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Wikipedia:井戸端/subj/記事「ウィキペディア」

記事「ウィキペディア」について[編集]

質問内容[編集]

現在、「ウィキペディア」および「ウィキペディア日本語版」「○○語版ウィキペディア」という記事が存在していますが、これらは「Wikipedia、或いはWikipedia日本語版による造語」ではありませんか? たとえば「全世界百科事典」という百科事典が存在したとして、その百科事典が「全世界百科事典とは紙媒体の百科事典である。問題点・課題は~。プロジェクトの運営形態は~。運営と展開は~」と自らのことに触れているようなものです。これらの説明は事典としての項目ではなく、 Wikipedia 空間に移すべきだと思うのですが。過去に議論などありましたらお教えいただけると嬉しいです。--GURAX 2007年12月27日 (木) 04:18 (UTC)[返信]

問題1.「自己参照を避ける」に抵触[編集]

解決済み自己参照については通常記事と同じように対処すべき

Wikipediaが関わった事件などについては議論があったと思うのですが、記事そのものについてはよく分かりません。しかしWikipedia:自己参照を避けるというガイドラインがあります。この元になった英語版には、「Wikipedia can, of course, write about Wikipedia, but context is important.」という一文があります。意訳すれば「勿論ウィキペディアには、ウィキペディア自身について書いてもいいのですが、書かれる文脈は大事です。」って感じでしょうか?(GURAXさんの利用者ページによるとen-0だそうですので念のため)英語版に従わなければならない訳ではありませんが、御参考まで。--ろう(Law soma) D C 2007年12月27日 (木) 05:41 (UTC)[返信]

参考意見とガイドラインありがとうございます。Wikipediaが関わったものでは、「ウィキペたん」などの例があることは存じています。それはともかく、ええと、「自己言及」「自己参照」について日本語版と英語版を一通り読んでみました(英語は苦手、という意味で en-0 設定です)が、ここで触れられているのは、基本的に「記事内でウィキペディア(の方針・議論)に触れる時には気をつけろ」ってことですよね(間違っていたらすみません)。日本語版の方針に容れるとしても、この論でいくと記事内で自己言及自己参照(というかもはや自己主張)しまくっているウィキペディアおよび各言語のウィキペディア各記事は大アウトだと思うのですが……。--GURAX 2007年12月27日 (木) 06:02 (UTC)[返信]
(追記)すみません、訊ねたいことがあやふやでした。「百科事典的でない」「WP:SELFに反する」として、Wikipedia 空間へ移動すべきかどうかお聞きしたいです。--GURAX 2007年12月27日 (木) 07:31 (UTC)[返信]
(追々記)「自己言及」となっていたところを「自己参照」へ修正しました。--GURAX 2007年12月27日 (木) 13:53 (UTC)[返信]

(インデント戻します)私の答えもあやふやでした。いいたかったことは、「おっしゃるとおり自己言及になるのでWikipedia名前空間への移動は検討の価値があるけれども、英語版ガイドラインにもあるように項目そのものは許容されているのではないか?」ということです。--ろう(Law soma) D C 2007年12月27日 (木) 08:16 (UTC)[返信]

私としては、WP:POVなどの他の方針は別論として、「ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版」は、「百科事典的でない」「WP:SELFに反する」とは考えません。Wikipedia:自己参照を避けるが禁じている「自己参照」(自己言及)とは、(1)主題からの脱線、(2)フォークサイトなどでの利用にふさわしくない内容になることを理由とするものですから、そのような結果を招くおそれのある自己参照に限定して解釈されるべきだと考えます。
  • 主題からの脱線という点については、「ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版」はウィキペディアそれ自体を主題としているのですから、その記事の中でウィキペディア自身に言及しても、必ずしも主題からの脱線とはならないと思います。主題からの脱線という理由で避けられるべき自己参照とは、例えばXHTMLの項目で延々とMediaWikiの機能を説明するとか、非営利団体の項目でウィキメディア財団を強調するとかいったものではないでしょうか。
  • フォークサイトなどでの利用にふさわしくない内容になるとは、例えば「上部の『編集』をクリックすれば、誰でも記事の編集をできるように…」といったような、その記事をウィキペディアのサイトで読んでいなければ意味が通じない記述をしてはならないということであって、そのような記述は仮に「ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版」という記事の中であってもWikipedia:自己参照を避けるに反するでしょうが、そのような特殊な記述がない限りは、「ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版」の記事でウィキペディアの成り立ち、歴史、現状に言及があってもなんら問題はないと考えます。
  • 「百科事典的でない」という点については、仮にウィキペディア関連の記事が標準名前空間であまりにも大きな比率を占めれば、ウィキペディア全体として百科事典としての性質に疑問が付くとは思いますが、記事単体としては必ずしも「百科事典的でない」ということにはならないだろうと思います。もし、「百科事典的でない」ということであれば、ウィキペディア以外の百科事典が「ウィキペディア」という項目を記載すればそれも百科事典的ではないのかということになると思いますが、そういう結論は直ちには受け入れがたいのではないでしょうか。
ただし、四つ留保をつけます。
  1. GURAXさんの挙げられたうち、ウィキペディア日本語版以外の各言語のウィキペディア各記事は確認していないので、意見を控えさせていただきます。
  2. ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版」についても、Wikipedia名前空間などにリンクがある点は、厳密に考えればWikipedia:自己参照を避けるに反し、百科事典的ではないだろうと考えます(適当なnoprintableなテンプレートで誘導するのが良策でしょうか)。
  3. 上の点を除いて、私は「ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版」は、「百科事典的でない」とも、Wikipedia:自己参照を避けるに違反するとも考えていないわけですが、これらが百科事典の項目としてとくに相応しいとか、Wikipedia名前空間よりも標準名前空間が相応しいとか考えているわけではなく、Wikipedia名前空間に移動することに反対するわけではありません。この点に付け加えますが、私がこのコメントを長々と書いたのは、むしろ「ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版以外の記事において、適切な理由と記述形式でウィキペディアに言及することを擁護するためであって(架空の例を挙げれば、Timesの表紙にウィキメディア財団が記載された場合にそのことへの言及をわざわざ回避する必要はないといったようなこと)、「ウィキペディア」及び「ウィキペディア日本語版」の項自体は、Wikipedia名前空間にあったほうがより好都合ではないかと思う点もあります。
  4. もし、ウィキペディア関連の記事が標準名前空間で飛びぬけて分量が増えるとか、標準名前空間でウィキペディアへの言及が多すぎるとかいう事態がおき、主題からの脱線を招いているか、フォークサイトなどでの利用にふさわしくない内容になるとなっていないかを、いちいちコミュニティの合意でもって精査していくのが過大な負担となるようであれば、主題からの脱線・フォークサイトなどでの利用にふさわしくない内容になるということを度外視して、標準名前空間でのウィキペディアへの言及を一律に禁止するというルールを作ることも止むをえないとは思います。しかし、現時点では、私にはWikipedia:自己参照を避けるがそこまで意図しているようには思えません。--Mizusumashi 2007年12月27日 (木) 08:44 (UTC)[返信]
お二方ともご意見ありがとうございます。Law soma さんと Mizusumashi さんの仰っている内容は、「ウィキペディア」「ウィキペディア日本語版」という項目が存在すること自体は「自己参照」には当たらず、「百科事典的でない」とは考えない、ということですね。たしかに、「自己参照を避ける」というルールは「Wikipedia自身について書くことで記事を歪めてはいけない」という論調ですから、正しいと思います。
ただ、「記事」自体は「WP:SELF」には抵触しない、ということは分かりましたが、「記事の内容」は「WP:SELF」に抵触しまくっている一部抵触する可能性がある、と。やっぱり移動する方が早いかもWP:SELFだけでは移動の根拠にはなりそうにないので、もう少し練ってみます。--GURAX 2007年12月27日 (木) 13:53 (UTC)[返信]
あ、いえ、「ウィキペディア」「ウィキペディア日本語版」の現在の内容も、「百科事典的でない」ということはないし、「WP:SELFに反する」ということもない(一語一句全てというわけではありませんが)、というのが私の意見です。ただ、繰り返しになりますが、Wikipedia名前空間に移動することに反対しているわけでもありません。--Mizusumashi 2007年12月27日 (木) 15:23 (UTC)[返信]
すみません、まとめに私意が混ざってました。現在の内容では一部のみ抵触するかも、ということですね(修正しました。これも違っていたらごめんなさい)。しかし、「WP:SELFに反しない」というだけで、「百科事典的でないとは言えない」の根拠には足りないように感じます。宜しければ最初に申し上げた造語の問題や、検証可能性についても、お目を通して頂けると嬉しいです(私もまだ「どうしても移動したい」わけではなく、「移動した方がいいのでは」という漠然とした感覚があるだけなので、色々見て回ってます)。ご指導ありがとうございました。--GURAX 2007年12月27日 (木) 16:05 (UTC)[返信]

問題2.内容の「検証可能性」について[編集]

ウィキペディアおよび各言語版の記事が標準名前空間にあることについては、私も「Wikipedia名前空間に移動すべきでは?」と疑問に思っていました。通常、百科事典の本文中に自身についての記事は書かないでしょう。執筆方針だとか、その百科事典が出版に至った経緯などは前書きや後書きに記されるべきことです。(他言語版についても同様) また、記事数などの統計はウィキペディア内の利用者によって更新されたものですから、検証可能性という点でもアウトと言えるかも知れません。--氷鷺 2007年12月27日 (木) 10:56 (UTC)[返信]

内容の一部が検証可能性を満たしていない、というのに同意です(もしかしたらソースを外部に求めることもできるのではないか、とも思いますけど)。--GURAX 2007年12月27日 (木) 13:53 (UTC)[返信]
第三者的な情報源による記述もあり、ウィキペディア自体を情報源とする場合でも公表されているものであればWikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトには合致しますし、出典はそれなりに付けられています。検証不可能な記述や独自研究が部分的に紛れ込んでいるとしても、それは他の記事と同様で、出典を探す、あるいは要出典を貼るなり編集除去するという形で対処すべきことかと考えます。--Ks aka 98 2007年12月27日 (木) 18:15 (UTC)[返信]
なるほど。記事として存在させるなら通常記事と同じように、ということですね。分かりました。--GURAX 2007年12月27日 (木) 22:19 (UTC)[返信]

問題3.「Wikipedia自身の造語」であることについて[編集]

最初の質問に戻りますが、内容以前に「ウィキペディア」「ウィキペディア日本語版」という項目自体がWikipedia内で作られ定義された造語の説明です。これは何かのガイドラインに反しませんか? --GURAX 2007年12月27日 (木) 13:53 (UTC)[返信]

「ウィキペディア」「ウィキペディア日本語版」という実態はあって、その語が一般化していて、定義自体はウィキペディア日本語版におけるそれぞれの項目でなされているのではなく、ジンボや財団によってなされているということになるのではないかな。--Ks aka 98 2007年12月27日 (木) 18:15 (UTC)[返信]
たしかに仰る通り、実態はあり、一般化もされ、定義自体は外部が行っています。しかし「ウィキペディア」は、 Wikipedia が存在しなければ、記事として、またそれ以前の前提である「事象」として成立し得ません。
例えば「ロンバルド語版ウィキペディア」はgoogleで154件しかヒットしません。他のマイナーな言語版(アイスランド語版アイルランド語版アルバニア語版など)も同じです。これらの造語はWikipediaによる「独自研究」だと言えます。この前提が正しければ、ひいては日本語版を含む全ての「○○語版ウィキペディア」記事や、「ウィキペディア」自体が Wikipedia自体 による独自研究(自作自演)であると言えます。--GURAX 2007年12月27日 (木) 22:19 (UTC)[返信]
Wikipedia:善意にとる。 --Saintjust 2007年12月28日 (金) 03:24 (UTC)[返信]
それは執筆者の行為を悪意に取らない、ってことですよね。ただ、今回のケースはむしろ善意を疑わないことによる弊害が出ると考えます。--GURAX 2007年12月28日 (金) 14:36 (UTC)[返信]
記事名になっているからといって「用語」であるとはかぎらないですから、「造語」(造った用語) だともかぎりません。複雑なテキスト配置という言葉はGoogleで検索すると、ウィキぺディア日本語版以外のソースでヒットするものはたったの1件だけです。なのになぜこの記事名にしたのかは、記事のノートでの議論を見てください。
「ウィキペディア」ないしは特定のウィキメディアプロジェクトという事象に関して検証可能な記述を行うのなら、それを表現するためのしかるべき呼称を記事名とすることに問題はないとおもいます。逆に、検証可能でない記述にそれらしい記事名を与えることによって記事の内容が検証可能であるかのように印象づけようとするのなら、当然問題でしょう。記事名だけを取り出して論じても、あまり意味がないようにおもいます。
まったく関係ないけど、ヴォラピュク版ウィキペディアって、登録利用者数が言語の話者数よりも多いんですね。 --Hatukanezumi 2007年12月29日 (土) 14:49 (UTC)[返信]

総合的に[編集]

なんだか哲学的な問いのような気もしますが、ちょっと考えてみました。あんまりとりとめがないですが。

  • 方針との矛盾を考えるなら、ガイドラインですがwikipedia:自分自身の記事を作らないかな。ただ、あまり方針やガイドラインとの整合性を考えても、結論は出ないような気がします。自己言及的な部分がある特殊な項目ですから、方針などとの齟齬が生じるとして排除することもできるし、同じ理由で例外として扱うこともできてしまいます。
  • 方針から離れて考えます。他の百科事典に存在しない理由としては、その項目の重要さと項目数の兼ね合いというのもあると思います。世界大百科事典(平凡)にしても、百科全書はあるとしても、冨山房や同文館、アメリカーナやラルースを載せて、現代新百科事典を載せるかどうかを考えるあたりまで項目数を増やせば、自分の項目も作るかもしれない。ウィキペディアは、項目数が多く、(好むと好まざるを問わず)特に作品記事は詳細に項目が立てられていますから、自分の項目があってもおかしくないと考えることもできそうです。それでもなお、誠実さとか、良識とか、奥ゆかしさとかいう部分で、自分の項目を作らないという考え方はあると思います。
  • 問題2、問題3でコメントした通り、それぞれの項目は、ある定義を自ら行うものではなく、定義も含めて客観的・説明的な記述として存在していると思います。記述のありかたとしては、Wikipedia名前空間に置くよりも、記事名前空間のほうが適しているかな、と。Wikipedia名前空間にあるなら、世界最大の百科事典を目指すのです!とか、寄付してください!とか、そういう記述が入り込んでもよさそうというか。自己紹介と目的の表明のようなものが書かれるべきで、オリジナルなテキストとして存在するのではないかと思います。とすると、metaに置かれた文書の日本語訳とか、そういうことになるのではないかなあ。
  • そうでなければ、コミュニティの合意によって作成されたプレスリリース的な説明文書という位置づけとして置く。「ウィキペディア」「ウィキペディア日本語版」と、財団あるいはジンボ、コミュニティの参加者の一人である利用者の関係から考えると、われわれ利用者は、コミュニティの一員としてウィキペディアの当事者ですし、個々の利用者の意志の集積としてウィキペディア全体としての意志が決定されるという面はありますが、投稿者一人がウィキペディアを代表するわけではない、という微妙な関係になります。そこで、Wikipedia名前空間に置くことの意味合いをどう捉えるか、ウィキペディア全体としての自己言及性を避けようとするか、投稿者の独立性を踏まえて記事とするか、みたいなところで考えるということになるのではないかなあ。--Ks aka 98 2007年12月27日 (木) 18:15 (UTC)[返信]
統合意見有り難うございます。すごく参考になりました。Ks aka 98 さんのご意見である「記事は記事として(自己紹介から)独立すべき」というのも、逆に「自己紹介(説明)と記事を統合すべき」という考えも両方分かります。正直、このあたりを兼ね合わせようとするのは至難だと思います。
ただ、Ks aka 98 さんの上のご意見には、「記事」であるならば「他の記事と同様に」扱う、とあります。この論を適用させるならば、方針を無視するべきではないのでは? 「Wikipedia:ルールすべてを無視しなさい」は今のところ草案状態です。自己言及独自研究という側面がある以上、通常の記事と同じように方針を適用させて移動すべきだとも言えます。--GURAX 2007年12月27日 (木) 22:19 (UTC)[返信]
えーと、まず長文での回答になりますことをお詫びします。先に結論から述べますと、私はむしろ「『ウィキペディア』を記事空間に書く」ことを支持します。やっぱり哲学的というか観念的な話になるのは避けられないのだけど、一つ思考実験を挙げてみたいと思います。
  • もしも、ウィキペディアとは別に、ウィキペディアと全く同等な百科事典プロジェクトがあったらどうなるか、という場合を思い浮かべて下さい。この二つを仮に、「ウィキペディアA(こちらが本家)」「ウィキペディアB」としましょう。ウィキペディアBは本家のウィキペディアAと全く同じ理念に基づき、NPOVや検証可能性、独自研究排除などの方針に基づいて書かれており、その設立時期も、記事数も、コミュニティの規模もABそれぞれ同等であるとします。ここ数年で、ABともにインターネット内で広く知られているだけでなく、新聞を初めとするメディアでも紹介され、一般社会でも十分に認知されている存在に急成長しました(=十分な著名性がある)。それぞれについて書かれた雑誌記事や書籍も出版され、その中にはウィキペディアを高く評価しているものもあれば、批判しているものもあり、評価は人によってさまざまです(ただしその評価もABで同等です)。このような状況を仮定したとき…
  1. ウィキペディアAの中に『ウィキペディアB』の項目は書かれるべきでしょうか? 書かれるとしたら、それは通常の記事空間に置くべきなのか、それともWikipedia名前空間に置くべきなのか、どちらでしょうか。
  2. ウィキペディアAに書かれた『ウィキペディアB』について、NPOVを十分に満足させる記事を書くことは可能でしょうか。それはウィキペディアAにある他の記事と比べて、問題になるほど困難なことでしょうか。
  3. ウィキペディアAに書かれた『ウィキペディアB』について、検証可能性を満足させ独自研究に当たらない記事を書くことは可能でしょうか。記述の出典となる「信頼できる情報源」として、何が採用できるでしょうか。
この三つの質問について、私の考える回答は以下のとおりです。
(1)社会的普及から見て、むしろ積極的に書かれるべき項目。通常の記事空間に置く。(2) 可能。達成は困難かもしれないが、少なくとも他の記事と変わらない(他にもっと難しい記事はいくらでもある)。(3)可能。情報源としては、(a) ウィキペディアBが公式に発表したアナウンスや、Wikipedia名前空間に書かれ、確立された「方針」や「ガイドライン」として認知されているものは「信頼できる情報源」として採用できる。(b) 個々の記事における記述や草案については信頼性に劣る。(c) ウィキペディアBについて述べた、外部のメディア等については、それぞれの情報源の信頼性に基づいて判断する。
この思考実験は、要するに「ウィキペディアは自分自身を正しく認知できるのか(いわゆる『客観的』に見れるのか)」という問いかけです。ここらへんを論じはじめると、おそらく「主観と客観」なんて概念に触れることになるのでややこしくなるのだけど、そこらへんはすぱっと省略します。なぜなら、実はウィキペディアには元々その答えが理念として掲げられてるからです。Wikipedia:中立的な観点 (NPOV) がまさにそれに対する回答になります。NPOVのポイントは、複数の観点が存在する場合には、そのいずれかの意見だけに立脚するのではなく、それぞれの観点から見たことをありのままに記述する、という部分にあります。「絶対的な中立的・客観的な記述」への到達は不可能かもしれないけれども、複数の観点を示すことで特定の主観だけに縛られることなく記述し、少しでもそれに近づこうとするのが、NPOVの理念なわけで。そのNPOVを理念として掲げる「ウィキペディア」についての記事が「自分自身については主観に縛られる(NPOVは無理だ)から」という理由で書かれないというのは、何だか矛盾してるというか…慎重になりすぎてやる前から勝負をあきらめてるんじゃないかとでもいうか、荒っぽい言い方をするなら「その程度であきらめるんなら、はなっからNPOVなんて掲げるんじゃねーよ」とでもいうか、まぁそういう印象を受けます。もちろん、この辺りは個人的な感じ方に過ぎないのだけども。もし、そういう記事をばっちり「NPOV的に書ける」ならば、すなわち「ウィキペディアは正しく自己評価ができる」ということが世に示せるし、それはウィキペディアの真価を示すことにもなるし、NPOVを単に口先で唱えるだけでなく「実践する」という意味からも大事なことなんじゃないかな、と思います。
GURAXさんが指摘されている自己言及についてですが、質問の2と3で挙げた点が「自己言及」で実際に問題点として挙げられているものです。で、そこでそれぞれに対する回答を「可能」と挙げたように、十分解決が可能なんじゃないか、と。自己言及については、うーん、実はがちがちに固めてしまうと、「専門知識のある人はその分野の記事をかけない」主張も出来てしまうようなガイドラインであるわけでして。それが「自分自身に関する記事」なのか「そうでない記事」なのか、という境界は、そもそも曖昧なものです。そして「ある執筆者」にとってウィキペディアが「自分自身に関する記事」に該当するのかそうでないのか、という部分も曖昧なものだったりします。もともと自己言及については「しないことが推奨される」けれども「禁止されてる」わけではないし、非推奨の理由はそれがしばしば執筆者の主観とNPOVが対立するトラブルを起こしてしまうことによるわけでして。仮にその執筆者がきちんと正しく自己評価でき、検証可能性とNPOVを満足するような記述を書いてくれるのであれば、禁止する理由は存在しません。その辺りの曖昧さに頭を巡らすこともなく「絶対禁止! 一律禁止!」みたいに言うのであれば、それは「まずルールありき」な、杓子定規なんじゃないかなあ、と思います。思考実験の最初の回答で述べたように、「ウィキペディアB」の記事はウィキペディアAに載せてもおかしくない、むしろ載せるべき記事なのだとしたら、それが「載せられない」というルールの運用に問題があるのだろうと。ルールの例外(というよりも、ルールの「文字通りの対応」を緩めるべき、程度のものだろうと思いますが)として認めた上で、上の回答の3で述べたように「どういう内容なら『自己言及』や『独自研究』の問題をクリアできるか」を話し合いながら書くのがいいんじゃないかな、と。
ただまぁ、この辺りは実際の運用を考えると難しいことも多いというか……いくらウィキペディア側が頑張ってNPOVを達成しようとしてても、周りからはどうしても「内輪でかばい合ってるだけ」にしか見られないケースは頻発するだろうな、と。例えば、取り上げる価値がないようなマイナーな個人のブログや、ゴシップ記事満載のいわゆる「東スポ」的なメディアを「出典」として、誰かが記述を追加した後、それを「信頼できる情報源とは呼べないから」という理由で除去しようとしたとします。そのとき、その記述がウィキペディアを絶賛するような内容だったら文句を付ける人は少ないでしょうが、逆にウィキペディアを非難するような内容だったら「ウィキペディアは自分に不利な記述を削除した!!!」みたいに騒ぎ立てる人がいくらでも出てくるでしょう。まぁ、仮に相手の方が「ウィキペディアは隠蔽組織だ!」みたいなスローガンを掲げてくるような「ちょっと変な人」のケースなんかだと、ウィキペディア側が熱くならずに冷静に対処していけば、傍から見てる人たちには判ってもらえるし、いずれは収まるところに収まるでしょうけど。でもまぁ、もしウィキペディアの記事を記事名前空間に置いておくのであれば、ここらへんの「情報源の取捨選択についての議論」は、ノートで前もって進めながら、分かり易いように書いておく方がいいんじゃないかなと思います。
個人的には「Wikipedia名前空間に書く」ということは、「Wikipedia POVで書かれた(書くことが許容される)文書」に当たると考えます。そこに置いておくことは、多分そういう質の悪い方の批判を避ける意味では「簡単な解決法」を与えるので、ある意味有用かもしれません。しかしその一方では、書かれて然るべき、いい方の批判を排除するための言い訳に使われかねない、という面もあるわけでして(まぁ多分、そういう批判についての記述は別ページに分割されて…とかなりそうな気がしますけど)。それは果たして「読めばウィキペディアをNPOV的に理解できる記事」になるのか、という点が疑問になるというか、それはそれでまずい方向に進みそうな危惧があったりします。むしろWikipedia:ウィキペディアを設けるのであればWikipedia POVに基づくウィキペディアの解説・紹介に、ウィキペディアは、NPOVに基づいたウィキペディアの「記述」に、というくらいに棲み分けできるなら納得するんだけど、まぁそれも冗長だろうしなあ、と。
まぁ正直言うと、私自身は「Wikipedia名前空間への移動には絶対反対!」などという強硬な立場を採るものではありませんし、ぶっちゃけていうと、どっちでも構わないとは思います。しかし「移動させなければならない」とGURAXさんが主張されている理由は上記のような考えから薄弱なんじゃないかなあと。そこまで、いわば「杓子定規に」ルール運用した実績を作っちゃうと、それはそれで別の機会にまた別のトラブルを生みかねないと考えますので、その理由での移動を認めることにはむしろ賛同できないです。--Y tambe 2007年12月28日 (金) 03:15 (UTC)[返信]
思考実験ありがとうございます。では私もその思考実験に参加させてください。
  1. ウィキペディアAの中に『ウィキペディアB』の項目は書かれるべきでしょうか? 書かれるとしたら、それは通常の記事空間に置くべきなのか、それともWikipedia名前空間に置くべきなのか、どちらでしょうか。
  2. ウィキペディアAに書かれた『ウィキペディアB』について、NPOVを十分に満足させる記事を書くことは可能でしょうか。それはウィキペディアAにある他の記事と比べて、問題になるほど困難なことでしょうか。
  3. ウィキペディアAに書かれた『ウィキペディアB』について、検証可能性を満足させ独自研究に当たらない記事を書くことは可能でしょうか。記述の出典となる「信頼できる情報源」として、何が採用できるでしょうか。
この三つの質問について、私は以下の意見を持ちます。1.については「積極的に書かれるべき」である。2.と3.についても可能である。しかし、ウィキペディア A とウィキペディア B が本当に「同等」であるならば、A の執筆者が A 自身の記事を、B の執筆者が B 自身の記事を執筆する際に、 NPOV と検証可能性を同時に満たすことは不可能である、と。
なぜかと言えば、A の執筆者は全員が ウィキペディアA というプロジェクトの参加者であり、その例外は無い、と言えるからです。NPOVを望むならば複数の視点からの執筆が必要になりますが。今回の場合は、その複数の視点が全く望めません。たとえソースを外側へ望むとしても、そのソースをもとに記事を執筆するのはプロジェクトの参加者です。つまり、執筆者が Wikipedia を執筆する際に、プロジェクト参加者以外の視点を持つことは不可能です。この一点において、「ウィキペディア」各記事は POVWP:NOR であると言えます。
「自己参照」(自己言及)については、確かに がちがちに固めてしまうと、「専門知識のある人はその分野の記事をかけない」主張も出来てしまうようなガイドライン です。ですが、外部の視点が全く望めないという点では、今回の場合は適用が可能であるのではないかと思います。
これらの問題を下で問うてみました。--GURAX 2007年12月28日 (金) 15:51 (UTC)[返信]

問題4.「中立性」について[編集]

長々と議論を続けてしまい、井戸端の利用者にご迷惑おかけしてすみません。この項目で私からお聞きしたいことは終わります。

  • Wikipedia 執筆者は、必然的に 全員がウィキペディア」というプロジェクトの参加者であり、その例外は無い、と言えます。つまり、執筆者が 「ウィキペディア」 を執筆する際に、プロジェクト参加者以外の視点を持つことは不可能です。
  • であるが故に、「ウィキペディア」という項目について執筆する場合、その項目について外部からの視点が全く望めません。たとえソースを外側へ望むとしても、そのソースをもとに記事を執筆するのはプロジェクトの参加者だからです。
  • 記事を執筆する際、NPOV を望むならば「複数の視点」からの執筆が必要になりますが、これらの点から、必然的に「プロジェクト内部からのみの視点」しか望めない「ウィキペディア」各記事は POVWP:NOR であると言えます。

以上、Wikipedia空間に移動すべきだとする根拠です。--GURAX 2007年12月28日 (金) 16:37 (UTC)[返信]

追加質問[編集]

  • まとめ
これまでの流れから、簡単に自分の意見をまとめました。
前提として
ウィキペディア」という記事は必然的に事典自身の自己紹介を含むため、事典が存在しなければそもそも事象として成立しない、という意味で、他の記事とは異なる性質を持つ。
「百科」を公正に記すために
ウィキペディア」という現象は一般に認知されているから、「商品或いはプロジェクトの一種」であるとして、説明を行う記事があってもよい。
「事典」として公正であるために
Wikipedia が「公正な事典」であり続けようとするならば、「ウィキペディア」という記事を作るべきではない。なぜなら事典自身の存在によって成立する記事は、自己言及独自研究の側面を持ち、またマイナーな言語版に至っては宣伝的な意味合いすら持つためである。かつ、Wikipedia という造語の根拠が Wikipedia 自身にある以上、それを記す事は Wikipedia の事典性・中立性に反する。
結論
百科事典は「百科」を記す以前に「事典」でなければならない。よって、「ウィキペディア」及び「各国語版ウィキペディア」(日本語含む)をWikipedia空間へ移動すべきである。
要約
要するに自作自演であり、独自研究からは出ていない、ということ。

おかしな文脈がありましたらご指摘願います。--GURAX 2007年12月27日 (木) 22:19 (UTC)[返信]

えっと、これは「自分の意見」なんですよね?自分の意見をまとめるには、ここはふさわしくありません。ま、それはさておき。
3点目について、上で皆さんが話された意見を読んでいないか誤認しているか、ともかく誤解があると思うのですが。自己参照の件はMizusumashiさんの御意見のとおりだと思いますし、独自研究の部分はあっても個別に対応可能との意見でしょう?実際あの脚注を見てなおかつ「独自研究の側面を持ち」などという意見がどうやったら持てるのか不思議です。「独自研究の部分を含み」なら分かりますが。あと、下でも書きましたが「事典」です。--ろう(Law soma) D C 2007年12月28日 (金) 01:55 (UTC)[返信]
はい、自己参照の件については理解しています。独自研究については自己参照とは関係なく(自己参照に抵触する部分も確かにあるのですが、別問題として)、むしろウィキペディアンが「自分自身の記述」をしている部分にて、独自研究だと考えました。上に整理します。--GURAX 2007年12月28日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
ブリタニカ百科事典には普通にブリタニカ百科事典の項目があるんだが。[1] --Saintjust 2007年12月28日 (金) 03:38 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。何が何でも移動させるべき、と考えているわけではないので、ブリタニカ百科事典の例は有り難いです。記事として存続させる場合、指針とすべきだと思います。--GURAX 2007年12月28日 (金) 14:10 (UTC)[返信]

上の「まとめ」からの理由で、私は「ウィキペディア」及び「Category:各言語のウィキペディア」に挙げられた全記事をWikipedia 空間内へ移動する事を提案したいと思います。

その前にひとつ確認させて下さい。この井戸端サブページを、移動提案の議論ページとして利用しても大丈夫でしょうか? 上の議論を参考にしやすいですし、今回の件はえらく複雑であるため、井戸端で行い、多くのご意見を集めたいという理由があります。もちろん、各ページに {{統合}} を貼り、各ノートからは誘導を行うつもりでいます。--GURAX 2007年12月27日 (木) 22:19 (UTC)[返信]

なんか随分話が大きくなったような気もしますが(苦笑)、提案に問題はないと思います。上でも書いたように私個人としては、検討価値はあるが移動する必要性をさほど認めていない感覚でいますが。
理由としてはMizusumashiさんやKs aka 98さんがおっしゃっているように「内容に問題があっても通常記事と同様の修正可能」と考えているからです。なお、他言語版の設置空間との整合性についていえば、ウィキペたんのときは英語版も日本語版もほぼ同一時期にWikipedia名前空間に移動(英語版は独自に議論のないまま「百科事典的でない」「自己参照」を理由に移動)してますが、相談したような履歴は見受けられませんね(ドイツ語版のウィキペたんは利用者サブページでその他の言語版は英語版の移動後の作成なので最初からwikipedia名前空間ですし)。Wikipediaに関する記事の設置空間は、整合性をとる必要はなさそうです。--ろう(Law soma) D C 2007年12月28日 (金) 00:35 (UTC)[返信]
ありがとうございます。提案に問題はないということで、上でもう少し煮詰めてから提案してみます。「Wikipediaに関する記事の設置空間は、整合性をとる必要はなさそうです。」とありますが、結局のところ整合性を取らざるを得ないと考えます。なぜなら、Wikipediaの中立性は、個々のウィキペディアンに判断が委ねられる、という点で、「Wikipediaに関する記事」は中立ではないからです。--GURAX 2007年12月28日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
(追記)あ、書くのを忘れておりましたが、「辞典」ではなく「事典」です。辞典とは辞書のことであり、Wikipediaは辞書でなく事典です。結構大事なのでお間違えのなきよう。--ろう(Law soma) D C 2007年12月28日 (金) 00:54 (UTC)[返信]
うおっ。すみません、特に気にせず使ってました。罫線を引くと読みにくくなりそうなので、置換修正[2]を行いました。ご指導ありがとうございます。--GURAX 2007年12月28日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
メリットがわかりません。--ゆきち 2007年12月28日 (金) 03:53 (UTC)[返信]
メリットは、Wikipedia空間に置いた場合、中立的な視点を無視できる、ということです。--GURAX 2007年12月28日 (金) 14:10 (UTC)[返信]
ええ、だから、そのメリットがわかりません。プロジェクト名前空間の主語は「わたしたち」であり、標準名前空間の主語は「ウィキペディア」です。それだけの違いですし、その理解で十分だと思うのですが。何を問題にしたいのかも基本的にはわかりません。--ゆきち 2007年12月29日 (土) 03:42 (UTC)[返信]
まず、問題としたいのはふたつです。「問題3」で触れているように、「ウィキペディア」という言葉自体がWikipediaによる造語ではないか、ということ。そして「問題4」で触れているように、内部からのみの視点では中立性が成り立たず、POV的な側面を持つということ。「その理解で十分」ではあるのですが、記事として存続させる場合は、中立性が必要です。--GURAX 2007年12月29日 (土) 10:33 (UTC)[返信]
ええ、だから、それの何が問題なのですか? 観点に偏りがあるなら、記事を修正すればいいだけです。標準名前空間から記事を消すことのメリットを教えて下さい。--ゆきち 2007年12月29日 (土) 14:29 (UTC)[返信]
ええと、メリットではなく、記事空間にあることのデメリットを主に言っています。内容に偏りがあると判断するのは、ソースから記事を書くのは、ソースの検証可能性を判断するのは、最終的に全てウィキペディアの参加者です。それは宣伝や POV と、一体どう違うのでしょうか? 内部のみの視点から中立性を保つためにはどうすればいいのでしょうか? という論旨です。ですから、メリットはその裏返し、中立性を気にしなくてよい、ということのみになります。分かりにくくて申し訳ありません。--GURAX 2007年12月30日 (日) 06:00 (UTC)[返信]
検証可能性、中立性に疑問があるなら、その記事を書き直せばいいのでは無いでしょうか。上にあげたように、プロジェクト名前空間と標準名前空間は役割が違います。自分達が主体的になって意見表明をする場合はプロジェクト名前空間を使うし、一般的な評価を書く場合は、標準名前空間の方が適切です。統合する方こそ、そうした分別を無くすことになり、デメリットが発生します。そもそも、プロジェクト名前空間に移動したからといって中立性を無視して自由に書けるわけではありません。従って、統合するメリットがほぼ発生しない話題と判断します。
あと、「検証可能性」と「中立的な観点」は意味が違います。検証可能性はその記事内容の反復可能性を示するもので、中立的な観点は記事内容の妥当性を検討するための視点です。また、当事者が書いたからといって即宣伝に値するわけではありません。そもそも、それくらいかき分けられないと、百科事典なんて作成できません。--ゆきち 2007年12月30日 (日) 09:34 (UTC)[返信]

(戻します)いや、意味が違うなんてことは分かってます。だから、その「可能性」を判断するのがウィキペディアン自身であるなら、それはもはや「記事」ではなく「自己紹介」と同じで、そこに中立性が存在できるなんて言えないと言っているんです。ウィキペディア内にある「ウィキペディア」という自己紹介の記事のために外部のソースを使うなんて無意味です。

検証可能性、中立性に疑問があるなら、その記事を書き直せばいい」とありますが……えー、何度も言いますが、その判断を下すのはウィキペディアの執筆者であります。記事内でプロジェクトについて触れている部分は、すべて自分自身の意思表明と何ら変わりありません。ソースが外部にあったとしてもです。--GURAX 2007年12月31日 (月) 06:28 (UTC)[返信]

提案ですが、Category:各言語のウィキペディア下のページをWikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディアに統合しては如何でしょうか? 現状、記事数や開設時期程度の情報しかないサブスタブが多いですし、統合先のページの内容も少々薄いので、統合すると丁度良い感じになると思うのですが。ウィキペディア日本語版については量と内容から現状維持でも構わないでしょう。シンプル英語版ウィキペディアはWikipedia名前空間への移動を支持します)--氷鷺 2007年12月29日 (土) 12:01 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。Wikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディアのサブページに移動して、メインページから呼び出す形にすると、それぞれへのリダイレクトも作れて二度お得ではないかと思いました。そういう形で提案をしてみようと思います。--GURAX 2007年12月30日 (日) 06:00 (UTC)[返信]

SELF-BIAS[編集]

この問題はWP:JPOVの言語間リンクの英語でリンクされている構造的バイアスの問題と関連するものであると考えますが、WP:JPOVもまたそういう側面を持ちますが、いわば、ウィキペディア日本語版参加者バイアスというものが避けられない項目というのは、ほかにも潜在的に存在するでしょう。しかし、そのことをもって、NPOV化が不可能であるというのは、観念的に過ぎる議論であると考えます。つねに外部の議論や批判を参照しつつ、修正を行うことで対応するほかないと考えます。これは「自分自身の記事を作らない」の一例でもありますが、個人の場合と異なり、たとえばウィキペディア日本語版という記事の執筆を依頼すべき他者を見出すのは困難です。そもそも、自己参照でない記事で、NPOV化されたかどうか判断するのも、wikipedia参加者の内部での合意に過ぎません。したがって、移動には積極的に反対です。ただし、記事内容には検討が必要かもしれません。また、心配であるなら、「この記事は自己言及の面があるため、wikipedia参加者には構造的に意識できない偏りがある可能性があります。」という趣旨のテンプレートを提案してはいかがでしょう。もっとも。こういうものは、wikipediaに批判的なひとに利用されそうですが。--Clinamen 2007年12月30日 (日) 06:32 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。はい、仰るとおり、構造的なバイアスの問題を有しています。潜在的に幾つもの記事がこの問題を有しているのだから、「ウィキペディア」の移動に反対、というのも分かります。たとえば「日本語」という項目は、「日本語利用者バイアス」を有します。しかし、「そもそも、自己参照でない記事で、NPOV化されたかどうか判断するのも、wikipedia参加者の内部での合意に過ぎません」とありますが、それは自己参照でない記事であるのだから、それがNPOVと判断されてもPOVと判断されても、その判断の中には外部からの視点が存在できる、と言うことができます。しかし、記事「ウィキペディア」ではその可能性がありません。この記事におけるその性質、ウィキペディア日本語版参加者バイアスは、限りなく黒だと私は判断します。
ただし、記事として存続させる場合は、上で Y tambe さんが仰るような、記事の執筆者(複数)が自分自身の公平さに頼る、という方法を取らざるを得ないと考えます。--GURAX 2007年12月30日 (日) 06:45 (UTC)[返信]
(追記)一応、追記しておきます。私自身が問題としているのはバイアスではなく中立性の問題なので、たとえば「ウィキペディアを執筆しながらにしてウィキペディアン以外の視点を持つことは可能だ」とか「内部からのみの視点でも十分に中立的な記事は執筆できる」というご意見があってもいいと思います。ただ、観念的すぎるから、という理由で考えるのを放棄できるなら、そもそもWP:POVWP:NPOVの概念を捨て去ることが可能になってしまうので反対です。「Wikipedia は中立的でなければならない」のはどうしてなのか、なんてことは私には分かりませんが、だから無視するというわけにはいかないでしょう。--GURAX 2007年12月30日 (日) 07:51 (UTC)[返信]
(反対)表明し忘れていたのでしておきます。「ウィキペディアを執筆しながらにしてウィキペディアン以外の視点を持つ」程度のことができなくて、中立性を保った記事が書けるんでしょうか。実際に存在する記事がどうであるかは別にして、それができないというのならそれこそ方針の放棄にほかならないでしょう。 --Hatukanezumi 2007年12月30日 (日) 08:15 (UTC)[返信]
反対表明受け取りました。ありがとうございます。ただし、ご意見には反対です。たとえば自分に直接関係のない知識を執筆する時には構造的バイアスはそもそも生じませんし、自分にとって密接な知識を執筆したい時なども、通常ならば中立と思われる記事を自分で書いたあと査読依頼コメント依頼に出せばすむ話です。私の意見は方針の放棄には繋がりません。--GURAX 2007年12月30日 (日) 08:37 (UTC)[返信]
なるほど。地球人は地球上のことを記事に書かないほうがよいということですね。コメント依頼や査読依頼をしても文明が滅亡するまでにコメントをもらえるかどうかわかりませんからね (冗談です)。しかし、コメント依頼や査読依頼は「自作自演」にならんのか? まあいいや。 --Hatukanezumi 2007年12月30日 (日) 11:50 (UTC)[返信]
いや、一生を宇宙ステーションで過ごす人が出るまでの辛抱ですし、今現在でも異星人が参加できる余地は十分あると言えます。……冗談です。基本的にこのプロジェクトは地球人のためのものですから、そこでバイアスを気にする必要はないです。同じように電波が届く範囲内というのは基本的に「宇宙」までなので、「宇宙」以上に大きなものを書く場合は Wikipedia の性質上、構造的なバイアスは生じなくなります。……真面目な話ですよ? あと、査読依頼はたしかに自作自演ですが、そこで問題があった場合に外部からの視点が介入可能という意味で、本件と全く違いますね。--GURAX 2007年12月30日 (日) 12:53 (UTC)[返信]
乗ってくれたのでちょっとだけ続けますが、だめです。宇宙のどの地点のことを書くにも、地球からの観測や地球人の視点に基づいて書くかぎりは。せめて、「他星の知的生命体との接触が可能になる (それも複数が望ましいです) までは、地球上のことを書かない」というルールくらいは、守ってください。
翻って、ウィキペディアでウィキペディアのことを書くと、なぜ外部からの視点が介入しないことになるんでしょう。そのような記事でも、外部の情報源に基づいて記述できることは、複数のかたが指摘されているんですが。 --Hatukanezumi 2007年12月30日 (日) 13:34 (UTC)[返信]
宇宙には絶対座標が存在しないので、「地球からの観測」というのも次の一瞬には実体が無くなるという問題が……。いや、冗談ですよ。しかし私の意見はこうです。「知的接触がないけど読んでるかもしれない相手」のことを考え始めると、幽霊だの異次元人だの猫だの無数の可能性が浮上します。ですからウィキペディアは基本的に「知的接触がある相手」との相互間プロジェクトです。よって今のところ異星人のことは考えなくていいです。付き合ってくださってありがとうございました。
あと、外部の情報源に関しては、繰り返しますが、その情報を選択して記事を執筆するのも、内容の検証可能性を判断するのも、すべてウィキペディアンである。これでは結局、内部のみの視点でしかない。ということを言っています。--GURAX 2007年12月30日 (日) 14:26 (UTC)[返信]

それをいったら全てウィキペディアンの視点でしかないですよ。逆にウィキペディアの記事だけそういうことを懸念する意味がわかりません。また、実際に記事を読んで、どう思われるのですか? --ゆきち 2007年12月30日 (日) 18:37 (UTC)[返信]

全ての記事がウィキペディアンの視点でしかないのは当たり前です。ウィキペディアを執筆するとき、全ての人間がウィキペディアンであるのは自明ですから(いや、「執筆するつもりはないのに執筆してしまった」という可能性もわずかながらありますけど、無視します)。ウィキペディアの記事だけそういうことを懸念する理由は、「ウィキペディアンではないけれどウィキペディアを読む人間」が確かに存在するからです(どんなウィキペディアンであれ、初めは読むだけのはずですから)。この記事ではプロジェクトとしてのウィキペディアの内容が大半を占めており、構造バイアスの問題が記事全体に発展していると言えます。他に強いてこの問題が適応できそうなのは「日本語」くらいでしょうか。あとの記事では節単位でバイアスが発生するだけなので(ところで構造バイアスについての説明はしなくても大丈夫ですか?)。
ええと、聞かれたので答えますが、「ウィキペディア」を記事として存続させる場合、私ならばこのように(草稿)書きます。これが自分自身の精一杯です。「プロジェクトとしてのウィキペディア」は記事として書くには栓無いことです。それこそメリットがありません。--GURAX 2007年12月31日 (月) 06:42 (UTC)[返信]
と、ここまで書いてようやく Clinamen さんの主張されていることが理解できました。確かに、節単位でバイアスが潜在する記事がある場合は、安易に記事移動や不記載で対応するより、テンプレート作って貼った方がメリットが大きいですね。あと、私自身もウィキペディアンである以上「中立性が疑わしい」と主張はできても「中立性が無い」と言い切ることはたしかに出来ません。移動の根拠としては弱い、のかなあ……。--GURAX 2007年12月31日 (月) 06:53 (UTC)[返信]
お気付きになったと思いますが、「ある人がこの程度しかかけない」というのは、ウィキペディアにとっては、どうでもいいことなのです。もっと書ける人がきちんと書き直せばいいのだから。「記事としての中立性を確立するのが難しい」という問題は、書き手に対して一律適用されることではなく、プロジェクト全体で補強していけばいいだけの話なのです。従って、「ある人から見て、特定記事に関して、その構造上必然的に歪みが生じる」という意見があったとしても、プロジェクト全体では無効化され得ます。そうした方法的観点から見て、プロジェクト名前空間と標準名前空間の混同は回避可能だし、回避されてしかるべきなのです。おわかりになりますでしょうか。あと、小さなことですが、BIASは、普通日本語的には「バイアス」ですよね? それとも、違う意味で使っていますか? --ゆきち 2007年12月31日 (月) 20:38 (UTC)[返信]
バイアスについて修正しました[3]。申し訳ありません、私の誤記です。ご指摘ありがとうございます。ただ、ご意見と私の主張が食い違っているように存じます。「ある人がここまでしか書けない」ということを問題視しているのではなく、「全員がここまでしか書けない。しかし、それ以外の意見も存在する」ということを問題視しているのです。--GURAX 2008年1月1日 (火) 13:00 (UTC)[返信]
「ある人から見て、特定記事に関して、その構造上必然的に歪みが生じる」という議論ではなくて、「プロジェクト全体として、特定記事に関して、その構造上必然的に歪みが生じる」懸念というのが論題ですので、その反論は少し違う気がします。そのうえで、私は、「プロジェクト全体」としての「自己参照によるバイアス」は、「個人」の場合の「自己参照によるバイアス」の場合(WP:AUTO)のような「ほかのひとがかく」という現実的な代案がない以上、「自分たちのことは書かない」という手段はとれない。そのうえで、「自己参照によるバイアス」は、私は完全には避けられないという点までは、GURAXさんの議論に同意します。したがって、「自分たちのことだからといって中立的に書けないことはない」というような、個々の自覚の問題に解消すべきではありません。なぜなら、こういうメタレベルからの議論が問題にしているのは、統計的にそうなる傾向や力が働く、ということだからです。システムレベルの原因にはシステムレベルの対策が必要でしょう。そのうえで、「完全には避けられない」から、記事空間におけないというのは極論だと考えます。ゼロと完全な中立性との間にはいくつもの段階があります。これは「自分自身の記事を作らない・書かない」というガイドラインが守れない場合に、どうやって記事の中立性を確保するかについて、個人や組織の場合のケースからの類比で考えると具体的になると思います(たとえば、トヨタの人にトヨタの記事を書いてもらわざるを得ないと仮定した場合)が、そういう形で、「事前に危険性を自覚する」ことは必要ですが、そうすることによって、記事として許容すべきであると思います。なぜならば、記事としてつくらないデメリットの方が、完全には中立的ではない懸念が構造的に付き待とう記事として残すデメリットより大きいと思われるからです。(念のため。現状の記事内容に問題があるとは思ってません)もうひとつは、単純に、Wikipedia:ウィキペディアについてとかぶる気がします。ですので、私は提起の意義は認めるが、提案された対処法には同意しない、です。--Clinamen 2008年1月1日 (火) 07:39 (UTC)[返信]
また、WP:AUTOも自分の事について「書くな」とはしていません。WP:AUTOが直接適用される事例ではありませんが、参考になる態度だと思います。--Clinamen 2008年1月1日 (火) 07:44 (UTC)[返信]
はい。WP:AUTOを直接適用できる、という考えは捨てます。あと、私の意見が極端だということも大体議論の中で分かりました。Clinamen さんのご主張は正しいご意見だと思います。ただ、この問題についてテンプレートを作って対応すれば、Clinamen さん自身が仰っているように批判的な用途で使われることが必至ですし、そもそもそれ以前に多くの利用者に問題点を認識して頂けていないような気もしますし、正直、どこから手をつけていいのかが分からない状態なので、とりあえず惰性で移動提案を初めようとしています。また、もうひとつ私自身の意見ですが、自己紹介以上になれない記事を存続させておくメリットについて、今でもよく分からないままなんです……。よろしければご意見をお聞かせください。--GURAX 2008年1月1日 (火) 13:00 (UTC)[返信]
(追記)私の理解が甘かったと分かりました。記事を存続させるメリットも分からない。バイアスの問題についての認識もあまり広くはない。ならば、段階を踏んで……、ということになりますね。Clinamen さんのご意見の通りです。私の提案の代替案として、「Template:構造バイアス」と「Wikipedia:構造バイアス」の試案を作ってみます。--GURAX 2008年1月1日 (火) 14:23 (UTC)[返信]
ちょっと待った。その「構造バイアス」とやらの合意はとれているんですか? そもそもの中立的な観点以上の価値を持つものなんですか? なんでひたすらその点に拘るのか、いまいち不明なのですが。--ゆきち 2008年1月1日 (火) 15:01 (UTC)[返信]
すみません、何を待てばいいのか分からないです。合意についてはもうちょっと後になると思います。価値についてはここで語るより試案の現物を見た方が早いのではないかと思うので、もうしばらくお待ち下さい。
ひょっとして「構造バイアス」という私の呼び方が不味かったですか。「構造的バイアス」とか「構造的な偏り」とすべきかもしれませんね。--GURAX 2008年1月2日 (水) 23:07 (UTC)[返信]
誰も理解していない、共有されていないツールなんて、あっても誰も使いませんよ。それに、Wikipedia名前空間で記事を書くということは、ウィキペディア全体の意見ということにもなるのですが、いまだにその点のコンセサンスが取れているように思えないのですが。それから、そのテンプレート、いったいどこに貼るつもりですか? 単に「ウィキペディア」の記事だけを問題にするなら、当該ノートでやりとりした方がいいですよ。--ゆきち 2008年1月3日 (木) 15:39 (UTC)[返信]
まだ試案を作っている段階なのに随分気が早いような。いきなり誰も使わないツールを作ったりはしませんよ。テンプレートを実際に作成する時は、当然ながら「ウィキペディア」のノートでもお話させて頂くと思います。いつになるか分かりませんが。--GURAX 2008年1月4日 (金) 05:24 (UTC)[返信]

私の立場をまず書いておきます。私は記事空間に置いておくべきと考えます。理由は単純に、その方がより厳しい執筆基準が要請されるからです(おそらくWikipedia空間においておくと、厳しい記述というより、どこかしら楽しげな記述や、気の抜けた記述ばかりが、支配的になってしまうでしょう)。

で、論点は多岐にわたっているようですが、まず基本的な二点。

  1. Wikipediaの目的が「質・量ともに世界最高の百科事典を作ること」であること
  2. その目的を実現するために、手段として、各方針が用意されてること

つまりWikipediaの各方針は、公理の集まりでも、または公理の集まりから導かれた定理のようなものでもありません。そういう数学の演繹体系のようなものとしてWikipediaの各方針文書を捉えていては話がおかしくなります。Wikipediaにはまず目的があります(質・量ともに世界最高の百科事典を作る)。そしてその実現のために各方針がある、こういう順番です。この順番を間違えないようにしてください。 そして最後に方針間の整合性の問題です。

  1. 各方針は、完全な整合性を前提して作られてるわけではない

整合性の問題は論理学的には充足可能性といわれる問題になります。そして整合性を持たない方針間の優先順位の問題は、実際の法律でもよく問題になるもので、憲法一般法特別法総則などといったキーワードと絡めて議論されます。以上、私にわかる範囲だけですが簡単に。--Was a bee 2008年1月1日 (火) 02:34 (UTC)[返信]

はい。ご意見は正しいですし、私の意見もその3点から出発しています。大丈夫です。ただ、私は「どんな記事であれ多ければ多いほど良い」わけではない、と考えていますし、たぶんこれは Wikipedia の方針と一致すると思います。その上で、もし記事として不適切な記事が存在するという意見を持った場合、その意見を述べるべきだと考えています(もし違っていたらすみません)。今回は「ウィキペディア」という記事にプロジェクトについて触れられている部分が多く、どうしても自己紹介以上の内容にはならないと判断したため、現在は「そもそも何が問題なのか」を説明している次第です。つまり、方針に背いているという理由だけで移動を提案するつもりはありません。完全に方針を整合させるつもりはありませんし、間違っても私は「方針をすべて適応させるべきだ」と主張しているわけではありませんので、どうかご了承ください。
充足可能性問題のご意見ありがとうございます。今回の場合、その原因が構造バイアスであることは瞭然なので、「Wikipedia:構造バイアス」という試案を作ってみようと思います。ありがとうございました。--GURAX 2008年1月1日 (火) 13:00 (UTC) (追記を行いました)--GURAX 2008年1月1日 (火) 14:23 (UTC)[返信]