矢頭長助
矢頭 長助(やとう ちょうすけ、万治元年(1658年) - 元禄15年8月15日(1702年9月6日))は、江戸時代の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。名は教照(のりてる)。
生涯[編集]
万治元年(1658年)、赤穂藩士・矢頭権右衛門の子として誕生。妻は中根弥兵衛の娘。子に矢頭教兼。
赤穂藩では国元で勘定方(25石5人扶持)についた。元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・浅野長矩が江戸城にて高家・吉良義央に対し刃傷におよび、赤穂藩が改易になった際には赤穂にあった。家老・大石良雄に神文血判を提出して盟約に加わり、4月19日(5月26日)に赤穂城が開城されると、残務処理のために良雄とともに赤穂に残った。大石から信頼されたが、藩士や領民からは嫌われたという[1]。
それらを終えた後、6月4日(7月9日)に赤穂を退去して大阪へ移ったが、ここで病に侵されて寝たきりになってしまう[2]。同志との連絡はもっぱら子の教兼を通じて行ったが、15年8月15日(1702年9月6日)に病死。享年45。なおその後、教兼は父にかわって赤穂浪士の一人として吉良邸へ討ち入りに参加し、亡父の戒名を懐中にし臨んだと伝わる[3]。
大阪市北区堂島の浄祐寺に、息子と共に墓がある。幕末に尊皇攘夷の志士が、父子の墓を殴打し破損した。現在はセメントで補修されているが、教照の墓には法名の欠字があり読めない。
演じた俳優[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 岡野包住 ― 同じく討ち入り前に病死し、息子に志を託した