相模台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 神奈川県 > 相模原市 > 南区 > 相模台
相模台
町丁
地図北緯35度31分20秒 東経139度24分17秒 / 北緯35.522161度 東経139.404625度 / 35.522161; 139.404625
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川県
市町村 相模原市
行政区 南区
地区 相模台地区
人口情報(2020年(令和2年)10月1日現在[1]
 人口 16,183 人
 世帯数 8,121 世帯
面積[2]
  1.020122043 km²
人口密度 15863.79 人/km²
郵便番号 252-0321[3]
市外局番 042(相模原MA[4]
ナンバープレート 相模
ウィキポータル 日本の町・字
神奈川県の旗 ウィキポータル 神奈川県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
テンプレートを表示

相模台(さがみだい)は、神奈川県相模原市南区の町名および同市の地区名であり、座間市相模が丘住居表示を実施する前の大字名である。現行行政地名は相模台一丁目から相模台七丁目。住居表示実施済区域[5]

概要[編集]

相模原市町名座間市相模が丘住居表示を実施する前の大字名。ともに小田急小田原線小田急相模原駅の近隣を範囲とする地名である。相模原市の地区名としてはさらに広く、南区の中央部を占める。

歴史[編集]

当区域は元々「相模野」と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。 江戸末期嘉永6年(1853年[6]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、現在の小田急相模原駅付近は高座郡座間宿村北広野、新田宿村飛び地字見分塚、上鶴間村新戸村磯部村の各村が境界を接する区域となった。 それらの村はやがて1889年明治22年)の明治の大合併により同郡座間村(大字座間字北広野、大字新田宿飛び地字見分塚)<現・座間市相模が丘>、大野村(大字上鶴間)<現・相模原市南区南台>、この相模原市南区相模台は新磯村(大字新戸、大字磯部)となった。

この地の将来性に着目した高座郡綾瀬村蓼川の平出富士太郎という篤志家が、1877年(明治10年)頃に私財を投じて、現・小田急相模原駅の周りと駅の北側一帯のこの地、約二十町歩を購入し、当時の座間宿村の人々に開墾を勧め呼びかけた。その後、その熱い呼びかけに応えて座間河原宿の鈴木孫七以下数名が開墾に加わった。まだ一面の萱(かや)が生い茂る不毛の原野で秣場[7]であった「芝原・しばあら」[8]と呼ばれた相模台地区に、初めて人の手が入ったのは1877年(明治10年)であり、原野の開墾が進められた。 元々この地には府中みち(現・行幸道路)という、厚木から当時の武蔵の国国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開墾地もこの街道に沿って耕された。鈴木孫七以下数名は座間河原宿から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていた。そのうち1880年(明治13年)新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いた。この時からこの地は中和田新開または蓼川新開と呼ばれるようになった[9]

然るに農政上、明治時代になってから畑作地として開墾された土地を「新開」と呼び、すでに江戸時代に開墾された畑作地は「新田」と言って区別した。

しかしながら各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めたが、その後、1894年(明治27年)になって開拓者たちは次々と府中みち(現・相模原市南区南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。

1919年大正8年)には14戸にまでなって府中みちと辰街道[10]の交差する座間分を含めた未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが現在の相模台地区発展の「原点」となった。

大きな転換点となったのは、1938年昭和13年)の臨時東京第三陸軍病院の進出である。新磯村大字磯部字大野[11]に同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鉄道が、同年3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町[12]と大野村との境界付近に病院前駅[13]を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路[14]周辺が市街化する契機となった。

1941年(昭和16年)4月29日、大野村、新磯村、座間町は上溝町麻溝村ほか3村と合併して高座郡相模原町となったが、戦後1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町が分離独立し、残りの区域で1954年(昭和29年)11月20日に市制施行して相模原市が発足した。

終戦後臨時東京第三陸軍病院国立相模原病院となり、旧新磯村と旧麻溝村にまたがって広がっていた旧日本軍陸軍士官学校相武台練兵場(軍事演習場)が払下げられて引揚者入植による開墾が行われた。1951年(昭和26年)、相模原町はこの区域に大字新磯野、大字麻溝台の2つの大字を起立している。1950年代に入り、小田急相模原駅周辺および同駅と国立相模原病院間の街路を中心とした区域で市街化が始まり、それは1960年代以降も急速に進行した。その流れの中で高座郡座間町は、終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間、大字新田宿の小字飛び地である現区域での市街化の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年(昭和34年)4月20日に、小田急相模原駅に近い座間町北部の大きな区域を占める大字座間字北広野・字中広野・字南広野・字元広野一部・字元広野久保一部(座間街道以北)、大字新田宿飛び地字見分塚・同飛び地字新畑・大字四ツ谷飛び地字二ツ塚の座間街道以北これらの各大字小字を統合し、高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。

一方、相模原市では当該区域が合併以前の旧村の境界域に当たり、それを引き継いだ各分室(大野南、新磯、麻溝)の管轄区域に分属していた。この区域の市街化の進行に合わせて、相模原市は1957年(昭和32年)8月1日に国立病院前分室(「国病前分室」と略する)と言う相模原市役所の出先機関を新設して小田急相模原駅付近から大字新磯野、大字麻溝台の各東半部を管轄区域とし、1959年(昭和34年)に相模台分室と改称した(1970年・昭和45年に相模台出張所と改称)。同年1959年(昭和34年)5月1日に相模原市立相模台小学校が開校。以後、相模原市は行政上、同分室(出張所)管内を「相模台地区」等と呼んでいる。

1963年(昭和38年)には、神奈川県立相原高等学校の化学工業科が分離独立する形で、のちのち全国高校ラグビー大会(花園)を1993年と1994年に2連覇し「台工」の愛称で親しまれた神奈川県立相模台工業高等学校[15]が開校し、1966年(昭和41年)には国立相模原病院の南に隣接して日本住宅公団相模台団地が建設され入居が開始、翌1967年(昭和42年)4月1日に相模原市立相模台中学校が開校されるなどされるなど、相模原市側で「相模台」の地名が多く用いられるようになった[16]。相模原市は1969年(昭和44年)7月1日に小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年(昭和45年)7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町が編成されたが、高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台とが隣接して併存することとなった[17]

本来、行政上、大字名または町名として「相模台」を先に施行していたのは高座郡座間町であったが、1971年(昭和46年)11月1日市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年(昭和56年)6月1日に大字相模台地区で住居表示[18]を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。

地理[編集]

以下の節では、相模原市南区相模台一丁目〜相模台七丁目の区域について述べる。

相模原市南区のほぼ中央に位置し、小田急小田原線の小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅と国立病院機構相模原病院とを結ぶ街路と神奈川県道507号相武台相模原線(「村富線」と呼ばれる)にはさまれた部分を領域とする。敗戦前は陸軍士官学校演習地の一部であったが、戦後に開放されて当初は農地として開墾が進められた。しかし、小田急相模原駅に近いことから、東部から順次市街化が進行し、1980年代までにほぼ全域が宅地化している。ただし、この宅地化は全域にわたって計画的に行われたものではなく、各区画で無計画に虫食い状に進められた(スプロール化)。元の開墾農地の地割を反映して街路網自体は直線的だが全体の統一性はなく、袋小路も多く存在する。

小田急相模原駅と相模原病院の間の街路は隣接する南台五丁目・六丁目との境界をなし、街路に沿って商店街が形成されている。小田急相模原駅前および東側、さらに座間市側の商店街と合わせて、地域の商業中心を構成している。

地価[編集]

住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、相模台2-17-8の地点で21万8000円/m2、相模台3-10-10の地点で18万9000円/m2となっている[19]

世帯数と人口[編集]

2020年(令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
相模台一丁目 920世帯 1,670人
相模台二丁目 2,141世帯 3,626人
相模台三丁目 1,100世帯 2,225人
相模台四丁目 1,076世帯 2,111人
相模台五丁目 614世帯 1,412人
相模台六丁目 953世帯 2,177人
相模台七丁目 1,317世帯 2,962人
8,121世帯 16,183人

人口の変遷[編集]

国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[20]
16,109
2000年(平成12年)[21]
16,604
2005年(平成17年)[22]
16,245
2010年(平成22年)[23]
16,117
2015年(平成27年)[24]
16,185
2020年(令和2年)[1]
16,183

世帯数の変遷[編集]

国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[20]
6,609
2000年(平成12年)[21]
7,087
2005年(平成17年)[22]
7,268
2010年(平成22年)[23]
7,441
2015年(平成27年)[24]
7,644
2020年(令和2年)[1]
8,121

学区[編集]

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2018年2月時点)[25]

丁目 番地 小学校 中学校
相模台一丁目 全域 相模原市立相模台小学校 相模原市立相模台中学校
相模台二丁目 全域
相模台三丁目 1番~2番8号
2番20号
2番9~19号
3〜18番
相模原市立相武台小学校 相模原市立若草中学校
相模台四丁目 4~14番
1~ 3番 相模原市立相模台小学校 相模原市立相模台中学校
相模台五丁目 3~7番 相模原市立若草小学校 相模原市立若草中学校
8〜9番 相模原市立もえぎ台小学校
1〜2番
10~12番
相模原市立桜台小学校 相模原市立相模台中学校
相模台六丁目 1番
2~30番 相模原市立若草小学校 相模原市立若草中学校
相模台七丁目 19~44番
1~18番 相模原市立桜台小学校 相模原市立相模台中学校

事業所[編集]

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[26]

丁目 事業所数 従業員数
相模台一丁目 60事業所 538人
相模台二丁目 95事業所 530人
相模台三丁目 47事業所 249人
相模台四丁目 56事業所 290人
相模台五丁目 39事業所 281人
相模台六丁目 58事業所 426人
相模台七丁目 69事業所 369人
424事業所 2,683人

事業者数の変遷[編集]

経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[27]
443
2021年(令和3年)[26]
424

従業員数の変遷[編集]

経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[27]
2,661
2021年(令和3年)[26]
2,683

交通[編集]

鉄道[編集]

道路[編集]

相模台まちづくりセンター[編集]

  • 1957年(昭和32年)8月1日 - 相模原市役所国立病院前分室設置。
  • 1959年(昭和34年)5月1日 - 相模原市役所相模台分室と改称。
  • 1970年(昭和45年)10月1日 - 相模台出張所と改称。
  • 2010年(平成22年)4月1日 - 相模原市の政令指定都市移行、区制実施により南区の一部となり、相模台まちづくりセンターと改称。
  • 管轄区域は以下の通り(いずれも南区)。
南台一丁目〜六丁目、相模台一丁目〜七丁目、相模台団地、桜台、御園四丁目・五丁目、双葉一丁目・二丁目、麻溝台一丁目(東半)・二丁目〜六丁目・七丁目(大部分)・八丁目、北里二丁目、新磯野二丁目(一部)、大字上鶴間、大字麻溝台(一部)、大字新磯野(一部)

その他[編集]

日本郵便[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年7月17日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b 相模台の郵便番号”. 日本郵便. 2022年4月30日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  5. ^ 住居表示実施区域一覧”. 相模原市 (2022年6月21日). 2023年7月16日閲覧。
  6. ^ この年から芝原(しばあら)と呼ばれた相模台・相模が丘広野台から小松原ひばりが丘東原にかけて開拓がはじまった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  7. ^ 共同の草刈り場
  8. ^ 座間宿村、座間入谷村、新田宿村、四ツ谷村栗原村の人々は村はずれの段上の地域一帯を一括りに「芝原・しばあら」と呼んでいた。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』
  9. ^ 座間分の本村である座間宿村や座間入谷村新田宿村四ツ谷村栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』より。
  10. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間・海老名・綾瀬・大和を経て藤沢にいたる街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。
  11. ^ 大字磯部飛び地ではなく地続きになっている。昭和4年(1929年)刊行 土地宝典・高座郡新磯村地番反別入図より
  12. ^ 1937年(昭和12年)に町制施行。1941年(昭和16年)4月29日、座間町は大野村、新磯村、上溝町麻溝村ほか3村と合併して高座郡相模原町となったが、戦後1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町(現在の市域)が分離独立した。
  13. ^ 開業してすぐに相模原駅と改称、再度1941年(昭和16年)に現在の「小田急相模原駅」と改称
  14. ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(旧・国立病院通り)。往時は高座郡座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛び地字見分塚、大野村大字上鶴間と新磯村大字新戸・大字磯部の境界となっていた。
  15. ^ 現・神奈川県立神奈川総合産業高等学校
  16. ^ ただし同校の所在地は文京一丁目であり相模台分室(現・相模台まちづくりセンター)の管轄区域内ではない。また、相模原市立相模台小学校南台六丁目、同相模台中学校桜台に所在する。
  17. ^ 同様の例はやや南の相武台についても見られ、座間市相武台は、「座間市の相武台」として2013年平成25年)10月15日に住居表示を施行した。
  18. ^ 不動産登記法に基づく地番は、1959年(昭和34年)4月20日に高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設した際、新たに地番の付け直した地番のまま。
  19. ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査”. 国土交通省. 2023年6月4日閲覧。
  20. ^ a b 平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
  21. ^ a b 平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
  22. ^ a b 平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
  23. ^ a b 平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
  24. ^ a b 平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
  25. ^ 小・中学校の通学区域”. 相模原市. 2018年2月18日閲覧。
  26. ^ a b c 経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
  27. ^ a b 経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
  28. ^ 郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。