衣枳広浪

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衣枳 広浪(えき の ひろなみ、生没年不詳)は、奈良時代官人氏姓は衣枳、のち高篠官位従五位下木工助駿河介。氏は衣只、名は広波とも表記される。

経歴[編集]

天平勝宝6年(754年)8月8日の「百部法華経充本帳」[1]および同年の「写経所経師以下上日帳」[2]などに「衣枳(衣只)広波(広浪)」の名が現れており、同年8月に東大寺写経所の経師として出仕し[1][3]、9月には同じく未選舎人・経師として上日した[2]。天平勝宝中に古兎毛筆・好墨を所望して記した、年月不詳のも伝わっている[4]延暦2年(783年)6月17日太政官にも、「正六位上左少史衣枳首広浪牒」という自著が見えている[5][6]

桓武朝延暦3年(784年)8月、左少史で正六位上の広浪らに高篠連の氏姓を与えた、とある[7]。同年12月、長岡京の造営に功労のあるものに位階位を与え、造営役夫を進上した諸国の田租を免ずるという詔が出され、その一環として、広浪も従五位下に昇進している[8]。翌延暦4年(785年)7月、左大史に任命され[9]、同9年(790年)3月、木工助でありながら駿河介を兼任している。同時に任命された駿河守は藤原黒麻呂[10]。なお、この時の「木工助」は、長岡京木簡に見える「高篠連□□」と一致している[11]

同年閏3月、皇后藤原乙牟漏の葬儀の際には、藤原黒麻呂・桑原足床阿倍広津麻呂栗原子公とともに御葬司を務めている[12]

官歴[編集]

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『大日本古文書』巻4 - 18頁
  2. ^ a b 『大日本古文書』巻13 - 109頁
  3. ^ 『大日本古文書』巻13 - 80頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻25 - 209頁
  5. ^ 正倉院『東南院文書』第3 - 85頁
  6. ^ 『平安遺文』巻1 - 1頁
  7. ^ 『続日本紀』巻第三十八、桓武天皇 今皇帝 延暦3年8月3日条
  8. ^ 『続日本紀』巻第三十八、桓武天皇 今皇帝 延暦3年12月2日条
  9. ^ 『続日本紀』巻第三十八、桓武天皇 今皇帝 延暦4年7月29日条
  10. ^ 『続日本紀』巻第四十、桓武天皇 今皇帝 延暦9年3月9日条
  11. ^ 『木簡研究』第9 - 36頁
  12. ^ 『続日本紀』巻第四十、桓武天皇 今皇帝 延暦9年閏3月11日条

参考文献[編集]