蓼科温泉郷

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蓼科温泉郷
郷内にある石遊の湯(現在は休業中)
温泉情報
所在地 長野県茅野市
交通 鉄道:中央本線茅野駅下車
泉質 単純酸性泉単純温泉硫酸塩泉
泉温(摂氏 30〜90
pH 2〜3
液性の分類 酸性
浸透圧の分類 低張性
宿泊施設数 12
外部リンク 蓼科温泉郷
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蓼科温泉郷(たてしなおんせんきょう)は、長野県茅野市(旧国信濃国)にある温泉である。

泉質[編集]

蓼科温泉郷の各温泉[編集]

各温泉地は北八ヶ岳の山麓、標高1200 - 1500メートルに位置する。滝ノ湯川に沿って、温泉地が点在する。

蓼科親湯温泉(たてしなしんゆおんせん)[編集]

蓼科高原を流れる滝ノ湯川沿いに、一軒宿の「蓼科親湯温泉」が存在する。創業は大正15年(1926年)。

泉質
宿泊施設

滝の湯温泉(たきのゆおんせん)[編集]

滝ノ湯川沿いに一軒宿の「蓼科グランドホテル滝の湯」が存在する。創業は大正12年(1923年)。

泉質
宿泊施設

蓼科三室温泉(たてしなみむろおんせん)[編集]

蓼科湖畔に立地する別荘地の一角に、数軒程の宿泊施設と2軒の日帰り温泉が存在する。[1]。また、当地はユーラシアプレートフィリピン海プレート北アメリカプレートの境界線上にある[2]

泉質
  • ナトリウム-塩化物・硫酸塩泉(弱酸性低張性高温泉)
    • 泉温 60〜90℃
宿泊施設
温泉施設
  • 小斉の湯

石遊の湯(いしやすのゆ)[編集]

蓼科三室温泉から南に進んだ山中に日帰り温泉施設が存在するのみ。

泉質
温泉施設

歴史[編集]

開湯時期については諸説あり。(平安時代に坂上田村麻呂が発見した説、武田信玄による開削の時に湧出した説)蓼科温泉郷 - 歴史

江戸時代に高島藩が所有し湯請人に運営委託していた3温泉(現在の蓼科温泉郷・奥蓼科温泉郷)があり、明治以降、地元住民が県から借り受ける形で営業を行った。北山村発足直後の1879年には次の状況だった(「北山村誌」)。

滝の湯 - 浴場 3・宿舎 3・年間入湯客 約1,500人 親湯(巌温泉) - 浴場 1・宿舎 3・年間入湯客 約1,300人 渋の湯 - 浴場 2・宿舎 4・年間入湯客 約3,200人 交通の便が悪いため、明治末にかけて近隣各村の高齢農民の自炊湯治を主とする湯治場の状態が続き、外部からの観光客は少なかったが、小説家の伊藤左千夫や日本画家の平福百穂らが、湯川区の歌人、篠原志都児(しづこ)らの招待で親湯に滞在し、蓼科高原の様子を作品を通して紹介したことを契機に、中部地方一帯から関東地方にまで知られるようになった。

1903年に渋の湯が糸萱新田・芹ヶ沢財産区に、1909年に滝の湯・親湯が湯川財産区に払い下げられ、ともに競争入札で財産区民から湯請人を選び経営を請け負わせた。同時期に北山旅舎組合、北山温泉衛生組合、山浦鉱泉組合の各温泉業団体が発足し、道路整備や宿泊料の協定、防火衛生設備の充実や共同広告の実施などを進めた。また明治末期には滝の湯に近い湯川財産区有地内に小斉温泉(小斉の湯)が設けられた。

1900年代には茅野駅と各温泉を結ぶ茅野駅馬車組合の乗合馬車の運行が始まり、夏季を中心に次第に賑わうようになった。1919年には滝の湯の経営者、矢崎源治が「滝の湯自動車」を創設して小型バスを運行し、茅野駅─湯川間を2時間で結んだ。滝の湯自動車は1927年に茅野駅─滝の湯間の運行も開始し、同年には渋の湯経営の辰野茂も「渋の湯自動車」を設立。1929年には矢崎源治や茅野・上諏訪の商店主らが設立した「東諏自動車」が営業を開始し、米フォード社製バスで茅野駅─湯川─小斉の湯間で乗合バスの運行を始めた。

交通機関の発達で、蓼科温泉の湯治客は伊那・佐久地方や山梨県などに拡大した上、夏には避暑・静養を目的とする東京などからの観光客が急増。また大正期から盛んになった八ヶ岳登山も、北八ヶ岳からの縦走者の増加にともない、渋の湯などが登山基地として多く利用されるようになった。

アクセス[編集]

自動車

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]