態なのに、王朝交替説の項目は異常に短くなっているアンバランスな状態です。
王朝交替説の項目には「長井瑠偉(どなた?)『県主朝』(大多喜、2010年)」というよくわからない書籍の出典まであり、検証可能性が損なわれているので、項目ごと一気に王朝交替説へ移してしまってもいいと思います。大伴旅人氏・物部天照比古氏の調査は非常に綿密で素晴らしいので、こちらの加筆もお願いできればと思うところです。
あとは個別の指摘になります。
  • 藤間生大氏の名前が藤間大生になっていますが、これは正しいのでしょうか?
  • 作家の関裕二氏、元陸軍の南原次男氏の説はやはり取ったほうが良いかと思います。南原氏は軍事の専門家だとは思いますが、記載を見る限り軍事関係ではないようです。
  • 江戸時代に既に河村秀根が『書紀集解』(1785年)において、上宮記逸文と応神ー継体系図について触れており、この本は国立国会図書館のデジタルコレクションで全文公開されているので、それのリンクもつけたほうが良いと思います。調べたところ江戸時代まではあまり継体天皇の皇位継承の話は重視されなかったのか、問題になっていなかったのか、河村以外調べていないようです。頼山陽『日本政記』でも日本書紀の要約のみの扱いです。1785年の河村本が最古層の主張みたいですね。
  • 継体天皇の政策についての記載が出自に比べてひどく簡単過ぎるので、今後は事績についての加筆が必要でしょう。例えて言えば田中角栄の記事で日本列島改造論が触れられておらず、農家の息子が刻苦勉励して出世する過程だけがやけに多いような状態になっています。吉川弘文館の人物叢書に『継体天皇』(篠川賢、2016)があり、政策面も触れられています。
私の方でも大伴さんや物部さんの加筆修正が済み次第、継体天皇の政策についても加筆したいと考えています。--常陸のクマさん会話2023年11月3日 (金) 00:54 (UTC)[返信]
常陸のクマさん様、自分は今も史料とか集めてたのですが、プロジェクトノートに書いてから、記事の追加はしていませんでした。
色々な学者が継体天皇が血縁がないと主張してますが、自分が調べた限りでは、大枠の説は、継体天皇で書いた血縁関係が無いという説に、ほぼ全て書いてあると思ってます。ので、余程の論争が無い限り、書かないつもりです。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 02:18 (UTC)[返信]
継体新王朝論なんですが、南原次男氏(歴史学者ではなく、旧帝国軍人、自衛官、会社経営者)も明らかに学説ではありません。
八幡和郎(歴史学者ではない専門外の人物)も明らかに学説ではありません。
明らかに専門外の歴史学者ではない記事が載ってます。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 02:53 (UTC)[返信]
出自に関する議論の各論は全て「継体新王朝論」の方に移動させました。
しばらくは「継体天皇」のページにおいては出自に関する各論は触れないほうがいいかなと思います。
編集については、今すぐにでも参加していただけるとありがたく思います。第三者の方に編集に入ってもらった方がいい状況だと思います。--大伴旅人会話2023年11月3日 (金) 10:29 (UTC)[返信]
それは同感です。
中立的な第三者による編纂が良いと思ってます。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 11:52 (UTC)[返信]
常陸のクマさんさん、
「藤間生大」氏でした。間違ってました。
訂正いたします。
南原氏、関氏、八幡氏は一旦はずし本ページ、ノートの議論でSnap55さんに
ご提案いただいたように「作家などからの見解」としてまとめる編集にいたしました。--大伴旅人会話2023年11月5日 (日) 02:19 (UTC)[返信]
常陸のクマさん様、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの『上宮記』と違う系譜の記事なんですが、大伴旅人さんと揉めています。
自分としては、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』の系譜については、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』という書物の典元やその原文も載せているので、問題ないと考えてます。
確かに水谷千秋氏の著書の中で『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの『上宮記』と違う系譜を否定的に扱ってまして、水谷氏は、上宮記の系譜の所伝が正しい方だと主張しています。
しかし、自分の記事では水谷氏の著書からの引用のリンクは張っていません。大伴さんが主張するように、記事を全削除して『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』などの『上宮記』と違う系譜の記事を消す必要になるのか分かりません。
この問題の解決方法のご教示下さい。
こういうウィキペディアの問題に詳しい方だと思ってます。
宜しくお願いします。--物部天照比古会話2023年11月11日 (土) 13:39 (UTC)[返信]
大伴様、編集お疲れ様です。
既述の通り、自分は継体天皇が、今でも別系統である説を支持するつもりですし、有力な学説だと信じています。
ところで(なお継体天皇の出自に関する各論については「継体新王朝説」を参照)
とありますが、編集中ですか?
現在、見れないようですが。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 02:12 (UTC)[返信]
継体新王朝論 リンクに誤字が有ったので修正しました。
確認しました。
編集有難う御座います。--物部天照比古会話2023年11月3日 (金) 02:26 (UTC)[返信]
了解です--大伴旅人会話2023年11月3日 (金) 10:31 (UTC)[返信]
応神の実在を巡る記事、立派な記事を書いて頂き有難う御座います。--物部天照比古会話2023年11月20日 (月) 21:02 (UTC)[返信]
物部さん、お褒めいただきありがとうございます。今後とも宜しくお願い致します。--常陸のクマさん会話2023年11月21日 (火) 11:58 (UTC)[返信]
最新の見解をまじえたまとまりのある記事で読みやすくなりましたね。ありがとうございます!。--大伴旅人会話2023年11月25日 (土) 06:34 (UTC)[返信]
11月10日に継体天皇王族説も作成されていました。継体新王朝論への反論のようなので1記事にまとめることも可能かと思います。 --2001:240:241B:5028:2C64:62DB:7E3D:3682 2023年11月30日 (木) 23:29 (UTC)[返信]

継体天皇ページ:隅田八幡宮人物画像鏡503年説の記述について[編集]

みなさん、お世話になっております。

継体天皇ページの「隅田八幡神社人物画像鏡」の項の後半において、私が複数の出典を明記したうえで

複数の学者が、文献史学、考古学ともに503年説が有力であるとしている

との文章を以前書いたのですが、一昨日あたりになって物部天照比古氏は二度にわたりこの文章を削除して、

笹川尚紀(京都大学助教)は、和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる人物画像鏡の銘文から、継体天皇が「癸未年」(五〇三年) には、既に大和国の「意柴沙加宮」(桜井市忍阪付近に所在)に居たと見做す意見が支持される場合が少なくない。 けれども、継体天皇に該当するとされる十一から十三文字目の某王に関しては、諸案が提示されているように、文字を確定するのが至難であって、それゆえに、その銘文を土台にして、同天皇に引きつけて論を展開するのは、きっぱりと避けるべきであると考定されよう。と述べており、実際には、継体が503年に大和入りしていたのか?は不明である。」

という文章入れる編集をされています。が、「近年は503年説が有力である」との文章は私が言っているわけではなく、複数の出典資料にそう書いてあることなのです。たとえば今年2023年9月10に出版された佐藤信氏編の「古代史講義」92頁にも「近年では503年説が有力になっている」とはっきりそのように記されています。

その記述を削除する以上は503年説を否定し「近年では503年説は有力でない」と述べている資料を複数提示すべきだと思いますがいかがでしょうか?。

笹川氏はの説は単一の資料で氏の見解を述べているだけで503年説が有力である現状を否定する根拠にはなっていません。また笹川氏だけの説をこの項の最後に挿入することはあたかも503年説が否定されているかのような文章になるうえに、全体議論で異説の追加は一旦控えるという議論の流れにも反していると思いますのでこのような編集は止めていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。


--大伴旅人会話2023年11月4日 (土) 04:41 (UTC)[返信]

京都大学助教授の笹川尚紀博士が指摘されているように、十一から十三文字目の某王の銘文をもって、継体天皇であると決めるのは困難な状態にあるのは事実であると思います。
利用者:常陸のクマさん会話 / 投稿記録様にお伺いを立てて、クマさん様の回答を頂いてから、それを元に議論しても遅くは無いと思います。
お伺いを立ててみます。--物部天照比古会話2023年11月8日 (水) 12:17 (UTC)[返信]
物部さんにもお伝えしましたが、私はこの人物画像鏡については門外漢です。ただ、正直なところこの画像鏡については現時点でなんとも言いようがないものだろうと思っております。というのもこういう銘文解釈はなかなか正答が出ない分野なのです。有名な七支刀銘文にしても宮崎市定以来随分研究成果が積み上がっていますが、結局未だに倭王って誰?という結論がないようです。--常陸のクマさん会話2023年11月8日 (水) 14:48 (UTC)[返信]
常陸のクマさん、物部天照比古さん、
この人物画像鏡の問題は福山敏夫氏の説以来、半世紀以上もの研究があり、その成否をここで論じ切れるものではないと思います。
私は総論として実際に複数の学者が現在は503年説が有力であるとしている記事を元に
「複数の学者が、文献史学、考古学ともに503年説が有力であるとしている」
という一文を書いたのであり、それを単一資料の各論によって否定するような記事の編修はおかしくないですか、ということを指摘したいのであり、どちらの説が正しいのかということを述べているつもりはないので誤解されないようお願いいたします。--大伴旅人会話2023年11月10日 (金) 06:35 (UTC)[返信]
常陸のクマさん様、お忙しいところ、返信して戴き有難う御座います。
隅田八幡宮人物画像鏡の史料は、自分なりに探したのですが、あまりにも少なくて、記事を書くのが難しい状況でした。
御教示戴き、本当に有難う御座いました。--物部天照比古会話2023年11月10日 (金) 22:55 (UTC)[返信]
物部天照比古さん、
この人物画像鏡の問題は福山敏夫氏の説以来、半世紀以上もの研究があり、その成否をここで論じ切れるものではないと思います。
私は総論として実際に複数の学者が現在は503年説が有力であるとしている複数の記事を元に
「複数の学者が、文献史学、考古学ともに503年説が有力であるとしている」
という一文を書いたのであり、それを単一資料の各論によって否定するような記事の編修はおかしくないですか、ということを指摘させていただいております。ご回答をよろしくお願いいたします。
--大伴旅人会話2023年11月11日 (土) 02:28 (UTC)[返信]
笹川尚紀氏が、十一から十三文字の某王の銘文で誰かを決める事は出来ないって述べている記事の部分は残して欲しいです。
総論として、複数の学者が現在は503年説が有力である。としている。という結論で自分は良いと思います。
隅田八幡宮人物画像鏡の資料は、自分も探したつもりですが、資料が少なくて、良く分かりません。
自分が調べた限りでは、和田萃氏と世界大百科事典(2007年版)が、継体天皇とするのに否定的な見解を述べているようですが、笹川尚紀氏もよく分からないみたいな見解なので、503年説の数の多さから言えば、503年説で良いと思います。
現在は、大伴旅人さんと同じ見解に達しました。
宜しくお願いします。--物部天照比古会話2023年11月11日 (土) 13:23 (UTC)[返信]
了解いたしました。
ご理解ありがとうございます。一度編集してみますのでご確認ください。--大伴旅人会話2023年11月12日 (日) 07:44 (UTC)[返信]

「Category:YYYY年の〇〇県」の作成の是非について[編集]

表題の件について、プロジェクト:カテゴリ関連/議論/2024年/1月2日#Category:各年の日本 (都道府県別)で提議しました。特に日本史分野の記事を執筆されている方々のご意見を求めています。よろしくお願いします。--Doraemonplus会話2024年1月2日 (火) 08:01 (UTC)[返信]