矢田貝平重

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矢田貝 平重[1][2][3](やたがい へいじゅう、1851年[4] - 1904年明治37年)9月20日[5])は、日本醸造家銀行家、素封家[2]、鳥取県の大地主[1][2]。矢田貝家2代目[4]中国貯蓄銀行取締役[5][6]

人物[編集]

伯耆国会見郡上細見村(のち鳥取県会見郡大幡村大字上細見、西伯郡岸本町大字上細見、現・西伯郡伯耆町大字上細見)出身。屋号を「久良屋」と称し、醸造業を営む[1]。家はもと微々として振るわなかったが、先代が苦心経営を重ねて業務に励精したため富裕となる[1]。平重は父の志を継ぎ、専心酒類の精醸に努める[1]。大地主となり、郡内屈指の富豪家と目される[1]

家族[編集]

矢田貝家

矢田貝家は、古くはたたら吹きに関係していたと言われる[4]近世初期に出雲地方より伯耆国日野郡へ移住し、帰農したと伝えられる[4]。近世中期に溝口に移り、後期に齊一郎が上細見村に分家したことに始まる[4]。矢田貝家が現在の地に住宅を構えたのは幕末の嘉永年間で、明治期以降に醸造業を営む[7]。4代目の顕造(1905年 - 1992年)は岸本町2代目町長をつとめた[4]。顕造は1985年に5代目の淑朗の住む東京に転居する[4]2011年に矢田貝家主屋、離れなど8ヶ所の施設が国の有形文化財に登録された[7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 『島根鳥取名士列伝 下』92 - 94頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月12日閲覧。
  2. ^ a b c d 『鳥取島根官民肖像録』301頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年8月9日閲覧。
  3. ^ 『大日本紳士鑑』鳥取県777頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月17日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j 第1回 冨善一敏「報告 矢田貝家文書第一次調査概報」。
  5. ^ a b 『官報 1904年10月04日』官報 第6380号 90頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年8月9日閲覧。
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録 明治32年』鳥取県367頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月12日閲覧。
  7. ^ a b 国登録有形文化財 矢田貝家住宅。伯耆町サイト。2022年9月12日閲覧。
  8. ^ a b 『陰陽八郡郡勢一斑』193頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月12日閲覧。

参考文献[編集]

  • 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 明治32年』商業興信所、1893 - 1911年。
  • 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
  • 大蔵省印刷局編『官報 1904年10月04日』日本マイクロ写真、1904年。
  • 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 下』博進館、1903 - 1906年。
  • 深田豊一編『鳥取島根官民肖像録』博進館、1912年。
  • 﨏雨村編『陰陽八郡郡勢一斑』陰陽八郡時報社、1917年。

外部リンク[編集]