穂井田元清

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穂井田 元清
毛利元清肖像(来福寺所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文20年(1551年
死没 慶長2年7月9日1597年8月21日
改名 毛利元清→穂井田(穂田)元清→毛利元清
別名 通称:少輔四郎
戒名 洞雲寺殿笑山常快禅定門
墓所 洞雲寺広島県廿日市市佐方)
官位 伊予守治部大輔従四位侍従
幕府 室町幕府
主君 毛利輝元
氏族 大江姓毛利氏穂井田氏→毛利氏
父母 父:毛利元就
母:乃美大方乃美弘平の娘?)
兄弟 女子、毛利隆元五龍局宍戸隆家正室)、吉川元春小早川隆景芳林春香上原元将室)、元清毛利元秋出羽元倶天野元政末次元康小早川秀包
正室:松渓妙寿村上通康の娘)[1]
宮鶴丸[1]雪庭妙青細川元通室)[1]秀元宮吉丸[1]天遊以貞熊谷直貞室)[1]生和順長阿曽沼元郷室、毛利元鎮室)[1]久嶽貞昌宍戸広匡室)[1]
特記
事項
二宮就辰井上元勝を毛利元就の落胤とする説があり、それに従うと両名は元清の異母兄にあたる。
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穂井田 元清(ほいだ もときよ)/毛利 元清(もうり もときよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将安芸国戦国大名である毛利元就の四男。名前は穂田元清とも表記する。

生涯[編集]

幼年期から元服[編集]

天文20年(1551年)、安芸国戦国大名である毛利元就の四男として誕生する。母は元就の継室[注釈 1]である乃美大方

元就の正室・妙玖の子である毛利隆元吉川元春小早川隆景の3人の異母兄達が元就から大切にされたのに対して、元清を始めとする継室(側室)の子達は、弘治3年(1557年11月25日に元就が記した三子教訓状において「虫けらなるような子どもたち」と表現されている[注釈 2]。しかし粗略に扱われたわけではなく、「もしこのなかでかしこく成人するものがあったならば、隆元・元春・隆景は哀れんで、いずれの遠境などにでもおいてほしい」とも依頼している。一方で「たいては、まぬけで無力なものだろうから、その時はどのようにされてもかまわない」とも述べており、そこには正室の子と継室(側室)の子を明確に分ける元就の配慮が読み取れる。

永禄9年(1566年)、甥に当たる本家当主・毛利輝元の加冠を受けて元服する。

永禄11年(1568年)、毛利氏の伊予出兵後に村上水軍との関係を強化する必要もあり、来島村上氏の村上通康の娘・松渓妙寿を正室として迎えた[2]

同年4月まで大内氏旧臣で新当流の達人であった石川種吉から兵法(剣術)を習い、相伝を受けている[3]

穂田姓を名乗る[編集]

永禄11年(1568年)に毛利氏が九州北部に侵攻した際に備中国が手薄になると、これに乗じて宇喜多直家が毛利氏に背き、備中松山城、備中猿掛城を攻め落とした。元清は父に命じられて三村元親と共に猿掛城を奪還し、松山城からは庄高資を追い出した。

永禄12年(1569年)、毛利氏が九州北部の覇権を巡って大友氏と対立したため、立花山城の戦い門司城の戦い多々良浜の戦いに出陣。同年12月には備中に兵を移し、熊谷信直や三村元親と共に宇喜多氏に臣従した植木秀長佐井田城攻略を目指して兵を進め、後月郡小田郡浅口郡を順調に平定して佐井田城に向かったが、援軍に駆けつけた宇喜多直家配下の戸川秀安に敗れ撤退した。

永禄13年(1570年)頃、安芸桜尾城を与えられ[4]、元亀2年(1571年)2月には再び庄高資に奪われた松山城奪還のために三村元親と共同で攻め込み、庄高資を討ち取って松山城を奪い返した。

天正2年(1574年)、毛利氏がそれまで敵対していた宇喜多直家と事実上の同盟を結んだため、宇喜多直家に父・三村家親を暗殺された遺恨を持つ元親は毛利氏から離反した。

これに対し、兄の元春と隆景に従って三村元親討伐のため出陣し、翌天正3年(1575年)6月には三村元親を切腹させ、11月には三村氏残党の拠る杠城を攻め落とし、三村氏を完全に降伏させた(備中兵乱)。この功と元清自らの愁訴によって猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられた。元清は桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて備中猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。

この時、元清は安芸桜尾城の支配権を保持したまま猿掛城の権限を手に入れているが、一人が二城を有したことは毛利氏においては異例の出来事であり、元清が新たに猿掛城を手に入れたことに関して八弟の末次元康は不満を顕わにしている。このことから、元清が吉川元春や小早川隆景を除く他の毛利一族よりも優遇されていたことが窺える。

また、この時に猿掛城のあった穂田郷の在名から、穂田(穂井田)姓を名乗っている。後年に作成された「末家両川巨室系図」などの家譜等では、元清が三村家親の子である穂井田元祐(庄元資)の養子となり穂井田姓を名乗ったとしているが、年不詳(天正7年以降)8月14日付の村山大夫宛て毛利元清書状[5]において、毛利輝元に遠慮して在名である「穂田」を名乗ったと元清自らが述べ、庄氏との関係を否定している[6]

天正4年(1576年)、麦飯山の戦いにおいて宇喜多基家の軍勢と戦い、天正5年(1577年)に織田信長による中国攻めが始まると、児島の戦いにおいて信長に通じた宇喜多直家の軍勢と戦ってこれを撃退。また、羽柴秀吉の軍勢に取り囲まれた桂広繁の軍勢を元清自らが3,000の兵を率いて救出した。

天正6年(1578年)の上月城の戦いでは、七弟の天野元政と共に自ら軍の先頭に立ち、上月城を落城させるという大功を立てた。

豊臣政権下[編集]

天正10年(1582年)、備中鴨城において、羽柴秀吉の軍勢と戦った。また同年、備中高松城の戦いの際に毛利氏は秀吉と講和を結ぶ。以後は秀吉に臣従した毛利氏の下で各地を転戦した。

天正12年(1584年10月15日、嫡男の宮鶴丸備中中山城において死去したため、次男の宮松丸(後の毛利秀元)が嫡男となった[1]

天正13年(1585年)の四国攻めに出陣。また同年、嫡男の毛利秀元が毛利輝元の養子となったため、文禄2年(1593年)11月までに元清も名字を「毛利」へ復している[注釈 3]

天正15年(1587年)、九州平定に出陣する。

天正16年(1588年)、輝元に従って上洛し、秀吉から豊臣姓を下賜された[7]。また、同年7月28日に輝元の参議任官式が宮中で行われた際には、冠と赤装束を着用し輝元の供として従った[注釈 4]

天正17年(1589年)、二宮就辰と共に安芸広島城の築城、及びその城下町の建設の普請奉行を勤めて指揮している。

天正18年(1590年5月7日、正室の松渓妙寿が桜尾城にて死去する[1]

天正19年(1591年)、輝元から12,000石の知行地を与えられている。また、この頃に実施された検地の結果、有力家臣や寺社に対して発給された打渡状に署判を記した8人の重臣[注釈 5]のうち元清は唯一の一門出身者であると共に、元清か安国寺恵瓊のどちらかが必ず筆頭の署判を行っており、小早川氏・吉川氏が独自の地位を築いていく中で、元清が恵瓊と共に毛利氏の年寄筆頭として当主である毛利輝元を補佐していたと考えられている[8]

文禄元年(1592年)、文禄の役では、病床にあった輝元に代わって自ら毛利軍の総大将となった。この時、秀吉は元清に土産としてを所望しており、元清は虎を2頭生け捕りにして秀吉の下へ送っている。その虎はの市中において評判となり、後陽成天皇も物見に訪れたという。

晩年[編集]

元清の墓と伝わる宝篋印塔。右手前90°西向きに妻の墓とされる宝篋印塔がある。ただし基礎は格狭間の手法を除き大きさ、比率とも同型だが、笠や相輪の形態は異なる。洞雲寺廿日市市

慶長2年(1597年)1月、豊臣秀吉が再度朝鮮半島へ出兵することを決定し、翌2月には記された陣立図には毛利秀元に3万の軍勢が配されている[9]。しかし、この陣立図に元清や小早川隆景の名が記されていないことから、この時点で既に両名が体調を崩していた可能性が指摘されている[9]

同年6月13日に小早川隆景が死去したが、その1ヶ月後の7月9日に桜尾城において47歳で死去した[注釈 6]洞雲寺には元清夫妻の墓と伝わる宝篋印塔を始め、桂元澄夫妻や陶晴賢の墓と伝わる宝篋印塔、友田興藤の墓とされる宝篋印塔がある。

なお、江戸時代初期に、元清の子孫は長州藩の支藩である長府藩清末藩の藩主として存続する。輝元の直系が絶えた後、元清の子孫は本家の養子として長州藩主となり(5代・吉元、その直系断絶後に7代・重就)、毛利氏の嫡流としてその系統は幕末まで断絶しなかった。

人物[編集]

  • 生母の乃美大方の老後を常に心配し、自身の弟達のことも気遣う温厚な人物であった[10]
  • 側室から生まれた兄弟の中でも特に才覚に溢れた武将と言われた。
  • 山陽方面の東部の最重要拠点である猿掛城を守備していた事もあって、特に三兄・小早川隆景と関係が深く、多くの戦いにおいて隆景の軍勢に属して戦った。

逸話[編集]

  • 元清はよほど小早川隆景を信頼していたためか、弟達の中でも特に仲が良かった天野元政に「困ったことがあったら、何事も景さまに相談するように」と話したという。
  • 死期を悟った元清は、同じく病床にあった隆景と共にどちらが先に死ぬかという会話を行い、その後少ししてから隆景が亡くなり、1ヶ月後に元清も亡くなったという。

肖像画[編集]

山口県下関市来福寺に所蔵されている元清の肖像画は、元清没後の慶長11年(1606年)に描かれており、元清の菩提寺である笑山寺の実質的な開祖となった三庭龍達を記している[11]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 乃美大方を毛利元就の側室とする場合もある。
  2. ^ 三子教訓状が書かれた時点で生まれていた元就の庶子は、当時7歳の四男・元清、6歳の五男・元秋、3歳の六男・元倶の3人である。
  3. ^ 文禄2年(1593年11月24日付で元清が石田三成増田長盛に宛てた請書(『相良家文書』第731号)では「毛利治部大輔元清」と署名している。また、天正16年(1588年6月2日付で毛利輝元が益田元祥に宛てた書状(『益田家文書』第406号)では元清を「穂治(=穂田治部大輔)」と記しているため、元清が名字を「毛利」に復したのは天正16年(1588年)から文禄2年(1593年)の間の事と考えられる。
  4. ^ 元清の他には小早川隆景吉川広家が冠と黒装束を、福原元俊口羽春良渡辺長林就長三浦元忠堅田元慶が元清と同様に冠と赤装束を、粟屋元種国司元蔵折烏帽子と風折狩衣を、その他の供衆は烏帽子直垂をそれぞれ着用し、輝元の供として従った。
  5. ^ 8人は年寄4人と奉行人4人で構成されており、年寄では元清、福原広俊渡辺長安国寺恵瓊が加わり、奉行人からは内藤元栄林就長佐世元嘉二宮就辰が加わっている。
  6. ^ 長府毛利家の系図には広島で死去したと記されている[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 18.
  2. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 517.
  3. ^ 『閥閲録』巻110「石川彌右衛門」第5号、永禄11年(1568年)4月13日付、石川肥後守(種吉)宛て(毛利)元清起請文。
  4. ^ 毛利元清(コトバンク)
  5. ^ 「毛利博物館蔵文書毛利家旧蔵文書諸家文書」48号
  6. ^ 石畑匡基「戦国期毛利元清の権限と地位」(所収:『古文書研究』第78号(日本古文書学会編、2014年12月)ISBN 978-4-642-08774-2
  7. ^ 村上浩平 2000, p. 39.
  8. ^ 津野倫明安国寺恵瓊の虚像と実像」(初出:『北大史学』第40号(2000年)/所収:津野『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館2012年ISBN 978-4-642-02907-0
  9. ^ a b 田中洋一 2016, p. 21.
  10. ^ 『毛利家文書』第847号、天正7年(1579年)比定10月8日付、穂田元清書状。
  11. ^ 田中洋一 2016, p. 巻頭口絵.

参考文献[編集]

  • 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号:21490091 
  • 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年6月。全国書誌番号:20075158 
  • 津野倫明安国寺恵瓊の虚像と実像」(初出:『北大史学』第40号(2000年)/所収:津野『長宗我部氏の研究』(吉川弘文館2012年ISBN 978-4-642-02907-0
  • 石畑匡基「戦国期毛利元清の権限と地位」日本古文書学会編『古文書研究』第78号、2014年12月、ISBN 978-4-642-08774-2
  • 田中洋一『毛利秀元拾遺譚―元就の再来―』自費出版、2016年3月。 

関連項目[編集]