立花種澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

立花 種澄(たちばな たねずみ、慶安元年(1648年[1] - 正徳5年10月3日1715年10月29日))は、江戸時代中期の旗本筑後国三池藩主家立花氏の分家。は種澄。通称は五左衛門、左兵衛。父は三池藩主立花種長、母は市橋長政の娘。兄は立花種明。正室は加藤光定(平内)の女。養子は立花種秀。実子は娘(立花種秀妻)、娘(東条義武妻)、娘(立花種秀養女、立花達好妻)。

生涯[編集]

三池藩主立花種長の二男として生まれたとされる。寛文7年(1667年)11月に召されて書院番士に列し、寛文9年(1670年)12月に蔵米300俵を賜る。

元禄3年(1690年)8月に桐間番士へ転じる。しかし元禄5年7月31日(1692年9月10日)に故あって小普請に降格されて出仕停止となり、元禄7年5月(1694年)に赦免されて書院番士に戻る。

実子は娘3人のみであったので、甲府藩士の南条宗俊(与兵衛)4男であった種秀を婿養子に迎える。

正徳3年(1713年)5月に書院番士を辞し、正徳5年(1715年)に死去。享年68。法名は宗松。墓所は下谷広徳寺で代々の墓所とする。

脚注[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜記載の享年からの逆算

参考文献[編集]

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第2』(続群書類従完成会、1964年)
    • 寛政重修諸家譜 巻第百十三