真聖女王

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真聖王 金曼
新羅
第51代国王
王朝 新羅
在位期間 887年7月28日 - 897年7月4日
諡号 真聖大王
生年 ?
没年 乾寧4年12月4日
897年12月31日
景文王
文懿王后
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真聖女王
各種表記
ハングル 진성여왕
漢字 真聖女王
発音 チンソンニョワン
日本語読み: しんせいじょおう
ローマ字 Jinseong Yeowang
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真聖女王(しんせいじょおう、? - 897年12月31日)は、新羅下代676年 - 935年)の唯一の女王で、三国時代を含めれば3番目、最後の女王である(在位:887年 - 897年)。日本では平安時代宇多天皇と同時代である。

姓は金、は曼または垣。景文王(在位:861年 - 875年)の娘で、憲康王(在位875年 - 886年)や定康王(在位886年 - 887年)の妹である。在位1年で病に倒れた定康王の遺言により、妹の金曼が即位することになった。

三国史記』によれば、真聖女王はもともと叔父である角干(1等官)の金魏弘(景文王の弟)と愛人関係であったが、即位すると常に入内させて用いていた。間もなく魏弘が卒すると、恵成大王の名を贈った。その後は美貌の青少年2、3名を密かに引き入れて姦淫し、彼らに要職を授けて国政を委ねた。このため綱紀はおおいに弛緩した。

この女王の治世には国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる。治世11年にして、女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位した。この年12月、女王は金城(慶州)の北宮で死去した。

真聖女王の後継となった孝恭王(在位:897年 - 912年)は実子ではなく、憲康王の庶子である。その孝恭王も子なくして亡くなり、憲康王の娘(庶子)と結婚した朴景暉が国人の推戴で即位する。これが神徳王(在位:912年 - 917年)である。その後、景明王景哀王敬順王と続き、935年に新羅は滅亡する。

『三国史記』によれば、真聖王の2年(888年)、金魏弘と大久和尚に郷歌の編纂を命じ『三代目』(サムデムク)という歌集を編纂させたとされるが、現代にまで伝わっていない。

参考文献[編集]

関連項目[編集]