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「葛飾北斎」の版間の差分

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| influenced = [[歌川広重]]、[[歌川国芳]]、[[印象派]]以降の西洋美術
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'''{{JIS2004フォント|葛}}飾 北斎'''(かつしか ほくさい、{{JIS2004フォント|葛}}飾 北齋{{efn|「葛」は正確には正字である「{{JIS2004フォント|葛}}」が用いられたが、表記システム上の都合により、以降の記述では省略する。「斎」についても正字「齋」を以下省略する。}}、[[宝暦]]10年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]〈[[1760年]][[10月31日]]〉? - [[嘉永]]2年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]〈[[1849年]][[5月10日]]〉)は、[[江戸時代]]後期の[[浮世絵師]]。[[化政文化]]を代表する一人。
'''{{JIS2004フォント|葛}}飾 北斎'''(かつしか ほくさい、{{JIS2004フォント|葛}}飾 北齋、[[宝暦]]10年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]〈[[1760年]][[10月31日]]〉? - [[嘉永]]2年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]〈[[1849年]][[5月10日]]〉)は、[[江戸時代]]後期の[[浮世絵師]]。[[化政文化]]を代表する一人。


== 概説 ==
== 概説 ==
代表作に『[[冨嶽三十六景]]』や『[[北斎漫画]]』があり、世界的にも著名な画家である。[[森羅万象]]を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、[[版画]]のほか、[[肉筆浮世絵]]にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、[[読本]](よみほん)・[[芸術]]に新機軸見出したことや、『北斎始めとする[[絵本#絵本と歴史的経緯|絵]]を多数発表したと、毛筆によ形態描出に敏腕奮ったとなどは、絵画技の普及や庶民教育も益するところであった。
代表作に『[[冨嶽三十六景]]』や『[[北斎漫画]]』があり、世界的にも著名な画家である。安永8年(1779年)から嘉永2年(1849年)までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで[[森羅万象]]を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した{{Sfn|神山|2018|p=34}}その画業分野も[[版画]](摺物)のほか、[[肉筆浮世絵]]、[[黄表紙]]、[[読本]]、[[狂歌本]]、[[絵手本]]、[[春画]]など多岐渡った。ありとあらゆるもの描き尽くそうとした北斎は、西洋由来の絵技術にも大いに興味示し、[[銅版画]]や[[ガラス]]、[[油彩|絵]]などの描法研究試み<ref name="kotobank_hokusai">{{Kotobank|葛飾北斎}}</ref>。北斎の画業は欧州へ波及し[[ジャポニスム]]と呼ばれブーム巻き起して19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼし{{Sfn|浅野他|1998|p=1}}

[[シーボルト事件]]では摘発されそうになったが、[[川原慶賀]]が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、[[銅版画]]や[[ガラス絵]]も研究、試みたようである。また、[[油絵]]に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幼年期 ===
=== 幼年期 ===
北斎の出自を伝える確たる資料は見つかっておらず、自身が85歳の時に制作した肉筆画『大黒天図』の落款にある「[[宝暦]]十[[庚辰]]年九月[[甲子]]ノ出生」から、生年月日は宝暦10年9月23日([[1760年]][[10月31日]])とされている{{Sfn|永田|2017|p=40}}。家系については[[川村氏]]または幕府御用であった鏡師の[[中島伊勢]]の子とされる場合や、川村の子として生まれ、4歳のころに中島伊勢の養子となったとする説{{efn|[[曲亭馬琴]]の『曲亭来簡集』には、中島伊勢の養子となったのは壮年期のこととしている<ref name="shimane">{{cite web|title=北斎年譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html|access-date=2023-09-03|website=島根県立美術館の浮世絵コレクション|publisher=島根県立美術館|archive-date=2022-09-26|archive-url=https://web.archive.org/web/20220926022226/https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html}}</ref>。}}が一般的だが、確たる資料は発見されておらず、確定していない{{Sfn|永田|2017|p=40}}{{Sfn|千野|2021|p=25}}{{efn|[[産業経済新聞社|産経新聞社]]の記者である千野境子自著中で、北斎の川村の名が確認できることからいつの時期かは不明だが川村家に戻ったのではないかと推している{{Sfn|千野|2021|p=25}}。}}。また、母親については[[小林平八郎]]を曾祖父持つ家系だったという説があ{{Sfn|千野|2021|pp=25-26}}。出生地は[[式亭三馬]]が「本所の産としていることから、[[下総国]]{{Sfn|千野|2021|p=24}}[[本所]][[割下水]]傍{{efn|割下水とは、田畑[[用水路]]として使用されていた溝を改修した[[掘割]]を指す{{Sfn|千野|2021|p=24}}。}}(現在[[東京都]][[墨田区]])であるとする説有力{{Sfn|永田|2017|p=40}}。幼名に関しても複数の通説あり時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある{{Sfn|永田|2017|p=40}}。飯島虚心『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、そ鉄蔵を名乗ったている<ref name="shimane"/>{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=35}}。
北斎の出自を伝える確たる資料は見つかっておらず、自身が85歳の時に制作した肉筆画『大黒天図』の落款にある「[[宝暦]]十[[庚辰]]年九月[[甲子]]ノ出生」から、生年月日は宝暦10年9月23日([[1760年]][[10月31日]])とされている{{Sfn|永田|2017|p=40}}。家系については[[川村氏]]または幕府御用であった鏡師の[[中島伊勢]]の子とされる場合や、川村の子として生まれ、4歳のころに中島伊勢の養子となったとする説{{efn|[[曲亭馬琴]]の『曲亭来簡集』には、中島伊勢の養子となったのは壮年期のこととしている<ref name="shimane">{{cite web|title=北斎年譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html|access-date=2023-09-03|website=島根県立美術館の浮世絵コレクション|publisher=島根県立美術館|archive-date=2022-09-26|archive-url=https://web.archive.org/web/20220926022226/https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html}}</ref>。}}が一般的だが、確たる資料は発見されておらず、確定していない{{Sfn|永田|2017|p=40}}{{Sfn|永田|2000|p=9}}{{efn|『画狂北斎』の著者[[安田剛蔵]]は、『曲亭来簡集』記述を精査し、北斎は叔父中島家いったん養子に入った後ほどなく川村家に戻ったと推している{{Sfn|永田|2000|p=10}}。}}。川村家については寛政10年(1798年)ごろ作成されたとされる「本所中絵図割下水近くにそ2軒確認るが、これら家と北斎関係性ついては明らかなっていない{{Sfn|永田|2000|p=10}}。


また、母親については[[小林平八郎]]を曾祖父に持つ家系だったという説がある{{Sfn|永田|2000|p=10}}。出生地は[[式亭三馬]]が「本所の産」としていることから、[[下総国]][[本所]][[割下水]]の傍{{efn|割下水とは、田畑の[[用水路]]として使用されていた溝を改修した[[掘割]]を指す<ref>{{Kotobank|割下水}}</ref>。}}(現在の[[東京都]][[墨田区]])であるとする説が有力である{{Sfn|永田|2017|p=40}}。幼名に関しても複数の通説があり、時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある{{Sfn|永田|2017|p=40}}。飯島虚心の『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしている<ref name="shimane"/>{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=35}}。
北斎は『富嶽百景』や『画本彩色通』の跋文で、6歳頃から好んで絵を描いていたと回顧しており、少年期は貸本屋の小僧として働いていたとされるが{{Sfn|永田|2017|p=41}}<ref name="shimane"/>、『葛飾北斎伝』を校注した[[鈴木重三]]は、貸本屋で働いていたという説について出所が不明であると補記している{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=35}}。また、14、15歳から19歳ごろまでは[[木版画]]の版下彫りを生業としていたと、[[石塚豊芥子]]が収集した[[雲中舎山蝶]]の『[[楽女格子]]』(1775年刊行)の識語に記されている{{Sfn|永田|2017|p=41}}。その後、[[安永 (元号)|安永]]7年(1778年)には勝川派の頭領である[[浮世絵師]][[勝川春章]]に師事し、絵師として活動を始めた{{Sfn|永田|2017|p=42}}。しかし、当時の勝川派は浮世絵界における一大勢力であり、一介の版下彫りであった北斎がどのように春章と知り合い、師事するに至ったのかについては明確になっていない{{Sfn|永田|2017|pp=42-44}}。

北斎は『[[富嶽百景 (北斎)|富嶽百景]]』や『画本彩色通』の跋文で、6歳頃から好んで絵を描いていたと回顧しており、少年期は貸本屋の小僧として働いていたとされるが{{Sfn|永田|2017|p=41}}<ref name="shimane"/>、『葛飾北斎伝』を校注した[[鈴木重三]]は、貸本屋で働いていたという説について出所が不明であると補記している{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=35}}。また、14、15歳から19歳ごろまでは[[木版画]]の版下彫りを生業としていたと、[[石塚豊芥子]]が収集した[[雲中舎山蝶]]の『[[楽女格子]]』(1775年刊行)の識語に記されている{{Sfn|永田|2017|p=41}}。その後、[[安永 (元号)|安永]]7年(1778年)には勝川派の頭領である[[浮世絵師]][[勝川春章]]に師事し、絵師として活動を始めた{{Sfn|永田|2017|p=42}}。しかし、当時の勝川派は浮世絵界における一大勢力であり、一介の版下彫りであった北斎がどのように春章と知り合い、師事するに至ったのかについては明確になっていない{{Sfn|永田|2017|pp=42-44}}。


[[File:Kashiku Iwai Hanshiro - Shunro (Hokusai).jpg|サムネイル|180px|処女作のひとつとされる春朗時代の錦絵『四代目岩井半四郎 かしく』(1779年)]]
[[File:Kashiku Iwai Hanshiro - Shunro (Hokusai).jpg|サムネイル|180px|処女作のひとつとされる春朗時代の錦絵『四代目岩井半四郎 かしく』(1779年)]]
=== 春朗時代 ===
=== 春朗時代 ===
北斎が画界に登場するのは、春章に師事した翌年の1779年からで、[[寛政]]6年(1794年)までのおよそ15年間を勝川派の絵師として活動した{{Sfn|永田|2017|p=44}}。この間に家庭を持ち、子設ける{{Sfn|千野|2021|p=31}}。後に浮世絵師となる娘のお栄([[葛飾応為]])もこの時期に誕生しているとする説もある{{Sfn|千野|2021|p=31}}{{efn|お栄は生没年不詳の人物であり、その誕生年については寛政2年、11年、12年の3ある{{Sfn|千野|2021|p=47}}。}}。従来の研究者の間では北斎の20歳から35歳までのこの期間は「春朗時代」と呼ばれ、春章の様式を踏襲する没個性的で地味な期間であったとみなされていた{{Sfn|永田|2017|p=44}}。しし、近年の研究によりこの年代の絵師としては多作かつ多彩な内容であったと評価が改められつつある{{Sfn|永田|2017|p=46}}。
北斎が画界に登場するのは、春章に師事した翌年の1779年からで、[[寛政]]6年(1794年)までのおよそ15年間を勝川派の絵師として活動した{{Sfn|永田|2017|p=44}}。この間に家庭を持ち{{efn|林美一は最初の妻娶ったのは天明2年(1782年)か天明3年(1783年)ごろではないかと想定している{{Sfn||2011|p=57}}。}}、子を設けたとされ、後に浮世絵師となる娘のお栄([[葛飾応為]])もこの時期に誕生しているとする説もある{{Sfn|江戸|1976|p=34}}{{efn|お栄は生没年不詳の人物であり、その誕生年については説ある{{Sfn|江戸|1976|p=34}}。}}。従来の研究者の間では北斎の20歳から35歳までのこの期間は「春朗時代」と呼ばれ、春章の様式を踏襲する没個性的で地味な期間であったとみなされていた{{Sfn|永田|2017|p=44}}。こうた傾向について永田は2017年に出版た自著において近年の研究によりこの年代の絵師としては多作かつ多彩な内容であったと評価が改められつつある」と指摘している{{Sfn|永田|2017|p=46}}。


一般的に北斎の処女作として知られているのは[[吉原細見]]の『金濃町』([[鱗形屋孫兵衛|鱗形屋版]])に寄せた挿図や、細判役者絵『かしく[[岩井半四郎 (4代目)|岩井半四郎]]』を始めとした役者絵3点であり、'''勝川春朗'''の名でこれらを描いた{{Sfn|永田|2017|p=44}}。北斎について研究している[[永田生慈]]はこの画号について、春章の春の字と、別号の旭朗井の朗の字を与えられるという待遇は、それなりに将来が嘱望されていたのではないかと分析している{{Sfn|永田|2017|p=44}}。ただし、寛政5年には'''叢春朗'''に画姓が変化しており、この時点で勝川派を離脱していた可能性も指摘されている{{Sfn|永田|2017|p=52}}。
一般的に北斎の処女作として知られているのは[[吉原細見]]の『金濃町』([[鱗形屋孫兵衛|鱗形屋版]])に寄せた挿図や、細判役者絵『かしく[[岩井半四郎 (4代目)|岩井半四郎]]』を始めとした役者絵3点であり、'''勝川春朗'''の名でこれらを描いた{{Sfn|永田|2017|p=44}}。北斎について研究している[[永田生慈]]はこの画号について、春章の春の字と、別号の旭朗井の朗の字を与えられるという待遇は、それなりに将来が嘱望されていたのではないかと分析している{{Sfn|永田|2017|p=44}}。ただし、寛政5年(1793年)には'''叢春朗'''{{efn|画姓の「叢」の読みについては諸説あり、通説では「くさむら」とされるが、飯島虚心は「むぐら」、安田剛蔵は「むら」を支持している{{Sfn|永田|2000|p=26}}。}}に画姓が変化しており、この時点で勝川派を離脱していた可能性も指摘されている{{Sfn|永田|2017|p=52}}。


春朗として手掛けた作品としては役者似顔絵、美人風俗、日本と中国の子供、動植物、[[金太郎]]、信仰画、和漢武者、伝説古典、名所絵、相撲などを題材とした浮世絵版画、[[黄表紙]]、[[芝居絵|芝居絵本]]、[[洒落本]]、[[噺本|咄本]]、[[談義本]]、[[句集]]、[[狂歌本]]の挿絵など多種多様なものを手掛けたことが確認されている{{Sfn|永田|2017|pp=47-50}}。
春朗として手掛けた作品としては役者似顔絵、美人風俗、日本と中国の子供、動植物、[[金太郎]]、信仰画、和漢武者、伝説古典、名所絵、相撲などを題材とした浮世絵版画、[[黄表紙]]、[[芝居絵|芝居絵本]]、[[洒落本]]、[[噺本|咄本]]、[[談義本]]、[[句集]]、[[狂歌本]]の挿絵など多種多様なものを手掛けたことが確認されている{{Sfn|永田|2017|pp=47-50}}。


春朗時代の画風について、春章に師事してから[[天明]]元年(1781年)ごろまでは習作期とも言え、人物表現などに粗やぎこちなさが目立つ{{Sfn|永田|2017|p=50}}。その後の天明4年(1784年)ごろまでは勝川派の様式だけでなく[[北尾重政]]や[[鳥居清長]]らの影響が見られるようになり、他派のスタイルをも受容しようとする研鑽の様子が窺える{{Sfn|永田|2017|p=51}}。次の2年間は黄表紙の挿絵を中心に活動しており、作品によって完成度に大きな違いが見られた{{Sfn|永田|2017|p=51}}。また、一時的に画号を群馬亭へと改めていることから、勝川派との問題が生じていた可能性も指摘されている{{Sfn|永田|2017|p=51}}。天明7年(1787年)から寛政4年(1792年)までの期間は作品量が増加し、勝川派の様式を底に添えつつも新たな独自画風を確立した時期と言える{{Sfn|永田|2017|p=52}}。そして春章が没した1793年以降は画号を叢春朗に改め、[[摺物]]や句集、狂歌本の挿絵など、これまでにない分野への進出が見られた{{Sfn|永田|2017|p=52}}。確認されている中で春朗の落款が押されている最後の作品は、1794年8月の摺物『砧打図』である{{Sfn|永田|2017|p=53}}。永田はこの年代を総じて「生涯で最も浮世絵師らしい作画活動を展開した年代」と位置付けている{{Sfn|永田|2017|p=53}}。
春朗時代の画風について、春章に師事してから[[天明]]元年(1781年)ごろまでは習作期とも言え、人物表現などに粗やぎこちなさが目立つ{{Sfn|永田|2017|p=50}}。その後の天明4年(1784年)ごろまでは勝川派の様式だけでなく[[北尾重政]]や[[鳥居清長]]らの影響が見られるようになり、他派のスタイルをも受容しようとする研鑽の様子が窺える{{Sfn|永田|2017|p=51}}。次の2年間は黄表紙の挿絵を中心に活動しており、作品によって完成度に大きな違いが見られた{{Sfn|永田|2017|p=51}}。また、一時的に画号を群馬亭へと改めていることから、勝川派との問題が生じていた可能性も指摘されている{{Sfn|永田|2017|p=51}}{{efn|一般的には『浮世絵類考』や『増補浮世絵類考』で式亭三馬が書き入れた内容を根拠として、春章存命時に勝川派を破門となったとする説が有力視されている{{Sfn|永田|2000|p=26}}。}}。天明7年(1787年)から寛政4年(1792年)までの期間は作品量が増加し、勝川派の様式を底に添えつつも新たな独自画風を確立した時期と言える{{Sfn|永田|2017|p=52}}。そして春章が没した1793年以降は画号を叢春朗に改め、[[摺物]]や句集、狂歌本の挿絵など、これまでにない分野への進出が見られた{{Sfn|永田|2017|p=52}}。確認されている中で春朗の落款が押されている最後の作品は、1794年8月の摺物『砧打図』である{{Sfn|永田|2017|p=53}}。永田はこの年代を総じて「生涯で最も浮世絵師らしい作画活動を展開した年代」と位置付けている{{Sfn|永田|2017|p=53}}。


=== 宗理時代 ===
=== 宗理時代 ===
[[File:Katsushika Hokusai, donna con un biglietto augurale dal tempio benten, 1797.jpg|thumb|250px|1797年の摺物巳待の御札「宗理風」と呼ばれる独自の様式を確立させた。]]
[[File:Katsushika Hokusai - TWO BEAUTIES - Google Art Project.jpg|thumb|180px|『二美人図(1801年から1804年ごろ)「宗理風」と呼ばれる女性描写を確立させた。]]
寛政7年(1795年)から[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)頃までのおよそ9年間は「宗理時代」と呼ばれ、北斎独自の様式を確立させた年代と見なされている{{Sfn|永田|2017|p=54}}。この間は'''百琳宗理'''、'''北斎宗理'''、'''宗理改北斎'''、'''北斎時政'''、'''不染居北斎'''、'''画狂人北斎'''、'''九々蜃北斎'''、'''可候'''などの画号が用いられた{{Sfn|永田|2017|p=54}}。
寛政7年(1795年)から[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)頃までのおよそ9年間は「宗理時代」と呼ばれ、北斎独自の様式を確立させた年代と見なされている{{Sfn|永田|2017|p=54}}。この間は'''百琳宗理'''、'''北斎宗理'''、'''宗理改北斎'''、'''北斎時政'''、'''不染居北斎'''、'''画狂人北斎'''、'''九々蜃北斎'''、'''可候'''などの画号が用いられた{{Sfn|永田|2017|p=54}}。


どのように接触したかについては明らかとなっていないが{{Sfn|永田|2017|p=54}}、北斎は寛政6年(1794年)の秋から冬にかけて[[琳派]]の領袖、[[俵屋宗理]]から'''宗理'''を襲名したと見られており、翌1795年にこの落款の使用が見られるようになった{{Sfn|永田|2017|p=53}}。詳細は不明ではあるものの、叢春朗の活動期には既に宗理時代の萌芽と見られる作画傾向が確認できることから、この宗理襲名はある程度計画性のある出来事だったと考えられている{{Sfn|永田|2017|p=54}}。[[俵屋宗達]]によって創始された琳派は[[尾形光琳]]や[[尾形乾山]]以降、沈滞の時を過ごしていたが、北斎が宗理を襲名する時代には俵屋宗理ら俵屋派一門の活動により、その勢いを取り戻しつつあった{{Sfn|永田|2017|p=54}}。そして北斎が襲名した後は独自の様式を確立させて世評を得ることに成功し、目覚ましい活躍を見せた{{Sfn|永田|2017|p=54}}。北斎は2年ほど宗理の名で活動した後に独立を果たし、寛政10年頃に北斎と改め、の名は[[菱川宗理|北斎の門人]]へと受け継がれたと[[大田南畝]]の『[[浮世絵類考]]』に記されている{{Sfn|永田|2017|pp=54-55}}。
どのように接触したかについては明らかとなっていないが{{Sfn|永田|2017|p=54}}、北斎は寛政6年(1794年)の秋から冬にかけて[[琳派]]の領袖、[[俵屋宗理]]から'''宗理'''を襲名したと見られており、翌1795年にこの落款の使用が見られるようになった{{Sfn|永田|2017|p=53}}。詳細は不明ではあるものの、叢春朗の活動期には既に宗理時代の萌芽と見られる作画傾向が確認できることから、この宗理襲名はある程度計画性のある出来事だったと考えられている{{Sfn|永田|2017|p=54}}。[[俵屋宗達]]によって創始された琳派は[[尾形光琳]]や[[尾形乾山]]以降、沈滞の時を過ごしていたが、北斎が宗理を襲名する時代には俵屋宗理ら俵屋派一門の活動により、その勢いを取り戻しつつあった{{Sfn|永田|2017|p=54}}。そして北斎が襲名した後は独自の様式を確立させて世評を得ることに成功し、目覚ましい活躍を見せた{{Sfn|永田|2017|p=54}}。北斎は2年ほど宗理の名で活動した後に独立を果たし、寛政10年頃に北斎と改め、宗理の名は門人である[[菱川宗理|宗二]]へと受け継がれたと[[大田南畝]]の『[[浮世絵類考]]』に記されている{{Sfn|永田|2017|pp=54-55}}{{Sfn|永田|2000|p=50}}。


宗理を襲名していた期間には[[狂歌]]や[[大小暦|絵暦]]が流行していた背景も手伝って、高級な用紙で高度な彫りと摺りを駆使した狂歌本や狂歌摺物、絵暦が作品の中心となった{{Sfn|永田|2017|p=57}}。一方で春朗時代に数多く制作していた浮世絵版画は見られなくなっており、永田はその理由について「宗理襲名にあたってのなんらかの取り決めがあったか、勝川派からのプレッシャー、あるいは北斎自身の遠慮があったのではないか」と推察している{{Sfn|永田|2017|p=58}}。そして、独立を果たした寛政10年(1798年)以降に入ると、黄表紙の挿絵や浮世絵版画などの制作も確認できるようになった{{Sfn|永田|2017|p=58}}。さらには最晩年まで取り組みが見られる[[肉筆浮世絵|肉筆画]]に傾注したのもこの時期からで、特に画狂人北斎を号した時期には夥しい数の肉筆画作品を描き上げた{{Sfn|永田|2017|p=60}}。
宗理を襲名していた期間には[[狂歌]]や[[大小暦|絵暦]]が流行していた背景も手伝って、高級な用紙で高度な彫りと摺りを駆使した狂歌本や狂歌摺物、絵暦が作品の中心となった{{Sfn|永田|2017|p=57}}。一方で春朗時代に数多く制作していた浮世絵版画は見られなくなっており、永田はその理由について「宗理襲名にあたってのなんらかの取り決めがあったか、勝川派からのプレッシャー、あるいは北斎自身の遠慮があったのではないか」と推察している{{Sfn|永田|2017|p=58}}。そして、独立を果たした寛政10年(1798年)以降に入ると、黄表紙の挿絵や浮世絵版画などの制作も確認できるようになった{{Sfn|永田|2017|p=58}}。さらには最晩年まで取り組みが見られる[[肉筆浮世絵|肉筆画]]に傾注したのもこの時期からで、特に画狂人北斎を号した時期には夥しい数の肉筆画作品を描き上げた{{Sfn|永田|2017|p=60}}。


作風としては先に述べたように独特の様式を確立させるに至っており、楚々とした体躯で富士額に瓜実顔の画貌をした哀愁のある女性描写は「宗理型」あるいは「宗理風」と呼ばれ、大いに賞賛された{{Sfn|永田|2017|p=63}}。また、様々な画題の注文を断ることなく即応し、複数の描法を混用させて斬新な作品を発表し続ける姿勢も、他の浮世絵師とは異なった北斎独自の魅力として世評を得ていたと見られている{{Sfn|永田|2017|p=63}}。
作風としては先に述べたように独特の様式を確立させるに至っており、楚々とした体躯で富士額に瓜実顔の画貌をした哀愁のある女性描写は「宗理型」あるいは「宗理風」と呼ばれ、大いに賞賛された{{Sfn|永田|2017|p=63}}。また、様々な画題の注文を断ることなく即応し、複数の描法を混用させて斬新な作品を発表し続ける姿勢も、他の浮世絵師とは異なった北斎独自の魅力として世評を得ていたと見られている{{Sfn|永田|2017|p=63}}。

この期間における北斎の平素の生活ぶりを示す資料はほとんど確認できないが、[[大田南畝]]の私的日記に親交を伺わせる記述が見られる他、[[朝岡興禎]]の『[[古画備考]]』に寛政10年(1798年)ごろの話としてオランダの[[カピタン]]が北斎の絵を求めたことで、支払いを巡ってひと悶着があったという逸話がのこされている{{Sfn|永田|2000|p=77}}。また、文化元年(1804年)には江戸の[[護国寺]]において百二十畳あまりの巨大な達磨半身像を揮毫したことが[[斎藤月岑]]の『[[武江年表]]』や大田南畝の『一話一言』に記されており、注目度の高い催事だったことが伺える{{Sfn|永田|2000|pp=121-122}}。


=== 葛飾北斎時代 ===
=== 葛飾北斎時代 ===
[[File:Chinsetsu Yumiharizuki - Riyu killing a peasant by a bow.jpg|thumb|250px|『[[曲亭馬琴]]『[[椿説弓張月]]』(1807年)での北斎による挿絵。]]
[[File:Chinsetsu Yumiharizuki - Riyu killing a peasant by a bow.jpg|thumb|250px|『[[曲亭馬琴]]『[[椿説弓張月]]』(1807年)での北斎による挿絵。]]
北斎は文化2年(1805年)から文化6年(1809年)にかけて'''葛飾北斎'''と号した{{Sfn|永田|2017|p=65}}{{Sfn|永田|2017|p=75}}。この頃に入ると宗理風の様式は姿を潜め、[[中国の絵画|漢画]]の影響を強く受けた豪快で大胆な画風へと変化している{{Sfn|永田|2017|p=65}}。こうした変化は江戸の流行が狂歌から[[読本]]へと移り変わり、その挿絵制作に注力し始めたためと考えられている{{Sfn|永田|2017|p=65}}。北斎の携わった読本で最も古いものは1803年に刊行された[[流霞窓広住]]の『蜑捨草』だが、本格的な読本制作の開始は1805年からで、[[曲亭馬琴]]と提携して数多くの作品を作り上げた{{Sfn|永田|2017|p=66}}。読本の挿絵は黄表紙の挿絵と異なり、複雑な内容に対して墨と薄墨で適切な場面描写を行う必要があり、絵師には高い技術や深い知識が要求された{{Sfn|永田|2017|p=67}}。北斎の発想力は他の絵師の追随を許さず、読本の隆盛に大きく貢献したとされる{{Sfn|永田|2017|p=69}}。また、真剣に向き合うあまり、挿絵の内容で馬琴と口論となり、後年には両者の間で確執が生じたと伝えられている{{Sfn|永田|2017|p=69}}。また、[[名所絵]]として[[東海道五十三次]]をテーマとした作品や、『風流東部八景』『新板近江八景』などの鳥瞰での景観描写を試みた作品などが発表された{{Sfn|永田|2017|pp=69-70}}。その他、『日本堤田中見之図』などの洋風風景版画と呼ばれる一連の作品は[[遠近法|透視画法]]を用いて明暗を強く意識した[[西洋絵画]]を髣髴とさせる作りになっている{{Sfn|永田|2017|p=71}}。現存する数は少ないながら[[鳥羽絵]]や[[立版古|組上絵]]の制作にも携わっていたことが確認されており、様々な分野に手を広げていたことが窺える{{Sfn|永田|2017|p=71}}。宗理時代に引き続いて肉筆画の制作も行われており、美人画の他、動植物や古典を題材とした作品も増加しており、北斎へ注文する客層の広がりを示している{{Sfn|永田|2017|p=74}}。
北斎は文化2年(1805年)から文化6年(1809年)にかけて'''葛飾北斎'''と号した{{Sfn|永田|2017|p=65}}{{Sfn|永田|2017|p=75}}。この頃に入ると宗理風の様式は姿を潜め、[[中国の絵画|漢画]]の影響を強く受けた豪快で大胆な画風へと変化している{{Sfn|永田|2017|p=65}}。こうした変化は江戸の流行が狂歌から[[読本]]へと移り変わり、その挿絵制作に注力し始めたためと考えられている{{Sfn|永田|2017|p=65}}。北斎の携わった読本で最も古いものは1803年に刊行された[[流霞窓広住]]の『蜑捨草』だが、本格的な読本制作の開始は1805年からで、[[曲亭馬琴]]と提携して数多くの作品を作り上げた{{Sfn|永田|2017|p=66}}。読本の挿絵は黄表紙の挿絵と異なり、複雑な内容に対して墨と薄墨で適切な場面描写を行う必要があり、絵師には高い技術や深い知識が要求された{{Sfn|永田|2017|p=67}}。北斎の発想力は他の絵師の追随を許さず、読本の隆盛に大きく貢献したとされる{{Sfn|永田|2017|p=69}}。また、真剣に向き合うあまり、挿絵の内容で馬琴と口論となり、後年には両者の間で確執が生じたと伝えられている{{Sfn|永田|2017|p=69}}。また、[[名所絵]]として[[東海道五十三次]]をテーマとした作品や、『風流東部八景』『新板近江八景』などの鳥瞰での景観描写を試みた作品などが発表された{{Sfn|永田|2017|pp=69-70}}。その他、『日本堤田中見之図』などの洋風風景版画と呼ばれる一連の作品は[[遠近法|透視画法]]を用いて明暗を強く意識した[[西洋絵画]]を髣髴とさせる作りになっている{{Sfn|永田|2017|p=71}}。現存する数は少ないながら[[鳥羽絵]]や[[立版古|組上絵]]の制作にも携わっていたことが確認されており、様々な分野に手を広げていたことが窺える{{Sfn|永田|2017|p=71}}。宗理時代に引き続いて肉筆画の制作も行われており、美人画の他、動植物や古典を題材とした作品も増加しており、北斎へ注文する客層の広がりを示している{{Sfn|永田|2017|p=74}}。なお、これまで借家暮らして所在を転々としていた北斎は、文化5年(1808年)8月に生涯唯一となる新宅を本所亀沢町に構えたが、翌年には両国の借家へと転居し、以降は終生借家または居候の生活を送っている{{Sfn|永田|2000|p=125}}。


=== 戴斗時代 ===
=== 戴斗時代 ===
[[File:Lutteurs de sûmo Hokusai Manga.jpg|thumb|250px|絵画の世界に多大な影響を与えた[[絵手本]]『[[北斎漫画]]』(1814年初編刊行)]]
[[File:Lutteurs de sûmo Hokusai Manga.jpg|thumb|250px|絵画の世界に多大な影響を与えた[[絵手本]]『[[北斎漫画]]』(1814年初編刊行)]]
文化7年(1810年)に上梓した北斎としては初の木版[[絵手本]]『己痴羣夢多字画尽』に'''戴斗'''の号が使用され、以降[[文政]]2年(1819年)まで用いられた{{Sfn|永田|2017|p=77}}。この頃から絵手本の制作に力を入れて取り組むようになり、その傾向は最晩年まで続いた{{Sfn|永田|2017|p=77}}。この要因について永田は「門人の増加に伴い、その都度肉筆の手本を描き与える煩雑さから解放されるため」「直接の門人以外の私淑者にも北斎の画風を普及させる意図があったため」「各分野の職人たちの図案集として版本としたため」という3つの理由を推察している{{Sfn|永田|2017|p=78}}。また、国内外に多大な影響を与えた絵手本『[[北斎漫画]]』の初編が刊行されたのもこの年代である{{Sfn|永田|2017|p=85}}。絵手本以外の分野では本格的な[[鳥瞰図]]の制作が挙げられる{{Sfn|永田|2017|p=112}}。鳥観図は[[北尾政美]]が制作する作品が大きな人気を博していたが、これの後を追うように『東海道名所一覧』『木曽路名所一覧』といった作品を発表した{{Sfn|永田|2017|p=114}}。肉筆画の分野では西洋画法を追及した試行作品が数多く残されており、線での表現を避けつつ、面で質感を表現しようとした『なまこ図』や輪郭線を排して明暗のみで表現した『生首図』などはその代表と言える{{Sfn|永田|2017|pp=117-118}}。一般的に戴斗時代はどちらかというと地味な活動期だったと捉えられる向きもあるが、晩年まで続く絵手本分野への進出や、新たな画風確立のための重要な時期であったと言える{{Sfn|永田|2017|p=119}}。
文化7年(1810年)に上梓した北斎としては初の木版[[絵手本]]『己痴羣夢多字画尽』に'''戴斗'''の号が使用され、以降[[文政]]2年(1819年)まで用いられた{{Sfn|永田|2017|p=77}}。この頃から絵手本の制作に力を入れて取り組むようになり、その傾向は最晩年まで続いた{{Sfn|永田|2017|p=77}}。この要因について永田は「門人の増加に伴い、その都度肉筆の手本を描き与える煩雑さから解放されるため」「直接の門人以外の私淑者にも北斎の画風を普及させる意図があったため」「各分野の職人たちの図案集として版本としたため」という3つの理由を推察している{{Sfn|永田|2017|p=78}}。また、国内外に多大な影響を与えた絵手本『[[北斎漫画]]』の初編が刊行されたのもこの年代である{{Sfn|永田|2017|p=85}}。読本挿絵の仕事がひと段落した北斎は文化9年(1812年)ごろに関西方面へ旅行に出かけたと言われており、秋ごろに名古屋の門人[[牧墨僊]]宅へ逗留し、三百余図の版下絵を制作した{{Sfn|永田|2000|p=130}}。絵手本『北斎漫画』の初編はこの時描いた版下絵が元となっている{{Sfn|永田|2000|p=130}}。文化14年(1817年)ごろには再度関西方面へ赴いたようだが、詳細な足跡については明らかになっていない{{Sfn|永田|2000|p=160}}。しかし、同年に文化元年に行った催事同様、西掛所境内([[本願寺名古屋別院]])で百二十畳の大達磨揮毫を行ったという記録が残されており、刊行中だった『北斎漫画』の販促として大きく寄与したものと考えられている{{Sfn|永田|2000|p=163}}。
絵手本以外の分野では本格的な[[鳥瞰図]]の制作が挙げられる{{Sfn|永田|2017|p=112}}。鳥観図は[[北尾政美]]が制作する作品が大きな人気を博していたが、これの後を追うように『東海道名所一覧』『木曽路名所一覧』といった作品を発表した{{Sfn|永田|2017|p=114}}。肉筆画の分野では西洋画法を追及した試行作品が数多く残されており、線での表現を避けつつ、面で質感を表現しようとした『なまこ図』や輪郭線を排して明暗のみで表現した『生首図』などはその代表と言える{{Sfn|永田|2017|pp=117-118}}。一般的に戴斗時代はどちらかというと地味な活動期だったと捉えられる向きもあるが、晩年まで続く絵手本分野への進出や、新たな画風確立のための重要な時期であったと言える{{Sfn|永田|2017|p=119}}。また、この時代に入ると娘のお栄とともに[[川柳]]に傾倒し、『[[誹風柳多留]]』への投句や句選活動が確認できる{{Sfn|永田|2000|p=165}}。


[[File:Katsushika Hokusai - Fine Wind, Clear Morning (Gaifū kaisei) - Google Art Project.jpg|thumb|250px|北斎の代表作に取り上げられる『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』の「[[凱風快晴]]」(通称:赤富士)(1830年より順次刊行)]]
[[File:Ejiri in the Suruga province.jpg|thumb|250px|『冨嶽三十六景 [[駿河国|駿州]][[江尻宿|江尻]]』]]
[[File:Fujimi Fuji view field in the Owari province.jpg|thumb|250px|『冨嶽三十六景 [[尾州不二見原]]』]]
=== 為一時代 ===
=== 為一時代 ===
文政3年(1820年)から[[天保]]4年(1833年)までの長きに渡って北斎は'''為一'''の画号を用いて活動した{{Sfn|永田|2017|p=119}}。為一時代は大きく前期と後期に分かれるが、代表作とも言える『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』を始めとした風景版画を制作した時代でもあり、北斎という画人を象徴する期間と言える{{Sfn|永田|2017|p=120}}。為一時代の前期は文政末から天保初とされ、狂歌に関する摺物や挿絵に力が注がれた{{Sfn|永田|2017|p=120}}。特に色紙判と呼ばれる正方形の作品は同一テーマで複数の画が描かれたものがセットで発表され、これまで以上に統一された完成度を持っていた{{Sfn|永田|2017|p=121}}。代表的な作品としては『元禄歌仙貝合』(全36図)や『馬尽』(全30図)などがある{{Sfn|永田|2017|p=122}}。一方で為一時代後期は天保初からの4年間とされ、生涯のうちでもっとも浮世絵版画に傾注した時期とされている{{Sfn|永田|2017|p=125}}。『冨嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』などの風景画や『江戸八景』『景勝雪月花』などの名所絵、古典画、花鳥図など、わずか数年の期間で多岐に渡る浮世絵版画が制作された{{Sfn|永田|2017|pp=129-130}}。これらの作品の多くは[[西村屋与八]]と[[森屋治兵衛]]の[[版元]]から出版されており、北斎と両版元との深い関係が窺える{{Sfn|永田|2017|p=134}}。
文政3年(1820年)から[[天保]]4年(1833年)までの長きに渡って北斎は'''為一'''の画号を用いて活動した{{Sfn|永田|2017|p=119}}。為一時代は大きく前期と後期に分かれるが、代表作とも言える『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』を始めとした風景版画を制作した時代でもあり、北斎という画人を象徴する期間と言える{{Sfn|永田|2017|p=120}}。為一時代の前期は文政末から天保初とされ、狂歌に関する摺物や挿絵に力が注がれた{{Sfn|永田|2017|p=120}}。特に色紙判と呼ばれる正方形の作品は同一テーマで複数の画が描かれたものがセットで発表され、これまで以上に統一された完成度を持っていた{{Sfn|永田|2017|p=121}}。代表的な作品としては『元禄歌仙貝合』(全36図)や『馬尽』(全30図)などがある{{Sfn|永田|2017|p=122}}。一方で為一時代後期は天保初からの4年間とされ、生涯のうちでもっとも浮世絵版画に傾注した時期とされている{{Sfn|永田|2017|p=125}}。『冨嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』などの風景画や『江戸八景』『景勝雪月花』などの名所絵、古典画、花鳥図など、わずか数年の期間で多岐に渡る浮世絵版画が制作された{{Sfn|永田|2017|pp=129-130}}。これらの作品の多くは[[西村屋与八]]と[[森屋治兵衛]]の[[版元]]から出版されており、北斎と両版元との深い関係が窺える{{Sfn|永田|2017|p=134}}。

私生活では[[柳川重信]]と離縁した長女のお美与が連れ帰った孫の悪行に苦しめられた時代だったようで、尻拭いに奔走し疲弊し苦悩していたことが書簡などから明らかになっている{{Sfn|永田|2000|p=185}}。そこには「当春は、銭もなく、着物もなく、口を養うのみにて」とあり、肉体精神だけでなく生活も困窮していた様子が認められており、こうした状況が少なくとも天保5年(1834年)ごろまで続いたと見られている{{Sfn|永田|2000|p=186}}。
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|[[File:Katsushika Hokusai - Fine Wind, Clear Morning (Gaifū kaisei) - Google Art Project.jpg|thumb|250px|『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]] [[凱風快晴]]』]]
|[[File:Ejiri in the Suruga province.jpg|thumb|250px|『冨嶽三十六景 [[駿河国|駿州]][[江尻宿|江尻]]』]]
|[[File:Fujimi Fuji view field in the Owari province.jpg|thumb|250px|『冨嶽三十六景 [[尾州不二見原]]』]]
|}


=== 画狂老人卍時代 ===
=== 画狂老人卍時代 ===
[[File:Hokusai, Fuji at Torigoe.jpg|thumb|250px|『[[富嶽百景 (北斎)|富嶽百景]] 鳥越の不二』[[天文方]]の観測施設として設けられた浅草天文台を描いている。]]
75歳となった天保5年(1834年)3月に、北斎は富士図の集大成とも言える『富嶽百景』を上梓した{{Sfn|永田|2017|p=143}}。『富嶽百景』の巻末では'''画狂老人卍'''と号した北斎が初めて自跋を載せ、これまでの半生とこれからの決意を語った{{Sfn|永田|2017|pp=143-144}}。一般的にはこの跋文発表以降が北斎の最晩年とされている{{Sfn|永田|2017|p=144}}。[[天保の大飢饉]]の影響によって他の浮世絵師同様、北斎も生活に困窮していたが、唐紙や半紙に絵を描き、画帳にして販売することで糊口を凌いだ{{Sfn|千野|2021|p=136}}。また、天保10年(1839年)に起きた火事によって当時暮らしていた達摩横丁の住居を焼け出され、家財道具や商売道具のほとんどを失ったという{{Sfn|千野|2021|p=136}}{{Sfn|永田|2017|p=174}}。逃げ出す際に筆だけは握って飛び出したが、その他の道具を焼失したため、徳利を打ち砕いて底を筆洗とし、破片を絵皿として絵を描いたという逸話が『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|永田|2017|p=175}}。最後の作品は[[嘉永]]2年(1849年)の『富士越龍図』とされる{{Sfn|千野|2021|p=166}}。ただし、美術研究家の[[久保田一洋]]は、最晩年の1849年に描かれたとする北斎の絵については不審な点が多数あるとして疑義を呈している{{Sfn|檀|2020|p=162}}。特に絶筆とされる『富士越龍図』は、他の北斎の絵に無い特徴を備えている他、筆致や絵の画面配置などが娘の[[葛飾応為]]が描いた『夜桜美人図』に一致するとして、作品の全部あるいはほとんどを応為が手掛けたのではないかと推察している{{Sfn|檀|2020|p=164}}。
75歳となった天保5年(1834年)3月に、北斎は富士図の集大成とも言える『[[富嶽百景 (北斎)|富嶽百景]]』を上梓した{{Sfn|永田|2017|p=143}}。『富嶽百景』の巻末では'''画狂老人卍'''と号した北斎が初めて自跋を載せ、これまでの半生とこれからの決意を語った{{Sfn|永田|2017|pp=143-144}}。一般的にはこの跋文発表以降が北斎の最晩年とされている{{Sfn|永田|2017|p=144}}。[[天保の大飢饉]]の影響によって休業状態となった版元たちを救済するため、唐紙や半紙に絵を描き、画帳にして販売することで糊口を凌いだという逸話が『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|永田|2000|p=196}}。また、天保5年(1834年)の冬ごろから天保7年ごろまで、北斎はなんらかの逼迫した事情から相州浦賀に潜居していたと言われ、三浦屋八衛門を名乗って生活を送っていたとされる{{Sfn|永田|2000|p=213}}。これについて『葛飾北斎伝』では実子が法を犯した可能性などいくつかの説を取り上げているが、明確にはなっていない{{Sfn|永田|2000|p=213}}。その後、天保10年(1839年)に起きた火事によって当時暮らしていた達摩横丁の住居を焼け出され、家財道具や商売道具のほとんどを失ったという{{Sfn|永田|2000|pp=215-217}}。逃げ出す際に筆だけは握って飛び出したが、その他の道具を焼失したため、徳利を打ち砕いて底を筆洗とし、破片を絵皿として絵を描いたという逸話が『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|永田|2017|p=175}}。火災に遭った翌年には房総方面へ旅をしている記録が残されているが、目的については明らかになっていない{{Sfn|永田|2000|p=217}}。天保15年(1844年)には信州の門人[[高井鴻山]]に乞われて[[小布施町|小布施]]へと向かい、同地での天井絵制作に携わったと言われている{{Sfn|永田|2000|p=217}}。

最後の作品は[[嘉永]]2年(1849年)の『富士越龍図』とされる{{Sfn|永田|2000|p=212}}。ただし、美術研究家の[[久保田一洋]]は、最晩年の1849年に描かれたとする北斎の絵については不審な点が多数あるとして疑義を呈している{{Sfn|久保田|2015|p=99}}。特に絶筆とされる『富士越龍図』は、他の北斎の絵に無い特徴を備えている他、筆致や絵の画面配置などが娘の[[葛飾応為]]が描いた『夜桜美人図』に一致するとして、作品の全部あるいはほとんどを応為が手掛けたのではないかと推察している{{Sfn|久保田|2015|p=104}}。


北斎は同年2月末ごろより病床に伏し{{Sfn|檀|2020|p=162}}、嘉永2年(1849年)4月18日の暁七ツ時(午前4時ごろ)に[[浅草]]聖天町[[遍照院]]の境内にあった長屋にて息を引き取った{{Sfn|千野|2021|p=166}}。
北斎は嘉永2年(1849年)4月18日の暁七ツ時(午前4時ごろ)に[[浅草]]聖天町[[遍照院]]の境内にあった長屋にて息を引き取った{{Sfn|永田|2000|p=219}}。『葛飾北斎伝』には「翁病に罹り、医師薬効あらず」「門人およひ旧友等来りて、看護日々怠りなし」とあるため、病や事故などによる急死ではなく、老衰により往生したと見られる{{Sfn|永田|2000|p=220}}。娘のお栄によって葬儀が直ちに執り行われ、遺体は浅草の浄土宗誓教寺にて葬られた{{Sfn|永田|2000|p=221}}。


=== 年表 ===
=== 年表 ===
[[File:Honjo Tatekawa, the timberyard at Honjo.jpg|thumb|250px|北斎出生地割下水の側を流れる[[竪川 (東京都)|立川]]を描いた『冨嶽三十六景 本所立川』]]
[[File:Honjo Tatekawa, the timberyard at Honjo.jpg|thumb|250px|北斎出生地割下水の側を流れる[[竪川 (東京都)|立川]]を描いた『冨嶽三十六景 本所立川』]]
* [[宝暦]]10年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]([[1760年]][[10月31日]])江戸の[[本所 (墨田区)|本所]][[割下水]](現・東京都[[墨田区]]の一角。「[[#北斎通り]]」も参照)にて生を受ける。幼名は時太郎(ときたろう)。のち鉄蔵(てつぞう)と称。父親は川村某、倉田某、二代中島伊勢の長男など諸説がある<ref name="shimane"/>。『葛飾北斎伝』では次男または三男であったとしている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=34}}。
* [[宝暦]]10年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]([[1760年]][[10月31日]])江戸の[[本所 (墨田区)|本所]][[割下水]](現・東京都[[墨田区]]の一角)にて生を受ける。幼名は時太郎で、のち鉄蔵と称したとされる{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=35}}。父親は川村某、倉田某、二代中島伊勢の長男など諸説がある<ref name="shimane"/>。『葛飾北斎伝』では次男または三男であったとしている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=34}}。
* 宝暦13年(1763年・4歳)この頃に幕府御用達[[銅鏡#鏡師|鏡磨師]]であった中島伊勢の養子となったとする説もある<ref name="shimane"/>。
* 宝暦13年(1763年・4歳)この頃に幕府御用達[[銅鏡#鏡師|鏡磨師]]であった中島伊勢の養子となったとする説もある<ref name="shimane"/>。
* [[明和]]2年(1765年・6歳)後年の作品『富嶽百景』『画本彩色通』などによれば、この頃より好んで絵を描くようになった<ref name="shimane"/>。
* [[明和]]2年(1765年・6歳)後年の作品『富嶽百景』『画本彩色通』などによれば、この頃より好んで絵を描くようになった<ref name="shimane"/>。
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* 文政5年(1822年・63歳)春頃より[[堤等琳 (3代目)|堤等琳]]宅に寄宿したと『北斎骨法婦人集』に記される<ref name="shimane"/>。『葛飾北斎伝』には長女と門人[[柳川重信]]が離縁したとされている<ref name="shimane"/>。「画狂老人卍」の号を用いて『[[富嶽百景 (北斎)|富嶽百景]]』を手がける{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=138}}。
* 文政5年(1822年・63歳)春頃より[[堤等琳 (3代目)|堤等琳]]宅に寄宿したと『北斎骨法婦人集』に記される<ref name="shimane"/>。『葛飾北斎伝』には長女と門人[[柳川重信]]が離縁したとされている<ref name="shimane"/>。「画狂老人卍」の号を用いて『[[富嶽百景 (北斎)|富嶽百景]]』を手がける{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=138}}。
* 文政6年(1823年・64歳)川柳の号に「卍」が見られるようになる<ref name="shimane"/>。
* 文政6年(1823年・64歳)川柳の号に「卍」が見られるようになる<ref name="shimane"/>。
[[ファイル:Hokusai-fuji-koryuu.png|thumb|180px|『富士越龍図』<br />肉筆画(絹本着色)。嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。死の3ヶほど前北斎最晩年のでありが絶筆、あるいはれに極めいもと考られている{{Sfn|千野|2021|p=165
[[ファイル:Hokusai-fuji-koryuu.png|thumb|180px|『富士越龍図』<br />肉筆画(絹本着色)。嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。「正辰ノ日」は1月11日か1月23日とされ確認されている品のうち最後に制作さた一点とみられている{{Sfn|永田|2000|p=212}}{{efn|ただし「九十老人卍筆」の落款がある作品だけでも、現在15点ほども確認されてる。当時[[数え年]]なため、正月から死ぬまでの5ヶ月弱でこだけの作品を描いたことなる。北斎の生命力が尽きかけていること、年紀がない作品や現在失われた作品あるだろうこ慮すると、これの中に[[贋作]]が含まれていることを指摘する見解もある<ref>{{Cite book|和書|author=葛飾北斎, 島田賢太郎, 久保田一洋, 渡辺航|title=画狂人北斎 : 生誕250年記念|chapter=久保田一洋 「北斎の肉筆画」|publisher=マリア書房|year=2010|series=日本浮世絵博物館コレクション|NCID=BB05693721|ISBN=9784895115711|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I015564844-00}}</ref>。}}。]]
}}{{efn|ただし、「九十老人卍筆」の落款がある作品だけでも、現在15点ほども確認されている。当時は[[数え年]]なため、正月から死ぬまでの5ヶ月弱でこれだけの作品を描いたことになる。北斎の生命力が尽きかけていること、年紀がない作品や現在失われた作品もあるだろうことを考慮すると、これらの中に[[贋作]]が含まれていることを指摘する見解もある<ref>{{Cite book|和書|author=葛飾北斎, 島田賢太郎, 久保田一洋, 渡辺航|title=画狂人北斎 : 生誕250年記念|chapter=久保田一洋 「北斎の肉筆画」|publisher=マリア書房|year=2010|series=日本浮世絵博物館コレクション|NCID=BB05693721|ISBN=9784895115711|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I015564844-00}}</ref>。}}。]]
* 文政10年(1827年・68歳)『葛飾北斎伝』には文政末年に[[中風]]を患うが、柚子を原料とした自製薬で回復したとしている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=132-133}}。
* 文政10年(1827年・68歳)『葛飾北斎伝』には文政末年に[[中風]]を患うが、柚子を原料とした自製薬で回復したとしている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=132-133}}。
* 文政11年(1828年・69歳)川柳の号に「万字」が見られるようになる<ref name="shimane"/>。『誓教寺過去帳』によれば6月5日に妻と死別した<ref name="shimane"/>。
* 文政11年(1828年・69歳)川柳の号に「万字」が見られるようになる<ref name="shimane"/>。『誓教寺過去帳』によれば6月5日に妻と死別した<ref name="shimane"/>。
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== 人物 ==
== 人物 ==
[[File:MET 14 76 34 03 sf.jpg|thumb|150px|『店の前』(1780年)に記された「北斎辰政」の落款。]]
=== 名前と画号 ===
[[File:Signature in Suika-zu by Katsushika- Hokusai.jpg|thumb|150px|『[[西瓜図]]』(1839年)に記された「画狂老人卍翁筆齢八十」の落款。]]
北斎の実名について、飯島虚心の『葛飾北斎伝』には「姓は藤原、名は為一」と記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}。画号は頻繁に改号したことで知られており、多くの書籍で30回以上の改号が行われたと紹介されている<ref>{{Citation|和書| author=菊池貞夫 | year=1962 | title=浮世絵 庶民の芸術 |publisher=保育社 |isbn=9784586500215 | page=111 }}など</ref>。使用した画号例として「勝川春朗」「勝春朗」「叢春朗」「群馬亭」「魚仏{{efn|この画号を用いた作品は確認されていない{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}。}}」「菱川宗理{{efn|北斎の宗理使用期に菱川姓の使用は見られず、飯島の誤認ではないかと指摘されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=340}}。}}」「辰斎{{efn|この画号を用いた作品は確認されていない{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}。}}」「辰政」「雷震」「雷信{{efn|この画号を用いた作品は確認されていない{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}。}}」「雷斗」「戴斗」「北斎」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「卍翁」「卍老人」「不染居」「九々蜃」「白山人{{efn|門人である北為の画号であり、北斎の画号ではないとの校注あり{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=30}}。}}」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|pp=29-30}}。また、戯号として「時太郎」「可侯」「是和斎」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=30}}。実際の作品では落款の無いもの、「宗理改北斎画」「葛飾前北斎改戴斗画」など、改号前の画号と共に記した作品、「画狂老人北斎」「画狂老人卍翁筆」など複数の画号を組み合わせた作品、「齢七十二画狂老人卍筆」「八十七老卍筆」など年齢を加えた号など画号に用いた名称は様々に変化している<ref name="shimane"/>。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている<ref>安田剛蔵 『画狂北斎』 [[有光書房]]、1971年</ref>。
=== 名前について ===
北斎の実名について、一般的な通説では「中島鉄蔵」とされ、[[日本芸術文化振興会]]が提供する「文化デジタルライブラリー」では「本名:中島鉄蔵、後に三浦屋八右衛門」としており<ref>{{cite web|title=人物履歴: 葛飾 北斎|url=https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/collections/search_each?division=collections&class=nishikie&type=painter&ikana=%25E3%2581%258B%25E3%2581%25A4%25E3%2581%2597%25E3%2581%258B+%25E3%2581%25BB%25E3%2581%258F%25E3%2581%2595%25E3%2581%2584&ititle=%25E8%2591%259B%25E9%25A3%25BE+%25E5%258C%2597%25E6%2596%258E&istart=0&iselect=%25E3%2581%258B&rid=5000100&pid=1&trace=result|access-date=2023-09-24|website=文化デジタルライブラリー}}</ref>、『山川 日本史小辞典 改訂新版』では「本姓は川村のち中島。俗称時太郎、のち鉄蔵。」と紹介している<ref name="kotobank_hokusai"/>。飯島虚心の『葛飾北斎伝』には「姓は藤原、名は為一」と画号とは別に記されており{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}、飯島が何故このような記載方式としたか判っていないが、浮世絵や民俗学の研究などを行っている[[諏訪春雄]]は、藤原姓について養子となった中島家の先祖の血統を指す姓なのではないかと推察している{{Sfn|諏訪|2001|p=34}}。一方で浮世絵研究者の[[内田千鶴子]]は、誓教寺の墓碑名より川村氏が[[藤原秀郷]]の後裔を称していたようだと指摘している{{Sfn|内田|2011|p=34}}。[[佐藤道信]]は藤原姓を名乗り始めたのは晩年になってからであるとし、自らの芸術の正統性を誇示するためだったのではないかと指摘している{{Sfn|佐藤|1999|p=4}}。美術評論家の[[瀬木慎一]]は自著の中で「北斎その人は川村氏を名乗ったことは一度もなく、中島もしくは藤原と署名している。この藤原は、当時の画家がしばしば用いた姓であるので、画家名と見てよく、したがって彼の本姓は中島であるはずである」としている{{Sfn|瀬木|1973|p=16}}。いずれにせよ、飯島虚心の『葛飾北斎伝』を基とした後年研究者達の主張であり、永田は北斎の名前や家系について2000年に刊行した自著にて「現在のところ虚心の記述以外にそれを覆すような資料の存在はいまだ知られていない」としている{{Sfn|永田|2000|p=9}}。

幼名に関しては複数の通説があり、時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある{{Sfn|永田|2017|p=40}}。飯島虚心の『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしている<ref name="shimane"/>{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=35}}。

=== 画号について ===
画号は頻繁に改号したことで知られており、多くの書籍で30回以上の改号が行われたと紹介されている<ref>{{Citation|和書| author=菊池貞夫 | year=1962 | title=浮世絵 庶民の芸術 |publisher=保育社 |isbn=9784586500215 | page=111 }}など</ref>。使用した画号例として「勝川春朗」「勝春朗」「叢春朗」「群馬亭」「魚仏{{efn|この画号を用いた作品は確認されていない{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}。}}」「菱川宗理{{efn|北斎の宗理使用期に菱川姓の使用は見られず、飯島の誤認ではないかと指摘されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=340}}。}}」「辰斎{{efn|この画号を用いた作品は確認されていない{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}。}}」「辰政」「雷震」「雷信{{efn|この画号を用いた作品は確認されていない{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=29}}。}}」「雷斗」「戴斗」「北斎」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「卍翁」「卍老人」「不染居」「九々蜃」「白山人{{efn|門人である北為の画号であり、北斎の画号ではないとの校注あり{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=30}}。}}」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|pp=29-30}}。また、戯号として「時太郎」「可侯」「是和斎」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=30}}。実際の作品では落款の無いもの、「宗理改北斎画」「葛飾前北斎改戴斗画」など、改号前の画号と共に記した作品、「画狂老人北斎」「画狂老人卍翁筆」など複数の画号を組み合わせた作品、「齢七十二画狂老人卍筆」「八十七老卍筆」など年齢を加えた号など画号に用いた名称は様々に変化している<ref name="shimane"/>。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている<ref>安田剛蔵 『画狂北斎』 [[有光書房]]、1971年</ref>。また、[[春画]]を描く際は「紫色雁高」「鉄棒ぬらぬら」などといった画号を用いていたことが知られている{{Sfn|浅野|2005|pp=9-11}}。


現在広く知られる「北斎」は、宗理の号を譲った後に名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは[[北極星]]および[[北斗七星]]を神格化した[[日蓮宗]]系の北辰[[妙見菩薩]]信仰([[法性寺 (墨田区)|柳嶋法性寺]])にちなんでいる<ref name="hokusaiden">飯島虚心『葛飾北斎伝』蓬枢閣、1893、[{{NDLDC|992198}} 上巻]、 [{{NDLDC|992199}} 下巻](国会図書館デジタルコレクション)。飯島虚心、鈴木重三『葛飾北斎伝』岩波文庫、1999。</ref>{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=54}}。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=55}}や、北斎の自己韜晦癖が影響しているとする説<ref>{{Cite journal|和書|author=瀬木慎一|year=1972|title=写楽と北斎の虚実|url=https://doi.org/10.34542/ukiyoeart.368|journal=浮世絵芸術|volume=32|pages=5-20|publisher=国際浮世絵学会|doi=10.34542/ukiyoeart.368|ISSN=0041-5979}} p.15 より<br />{{Cite journal|和書|author=河野元昭|year=1996|title=北斎と葛飾派〔含 図版目録,北斎年譜〕|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7962524|journal=日本の美術|issue=367|pages=<!--1-98-->46-48|publisher=至文堂|doi=10.11501/7962524|ISSN=0549401X|NCID=AN00196318}}ムック本 ISBN 978-4-784-33367-7</ref> もある。「北斎」の号も弟子の[[葛飾北斎 (2代目)|鈴木某]]<ref name="nenpu">[[永田生慈]] 『葛飾北斎年譜』 [[三彩新社]]、1985年</ref>、あるいは[[葛飾北斎 (2代目)|橋本庄兵衛]]に譲っている。
現在広く知られる「北斎」は、宗理の号を譲った後に名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは[[北極星]]および[[北斗七星]]を神格化した[[日蓮宗]]系の北辰[[妙見菩薩]]信仰([[法性寺 (墨田区)|柳嶋法性寺]])にちなんでいる<ref name="hokusaiden">飯島虚心『葛飾北斎伝』蓬枢閣、1893、[{{NDLDC|992198}} 上巻]、 [{{NDLDC|992199}} 下巻](国会図書館デジタルコレクション)。飯島虚心、鈴木重三『葛飾北斎伝』岩波文庫、1999。</ref>{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=54}}。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=55}}や、北斎の自己韜晦癖が影響しているとする説<ref>{{Cite journal|和書|author=瀬木慎一|year=1972|title=写楽と北斎の虚実|url=https://doi.org/10.34542/ukiyoeart.368|journal=浮世絵芸術|volume=32|pages=5-20|publisher=国際浮世絵学会|doi=10.34542/ukiyoeart.368|ISSN=0041-5979}} p.15 より<br />{{Cite journal|和書|author=河野元昭|year=1996|title=北斎と葛飾派〔含 図版目録,北斎年譜〕|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7962524|journal=日本の美術|issue=367|pages=<!--1-98-->46-48|publisher=至文堂|doi=10.11501/7962524|ISSN=0549401X|NCID=AN00196318}}ムック本 ISBN 978-4-784-33367-7</ref> もある。「北斎」の号も弟子の[[葛飾北斎 (2代目)|鈴木某]]<ref name="nenpu">[[永田生慈]] 『葛飾北斎年譜』 [[三彩新社]]、1985年</ref>、あるいは[[葛飾北斎 (2代目)|橋本庄兵衛]]に譲っている。
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『葛飾北斎伝』には狂言作家である四方梅彦の話として75歳までに56回の転居{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=164}}、生涯に93回の転居を行ったと記載がある{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=227}}。これを根拠として転居癖があったとされているが、具体的な数字に関して『葛飾北斎伝』には根拠が無く、信憑性に欠けるとの指摘もある{{Sfn|永田|2017|p=170}}。同様に日に3度転居したという逸話に関しても、北斎の奇人さを補強するエピソードとして検証されることなく紹介される傾向にある{{Sfn|永田|2017|p=170}}。ただし、北斎が転居をたびたび行っていたという事自体は当時から良く知られていたようで、[[曲亭馬琴]]の『曲亭来簡集』などでも取り上げられている{{Sfn|永田|2017|p=169}}。
『葛飾北斎伝』には狂言作家である四方梅彦の話として75歳までに56回の転居{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=164}}、生涯に93回の転居を行ったと記載がある{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=227}}。これを根拠として転居癖があったとされているが、具体的な数字に関して『葛飾北斎伝』には根拠が無く、信憑性に欠けるとの指摘もある{{Sfn|永田|2017|p=170}}。同様に日に3度転居したという逸話に関しても、北斎の奇人さを補強するエピソードとして検証されることなく紹介される傾向にある{{Sfn|永田|2017|p=170}}。ただし、北斎が転居をたびたび行っていたという事自体は当時から良く知られていたようで、[[曲亭馬琴]]の『曲亭来簡集』などでも取り上げられている{{Sfn|永田|2017|p=169}}。


度重なる転居の理由についても、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄([[葛飾応為]])とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたという話や寺町百庵{{efn|この百庵は『続俳家奇人談』に載り、[[嘉永]]6年版『俳林小伝』にも見える人物で、転居百回の後、下谷七軒町で亡くなったという{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=227}}。}}に倣って百回の転居の後に死にたいという北斎の願望などが『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=226}}。こうした逸話について千野は、「長く住めば知り合いが出来るし、しがらみも増える。長屋暮らしでは隣近所も無碍には出来ない。」という北斎の気遣いがあり、これらを包み隠すための不快にさせない冗談だったのではないかと分析している{{Sfn|千野|2021|pp=53-54}}。
度重なる転居の理由についても、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄([[葛飾応為]])とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたという話や寺町百庵{{efn|この百庵は『続俳家奇人談』に載り、[[嘉永]]6年版『俳林小伝』にも見える人物で、転居百回の後、下谷七軒町で亡くなったという{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=227}}。}}に倣って百回の転居の後に死にたいという北斎の願望などが『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=226}}。


=== 臨終 ===
=== 臨終 ===
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嘉永2年4月18日、北斎は[[卒寿]](90歳)にて臨終を迎えた{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=170}}。『葛飾北斎伝』ではその時の様子が次のように伝えられている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=169}}。
嘉永2年4月18日、北斎は[[卒寿]](90歳)にて臨終を迎えた{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=170}}。『葛飾北斎伝』ではその時の様子が次のように伝えられている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=169}}。
{{Quotation|翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」といひ、暫くして更に謂て曰く、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と、言訖りて死す。|『葛飾北斎伝』より引用{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=169}}。}}
{{Quotation|翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」といひ、暫くして更に謂て曰く、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と、言訖りて死す。|『葛飾北斎伝』より引用{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=169}}。}}
この日付でお栄が門人の北嶺に送付した死亡通知が現存しており、「四月十八日 深川下の橋北嶺様 栄拝 葬式明十九日朝四ツ時 卍儀病気の処 養生不相叶 今暁七ツ時に病死仕候 右申上度早々如此御座候 以上 四月十八日」と記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=170}}。これにより亡くなった時刻は午前4時頃とされている{{Sfn|千野|2021|p=166}}。
この日付でお栄が門人の北嶺に送付した死亡通知が現存しており、「四月十八日 深川下の橋北嶺様 栄拝 葬式明十九日朝四ツ時 卍儀病気の処 養生不相叶 今暁七ツ時に病死仕候 右申上度早々如此御座候 以上 四月十八日」と記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=170}}。これにより亡くなった時刻は午前4時頃とされている{{Sfn|永田|2000|p=221}}。


墓碑に刻まれた辞世の句は、
墓碑に刻まれた辞世の句は、
: 悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=171}}
: 悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=171}}
「[[人魂]]になって夏の野原も気晴らしに出かけよ」というものであった{{Sfn|千野|2021|p=170}}。
「[[人魂]]になって夏の野原をのびのび飛んゆこう」というものであった<ref>{{cite web|title=北斎の生涯と言葉|url=https://hokusai-museum.jp/modules/Page/pages/view/401|access-date=2023-09-30|website=すみだ北斎美術館}}</ref>


また、[[戒名]]として「南総院奇誉北斎信士」が墓碑に刻まれており、誓教寺が所蔵する過去帖には「南牕院奇誉北斎居士」と記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=171}}。
また、[[戒名]]として「南総院奇誉北斎信士」が墓碑に刻まれており、誓教寺が所蔵する過去帖には「南牕院奇誉北斎居士」と記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=171}}。


[[File:Hokusai 1760-1849, Katsushika, Japan Selfportrait at the age of eighty three.jpg|thumb|150px|『八十三歳自画像』 天保10年(1842年)、北斎82歳(数え年83歳)のときの自画像。]]
=== 家族 ===
=== 家族 ===
北斎には二度の結婚歴があり、それぞれの妻との間に一男二女をけたと言われている{{Sfn|千野|2021|p=44}}。先妻についての詳細は不明だが、後妻の名はこととされる{{Sfn|榎本|2005|p=9}}。どちらの妻とも死別とされ、1828年に最後の妻であることと死別して以降は三女のお栄と最期まで暮らした{{Sfn|千野|2021|p=44}}。
北斎には二度の結婚歴があり、それぞれの妻との間に一男二女{{efn|『葛飾北斎伝』では、後妻との間の子は一男一女とし、一説に一男二女としている{{Sfn|久保田|2015|p=128}}。}}もうけたと言われている{{Sfn|永田|2000|p=215}}。先妻についての詳細は不明だが、後妻の名はこととされる{{Sfn|榎本|2005|p=9}}。どちらの妻とも死別とされ、文政11(1828年)に最後の妻であることと死別して以降は三女のお栄と最期まで暮らした{{Sfn|久保田|2015|pp=131-133}}。


==== 両親 ====
==== 両親 ====
北斎の父親については諸説あるが、飯島虚心が北斎の曾孫白井氏へ確認した際のやり取りが『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=173}}。これに拠れば川村家の子として生まれ、中島家へ養子となったとしている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=173}}。これが通説となり、幕府御用の鏡師である中島伊勢{{efn|北斎の叔父にあたるという説もある{{Sfn|榎本|2005|p=13}}。}}の子あるいは養子とされているが、明確とされる根拠は無い{{Sfn|永田|2017|p=40}}。母親については[[吉良義央|吉良上野介]]家臣であった[[平八郎]]の孫娘言われており、北斎本人もそように語ていたと『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=32}}。明治18年の『東洋絵画叢誌』に吉良上野介孫にあたるとの記述見られたが、飯島によっ否定されている{{Sfn|飯島(鈴校注版)|1999|p=31}}。
北斎の父親については諸説あるが、飯島虚心が北斎の曾孫白井氏へ確認した際のやり取りが『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=173}}。これに拠れば川村家の子として生まれ、中島家へ養子となったとしている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=173}}。これが通説となり、幕府御用の鏡師である中島伊勢{{efn|北斎の叔父にあたるという説もある{{Sfn|榎本|2005|p=13}}。}}の子あるいは養子とされているが、明確とされる根拠は無い{{Sfn|永田|2017|p=40}}。浮世絵研究者の[[林美一]]は、1968年に「北斎父は中島伊勢」題した論文を発表し、北斎は川村家実子であるとする論考が主流となっている状況に一石を投じた{{Sfn||1968|p=15}}。また、瀬木北斎と親交のあ[[滝沢馬琴]]が所蔵す北斎から受け取ったいう手紙にある「壮年そ叔父御鏡師中島伊勢が養子になりしが、鏡造りのわざをせず、その子をつて職を嗣せしが、その先だ身まかり」という記述を支持して北斎の実父は中島伊勢の兄であるとの説を掲げている{{Sfn|木|1973|p=21}}。


母親については[[吉良義央|吉良上野介]]の家臣であった[[小林平八郎]]の孫娘と言われており、北斎本人もそのように語っていたと『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=32}}。明治18年の『東洋絵画叢誌』には吉良上野介の孫にあたるとの記述も見られたが、飯島によって否定されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=31}}。
[[ファイル:Hokusai karitaku no zu.jpg|thumb|250px|[[露木為一]]が描いた『北斎仮宅之図』。絵を描く北斎とそれを見る三女のお栄。]]

[[ファイル:Hokusai karitaku no zu.jpg|thumb|left|250px|[[露木為一]]が描いた『北斎仮宅之図』。絵を描く北斎とそれを見る三女のお栄。]]
==== 子供 ====
==== 子供 ====
長男は'''富之助'''と言い、鏡師を職としたことが『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=175}}。北斎の実家である中島家の職を継いだと見られるが、放蕩無頼の性格で家には寄り付かず、早世したと言われており、没年も死因も明らかになっていない{{Sfn|千野|2021|p=45}}。
長男は'''富之助'''と言い、鏡師を職としたことが『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=175}}。北斎の実家である中島家の職を継いだと見られるが{{Sfn|永田|2000|p=215}}、放蕩無頼の性格で家には寄り付かず、早世したと言われており、没年も死因も明らかになっていない{{Sfn|千野|2021|p=45}}。


長女は'''お美与'''(阿美与){{efn|この名称は説のひとつであり、確定はしていない{{Sfn||2020|p=49}}。}}という名で、1813年ごろに北斎の門人である[[柳川重信]]の元へ嫁いだが、関係は良好では無く、1822年頃に子を連れて実家へ戻ってきた後に死没したとされる{{Sfn|千野|2021|p=45}}。孫にあたる遺児はしばらくの間北斎によって育てられていたが、悪童であり、手を焼いた北斎は重信へ子を引き渡している{{Sfn|千野|2021|p=45}}。しかしながら1832年に重信が死去したため、再び北斎が面倒を見ることとなるが、大変な苦労をかけられていたという逸話が残されており、北斎物の物語の題材として取り扱われるほどであった{{Sfn|千野|2021|p=46}}。
長女は'''お美与'''(阿美与){{efn|この名称は説のひとつであり、確定はしていない{{Sfn|永田|2000|p=215}}。}}という名で、1813年ごろに北斎の門人である[[柳川重信]]の元へ嫁いだが、関係は良好では無く、1822年頃に子を連れて実家へ戻ってきた後に死没したとされる{{Sfn|久保田|2015|p=128}}。孫にあたる遺児はしばらくの間北斎によって育てられていたが、悪童であり、手を焼いた北斎は重信へ子を引き渡している{{Sfn|千野|2021|p=45}}。しかしながら1832年に重信が死去したため、再び北斎が面倒を見ることとなるが、大変な苦労をかけられていたという逸話が残されており、北斎物の物語の題材として取り扱われるほどであった{{Sfn|千野|2021|p=46}}。


次女は'''お鉄'''(阿鉄){{efn|この名称は説のひとつであり、確定はしていない{{Sfn||2020|p=49}}。}}といい、絵師をしていたとされるが、嫁いだ後に夭折したため、詳細は明らかなっていない{{Sfn|千野|2021|p=47}}。摘水軒記念文化振興財団が所蔵する朝顔美人図』などを描いた「[[葛飾辰女|辰女]]」呼ばれる絵師が次女のお鉄または三女のお栄ではないかう説もある{{Sfn||2020|pp=49-50}}。
次女は'''お鉄'''(阿鉄){{efn|この名称は説のひとつであり、確定はしていない{{Sfn|永田|2000|p=215}}。}}といい、絵師をしていたとされるが、嫁いだ後に夭折したとされる{{Sfn|久保田|2015|p=128}}。『葛飾北斎伝』では幕府御用達の某に嫁いだれる{{Sfn|久保田|2015|p=128}}。一方『続浮世絵類考』では、「他へ嫁ス、画工ニアラズ、早世」とあり、『葛飾北斎伝』の記述と異ってるため、詳細については分っていない{{Sfn|久保田|2015|p=128}}。


次男は幼名を多吉郎といい、御家人である加瀬氏に養子へ出された後、'''崎十郎'''と改められた{{Sfn|千野|2021|p=47}}。[[支配勘定]]あるいは[[御徒目付]]の職に就いたとされている{{Sfn|千野|2021|p=47}}。崎十郎の孫にあたる人物によって北斎の墓が建てられたという寺僧の話が『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=175}}。
次男は幼名を多吉郎といい、御家人である加瀬氏に養子へ出された後、'''崎十郎'''と改められた{{Sfn|永田|2000|p=215}}。[[天守番]]あるいは[[御徒目付]]の職に就いたとされている{{Sfn|永田|2000|p=215}}。俳諧を嗜み、椿岳庵木峨と号した{{Sfn|永田|2000|p=215}}。崎十郎の孫にあたる人物によって北斎の墓が建てられたという寺僧の話が『葛飾北斎伝』に記されている{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=175}}。


三女は'''お栄'''といい、[[葛飾応為]]として浮世絵師となった{{Sfn|千野|2021|p=47}}。生年につ1790年、1799年、1800年の三説がある{{Sfn|千野|2021|p=47}}。葛飾応為についての書籍を書いた檀乃歩也こうし説を分析し、は1796ではないか推察ている{{Sfn||2020|p=50}}。二十代の期間で[[南沢等明]]へ嫁いだが後に離縁し、北斎と行動を共にしたと言われている{{Sfn|千野|2021|p=48}}。国立国会図書館に所蔵されている[[露木為一]]の『北斎仮宅之図』には、当時の北斎とお栄が暮らす荒んだ家の様子が描かれている{{Sfn|千野|2021|p=49}}。画号である「応為」は、北斎がお栄を「おい」「おーい」等と呼びつけることが多かったためという説があった{{Sfn|千野|2021|p=51}}。北斎の死後は旗本息女や商家娘など対して絵を教えながら生活を営んでいとされる{{Sfn|檀|2020|p=180}}晩年小布施からの絵の指南依頼受けて以降の行方は不明となっている{{efn|2017年、小布施にある旧家土蔵から応為作とされる下絵が発見され、発見されている中ではこれ応為の最後の作品とさ{{Sfn||2020|p=181}}。}}{{Sfn|檀|2020|pp=180-182}}。
三女は'''お栄'''{{efn|この名称は説のひとつであり、確定はしていない{{Sfn|永田|2000|p=215}}。}}といい、[[葛飾応為]]として浮世絵師となった{{Sfn|永田|2000|p=215}}。摘水軒記念文化振興財団が所蔵する『朝顔美人図』などを描た「[[葛飾辰女|辰女]]」{{efn|落款に「北斎娘辰女筆」とある<ref name="kotobank_oui">{{Kotobank|葛飾応為}}</ref>}}と呼ばれる絵師が存在するが、北斎のどの娘であるかは明らかになっていない<ref name="kotobank_oui"/>。位置付け次第では葛飾応為が三女であるという『葛飾北斎伝』が伝える通説自体が覆る可能性も指摘されている<ref name="kotobank_oui"/>。生年については『葛飾北斎伝』に記述され没年齢から逆算し、寛政12(1800)ごろする説や、[[井上和雄 (浮世絵研究者)|井上和雄]]が『浮世絵志』第2号で提唱た寛政4年(1792年)ごろとする説、四方梅彦二が出会った応為の年齢を基に享和2年(1802年)とする説などがある{{Sfn|江戸|1976|p=34}}{{Sfn|久保田|2015|p=76}}。二十代の期間で[[南沢等明]]へ嫁いだが後に離縁し、北斎と行動を共にしたと言われている{{Sfn|永田|2000|p=215}}。国立国会図書館に所蔵されている[[露木為一]]の『北斎仮宅之図』には、天保13年(1842年)ごろと思われる北斎とお栄が暮らす荒んだ家の様子が描かれている{{Sfn|江戸|1976|p=34}}。画号である「応為」は、北斎がお栄を「おい」「おーい」等と呼びつけることが多かったためとする説や、当時流行した[[大津絵節]]から取ったという説や、北斎の「為一」号の一字を与えたとする説などがあ{{Sfn|江戸|1976|p=34}}。没年については『葛飾北斎伝』で北斎の死後、親戚加瀬氏家で一時的に生活たが、そこて以降の行方は分からなくなったとしおり、「加州金沢に赴きて死す、六十七」「徳川旗本の士某の領地武州金沢の近傍に到りて死せり」「信州高井郡小布施村、高井三九郎家に到り死せ」などの説を紹介しているが、いずも明確にはなっていない{{Sfn|江戸|1976|p=34}}。


四女については'''お猶'''(阿猶)と言われるが、早世が伝えられるのみで詳細は分かっていない{{Sfn|千野|2021|p=51}}。
四女については'''お猶'''(阿猶)と言われるが、早世が伝えられるのみで詳細は分かっていない{{Sfn|永田|2000|p=215}}。


[[File:Portrait_of_Katsushika_Hokusai_by_disciple_Keisai_Eisen.png|thumb|150px|弟子の英泉が描いた北斎の肖像画。 [[渓斎英泉]]「為一翁」『戯作者考補遺』より。]]

=== 門人・私淑者 ===
北斎の門人や私淑者は数多く存在しているが、『美術年鑑』では10名ほどの名が、飯島虚心の『葛飾北斎伝』では47名の弟子の名が挙げられている{{Sfn|荒井|1989|p=189}}。[[すみだ北斎美術館]]では2020年に北斎とその弟子たちによる作品の展示会を行ったが、孫弟子を含めて200名を超える弟子を抱えていたとしている<ref>{{cite web|title=北斎師弟対決!|url=https://hokusai-museum.jp/taiketsu/|access-date=2023-09-16|website=すみだ北斎美術館}}</ref>。実子である[[葛飾応為]]の他、[[渓斎英泉]]、[[本間北曜]]、[[柳々居辰斎]]、[[魚屋北渓]]、[[蹄斎北馬]]、[[昇亭北寿]]などが良く知られている{{Sfn|榎本|2005|p=9}}。『葛飾北斎伝』によれば北斎は「自ら教授することを好まず、其の門人たらんを請ふものあれば、自ら画きし刻板の画手本を出だし、先づ画かしめ、そここゝと、短所を指して、教へたるのみ」という態度だったという。

[[File:Edo-Tokyo Museum - miniature model of Hokusai's studio 01 (15585495469).jpg|thumb|left|250px|ミニチュアで再現された北斎とお栄の暮らしぶり([[東京都江戸東京博物館]])]]
=== 衣食住 ===
=== 衣食住 ===
北斎は衣食住に頓着しない性格であったとされ、片付けも掃除もしないため、住居は荒れ果てていたと言われている{{Sfn|久保田|2015|p=73}}。[[尾上菊五郎 (初代)|尾上梅幸]]が北斎宅を訪れた際に、足の踏み場も無いほどに荒れた室内に驚き、輿丁に敷物を敷かせて腰を下ろしたというエピソードが『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|千野|2021|p=55}}。行動を共にした三女のお栄も北斎と似通った性格の持ち主であり、室内は荒れるに任せていた{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=312}}。頭から布団を被り、手元に尿瓶を置いてひたすら作品制作に没頭したとされる{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=209}}。また、9月下旬から4月上旬までは昼夜炬燵を離れなかったと自戒している{{Sfn|千野|2021|p=56}}。
[[File:Edo-Tokyo Museum - miniature model of Hokusai's studio 01 (15585495469).jpg|thumb|250px|ミニチュアで再現された北斎とお栄の暮らしぶり([[東京都江戸東京博物館]])]]
北斎は衣食住に頓着しない性格であったとされ、片付けも掃除もしないため、住居は荒れ果てていたと言われている{{Sfn|千野|2021|p=54}}。[[尾上菊五郎 (初代)|尾上梅幸]]が北斎宅を訪れた際に、足の踏み場も無いほどに荒れた室内に驚き、輿丁に敷物を敷かせて腰を下ろしたというエピソードが『葛飾北斎伝』に紹介されている{{Sfn|千野|2021|p=55}}。行動を共にした三女のお栄も北斎と似通った性格の持ち主であり、室内は荒れるに任せていた{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=312}}。頭から布団を被り、手元に尿瓶を置いてひたすら作品制作に没頭したとされる{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=209}}。また、9月下旬から4月上旬までは昼夜炬燵を離れなかったと自戒している{{Sfn|千野|2021|p=56}}。


衣服は基本的に荒い手織り木綿を着て、寒い時にはその上から袖なしの半纏を羽織る程度で年中を過ごした{{Sfn|千野|2021|p=57}}。衣服が破れていても気にしなかった{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=197}}。訪問した者の「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という証言が残されている<ref>伊藤めぐみ 北斎研究16,20</ref>。外出時は6尺あまりの天秤棒を杖替わりとし、草履を突っかけて出かけるのみで、下駄も雪駄も履かなかった{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=206}}。また、[[法華経]]の念仏をぶつぶつと唱えながら歩いたため、人から話しかけられることもなかった{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=207}}。
衣服は基本的に荒い手織り木綿を着て、寒い時にはその上から袖なしの半纏を羽織る程度で年中を過ごした{{Sfn|久保田|2015|p=73}}。衣服が破れていても気にしなかった{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=197}}。訪問した者の「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という証言が残されている{{Sfn|久保田|2015|p=73}}。外出時は6尺あまりの天秤棒を杖替わりとし、草履を突っかけて出かけるのみで、下駄も雪駄も履かなかった{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=206}}。また、[[法華経]]の念仏をぶつぶつと唱えながら歩いたため、人から話しかけられることもなかった{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|p=207}}。


食については北斎自身もお栄も料理をしなかったため、貰ってきたものや買ってきたものをそのまま食べるだけの生活であったとされている{{Sfn|千野|2021|p=58}}。煮売酒屋の隣に居住していた期間は3食ともこの店から出前させていたという逸話も残されている{{Sfn|千野|2021|p=59}}。酒は飲まず、茶の銘柄にも拘らなかったが、甘いものには目が無かったと言われている{{Sfn|千野|2021|p=59}}{{Sfn|千野|2021|p=61}}。
食については北斎自身もお栄も料理をしなかったため、貰ってきたものや買ってきたものをそのまま食べるだけの生活であったとされている{{Sfn||2011|p=86}}。煮売酒屋の隣に居住していた期間は3食ともこの店から出前させていたという逸話も残されている{{Sfn|千野|2021|p=59}}。酒は飲まず、茶の銘柄にも拘らなかったが、甘いものには目が無かったと言われている{{Sfn|千野|2021|p=59}}{{Sfn|千野|2021|p=61}}。


金銭にも無頓着で、画代を確かめもせず投げだしていたり、売掛金の支払いを確認もせず渡したりしていたという{{Sfn|千野|2021|p=62}}。こうした杜撰さから常に赤貧で、金に困る生活を送っていたという{{Sfn|千野|2021|p=62}}。また、放蕩の孫が博打などによって北斎の金を使い込むことが度々あったため貧乏であったという説もある{{Sfn|千野|2021|p=63}}。
金銭にも無頓着で、画代を確かめもせず投げだしていたり、売掛金の支払いを確認もせず渡したりしていたという{{Sfn|千野|2021|p=62}}。こうした杜撰さから常に赤貧で、金に困る生活を送っていたとされる{{Sfn||2011|p=71}}。また、放蕩の孫が博打などによって北斎の金を使い込むことが度々あったため貧乏であったという説もある{{Sfn|林|2011|p=71}}。しかし、林美一はひっきりなしに仕事を受注していた北斎が本当に極貧だったのは、無名だった天明年間および孫の対処に追われた天保以降のみで、常に貧乏だったとする言説は誤りではないかと指摘している{{Sfn|林|2011|p=71}}。


== 評価 ==
== 評価 ==
=== 当時の北斎評価 ===
北斎は一部作品の再版が行われていたことから、当時それなりの人気を博していたことが伺えるが、具体的な言及については次のようなものが残されている。[[朝岡興禎]]の『[[古画備考]]』に残されている北斎の逸話の中で[[カピタン]]が北斎に対して「サスガ俗画ニ致セ、都下ニ雷鳴致程ノ画師ハ、気性格別ノ事也ト某深ク感候」のように語ったとあり、寛政10年(1798年)時点で既に十分な評判が出来上がっていたことが判る{{Sfn|永田|2000|p=79}}。また、翌年の寛政11年(1799年)に行われた[[三囲神社|三囲稲荷]]の[[開帳]]において北斎の描いた作品が高く評価されたことが[[三田村鳶魚]]の『寛政紀聞』や[[原徳斎]]の『墨水志』に記されている{{Sfn|永田|2000|p=79}}。永田は、『墨水志』に紹介されている[[高麗此太郎]]の書簡に「北斎宗理」とあることから、現代の研究者が想定している評価よりも相当に世評が高かったのではないかと指摘している{{Sfn|永田|2000|p=80}}。文化年間に入ると北斎は[[読本]]制作に傾注していくが、『増補浮世絵類考』には北斎によって読本という分野が大いに隆盛したと評価している{{Sfn|永田|2000|p=83}}。こうして一定の評価を得た北斎は門人の数を増やし続け、効率的に手解きを行うために[[絵手本]]の制作に意欲を見せるようになる{{Sfn|永田|2000|p=135}}。文化13年(1816年)に刊行された『北斎漫画』四編序文に「今や葛飾戴斗先生、画に堪能にして其の名高く」、文政元年(1818年)に刊行された『北斎漫画』八編序文に「葛飾一風を興し画名世に高し」などと[[小枝繁]]と思われる門人によって記されており、世間の評価が相応に高かったことが触れられている{{Sfn|永田|2000|p=137}}。一方で北斎に先駆けて鳥観図の制作に取り組んでいた[[北尾政美|鍬形蕙斎]]は、「北斎はとにかく人の真似をして自分で始めたものは何もない」と批判したと、[[斎藤月岑]]の『[[武江年表]]』に[[喜多村信節|喜多村筠庭]]によって補注されている{{Sfn|永田|2000|p=155}}。しかしながらこうした批判を実際に行ったかどうかについては確証が無く、前後の文章より永田は補注した筠庭による偏見から生じた独断だったのではないかと推察している{{Sfn|永田|2000|p=156}}。

=== 日本での北斎評価 ===
=== 日本での北斎評価 ===
[[File:Katsushika Hokusai - Shell Gathering - Google Art Project.jpg|thumb|250px|1997年に北斎の作品として初めて[[重要文化財]]に指定された肉筆画『潮干狩図』(1813年)]]
[[File:Katsushika Hokusai - Shell Gathering - Google Art Project.jpg|thumb|250px|1997年に北斎の作品として初めて[[重要文化財]]に指定された肉筆画『潮干狩図』(1813年)]]
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=== 日本国外での北斎評価 ===
=== 日本国外での北斎評価 ===
[[File:Debussy and Stravinsky - photo by Satie.jpg|thumb|200px|1910年に撮影された[[クロード・ドビュッシー]]と[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]。背景に「神奈川沖浪裏」などの絵画が飾られている。]]
日本国外において、北斎の名を知らしめることとなった作品は絵手本の『北斎漫画』で、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]によって欧州へ持ち込まれた{{Sfn|千野|2021|p=117}}。一方で銅板画家の[[フェリックス・ブラックモン]]が1856年に日本から輸入した陶磁器を包んでいた紙を広げたところ、それが『北斎漫画』だったというエピソードも、北斎を国外へ伝えた逸話としてよく知られているが{{Sfn|千野|2021|p=121}}、信憑性に欠けるとして否定的な目で見られている{{Sfn|千野|2021|p=122}}。いずれにせよ北斎を始めとした浮世絵師の作品は19世紀後半のフランスにおいて大きな影響を与え、[[ジャポニスム]]と呼ばれるブームを巻き起こした{{Sfn|千野|2021|p=125}}。特に[[印象派]]や[[ポスト印象派]]の画家への影響は多大で、[[エドゥアール・マネ]]、[[クロード・モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[ポール・セザンヌ]]、[[アルフレッド・シスレー]]、[[カミーユ・ピサロ]]、[[エドガー・ドガ]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]ら多数の画家が北斎の影響を受けたとされている{{Sfn|千野|2021|p=125}}{{Sfn|千野|2021|p=129}}。その他、音楽家の[[クロード・ドビュッシー]]やガラス工芸家[[エミール・ガレ]]など、他の分野の芸術家への影響も言及されている{{Sfn|千野|2021|p=128}}。
日本国外において、北斎の名を知らしめることとなった作品は絵手本の『北斎漫画』で、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]によって欧州へ持ち込まれた{{Sfn|永田|2000|p=140}}。一方で銅板画家の[[フェリックス・ブラックモン]]が1856年に日本から輸入した陶磁器を包んでいた紙を広げたところ、それが『北斎漫画』だったというエピソードも、北斎を国外へ伝えた逸話としてよく知られているが、信憑性に欠けるとして否定的な目で見られている{{Sfn|永田|2000|p=141}}。

1820年代の初頭に入ると、当時のカピタン[[ヤン・コック・ブロンホフ]]より「日本の生活風景」の制作注文を受けたと考えられ、文政12年(1829年)までに洋風表現などを用いた54点ほどの北斎肉筆画が国外へ渡った{{Sfn|ティモシー|2022|p=17}}{{efn|これらの作品は[[国立民族学博物館 (オランダ)|ライデン国立民族学博物館]]に29点、[[フランス国立図書館]]に25点が分蔵されている{{Sfn|ティモシー|2022|p=17}}。}}。天保14年(1843年)には『北斎漫画』六編が[[フランス国立図書館]]に収蔵され、万延元年(1860年)には[[大英博物館]]が北斎の錦絵を購入したことが記録されている{{Sfn|ティモシー|2022|p=17}}。1867年に開催された[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]には、他の作品とともに『北斎漫画』14冊を含む4種の北斎絵本が江戸幕府より出品された{{Sfn|ティモシー|2022|p=17}}。

北斎を始めとした浮世絵師の作品は19世紀後半のフランスにおいて大きな影響を与え、[[ジャポニスム]]と呼ばれるブームを巻き起こした{{Sfn|永田|2000|p=141}}<ref name="kotobank_japonisme">{{Kotobank|ジャポニスム}}</ref><ref name="jpngov">{{cite web|title=北斎漫画の世界|url=https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/201807/201807_03_jp.html|access-date=2023-09-25|website=the Public Relations Office of the Government of Japan|publisher=日本政府}}</ref>。特に[[印象派]]や[[ポスト印象派]]の画家への影響は多大で、[[エドゥアール・マネ]]<ref name="jpngov"/>、[[クロード・モネ]]<ref name="kotobank_japonisme"/><ref name="jpngov"/>{{Sfn|舟橋|2016|p=142}}、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]{{Sfn|舟橋|2016|p=142}}、[[ポール・セザンヌ]]{{Sfn|舟橋|2016|p=142}}、[[エドガー・ドガ]]<ref name="jpngov"/>、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]{{Sfn|田中|1976|p=14}}<ref name="kotobank_japonisme"/><ref name="jpngov"/>{{Sfn|舟橋|2016|p=142}}、[[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー]]<ref name="kotobank_japonisme"/>{{Sfn|舟橋|2016|p=142}}、[[ポール・ゴーギャン]]<ref name="jpngov"/>ら多数の画家が北斎の影響を受けたとされている。その他、音楽家の[[クロード・ドビュッシー]]{{Sfn|加藤|2018|p=65}}や彫刻家の[[カミーユ・クローデル]]{{Sfn|加藤|2018|p=65}}、ガラス工芸家[[エミール・ガレ]]<ref name="jpngov"/>など、他の分野の芸術家への影響も言及されている。

[[File:Burty, Philippe, par Etienne Carjat, BNF Gallica.jpg|thumb|left|200px|[[ジャポニスム]]という言葉を初めて用いた19世紀後半のフランスの美術評論家[[フィリップ・ビュルティ]]。]]
ジャポニスムの概念を創始したフランスの美術評論家[[フィリップ・ビュルティ]]は、1866年に上梓した『工業美術の傑作』において『北斎漫画』について触れ、優雅さにおいては[[アントワーヌ・ヴァトー|ヴァトー]]に、エネルギーにおいては[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]に、奇想においては[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]に、動態においては[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]に比肩し、テーマの豊かさと鮮やかな筆さばきで北斎に匹敵する画家は[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]だけだと賞賛した{{Sfn|稲賀|2000|p=122}}。また、美術史家の{{仮リンク|エルネスト・シェノー|en|Ernest Chesneau}}は、[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]のレポート『芸術を競い合う諸国民』を1868年に刊行し、「日本の大家達の中でも最も自由で誠実」であると北斎を評した{{Sfn|稲賀|2000|p=122}}。その後、日本での滞在歴もある美術評論家[[テオドール・デュレ]]が1882年、『ガゼット・デ・ボザール』に「日本美術、挿絵本、刊行画帖、北斎」と題した論文を掲載し、「北斎は日本が産んだ最高の画家である」と位置付けた{{Sfn|稲賀|2000|p=123}}。この論文は同誌の編集長であった{{仮リンク|ルイ・ゴンス|en|Louis Gonse}}によって1883年に刊行された『日本美術』に引用され、「北斎のような完璧かつ独創的才能は全人類の財産とすべき」として惜しみない賛辞を贈った{{Sfn|稲賀|2000|p=123}}。一方こうした北斎を賞賛するフランスの風潮に対して[[アメリカ合衆国]]の美術史家[[アーネスト・フェノロサ]]や[[イギリス]]の日本美術コレクター[[ウィリアム・アンダーソン (医師)|ウィリアム・アンダーソン]]らは北斎の如き単なる版画工を[[吉山明兆|兆殿司]]や[[雪舟]]、[[周文]]らと比較するのは『[[パンチ (雑誌)|パンチ]]』の{{仮リンク|ジョン・リーチ (風刺画家)|label=ジョン・リーチ|en|John Leech (caricaturist)}}の風刺画を[[フラ・アンジェリコ]]の描いた絵画と比較するような恥ずべきことだなどとしてゴンスの『日本美術』を激しく批判し、フランス人のこうした過大評価は日本における北斎の死後の名声に害を及ぼすとして警鐘を鳴らした{{Sfn|稲賀|2000|p=123}}。1896年に『北斎研究』を上梓した[[ミシェル・ルヴォン]]は、フランスのジャポニスムが北斎を過大評価しているとする言説について、仮に「日本人が[[ポール・ガヴァルニ]]をフランス美術界の頂点に位置付けている」とフランス人が知ったらどう思うか、などとして日本国内の北斎評価とフランス国内の北斎評価のギャップについて指摘した{{Sfn|稲賀|2000|p=128}}。


1960年に[[ウィーン]]で開催された「[[世界平和評議会]]」において[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[レンブラント・ファン・レイン]]と並んで「世界の文化三大巨匠」に北斎が選定され、注目を集めた{{Sfn|神山|2018|p=252}}。その後、1966年に[[ソビエト連邦]]の[[モスクワ]][[プーシキン美術館]]および[[サンクトペテルブルク|レニングラード]][[エルミタージュ美術館]]で開催された「北斎展」では延べ33万人以上が来館し、大きな話題を集めた{{Sfn|神山|2018|p=243}}。また、1998年には先述の通り雑誌『ライフ』の「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に選ばれ、世界的にその名を轟かせた{{Sfn|神山|2018|p=252}}。
1960年に[[ウィーン]]で開催された「[[世界平和評議会]]」において[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[レンブラント・ファン・レイン]]と並んで「世界の文化三大巨匠」に北斎が選定され、注目を集めた{{Sfn|神山|2018|p=252}}。その後、1966年に[[ソビエト連邦]]の[[モスクワ]][[プーシキン美術館]]および[[サンクトペテルブルク|レニングラード]][[エルミタージュ美術館]]で開催された「北斎展」では延べ33万人以上が来館し、大きな話題を集めた{{Sfn|神山|2018|p=243}}。また、1998年には先述の通り雑誌『ライフ』の「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に選ばれ、世界的にその名を轟かせた{{Sfn|神山|2018|p=252}}。
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==== 冨嶽三十六景 ====
==== 冨嶽三十六景 ====
{{main|冨嶽三十六景}}
{{main|冨嶽三十六景}}
『冨嶽三十六景』は文政13年(1830年)ごろより順次刊行された大判錦絵揃物で、「北斎改為一筆」他で落款されている<ref name="shimane"/>。富士山を題材とした揃物錦絵で、当初三十六図を想定されていたが、人気が高かったためか、全四十六図が1830年から1834年にかけて刊行された<ref>{{cite web|title=冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h81.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。中でも赤富士を描いた[[凱風快晴]]は北斎の代表作のひつとさている<ref>{{cite web|title=冨嶽三十六景 凱風快晴|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h82.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>版元の[[西村屋与八]]は広告文に「藍摺一枚、一枚に一景づつ追々出板、此絵は富士の形ちのその所より異なる事を示す」と掲載した{{Sfn|小林|2019|p=124}}。「藍摺」と「ベロ藍」「ベルリン・ブルー」「ベルリアン・ブルー」などとも呼称される輸入化学染料[[紺青]]を多用した色摺ことであり、1829年に初め浮世絵に用られた{{Sfn|小林|2019|p=126}}{{Sfn|榎本|2005|p=54}}。北斎はベロ藍を活用した最初期の日本人画家のひとりであった{{Sfn|小林|2019|p=126}}。水に馴染みやすく、ぼかしが可能な鮮烈な青の色合いは、洋風の遠近法を活用した風景表現に必要不可欠なものとなった{{Sfn|小林|2019|p=124}}。
『冨嶽三十六景』は文政13年(1830年)ごろより順次刊行{{efn|[[柳亭種彦]]が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)刊行説、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などがある{{Sfn|磯崎|2021|p=124}}。}}された大判錦絵揃物で、「北斎改為一筆」他で落款されている<ref name="shimane"/>。富士山を題材とした揃物錦絵で、当初三十六図を想定されていたが、人気が高かったためか、続編として十図が追加され、全四十六図が1830年から1834年にかけて刊行された<ref>{{cite web|title=冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h81.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。追加の十図は裏不二」と呼ば{{Sfn|磯崎|2021|p=121}}。富士の表現や構図関しては[[河村岷雪]]が出した『百富士』影響が指摘されてい{{Sfn|磯崎|2021|p=124}}。


個別の図案も良く知られているが、中でも赤富士を描いた「[[凱風快晴]]」は北斎の代表作のひとつとされている<ref>{{cite web|title=冨嶽三十六景 凱風快晴|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h82.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。富士が大きく描かれた「凱風快晴」と「[[山下白雨]]」は、ともに最初に刊行された図案と考えられており{{Sfn|磯崎|2021|p=122}}、版元の[[西村屋与八]]は広告文に「藍摺一枚、一枚に一景づつ追々出板、此絵は富士の形ちのその所によりて異なる事を示す」と掲載した{{Sfn|小林|2019|p=124}}。「藍摺」とは「ベロ藍」「ベルリン・ブルー」「ベルリアン・ブルー」などとも呼称される輸入化学染料[[紺青]]を多用した色摺のことであり、1829年に初めて浮世絵に用いられた{{Sfn|小林|2019|p=126}}{{Sfn|榎本|2005|p=54}}。北斎はベロ藍を活用した最初期の日本人画家のひとりであった{{Sfn|小林|2019|p=126}}。水に馴染みやすく、ぼかしが可能な鮮烈な青の色合いは、洋風の遠近法を活用した風景表現に必要不可欠なものとなった{{Sfn|小林|2019|p=124}}。
[[国際浮世絵学会]]会長の[[小林忠]]は、『冨嶽三十六景』の図案のひとつである「[[神奈川沖波裏]]」について、日本の絵の中でもっともよく知られた作品であり、世界中の人々から愛されているとしている{{Sfn|小林|2019|p=126}}。[[クロード・ドビュッシー]]が交響詩『[[海 (ドビュッシー)|海]]』の着想をこの絵から得たとする主張<ref>{{Cite web |url=http://www.city.kawasaki.jp/templates/pubcom/cmsfiles/contents/0000097/97240/kihonhoushin.pdf |title=浮世絵等の活用に向けた基本方針 平成30(2018)年6月 |publisher=川崎市 |accessdate=2018-7-7}}</ref> は俗説であるものの、初版スコアの表紙には神奈川沖浪裏から写した波が描かれている<ref>{{Cite web |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000132429 |title=Debussy:La Mer(ドビュッシー:海)は、葛飾北斎の木版画「冨嶽三十六景-神奈川沖波裏」から曲想を得たか?(国立音楽大学付属図書館) |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2018-7-7}}</ref>。小林は[[ポール・セザンヌ]]の[[サント・ヴィクトワール山]]の連作や、[[アンリ・リヴィエール]]の『エッフェル塔三十六景』などに北斎の『冨嶽三十六景』の影響が見られると指摘している{{Sfn|小林|2019|p=130}}。近年では[[神奈川沖浪裏]]のデザインが日本国の[[パスポート]]や2024年に発行予定の[[千円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|千円紙幣]]に取り込まれたりと、日本のアイコンとしての受容も定着しつつある{{Sfn|小林|2019|p=124}}。

[[国際浮世絵学会]]会長の[[小林忠]]は、『冨嶽三十六景』の図案のひとつである「[[神奈川沖波裏]]」について、日本の絵の中でもっともよく知られた作品であり、世界中の人々から愛されているとしている{{Sfn|小林|2019|p=126}}。[[クロード・ドビュッシー]]が交響詩『[[海 (ドビュッシー)|海]]』の着想をこの絵から得たとする主張<ref>{{Cite web |url=http://www.city.kawasaki.jp/templates/pubcom/cmsfiles/contents/0000097/97240/kihonhoushin.pdf |title=浮世絵等の活用に向けた基本方針 平成30(2018)年6月 |publisher=川崎市 |accessdate=2018-7-7}}</ref> は俗説であるものの、初版スコアの表紙には神奈川沖浪裏から写した波が描かれている<ref>{{Cite web |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000132429 |title=Debussy:La Mer(ドビュッシー:海)は、葛飾北斎の木版画「冨嶽三十六景-神奈川沖波裏」から曲想を得たか?(国立音楽大学付属図書館) |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2018-7-7}}</ref>。また、[[カミーユ・クローデル]]の彫刻作品『波』についても「神奈川沖波裏」の影響があるとされる{{Sfn|加藤|2018|p=65}}。その他、小林は[[ポール・セザンヌ]]の[[サント・ヴィクトワール山]]の連作や、[[アンリ・リヴィエール]]の『エッフェル塔三十六景』などに北斎の『冨嶽三十六景』の影響が見られると指摘している{{Sfn|小林|2019|p=130}}。一方で[[大阪教育大学]]の[[田中久和]]は、ヨーロッパの近代芸術に『冨嶽三十六景』が影響を与えたとする論考に疑義を呈しており{{Sfn|田中|2004|p=2}}、ジャポニスムという歴史的事実を論拠としてその影響を近代画家の個別事例に当てはめることは速断であり、誤解や混乱を招くと指摘し、こうした風潮を批判している{{Sfn|田中|2004|p=5}}。

現代日本においては2019年より[[パスポート]]のデザインに『冨嶽三十六景』から24図が採用されたり<ref name="jpngov"/>{{efn|10年用パスポートが24作品、5年用パスポートが16作品採用<ref>{{cite web|url=https://www.cnn.co.jp/travel/35149092.html|title=日本のパスポートが新デザインに、査証ページに浮世絵あしらう|date=2020-02-07|website=CNN.co.jp|access-date=2023-09-25|url-status=live|archive-date=2020-02-13|archive-url=https://web.archive.org/web/20200213114526/https://www.cnn.co.jp/travel/35149092.html}}</ref>。}}、[[神奈川沖浪裏]]のデザインが2024年に発行予定の[[千円紙幣#2024年度発行予定の新紙幣|千円紙幣]]に取り込まれたりと、アイコンとしての受容が定着しつつある{{Sfn|小林|2019|p=124}}。
{|
|[[File:Lightnings below the summit.jpg|thumb|250px|『冨嶽三十六景 [[山下白雨]]』]]
|[[File:Ushibori in the Hitachi province.jpg|thumb|250px|『冨嶽三十六景 [[常州牛堀]]』]]
|[[File:Kajikazawa in Kai province.jpg|thumb|250px|『冨嶽三十六景 [[甲州石班澤]]』]]
|}
{{-}}
[[File:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Washuu Yoshino Yoshitsune Umaarai No Taki.jpg|thumb|150px|{{center| 和州吉野義経馬洗滝}} ]]
==== 諸国瀧廻り ====
{{main|諸国瀧廻り}}
大判錦絵揃物である『諸国瀧廻り』は、天保4年(1833年)ごろの作品で、「前北斎為一筆」落款が見られる<ref name="shimane"/>。全八図から成る揃物<ref>{{cite web|title=諸国瀧廻り 下野黒髪山きりふりの滝|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h83.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。江戸の版元[[西村屋与八]]から刊行されたと見られ、それぞれ「和州吉野義経馬洗滝」「下野黒髪山きりふきの滝」「木曽海道小野ノ瀑布」「木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧」「相州大山ろうべんの滝」「東海道坂ノ下清滝くわんおん」「東都葵ヶ岡の滝」「美濃ノ国養老の滝」と題され、水の落下する条件の違いによる変化を描き認めた{{Sfn|榎本|2005|p=59}}。民間信仰の対象となっている地を作画対象に選定しており、広く知られた名瀑のみを対象としていない点が、他の[[名所絵]]と異なる特徴であると言える{{Sfn|榎本|2005|p=59}}。各錦絵は東京国立博物館や葛飾北斎美術館などに分蔵されている{{Sfn|榎本|2005|p=59}}。


==== その他の錦絵作品 ====
==== その他の錦絵作品 ====
本節、特に断りのない文章は[[島根県立美術館]]が公開する[[永田生慈]]『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜<ref name="shimane"/>を出典としている。
[[File:Segawa Kikunojo III -- Hokusai.jpg|thumb|150px|『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』<br />勝川春朗画]]

* 『四代目岩井半四郎 かしく』('''[[#春朗時代|#]]''')
* 『四代目岩井半四郎 かしく』
: 細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、永田コレクション<ref>{{cite web|title=四代目岩井半四郎 かしく|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h01-02.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。[[中村座]]の『敵討仇名かしく』をもとにした役者錦絵で、『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』とともに、北斎の処女作とされる<ref name="shimane_oren">{{cite web|title=三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h01-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、永田コレクション<ref>{{cite web|title=四代目岩井半四郎 かしく|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h01-02.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。[[中村座]]の『敵討仇名かしく』をもとにした役者錦絵で、『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』とともに、北斎の処女作とされる<ref name="shimane_oren">{{cite web|title=三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h01-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。
[[File:Segawa Kikunojo III -- Hokusai.jpg|thumb|150px|『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』<br />勝川春朗画]]
* 『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』
* 『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』
: 細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_oren"/>。[[東京国立博物館]]所蔵<ref>{{cite web|title=三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2864?locale=ja|access-date=2023-09-09|website=ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム}}</ref>。[[市村座]]の『新薄雪物語』をもとにした役者錦絵<ref name="shimane_oren"/>。
: 細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_oren"/>。[[東京国立博物館]]所蔵<ref>{{cite web|title=三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2864?locale=ja|access-date=2023-09-09|website=ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム}}</ref>。[[市村座]]の『新薄雪物語』をもとにした役者錦絵<ref name="shimane_oren"/>。
217行目: 269行目:
: 細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、東京国立博物館所蔵<ref>{{cite web|title=中村里好のふく清女ぼう|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-4733?locale=ja|access-date=2023-09-09|website=ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム}}</ref>。
: 細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、東京国立博物館所蔵<ref>{{cite web|title=中村里好のふく清女ぼう|url=https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-4733?locale=ja|access-date=2023-09-09|website=ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム}}</ref>。
* 『四代目岩井半四郎 おかる』
* 『四代目岩井半四郎 おかる』
: 細判錦絵、安永9年(1780年)、「勝川春朗画」落款<ref name="shimane"/>
: 細判錦絵、安永9年(1780年)、「勝川春朗画」落款。
* 『五代目市川団十郎 あげまきのすけ六』
* 『五代目市川団十郎 あげまきのすけ六』
: 細判錦絵、天明2年(1782年)、「勝春朗画」落款、[[日本浮世絵博物館]]所蔵<ref name="shimane"/>
: 細判錦絵、天明2年(1782年)、「勝春朗画」落款、[[日本浮世絵博物館]]所蔵。
* 『市川団十郎 悪七兵衛景清』『市川門之助 畠山重忠』
* 『市川団十郎 悪七兵衛景清』『市川門之助 畠山重忠』
: 細判錦絵、天明4年(1784年)、無款<ref name="shimane"/>
: 細判錦絵、天明4年(1784年)、無款。
* 『花くらへ 弥生の雛形』
* 『花くらへ 弥生の雛形』
: 大判錦絵、天明4年~5年(1784年~1785年)、無款、永田コレクション<ref name="shimane_hanakurahe">{{cite web|title=花くらへ 弥生の雛形|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h03.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。[[礒田湖龍斎]]の影響が見られる春朗期唯一の大判錦絵<ref name="shimane_hanakurahe"/>。制作年代は描かれた遊女からの推察<ref name="shimane_hanakurahe"/>。
: 大判錦絵、天明4年~5年(1784年~1785年)、無款、永田コレクション<ref name="shimane_hanakurahe">{{cite web|title=花くらへ 弥生の雛形|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h03.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。[[礒田湖龍斎]]の影響が見られる春朗期唯一の大判錦絵<ref name="shimane_hanakurahe"/>。制作年代は描かれた遊女からの推察<ref name="shimane_hanakurahe"/>。
* 『三代目大谷廣次 濡髪の長五郎』
* 『三代目大谷廣次 濡髪の長五郎』
: 細判錦絵、寛政元年(1789年)、「春朗画」落款<ref name="shimane"/>
: 細判錦絵、寛政元年(1789年)、「春朗画」落款。
* 『五代目市川団十郎 かげきよ』
* 『五代目市川団十郎 かげきよ』
: 細判錦絵、寛政元年(1789年)、「春朗画」落款<ref name="shimane"/>
: 細判錦絵、寛政元年(1789年)、「春朗画」落款。
* 『五代目市川団十郎 ともへ御ぜん』
* 『五代目市川団十郎 ともへ御ぜん』
: 細判錦絵、寛政2年(1790年)、「春朗画」落款<ref name="shimane"/>
: 細判錦絵、寛政2年(1790年)、「春朗画」落款。
* 『新板おどりゑづくし』
* 『新板おどりゑづくし』
: 細判錦絵、寛政2年(1790年)ごろ、「春朗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_sinpan">{{cite web|title=新板おどりゑづくし|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h05.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。主題に沿った絵を纏めてひとつの作品とする「もの尽くし絵」と呼ばれるジャンルの錦絵<ref name="shimane_sinpan"/>。本作は16種の舞踊を纏めたもので、北斎作のもの尽くし絵は極めて珍しい<ref name="shimane_sinpan"/>。
: 細判錦絵、寛政2年(1790年)ごろ、「春朗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_sinpan">{{cite web|title=新板おどりゑづくし|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h05.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。主題に沿った絵を纏めてひとつの作品とする「もの尽くし絵」と呼ばれるジャンルの錦絵<ref name="shimane_sinpan"/>。本作は16種の舞踊を纏めたもので、北斎作のもの尽くし絵は極めて珍しい<ref name="shimane_sinpan"/>。
[[File:Hokusai (1791) Ichikawa Ebizō as the Saint Monkaku Disguised as a Bandit.jpg|thumb|150px|『市川蝦蔵の山賊実は文覚上人』<br />春朗画。山賊に扮する[[文覚]]を演じる[[市川團十郎 (5代目)|市川蝦蔵]]を描いた細判錦絵。]]
[[File:Hokusai (1791) Ichikawa Ebizō as the Saint Monkaku Disguised as a Bandit.jpg|thumb|150px|『市川蝦蔵の山賊実は文覚上人』<br />春朗画。山賊に扮する[[文覚]]を演じる[[市川團十郎 (5代目)|市川蝦蔵]]を描いた細判錦絵。]]
* 『市川蝦蔵の山賊実は文覚上人』『三代目坂田半五郎の旅僧実は鎮西八郎為朝』
* 『市川蝦蔵の山賊実は文覚上人』『三代目坂田半五郎の旅僧実は鎮西八郎為朝』
: 細判錦絵二枚続、寛政3年(1791年)、「春朗画」落款、東京国立博物館所蔵<ref name="shimane"/>
: 細判錦絵二枚続、寛政3年(1791年)、「春朗画」落款、東京国立博物館所蔵。
* 『市川鰕蔵 かげきよ』
* 『市川鰕蔵 かげきよ』
: 細判錦絵、寛政4年(1792年)、「春朗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_kagekiyo">{{cite web|title=市川鰕蔵 かげきよ|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h02.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。春朗期終盤の作品で、これ以降1806年まで錦絵は見られなくなる<ref name="shimane_kagekiyo"/>。
: 細判錦絵、寛政4年(1792年)、「春朗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_kagekiyo">{{cite web|title=市川鰕蔵 かげきよ|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h02.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。春朗期終盤の作品で、これ以降1806年まで錦絵は見られなくなる<ref name="shimane_kagekiyo"/>。
* 『仮名手本忠臣蔵』
* 『仮名手本忠臣蔵』
: 大判錦絵、文化3年(1806年)、無款、東京国立博物館所蔵<ref name="shimane"/>
: 大判錦絵、文化3年(1806年)、無款、東京国立博物館所蔵。
* 『三国妖狐伝』
* 『三国妖狐伝』
: 大判錦絵二枚続、文化4年(1807年)、「北斎画」落款、中右コレクション、東京国立博物館所蔵<ref name="shimane"/>
: 大判錦絵二枚続、文化4年(1807年)、「北斎画」落款、中右コレクション、東京国立博物館所蔵。
* 『吉原遊廓の景』
* 『吉原遊廓の景』
: 大判錦絵五枚続、文化8年(1811年)ごろ、「かつしか北斎画」落款<ref name="shimane"/>
: 大判錦絵五枚続、文化8年(1811年)ごろ、「かつしか北斎画」落款。
* 『総房海陸勝景奇覧』
* 『総房海陸勝景奇覧』
: 大々判錦絵、文政元年(1818年)ごろ、「葛飾前北斎改戴斗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_soubou">{{cite web|title=総房海陸勝景奇覧|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h61-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。北斎が最初に発表した大々判錦絵作品<ref name="shimane_soubou"/>。鳥瞰した風景構図は[[北尾政美|鍬形蕙斎]]の影響が見られる<ref name="shimane_soubou"/>。
: 大々判錦絵、文政元年(1818年)ごろ、「葛飾前北斎改戴斗画」落款、永田コレクション<ref name="shimane_soubou">{{cite web|title=総房海陸勝景奇覧|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h61-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。北斎が最初に発表した大々判錦絵作品<ref name="shimane_soubou"/>。鳥瞰した風景構図は[[北尾政美|鍬形蕙斎]]の影響が見られる<ref name="shimane_soubou"/>。
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: 大々判錦絵、文政元年(1818年)、「葛飾前北斎戴斗筆」落款、永田コレクション<ref name="shimane_toukai">{{cite web|title=東海道名所一覧|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h62-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。江戸の日本橋から京都までの東海道宿場や名所を鳥瞰作画した作品<ref name="shimane_toukai"/>。宿場が双六のような構成になっている他、豆粒大の人像まで精緻に描かれている<ref name="shimane_toukai"/>。
: 大々判錦絵、文政元年(1818年)、「葛飾前北斎戴斗筆」落款、永田コレクション<ref name="shimane_toukai">{{cite web|title=東海道名所一覧|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h62-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。江戸の日本橋から京都までの東海道宿場や名所を鳥瞰作画した作品<ref name="shimane_toukai"/>。宿場が双六のような構成になっている他、豆粒大の人像まで精緻に描かれている<ref name="shimane_toukai"/>。
* 『麦藁細工見世物』
* 『麦藁細工見世物』
: 大判錦絵四枚続、文政3年(1820年)、無款、東京国立博物館所蔵<ref name="shimane"/>
: 大判錦絵四枚続、文政3年(1820年)、無款、東京国立博物館所蔵。
* 『新板大道図彙』
* 『新板大道図彙』
: 四つ切判錦絵、文政8年(1825年)、無款{{efn|永寿堂の広告に「前北斎為一筆」の記述あり<ref name="shimane"/>。}}、東京国立博物館所蔵<ref name="shimane"/>
: 四つ切判錦絵、文政8年(1825年)、無款{{efn|永寿堂の広告に「前北斎為一筆」の記述あり。}}、東京国立博物館所蔵。
* 『鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六』
* 『鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六』
: 大々判錦絵、天保2年(1831年)、「柳亭種彦撰・前北斎為一図」落款、新庄コレクション<ref name="shimane_kamakura">{{cite web|title=鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h93-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。北斎唯一の[[道中双六]]作品<ref name="shimane_kamakura"/>。双六をしまう袋については初版が北斎画、再版が[[歌川国芳]]画と考えられている<ref name="shimane_kamakura"/>。[[島根県立美術館]]所蔵。相模の52か所の景勝地を[[柳亭種彦]]が選定し、北斎が景観やその地の風俗を描いた玩具絵の一種{{Sfn|榎本|2005|p=64}}。
: 大々判錦絵、天保2年(1831年)、「柳亭種彦撰・前北斎為一図」落款、新庄コレクション<ref name="shimane_kamakura">{{cite web|title=鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h93-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。北斎唯一の[[道中双六]]作品<ref name="shimane_kamakura"/>。双六をしまう袋については初版が北斎画、再版が[[歌川国芳]]画と考えられている<ref name="shimane_kamakura"/>。[[島根県立美術館]]所蔵。相模の52か所の景勝地を[[柳亭種彦]]が選定し、北斎が景観やその地の風俗を描いた玩具絵の一種{{Sfn|榎本|2005|p=64}}。
[[ファイル:Hokusai Sarayashiki.jpg|thumb|150px|中判錦絵揃物『百物語 さらやしき』[[皿屋敷]]を題材とした北斎の錦絵。]]
[[ファイル:Hokusai Sarayashiki.jpg|thumb|150px|中判錦絵揃物『百物語 さらやしき』[[皿屋敷]]を題材とした北斎の錦絵。]]
* 『{{仮リンク|百物語 (葛飾北斎)|label=百物語|en|One Hundred Ghost Stories}}』
* 『{{仮リンク|百物語 (葛飾北斎)|label=百物語|en|One Hundred Ghost Stories}}』
: 中判錦絵揃物、天保2年(1831年)ごろ、「前北斎筆」落款<ref name="shimane"/>。江戸時代に流行した怪談『[[百物語]]』を題材とした錦絵で、「お岩さん」「皿屋敷」「笑ひはんにや」「しうねん」「小はだ小平二」の五図が確認されている<ref>{{cite web|title=百物語 さらやしき|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h90.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 中判錦絵揃物、天保2年(1831年)ごろ、「前北斎筆」落款。江戸時代に流行した怪談『[[百物語]]』を題材とした錦絵で、「お岩さん」「皿屋敷」「笑ひはんにや」「しうねん」「小はだ小平二」の五図が確認されている<ref>{{cite web|title=百物語 さらやしき|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h90.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『奥州塩竈松蔦之畧図』
* 『奥州塩竈松蔦之畧図』
: 大々判錦絵、天保2年(1831年)ごろ、「前北斎為一筆」落款<ref name="shimane"/>
: 大々判錦絵、天保2年(1831年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。
* 『[[琉球八景]]』
* 『[[琉球八景]]』
: 大判錦絵、天保3年(1832年)ごろ、「前北斎為一筆」落款<ref name="shimane"/>。琉球使節が天保3年に江戸へ参府するということを当て込んで制作されたと見られる作品で、地誌『琉球国志略』を種本に北斎の想像で描かれた全八図から成る揃物の風景錦絵である{{Sfn|榎本|2005|p=61}}。葛飾北斎美術館などが所蔵している{{Sfn|榎本|2005|p=61}}。
: 大判錦絵、天保3年(1832年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。琉球使節が天保3年に江戸へ参府するということを当て込んで制作されたと見られる作品で、地誌『琉球国志略』を種本に北斎の想像で描かれた全八図から成る揃物の風景錦絵である{{Sfn|榎本|2005|p=61}}。葛飾北斎美術館などが所蔵している{{Sfn|榎本|2005|p=61}}。
* 『{{仮リンク|千絵の海|en|Oceans of Wisdom}}』
* 『{{仮リンク|千絵の海|en|Oceans of Wisdom}}』
: 中判錦絵揃物、天保3年(1832年)ごろ、「前北斎為一筆」落款<ref name="chiba_chie">{{cite web|title=千葉ゆかりの作品|url=https://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/special/rekisihp/section02/gallery06.html|access-date=2023-09-09|website=千葉県立中央博物館}}</ref>。[[葛飾北斎美術館]]などが所蔵{{Sfn|榎本|2005|p=60}}。全十図から成る揃物で、関東地方の海や川での漁労風景を収めた錦絵<ref name="chiba_chie"/>。それぞれ「総州銚子」「総州登戸」「総州利根川」「相州浦賀」「甲州火振」「絹川はちふせ」「宮戸川長縄」「五島鯨突」「蚊針流」「待チ網」と題される<ref name="chiba_chie"/>。
: 中判錦絵揃物、天保3年(1832年)ごろ、「前北斎為一筆」落款<ref name="chiba_chie">{{cite web|title=千葉ゆかりの作品|url=https://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/special/rekisihp/section02/gallery06.html|access-date=2023-09-09|website=千葉県立中央博物館}}</ref>。[[葛飾北斎美術館]]などが所蔵{{Sfn|榎本|2005|p=60}}。全十図から成る揃物で、関東地方の海や川での漁労風景を収めた錦絵<ref name="chiba_chie"/>。それぞれ「総州銚子」「総州登戸」「総州利根川」「相州浦賀」「甲州火振」「絹川はちふせ」「宮戸川長縄」「五島鯨突」「蚊針流」「待チ網」と題される<ref name="chiba_chie"/>。
* 『{{仮リンク|諸国瀧廻り|en|A Tour of the Waterfalls of the Provinces}}』('''[[#諸国滝廻り|#]]''')
: 大判錦絵揃物、天保4年(1833年)ごろ、「前北斎為一筆」落款<ref name="shimane"/>。全八図から成る揃物<ref>{{cite web|title=諸国瀧廻り 下野黒髪山きりふりの滝|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h83.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。江戸の版元[[西村屋与八]]から刊行されたと見られ、それぞれ「和州吉野義経馬洗滝」「下野黒髪山きりふきの滝」「木曽海道小野ノ瀑布」「木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧」「相州大山ろうべんの滝」「東海道坂ノ下清滝くわんおん」「東都葵ヶ岡の滝」「美濃ノ国養老の滝」と題され、水の落下する条件の違いによる変化を描き認めた{{Sfn|榎本|2005|p=59}}。各錦絵は東京国立博物館や葛飾北斎美術館などに分蔵されている{{Sfn|榎本|2005|p=59}}。
* 『詩哥写真鏡』
* 『詩哥写真鏡』
: 長大判錦絵揃物、天保4年(1833年)ごろ、「前北斎為一筆」落款<ref name="shimane"/>。和漢の歌人と関連故事を題材とした錦絵で十図が知られている<ref>{{cite web|title=詩哥写真鏡 清少納言|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h92.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 長大判錦絵揃物、天保4年(1833年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。版元は[[森屋治兵衛]]{{Sfn|濱田|2016|p=28}}。和漢の歌人と関連故事を題材とした錦絵で十図が知られている<ref>{{cite web|title=詩哥写真鏡 清少納言|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h92.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。例えば「春道のつらき」は『[[古今和歌集]]』の「山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり」の詩が題材となっており、「少年行」は唐の詩人[[催国輔]]の『長楽少年行』内の一節を絵画化したものである{{Sfn|濱田|2016|p=28}}
* 『狆』
* 『狆』
: 団扇絵判錦絵、天保4年(1833年)、「前北斎為一筆」落款、[[太田記念美術館]]所蔵<ref name="shimane"/>
: 団扇絵判錦絵、天保4年(1833年)、「前北斎為一筆」落款、[[太田記念美術館]]所蔵。
[[ファイル:Pont Hida Etchy Hokusai.jpg|thumb|250px|『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』]]
[[ファイル:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Hietsu No Sakai Tsurihashi.jpg|thumb|250px|『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』]]
* 『諸国名橋奇覧』('''[[#諸国名橋奇覧|#]]''')
* 『諸国名橋奇覧』
: 大判錦絵揃物、天保5年(1834年)ごろ、「前北斎為一筆」落款<ref name="shimane"/>。東京国立美術館が所蔵する「飛越の堺つりはし」など、全国の橋を構図に捉えた全十一図の錦絵<ref>{{cite web|title=諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h84.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。実在しない言い伝えのみが残されている橋も含まれている{{Sfn|榎本|2005|p=60}}。『諸国瀧廻り』などと同様、版元は西村屋与八である{{Sfn|榎本|2005|p=60}}。
: 大判錦絵揃物、天保5年(1834年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。東京国立美術館が所蔵する「飛越の堺つりはし」など、全国の橋を構図に捉えた全十一図の錦絵<ref>{{cite web|title=諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h84.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。実在しない言い伝えのみが残されている橋も含まれている{{Sfn|榎本|2005|p=60}}。『諸国瀧廻り』などと同様、版元は西村屋与八である{{Sfn|榎本|2005|p=60}}。
* 『桜に鷹』
* 『桜に鷹』
: 長大判錦絵、天保5年(1834年)、「前北斎為一筆」落款、[[すみだ北斎美術館]]所蔵<ref name="shimane"/>。橋梁に佇む端正な鷹の姿と満開の桜を組み合わせた華やかな印象のある花鳥画{{Sfn|榎本|2005|p=62}}。
: 長大判錦絵、天保5年(1834年)、「前北斎為一筆」落款、[[すみだ北斎美術館]]所蔵。橋梁に佇む端正な鷹の姿と満開の桜を組み合わせた華やかな印象のある花鳥画{{Sfn|榎本|2005|p=62}}。
* 『百人一首うばがゑとき』
* 『百人一首うばがゑとき』
: 大判錦絵揃物、天保6年(1835年)ごろ、「前北斎卍」落款<ref name="shimane"/>。北斎が手掛けたとされる最後の揃物大判錦絵で、[[百人一首]]の歌意を題材として刊行を予定していたが、二十七図を刊行して中断された<ref name="shimane_hyakunin">{{cite web|title=百人一首宇波かゑとき 藤原繁行朝臣|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h101.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。残りの未刊行六三図は版下絵が遺存している<ref name="shimane_hyakunin"/>。[[フリーア美術館]]や[[大英博物館]]などに分蔵されている{{sfn|北斎肉筆画大成|p=245-247}}。
: 大判錦絵揃物、天保6年(1835年)ごろ、「前北斎卍」落款。版元は[[伊勢屋三次郎]]{{Sfn|濱田|2016|p=30}}。北斎が手掛けたとされる最後の揃物大判錦絵で、[[百人一首]]の歌意を題材として刊行を予定していたが、二十七図を刊行して中断された<ref name="shimane_hyakunin">{{cite web|title=百人一首宇波かゑとき 藤原繁行朝臣|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h101.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。残りの未刊行六三図は版下絵が遺存している<ref name="shimane_hyakunin"/>。[[フリーア美術館]]や[[大英博物館]]などに分蔵されている{{sfn|北斎肉筆画大成|p=245-247}}。
* 『群鶏』
* 『群鶏』
: 団扇絵判錦絵、天保6年(1835年)ごろ、「前北斎為一筆」落款、東京国立博物館所蔵<ref name="shimane"/>
: 団扇絵判錦絵、天保6年(1835年)ごろ、「前北斎為一筆」落款、東京国立博物館所蔵。
* 『唐土名所之絵』
* 『唐土名所之絵』
: 大々判錦絵、天保11年(1840年)ごろ、「総房旅客 画狂老人卍齢八十一」落款<ref name="shimane"/>。現在六図が知られる大々判鳥瞰図のうち、もっとも晩年に発表されたもの<ref name="shimane_morokoshi">{{cite web|title=唐土名所之絵|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h103-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。中国大陸全土の各名所を俯瞰で精緻に描いており、[[万里の長城]]などが確認できる<ref name="shimane_morokoshi"/>。
: 大々判錦絵、天保11年(1840年)ごろ、「総房旅客 画狂老人卍齢八十一」落款。現在六図が知られる大々判鳥瞰図のうち、もっとも晩年に発表されたもの<ref name="shimane_morokoshi">{{cite web|title=唐土名所之絵|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h103-01.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。中国大陸全土の各名所を俯瞰で精緻に描いており、[[万里の長城]]などが確認できる<ref name="shimane_morokoshi"/>。
* 『地方測量之図』
* 『地方測量之図』
: 大々判錦絵、嘉永元年(1848年)、「応需 齢八十九歳卍老人筆」落款<ref name="shimane"/>。確認されている北斎最後の錦絵であり、盛岡藩士だった[[梅村重得]]の依頼によって描かれた作品で、測量器具を用いた作業の様子が描かれている<ref>{{cite web|title=地方測量之図|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h104.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 大々判錦絵、嘉永元年(1848年)、「応需 齢八十九歳卍老人筆」落款。確認されている北斎最後の錦絵であり、盛岡藩士だった[[梅村重得]]の依頼によって描かれた作品で、測量器具を用いた作業の様子が描かれている<ref>{{cite web|title=地方測量之図|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h104.html|access-date=2023-09-09|website=島根県立美術館}}</ref>。


=== 絵手本 ===
=== 絵手本 ===
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==== その他の絵手本作品 ====
==== その他の絵手本作品 ====
本節、特に断りのない文章は[[島根県立美術館]]が公開する[[永田生慈]]『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜<ref name="shimane"/>を出典としている。
* 『己痴羣夢多字画尽』
* 『己痴羣夢多字画尽』
: 文化7年(1810年)、「葛飾北斎戯画」落款<ref name="shimane"/>。版元[[蔦屋重三郎|二代目蔦屋重三郎]]から刊行された、北斎初作と見られる絵手本である<ref name="shimane_onoga">{{cite web|title=己痴羣夢多字画尽|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h67.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。人物や物品の描線に文字を組み込む「[[文字絵]]」と呼ばれる分野に関しての教本となっている<ref name="shimane_onoga"/>。流伝部数が少なく、稀覯書としても知られている<ref name="shimane_onoga"/>。
: 文化7年(1810年)、「葛飾北斎戯画」落款。版元[[蔦屋重三郎|二代目蔦屋重三郎]]から刊行された、北斎初作と見られる絵手本である<ref name="shimane_onoga">{{cite web|title=己痴羣夢多字画尽|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h67.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。人物や物品の描線に文字を組み込む「[[文字絵]]」と呼ばれる分野に関しての教本となっている<ref name="shimane_onoga"/>。流伝部数が少なく、稀覯書としても知られている<ref name="shimane_onoga"/>。
[[File:Katsushika Hokusai, pittura abbreviata facile da imparare, 1812-14 ca. 01.jpg|thumb|250px|『略画早指南』(1812年ごろ出版)さまざまな略画の描法について図解されている。[[すみだ北斎美術館]]。]]
[[File:Katsushika Hokusai, pittura abbreviata facile da imparare, 1812-14 ca. 01.jpg|thumb|250px|『略画早指南』(1812年ごろ出版)さまざまな略画の描法について図解されている。[[すみだ北斎美術館]]。]]
* 『略画早指南』
* 『略画早指南』
: 文化9年(1812年)ごろ、「北斎老人」落款<ref name="shimane"/>。生物などの略画の描法について図解した絵手本である<ref name="shimane_ryakuga">{{cite web|title=略画早指南 前編|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h68.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。桶定規やぶんまわしを用いて骨格を捉える手法について解説されている<ref name="shimane_ryakuga"/>。前後編構成となっており、後編は文字絵の描法に関する教本となっている<ref name="shimane_ryakuga"/>。
: 文化9年(1812年)ごろ、「北斎老人」落款。生物などの略画の描法について図解した絵手本である<ref name="shimane_ryakuga">{{cite web|title=略画早指南 前編|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h68.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。桶定規やぶんまわしを用いて骨格を捉える手法について解説されている<ref name="shimane_ryakuga"/>。前後編構成となっており、後編は文字絵の描法に関する教本となっている<ref name="shimane_ryakuga"/>。
* 『北斎写真画譜』
* 『北斎写真画譜』
: 文化11年(1814年)ごろ、無款<ref name="shimane"/>。全十五図から成る動物、鳥、草花、山水、観音などを題材とした絵手本で、いずれも見開き一図で描かれている<ref name="shimane_syashin">{{cite web|title=北斎写真画譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h70-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。[[私家版]]と見られていたが、文化10年の割印帳に「版元売出」の記載があり、江戸の刊行物と改められた<ref name="shimane_syashin"/>。
: 文化11年(1814年)ごろ、無款。全十五図から成る動物、鳥、草花、山水、観音などを題材とした絵手本で、いずれも見開き一図で描かれている<ref name="shimane_syashin">{{cite web|title=北斎写真画譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h70-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。[[私家版]]と見られていたが、文化10年の割印帳に「版元売出」の記載があり、江戸の刊行物と改められた<ref name="shimane_syashin"/>。
* 『三体画譜』
* 『三体画譜』
: 文化13年(1816年)、「北斎改葛飾戴斗画」落款<ref name="shimane"/>。版元[[角丸屋甚助]]刊行、[[菱屋久兵衛]]後摺<ref name="shimane_santei">{{cite web|title=三体画譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h72.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。[[真行草]]の概念を取り入れた絵手本で、様々な主題を全て三種の描法で描き分けて図解している<ref name="shimane_santei"/>。
: 文化13年(1816年)、「北斎改葛飾戴斗画」落款。版元[[角丸屋甚助]]刊行、[[菱屋久兵衛]]後摺<ref name="shimane_santei">{{cite web|title=三体画譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h72.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。[[真行草]]の概念を取り入れた絵手本で、様々な主題を全て三種の描法で描き分けて図解している<ref name="shimane_santei"/>。
* 『画本早引』
* 『画本早引』
: 文化14年(1817年)前編、文政2年(1819年)後編、前編は「葛飾戴斗老人筆」落款、後編は「前北斎戴斗筆」落款<ref name="shimane"/>。いろは48文字ごとに各文字から始まる物品や心情などについて描いた略図を1300図以上掲載した絵手本<ref>{{cite web|title=画本早引 前編|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h73.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 文化14年(1817年)前編、文政2年(1819年)後編、前編は「葛飾戴斗老人筆」落款、後編は「前北斎戴斗筆」落款。いろは48文字ごとに各文字から始まる物品や心情などについて描いた略図を1300図以上掲載した絵手本<ref>{{cite web|title=画本早引 前編|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h73.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『北斎画鏡』
* 『北斎画鏡』
: 文政元年(1818年)、「葛飾北斎筆」落款<ref name="shimane"/>。名古屋の版元菱屋久兵衛が刊行した絵手本で、後に『秀画一覧』と改題されて色摺本として再版された<ref>{{cite web|title=伝神開手 北斎画鏡|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h74-02.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 文政元年(1818年)、「葛飾北斎筆」落款。名古屋の版元菱屋久兵衛が刊行した絵手本で、後に『秀画一覧』と改題されて色摺本として再版された<ref>{{cite web|title=伝神開手 北斎画鏡|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h74-02.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『北斎画式』
* 『北斎画式』
: 文政2年(1819年)、「葛飾戴斗筆」落款<ref name="shimane"/>。関西の版元から刊行された絵手本で、恵比須、羅漢、角力、花鳥などの主題が見開きで彫り摺りされている<ref>{{cite web|title=北斎画式|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h74-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 文政2年(1819年)、「葛飾戴斗筆」落款。関西の版元から刊行された絵手本で、恵比須、羅漢、角力、花鳥などの主題が見開きで彫り摺りされている<ref>{{cite web|title=北斎画式|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h74-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『一筆画譜』
* 『一筆画譜』
[[File:Katsushika Hokusai, disegni moderni per pettini e pipe da tabacco, 1823, 02.jpg|thumb|250px|『今様櫛きん雛形』(1823年出版)さまざまな櫛の図案が掲載されている。[[すみだ北斎美術館]]。]]
[[File:Katsushika Hokusai, disegni moderni per pettini e pipe da tabacco, 1823, 02.jpg|thumb|250px|『今様櫛きん雛形』(1823年出版)さまざまな櫛の図案が掲載されている。[[すみだ北斎美術館]]。]]
: 文政6年(1823年)、「武蔵北斎載斗先生嗣意」落款<ref name="shimane"/>。[[一筆書き]]の描法を集めた絵手本で、[[丹羽嘉言]]の一筆書きに触発されて出版されたと見られる<ref name="shimane_hitohude">{{cite web|title=一筆画譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h75.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。本書は好評し、後年『一筆絵本』と改題して縮小模刻本が刊行された<ref name="shimane_hitohude"/>。
: 文政6年(1823年)、「武蔵北斎載斗先生嗣意」落款。[[一筆書き]]の描法を集めた絵手本で、[[丹羽嘉言]]の一筆書きに触発されて出版されたと見られる<ref name="shimane_hitohude">{{cite web|title=一筆画譜|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h75.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。本書は好評し、後年『一筆絵本』と改題して縮小模刻本が刊行された<ref name="shimane_hitohude"/>。
* 『今様櫛きん雛形』(きんは手辺に竹冠に金)
* 『今様櫛きん雛形』(きんは手辺に竹冠に金)
: 文政6年(1823年)、「前北斎為一先生図」落款<ref name="shimane"/>。櫛や煙管を制作する職人向けに刊行された絵手本で上中下の三冊に分かれている<ref name="shimane_imayou">{{cite web|title=今様櫛きん雛形|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h76-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。櫛の文様図案250、煙管の文様図案160が収められており、本書を用いて制作されたと見られる煙管が遺存している<ref name="shimane_imayou"/>。
: 文政6年(1823年)、「前北斎為一先生図」落款。櫛や煙管を制作する職人向けに刊行された絵手本で上中下の三冊に分かれている<ref name="shimane_imayou">{{cite web|title=今様櫛きん雛形|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h76-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。櫛の文様図案250、煙管の文様図案160が収められており、本書を用いて制作されたと見られる煙管が遺存している<ref name="shimane_imayou"/>。
[[File:繪本彩色通 初編-Picture Book on the Use of Coloring, first volume (Ehon saishikitsū shohen) MET 2013 881 08.jpg|thumb|250px|『画本彩色通』(1848年出版)北斎最後の絵手本となった。]]
[[File:繪本彩色通 初編-Picture Book on the Use of Coloring, first volume (Ehon saishikitsū shohen) MET 2013 881 08.jpg|thumb|250px|『画本彩色通』(1848年出版)北斎最後の絵手本となった。]]
* 『新形小紋帳』
* 『新形小紋帳』
: 文政7年(1824年)、「前ほくさゐ為一筆」落款<ref name="shimane"/>
: 文政7年(1824年)、「前ほくさゐ為一筆」落款。
* 『諸職絵本 新鄙形』
* 『諸職絵本 新鄙形』
: 天保7年(1836年)、「齢七十七 前北斎為一改画狂老人卍筆」落款<ref name="shimane"/>
: 天保7年(1836年)、「齢七十七 前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。
* 『絵本早引 名頭武者部類』
* 『絵本早引 名頭武者部類』
: 天保12年(1841年)、「北斎改葛飾為一筆」落款<ref name="shimane"/>
: 天保12年(1841年)、「北斎改葛飾為一筆」落款。
* 『画本彩色通』
* 『画本彩色通』
: 嘉永元年(1848年)、「画狂老人卍筆」落款<ref name="shimane"/>。北斎が没したため、二編で刊行が中断された北斎最後の絵手本<ref name="shimane_ehonsai">{{cite web|title=画本彩色通|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h108.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。筆や刷毛の使用方法や絵の具の種類や調合方法などが細かに記載されており、絵画技法書と呼べるものとなっている<ref name="shimane_ehonsai"/>。
: 嘉永元年(1848年)、「画狂老人卍筆」落款。北斎が没したため、二編で刊行が中断された北斎最後の絵手本<ref name="shimane_ehonsai">{{cite web|title=画本彩色通|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h108.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>。筆や刷毛の使用方法や絵の具の種類や調合方法などが細かに記載されており、絵画技法書と呼べるものとなっている<ref name="shimane_ehonsai"/>。


=== 肉筆画 ===
=== 肉筆画 ===
==== 肉筆画帖 ====
==== 肉筆画帖 ====
[[ファイル:Hawk on a ceremonial stand.jpg|thumb|250px|『肉筆画帖(にくひつ がじょう)鷹』 全10図中の第2図([[長野県]][[小布施町]]、北斎館所蔵)。]]
天保6年(1835年)から天保15年(1844年)ごろにかけて刊行されたと見られる<ref name="shimane_niku">{{cite web|title=肉筆画帖(塩鮭と鼠)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}
天保6年(1835年)から天保15年(1844年)ごろにかけて刊行されたと見られる<ref name="shimane_niku">{{cite web|title=肉筆画帖(塩鮭と鼠)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-01.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}
</ref>。「前北斎為一改画狂老人卍筆」落款<ref name="shimane"/>。花鳥虫魚等を描いた十図から成る<ref name="shimane_niku"/>。『葛飾北斎伝』では、[[天保の大飢饉]]時に絵草紙屋で売らせたと紹介されている<ref name="shimane_niku"/>。しかしながら、当時複数の画帖を販売していたことが確認されており、『肉筆画帖』が該当するかどうかについては明らかになっていない{{Sfn|榎本|2005|p=70}}。全図に共通して鮮やかな彩色とモダンな構図が採用され、晩年を代表する佳作と評価されている{{Sfn|榎本|2005|p=70}}。
</ref>。「前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。花鳥虫魚等を描いた十図から成る<ref name="shimane_niku"/>。『葛飾北斎伝』では、[[天保の大飢饉]]時に絵草紙屋で売らせたと紹介されている<ref name="shimane_niku"/>。しかしながら、当時複数の画帖を販売していたことが確認されており、『肉筆画帖』が該当するかどうかについては明らかになっていない{{Sfn|榎本|2005|p=70}}。全図に共通して鮮やかな彩色とモダンな構図が採用され、晩年を代表する佳作と評価されている{{Sfn|榎本|2005|p=70}}。


それぞれ「塩鮭と鼠」<ref name="shimane_niku"/>('''[[#作品画像|#]]'''13)「[[フクジュソウ|福寿草]]と扇」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(福寿草と扇)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-02.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「鷹」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(鷹)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-03.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「はさみと雀」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(はさみと雀)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-04.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「ほととぎす」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(ほととぎす)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-05.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「鮎と紅葉」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(鮎と紅葉)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-06.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>('''[[#作品画像|#]]'''14)「蛙とゆきのした」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(蛙とゆきのした)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-07.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「蛇と小鳥」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(蛇と小鳥)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-08.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「鰈と撫子」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(鰈と撫子)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-09.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>('''[[#作品画像|#]]'''16)「桜花と包み」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(桜花と包み)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-10.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>と題される。現在当初の並び順を知るのは不可能であるが、最初は「福寿草と扇面」、最後は「桜花と包み」だと考えられる<ref>{{cite|和書|author=伊藤めぐみ |title=肉筆画帖について─制作の背景と研究上の諸課題 |series=所収:{{harv|北斎肉筆画大成|p=248-250}}|year=2000|ref=harv}}</ref>。
それぞれ「塩鮭と鼠」<ref name="shimane_niku"/>「[[フクジュソウ|福寿草]]と扇」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(福寿草と扇)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-02.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「鷹」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(鷹)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-03.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「はさみと雀」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(はさみと雀)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-04.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「ほととぎす」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(ほととぎす)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-05.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「鮎と紅葉」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(鮎と紅葉)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-06.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「蛙とゆきのした」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(蛙とゆきのした)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-07.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「蛇と小鳥」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(蛇と小鳥)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-08.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「鰈と撫子」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(鰈と撫子)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-09.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>「桜花と包み」<ref>{{cite web|title=肉筆画帖(桜花と包み)|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h110-10.html|access-date=2023-09-10|website=島根県立美術館}}</ref>と題される。現在当初の並び順を知るのは不可能であるが、最初は「福寿草と扇面」、最後は「桜花と包み」だと考えられる<ref>{{cite|和書|author=伊藤めぐみ |title=肉筆画帖について─制作の背景と研究上の諸課題 |series=所収:{{harv|北斎肉筆画大成|p=248-250}}|year=2000|ref=harv}}</ref>。
{|
{{-}}
|[[ファイル:Salted salmond and mice.jpg|thumb|left|390px|『[[サケ|塩鮭]]と[[ネズミ|鼠]]』『[[アユ|鮎]]と紅葉』]]
|[[ファイル:Hokusai Flat fish and pink.jpg|thumb|left|388px|『[[カエル|蛙]]と[[ユキノシタ|ゆきのした]]』『[[カレイ|鰈]]と[[ナデシコ|撫子]]』]]
|}


==== 信州小布施の肉筆画 ====
==== 日新除魔図 ====
[[ファイル:Hokusai Dragon.jpg|thumb|250px|信州小布施 東町祭屋台天井絵 図』(桐板着色肉筆画)]]
[[ファイル:Nissinjoma.jpg|thumb|250px|毎朝の日課として描いた日新除魔図』]]
天保13年(1842年)から天保14年(1843年)にかけて北斎は「日を新たに魔を除く」として、毎朝獅子や獅子に関連する絵を描くことを日課としていた<ref name="bunkaisan_nissin">{{cite web|title=日新除魔図|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578226|access-date=2023-09-17|website=文化遺産オンライン}}</ref>。依頼によって描いた他作とは異なり、厄除けのために本人が描いたプライベートな性質を持つ作品である<ref name="bunkaisan_nissin"/>。毎朝除魔を願った理由としては長寿を願ったとするものや、放蕩の孫を追い払うためという説などがあり、毎朝獅子を描いては丸めて家の外に捨てていたという{{Sfn|榎本|2005|p=71}}。
信州[[小布施町|小布施]]を生地とし造酒業を主とした豪農商にして[[陽明学]]等学問にも通じた[[高井鴻山]](文化3年 - [[明治]]16年〈[[1806年]] - [[1883年]]〉)は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。この縁によって数年後の天保13年([[1842年]])秋、旅の道すがらとでもいった様子で齢83の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し、[[アトリエ]]「碧{{補助漢字フォント|漪}}軒(へきいけん)」を建てて厚遇。以来、北斎の当地への訪問は4度にわたり、逗留中は鴻山の全面的援助のもとで肉筆画を手がけ、独自の画境に没入していった。このとき描かれたものが、小布施の町の[[山車|祭り屋台]]の天井絵であり、[[岩松院]]の天井絵である。
===== 祭屋台天井絵 =====
上町祭屋台天井絵は「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」の2図からなる『怒涛図』であり、東町祭屋台天井絵は『[[鳳凰]]図』('''[[#作品画像|#]]'''8)および『[[竜|龍]]図』の2図がある。


平成9年([[1997年]])[[クリスティーズ]]の[[カタログ]]に掲載され[[オークション]]にかけられそうになるが、[[文化庁]]は本作は[[重要美術品]]で海外流出禁止なことをクリスティーズに伝え、オークション1日前に販売中止となる事件があった<ref>{{Cite journal|和書|author=橋本健一郎 |title=画狂人北斎「日新除魔図」について:『葛飾北斎日新除魔帖』を中心にして |journal=北斎館北斎研究所研究紀要 |publisher=北斎館北斎研究所 |year=2010 |volume=3 |pages=97-114,図巻頭1p |naid=40018735758 |url=https://hokusai-kan.com/institute/vol3/}} p.103 より</ref>。その後、東京の古物商の手に渡り、平成30年(2018年)[[九州国立博物館]]に寄贈された。九州国立博物館はもっともまとまった219枚の「日新除魔図」を保有している<ref name="bunkaisan_nissin"/>。「日新除魔図」は他に、松代藩[[家老]]・小山田壱岐旧蔵の1帖10図(現在は法人<!--渡辺版画店-->蔵)、北斎晩年の門人・[[本間北曜]]旧蔵の12点(内10点は北斎館蔵、1点は個人蔵、1点は所在不明)<ref>{{Cite journal|和書|author=金田功子 |title=北斎の日新除魔図と小布施(一)獅子の絵の現状と『葛飾北斎日新除魔帖』を中心にして |journal=北斎館北斎研究所研究紀要 |publisher=北斎館北斎研究所 |year=2016 |volume=9 |pages=25-41,図巻頭1p |naid=40021205103 |url=https://hokusai-kan.com/institute/vol9/}}</ref>など、国内外に所蔵されている<ref name="bunkaisan_nissin"/>。
『怒涛図』の絢爛たる縁どりの意匠は北斎の下絵に基づき鴻山が描いたものであるが、当時は禁制下にあったにもかかわらず[[キリシタン]]のものを髣髴(ほうふつ)とさせる1体の有翼[[天使]]像が含まれている。

{{-}}
===== 八方睨み鳳凰図 =====
==== 信州小布施の作品 ====
[[ファイル:Hokusai Dragon.jpg|thumb|250px|信州小布施 東町祭屋台天井絵 『龍図』(桐板着色肉筆画)]]
[[ファイル:Ceiling of Ganshoin temple at Obuse.jpg|thumb|250px|岩松院 『八方睨み鳳凰図』(はっぽうにらみ ほうおうず)下絵]]
[[ファイル:Ceiling of Ganshoin temple at Obuse.jpg|thumb|250px|岩松院 『八方睨み鳳凰図』(はっぽうにらみ ほうおうず)下絵]]
[[高井鴻山]]は古くは[[後北条氏|小田原北条氏]]の臣としての来歴を持つ、信州[[小布施町|小布施村]]の豪家高井家の嫡男として天保3年(1832年)に生まれた{{Sfn|由良|1974|p=5}}。鴻山は十五歳の折に京都へ遊学し、[[梁川星巌]]に漢学を、[[岸駒]]に絵画を、[[貫名菘翁]]に書道を師事した{{Sfn|由良|1974|p=5}}。北斎と鴻山の接触については諸説があり、飯島虚心が『葛飾北斎伝』で古老より伝え書いたものが中心とされるが、遺存する作品との矛盾点や疑義も多く呈されている{{Sfn|由良|1974|p=6}}。一般的には『北斎道中画譜』に描かれた古書店頭の絵の中に登場する帯刀した袴姿の武人と、横に並ぶ老人が鴻山と北斎の出会いを描出したものとされる{{Sfn|由良|1974|p=6}}。しかしながら美術史家の[[由良哲次]]は、『北斎道中画譜』が刊行されたのは天保元年(1830年)であり、鴻山が星巌に従って江戸に来たのは天保3年(1832年)であることから時系列が合致しないことを指摘しており、浦賀潜居の後に江戸へ戻った天保6年(1835年)以降に出合ったのではないかとしている{{Sfn|由良|1974|p=6}}。この縁によって北斎は天保12年(1841年)または天保13年(1842年)に小布施の地へ旅立ったと考えられている{{Sfn|由良|1974|p=6}}{{efn|これは、この年の年紀ある北斎作品が小布施に遺存していること、この頃に描かれた『日新除魔図』が小布施に保存されていることなどを根拠としている{{Sfn|由良|1974|p=6}}。}}。鴻山は北斎を賓客として丁重に持成し、「碧{{補助漢字フォント|漪}}軒(へきいけん)」と名付けたアトリエをあてがうとともに、往年焼失した高井家菩提寺の再建にあたって、天井絵などの絵画制作を依願した{{Sfn|由良|1974|pp=5-6}}。北斎はこれを了承するも大がかりな仕事であるとして、娘の栄を助手として連れてくる旨を告げ、江戸へ戻った{{Sfn|由良|1974|p=6}}。北斎は江戸で残した仕事を片付けたり、孫の厄介事を処理するなど多忙を極めながら鴻山と手紙のやり取りをして作品構想を練りつつ、天保15年(1844年)春に再び小布施へと向かった{{Sfn|由良|1974|p=10}}。江戸と小布施の往復は少なくとも4回または5回は行われたとされており{{Sfn|由良|1974|p=17}}、北斎は小布施の地で東町祭屋台天井絵『龍図』『鳳凰図』(天保15年(1844年))、上町祭屋台天井絵『男浪図』『女浪図』(弘化2年(1845年))、[[岩松院]]本堂大間天井絵『八方睨み鳳凰図』などの傑作を残した<ref>{{cite web|title=小布施と北斎|url=https://hokusai-kan.com/obuse-and-hokusai/|access-date=2023-09-30|website=信州小布施 北斎館}}</ref>。
[[長野県]][[小布施町]]にある[[曹洞宗]]寺院・[[岩松院]]の[[本堂]]、その大間天井に描かれた巨大な1羽の鳳凰図。嘉永元年([[1848年]])、無落款、伝北斎88歳から89歳にかけての作品である。肉筆画(桧板着色)。


しかしながらこうした小布施での活動は、飯島の『葛飾北斎伝』にほとんど言及がないこともあり、戦前までは軽視される傾向にあった{{Sfn|神山|2018|p=176}}。実際の美術史家の各書では、昭和19年[[楢崎宗重]]の『北斎論』「衰退が隠せない時代で絵手本や肉筆画に勤しみ、夢多き余生を送った」、昭和28年[[近藤市太郎]]の『北斎』「70歳前後で彼の芸術的生命は終わっていた」、昭和32年[[織田一磨]]の『北斎』「天保の頃の北斎は、もはや内容の脱落した形骸ばかりになっていた」といった論調が並んでいる{{Sfn|神山|2018|pp=176-177}}。こうした傾向は1966年のソビエト連邦で開催される「北斎展」準備のために小布施の作品調査が行われるまで続いた{{Sfn|神山|2018|p=178}}。実地調査を行った研究者の一人である[[尾崎周道]]は、「晩年の小布施時代は北斎の凋落期とするこれまでの定説は、書き換えねばならないだろう」とつづった{{Sfn|神山|2018|p=179}}。また、『北斎論』で批判していた楢崎宗重も、小布施の[[北斎館]]開館に寄せた挨拶で「私の北斎研究は今日から始まると皆様の前で申し上げます」と認識を改めたことを表明した{{Sfn|神山|2018|p=179}}。
21畳敷の天井一面を使って描かれた鳳凰は、畳に寝転ばないと全体が見渡せないほどに大きい。伝北斎の現存する作品の中では画面最大のものである。植物油性[[岩絵具]]による画法で、中国・[[清]]から輸入した[[辰砂]]・[[孔雀石]]・[[鶏冠石]]といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は金150[[両]]と記録される。加えて[[金箔]]4,400枚を用いて表現された極彩色の[[瑞獣]]は、その鮮やかな色彩と光沢を塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられている。


なお、平成2年([[1990年]])には、画面中央下にあって逆さまの三角形を形作る白い空間(右に示した下絵では黒い空間)が富士山の[[隠し絵]]であることが、当時の住職によって発見されている。
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|日新除魔図
|紙本墨画
|219枚
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|[[九州国立博物館]]
|1842-43年
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|重要文化財
|[[松代藩]]士宮本慎助旧蔵で「宮本本」と呼ばれる。弘化4年(1847年)に北斎から宮本に贈られた。宮本の息子が書いた跋文には、[[文久]]2年([[1862年]])[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万国博覧会]]に出品され、激賞されたとあるが定かでない。平成9年([[1997年]])[[クリスティーズ]]の[[カタログ]]に掲載され[[オークション]]にかけられそうになるが、[[文化庁]]は本作は[[重要美術品]]で海外流出禁止なことをクリスティーズに伝え、オークション1日前に販売中止となる事件があった<ref>{{Cite journal|和書|author=橋本健一郎 |title=画狂人北斎「日新除魔図」について:『葛飾北斎日新除魔帖』を中心にして |journal=北斎館北斎研究所研究紀要 |publisher=北斎館北斎研究所 |year=2010 |volume=3 |pages=97-114,図巻頭1p |naid=40018735758 |url=https://hokusai-kan.com/institute/vol3/}} p.103 より</ref>。その後、東京の古物商の手に渡り、平成30年(2018年)九州国立博物館に寄贈された。「日新除魔図」は他に、松代藩[[家老]]・小山田壱岐旧蔵の1帖10図(現在は法人<!--渡辺版画店-->蔵)、北斎晩年の門人・[[本間北曜]]旧蔵の12点(内10点は北斎館蔵、1点は個人蔵、1点は所在不明)<ref>{{Cite journal|和書|author=金田功子 |title=北斎の日新除魔図と小布施(一)獅子の絵の現状と『葛飾北斎日新除魔帖』を中心にして |journal=北斎館北斎研究所研究紀要 |publisher=北斎館北斎研究所 |year=2016 |volume=9 |pages=25-41,図巻頭1p |naid=40021205103 |url=https://hokusai-kan.com/institute/vol9/}}</ref>。
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|[[ファイル:Portrait of chino Hyogo seated at his writing desk.jpg|thumb|left|270px|『五美人図』 肉筆画。文化5 - 10年([[1808年]] - [[1813年]])頃、北斎の号を使い始めた(落款は葛飾北斎筆)50歳前後の時期の作品。絹本着色。[[細見美術館]]所蔵。]]
|[[ファイル:Hokusai Carps.jpg|thumb|left|483px|『紙本着色鯉亀図』 肉筆画(紙本墨画)。文化10年([[1813年]])4月25日、北斎筆。左端の添え書きは北斎直筆で、弟子の[[葛飾北明]]に[[印顆]]と共に与えた作。[[埼玉県立歴史と民俗の博物館]]所蔵<ref>{{cite web|title=紙本着色鯉亀図|url=https://saitama-rekimin.spec.ed.jp/%E5%8F%8E%E8%94%B5%E8%B3%87%E6%96%99/%E5%8F%8E%E8%94%B5%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/%E7%B4%99%E6%9C%AC%E7%9D%80%E8%89%B2%E9%AF%89%E4%BA%80%E5%9B%B3|access-date=2023-09-15|website=埼玉県立歴史と民俗の博物館}}</ref>。]]
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=== 読本 ===
=== 読本 ===
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==== 椿説弓張月 ====
==== 椿説弓張月 ====
{{main|椿説弓張月}}
{{main|椿説弓張月}}
『椿説弓張月』は文化4年(1807年)に前編、文化5年(1808年)に後編、続編、文化7年(1810年)に拾遺、文化8年(1811年)に残編が刊行された[[曲亭馬琴]]作の[[読本]]である<ref name="kotoba_chinsetsu">{{cite web|title=椿説弓張月とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A4%BF%E8%AA%AC%E5%BC%93%E5%BC%B5%E6%9C%88-98702|access-date=2023-09-13|website=コトバンク|author=徳田武|publisher=株式会社C-POT}}</ref>。全28巻29冊に渡って北斎が挿絵を担当した<ref>{{cite web|title=鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 前編|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h52.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。馬琴と共作した初の作品であり、両者の代表作となった{{Sfn|榎本|2005|p=29}}。[[源為朝]]を主役とした史実とは異なる英雄流転譚{{efn|題名の「椿説」は「珍説」の意{{Sfn|榎本|2005|p=29}}。}}で、大衆の[[判官贔屓]]心理に訴えかける人気作となった<ref name="kotoba_chinsetsu"/>。北斎の挿絵も主題に違わない勇壮なものが多く見られた{{Sfn|榎本|2005|p=29}}。
『椿説弓張月』は文化4年(1807年)に前編、文化5年(1808年)に後編、続編、文化7年(1810年)に拾遺、文化8年(1811年)に残編が刊行された[[曲亭馬琴]]作の[[読本]]である<ref name="kotoba_chinsetsu">{{Kotobank|椿説弓張月}}</ref>。全28巻29冊に渡って北斎が挿絵を担当した<ref>{{cite web|title=鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 前編|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h52.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。馬琴と共作した初の作品であり、両者の代表作となった{{Sfn|榎本|2005|p=29}}。[[源為朝]]を主役とした史実とは異なる英雄流転譚{{efn|題名の「椿説」は「珍説」の意{{Sfn|榎本|2005|p=29}}。}}で、大衆の[[判官贔屓]]心理に訴えかける人気作となった<ref name="kotoba_chinsetsu"/>。北斎の挿絵も主題に違わない勇壮なものが多く見られた{{Sfn|榎本|2005|p=29}}。


==== 新編水滸画伝 ====
==== 新編水滸画伝 ====
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==== その他の読本作品 ====
==== その他の読本作品 ====
本節、特に断りのない文章は[[島根県立美術館]]が公開する[[永田生慈]]『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜<ref name="shimane"/>を出典としている。
[[File:Amanosutekusa.jpg|thumb|250px|『古今奇譚 蜑捨草』(1803年)確認されている北斎の読本挿絵で最も古い作品。]]
* 『古今奇譚 蜑捨草』
* 『古今奇譚 蜑捨草』
: 享和3年(1803年)、[[流霞窓広住]]作、「画狂人北斎画」落款<ref name="shimane"/>
: 享和3年(1803年)、[[流霞窓広住]]作、「画狂人北斎画」落款。確認されている北斎の読本挿絵で最も古い作品とされている{{Sfn|永田|2017|p=61}}
* 『復讐奇話 絵本東嫩錦』
* 『復讐奇話 絵本東嫩錦』
: 文化2年(1805年)、[[小枝繁]]作、「画狂老人北斎」落款。江戸で人気を博した[[戯作|戯作者]]小枝繁の処女作であり、[[山東京伝]]の『復讐奇談安積沼』の影響が見られる作品<ref>{{Kotobank|小枝繁}}</ref>{{Sfn|榎本|2005|p=28}}。北斎が手掛けた読本挿絵で頻繁に登場する幽霊図の初例とされる<ref>{{cite web|title=復讐奇話 絵本東嫩錦|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h50.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 文化2年(1805年)、[[小枝繁]]作、「画狂老人北斎」落款<ref name="shimane"/>。
* 『そののゆき 前編』
* 『そののゆき 前編』
: 文化4年(1807年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎画」落款<ref name="shimane"/>
: 文化4年(1807年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎画」落款。版元は[[角丸屋甚助]]だったが、出版後に版木が京都の版元に売り出されるなどのトラブルに見舞われ、後編は出版されずじまいとなった{{Sfn|榎本|2005|p=28}}
* 『墨田川梅柳新書』
* 『墨田川梅柳新書』
: 文化4年(1807年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎筆」落款<ref name="shimane"/>
: 文化4年(1807年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎筆」落款。
* 『近世怪談 霜夜星』
* 『近世怪談 霜夜星』
: 文化5年(1808年)、[[柳亭種彦]]作、「かつしか北斎画」落款<ref name="shimane"/>
: 文化5年(1808年)、[[柳亭種彦]]作、「かつしか北斎画」落款。
* 『國字鵺物語』
* 『國字鵺物語』
: 文化5年(1808年)、[[芍薬亭長根]]作、「葛飾北斎」落款<ref name="shimane"/>
: 文化5年(1808年)、[[芍薬亭長根]]作、「葛飾北斎」落款。
* 『阿波之鳴門』
* 『阿波之鳴門』
: 文化5年(1808年)、柳亭種彦作、「葛飾北斎画」落款<ref name="shimane"/>。[[近松半二]]の[[浄瑠璃]]『[[傾城阿波鳴門]]』をベースに創作された柳亭種彦の初期作品<ref>{{cite web|title=阿波之鳴門|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h53.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 文化5年(1808年)、柳亭種彦作、「葛飾北斎画」落款。[[近松半二]]の[[浄瑠璃]]『[[傾城阿波鳴門]]』をベースに創作された柳亭種彦の初期作品<ref>{{cite web|title=阿波之鳴門|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h53.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『三七全伝南柯夢』
* 『三七全伝南柯夢』
: 文化5年(1808年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎画」落款<ref name="shimane"/>。
: 文化5年(1808年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎画」落款。[[宮戸川]]や[[艶容女舞衣]]などで知られるお花半七の心中事件を題材とした馬琴の代表作<ref>{{Kotobank|三七全伝南柯夢}}</ref>。
* 『山桝太夫栄枯物語』
* 『山桝太夫栄枯物語』
: 文化6年(1809年)、[[梅暮里谷峨]]作、「葛飾北斎」落款<ref name="shimane"/>
: 文化6年(1809年)、[[梅暮里谷峨]]作、「葛飾北斎」落款。
* 『忠孝潮来府志』
* 『忠孝潮来府志』
: 文化6年(1809年)、[[談洲楼焉馬]]作、「葛飾北斎画」落款<ref name="shimane"/>
: 文化6年(1809年)、[[談洲楼焉馬]]作、「葛飾北斎画」落款。
* 『飛驒匠物語』
* 『飛驒匠物語』
: 文化6年(1809年)、[[石川雅望|六樹園飯盛]]作、「画匠葛飾北斎画」落款<ref name="shimane"/>。
: 文化6年(1809年)、[[石川雅望|六樹園飯盛]]作、「画匠葛飾北斎画」落款。飛騨国の職人を主人公とする伝奇小説<ref name="shimane_hida">{{cite web|title=飛驒匠物語|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h54.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。著者の六樹園飯盛こと[[石川雅望]]は、本書の序文で出版の経緯について北斎の勧めであった旨を記している<ref name="shimane_hida"/>。
[[File:Yumenoukihashi.jpg|thumb|250px|前編の挿絵を北斎が担当した『於陸幸助 恋夢艋』(1809年)の表題絵部分。]]
* 『於陸幸助 恋夢艋』
* 『於陸幸助 恋夢艋』
: 文化6年(1809年)、[[楽々庵桃英]]作、「葛飾北斎」落款<ref name="shimane"/>。前編三冊は北斎が挿絵を担当し、後編五冊は門人の馬円が担当した<ref>{{cite web|title=於陸幸助 恋夢艋 色之巻|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h55.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 文化6年(1809年)、[[楽々庵桃英]]作、「葛飾北斎」落款。前編三冊は北斎が挿絵を担当し、後編五冊は門人の馬円が担当した<ref>{{cite web|title=於陸幸助 恋夢艋 色之巻|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h55.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『勢田橋竜女本地』
* 『勢田橋竜女本地』
: 文化8年(1811年)、柳亭種彦作、「葛飾北斎」落款<ref name="shimane"/>
: 文化8年(1811年)、柳亭種彦作、「葛飾北斎」落款。
* 『寒燈夜話 小栗外伝 初編』
* 『寒燈夜話 小栗外伝 初編』
: 文化10年(1813年)、[[小枝繁]]作、「葛飾北斎」落款<ref name="shimane"/>
: 文化10年(1813年)、[[小枝繁]]作、「葛飾北斎」落款。
* 『釈迦御一代記図会』
* 『釈迦御一代記図会』
: 弘化2年(1845年)、[[山田意斎]]作、「前北斎卍老人繍像」落款<ref name="shimane"/>。最晩年の数少ない読本作品で、[[釈迦]]の一生について書かれたもの<ref>{{cite web|title=釈迦御一代記図会|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h107-01.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。
: 弘化2年(1845年)、[[山田意斎]]作、「前北斎卍老人繍像」落款。最晩年の数少ない読本作品で、[[釈迦]]の一生について書かれたもの<ref>{{cite web|title=釈迦御一代記図会|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h107-01.html|access-date=2023-09-13|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『源氏一統志』
* 『源氏一統志』
: 弘化3年(1846年)、[[松亭金水|松亭中村源八郎保定輯]]作、「前北斎為一老人八右衛門画」落款<ref name="shimane"/>
: 弘化3年(1846年)、[[松亭金水|松亭中村源八郎保定輯]]作、「前北斎為一老人八右衛門画」落款。


=== 摺物 ===
=== 絵本 ===
==== 富嶽百景 ====
==== 富嶽百景 ====
[[ファイル:The Big wave from 100 views of the Fuji, 2nd volume.jpg|thumb|250px|『富嶽百景』 二編9丁より「海上の不二」<br />砕け散る波頭は[[チドリ科|千鳥]]の群れと一体となり遠方の富士の峰へと降りかかる。]]
[[ファイル:The Big wave from 100 views of the Fuji, 2nd volume.jpg|thumb|250px|『富嶽百景 海上の不二]]
[[ファイル:Hugaku100kei batsubun.jpg|thumb|250px|75歳北斎の未来に向けた決意が記された『富嶽百景』初編の跋文。]]
半紙本全三冊からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明。版元は 、初編・二編が西村屋佑蔵ほか。三編は永楽屋東四郎。画号は、前北斎改為一改畵狂老人卍。
{{Main|富嶽百景 (北斎)}}
半紙本全三冊百二図からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明<ref name="shimane_fugaku">{{cite web|title=富嶽百景|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h105-01.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。初編は「七十五齢前北斎為一改画狂老人卍筆」落款、二編は「七十六齢前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。[[河村岷雪]]の『百富士』に倣い、様々な富士の山容を描き上げた作品で、『北斎漫画』と並び、版本分野における北斎の最高傑作と評価されている{{Sfn|榎本|2005|p=68}}。この作品を受けて晩年の[[歌川広重]]は、『富士見百図』序文に北斎に対する評価と自身の作品との違いについて記している{{Sfn|小林|2019|p=130}}。


しかし、これらの作品よりも多く取り上げられるのは、尋常ならざる図画への意欲を著した、初編での跋文である<ref name="shimane_fugaku"/>。
富岳の祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)、孝霊天皇治世の富岳出現から始まり、1707年(宝永4年)の宝永山出現を交えたり、朝鮮通信使(1811年〈文化8年〉か)、富士講登山の様子など、『富岳三十六景』が何処から見たのかに拘ったのに対し、『百景』は「○○の不二」といった題に見るように、気象条件や動感、何処を描いたのか分からない、北斎自身の意向がより明確になっている。
{{Quotation|己六才より物の形状を写の癖ありて<br/>半百の此より数々画図を顕すといへども<br/>七十年前描く所は実に取るに足ものなし<br/>七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり<br/>故に八十歳にしてハ益ゝ進み九十歳にて猶其奥意を極め<br/>一百歳にして正に神妙ならん歟<br/>百有十歳にしてハ一点一格にして生るがごとくならん<br/>願くハ長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし|『富嶽百景』初編跋文<ref name="shimane_fugaku"/>}}
より幅広いテーマを取り上げている。


「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」<ref name="shimane_fugaku"/>
しかし、これらの作品よりも多く取り上げられるのは、
尋常ならざる図画への意欲を著した、一・二編での跋文(後書き)である。
: 己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし
: 七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
: 故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
: 願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし


==== その他の絵本作品 ====
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」
本節、特に断りのない文章は[[島根県立美術館]]が公開する[[永田生慈]]『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜<ref name="shimane"/>を出典としている。
{{-}}
[[File:MET 2013 710 a b a 07.jpg|thumb|250px|『画本東都遊』(1802年)]]
* 『画本東都遊』
: 享和2年(1802年)、「画工北斉」落款。
* 『潮来絶句集』
: 享和2年(1802年)ごろ、[[富士唐麿]]詩、[[柳亭陳人]]編、無款。遊女の慕情を謳いあげた富士唐麿の[[狂詩]]に合わせた女性像を描いた全十六図の絵本<ref name="shimane_itako">{{cite web|title=潮来絶句集|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h33.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。美人画中心の絵本は北斎唯一の作例とされている<ref name="shimane_itako"/>。豪華な彩色摺が原因で発禁処分となったと作詩した富士唐麿が後年記している{{Sfn|榎本|2005|p=19}}。
* 『絵本 浄瑠璃絶句』
: 文化12年(1815年)、「葛飾北斎筆」落款。
[[File:Odori Hitorigeiko Akudama Odori Hokusai 1815.jpg|thumb|250px|『踊独稽古』(1815年)]]
* 『踊独稽古』
: 文化12年(1815年)、「葛飾北斎画」落款、藤間新三郎補正。踊りの稽古を行うために「登り夜舟」、「気やぼうすどん」、「悪玉おどり」、「団十郎冷水売」の4曲の踊り所作の振り付けがコマ撮りのように描かれている<ref name="shimane_odorihi">{{cite web|title=踊独稽古|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-taito/taito/h71.html|access-date=2023-09-17|website=島根県立美術館}}</ref>。1835年に『おとり獨稽古』と改題されて再版した<ref name="shimane_odorihi"/>。
* 『絵本庭訓往来 初編』
: 文政11年(1828年)、「前北斎為一写」落款。
* 『忠義水滸伝画本』
: 文政12年(1829年)、「葛飾前北斎為一老人画」落款。
* 『新編水滸画伝 二編前帙』
: 文政12年(1829年)、[[高井蘭山]]作、「北斎戴斗老人画」落款。
* 『唐詩選画本 五言律』
: 天保4年(1833年)、高井蘭山作、「前北斎為一画」落款。
* 『絵本忠経』
: 天保5年(1834年)、高井蘭山作、「葛飾前北斎為一老人画」落款。
* 『諸職絵本 新鄙形』
: 天保7年(1836年)、「齢七十七 前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。
[[File:MET 2013 733 08.jpg|thumb|250px|『和漢絵本魁』(1836年)]]
* 『和漢絵本魁』
: 天保7年(1836年)、「齢七十六前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。
* 『絵本武蔵鎧』
: 天保7年(1836年)、「齢七十七前北斎画狂老人卍筆」落款。[[ヤマトタケル|日本武尊]]、[[上杉謙信]]、[[武田信玄]]などといった日本の武者を描いた絵本<ref name="shimane_musashiabumi">{{cite web|title=絵本武蔵鐙|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/manji/h106-01.html|access-date=2023-09-17|website=島根県立美術館}}</ref>。柱刻に「画本魁 二編」の記述が認められ、同年の『和漢絵本魁』二編として出版されたものと見られている<ref name="shimane_musashiabumi"/>。
* 『唐詩選画本 七言律』
: 天保7年(1836年)、高井蘭山作、「画狂老人卍翁筆」落款。
* 『絵本早引 名頭武者部類』
: 天保12年(1841年)、「北斎改葛飾為一筆」落款。
* 『絵本孝経』
: 嘉永2年(1849年)、高井蘭山作、「東都葛飾前北斎為一翁画図」落款。


==== 喜能會之故眞通 ====
=== 狂歌本 ===
==== 四大風景集 ====
[[ファイル:Tako_to_ama_retouched.jpg|thumb|250px|『喜能會之故眞通 [[蛸と海女]]』]]
[[File:『画本狂歌山満多山』-Picture Book of Kyōka Poems- Mountains upon Mountains (Ehon kyōka yama mata yama) MET DP327230.jpg|thumb|250px|『画本狂歌 山満多山』(1804年)]]
喜能會之故眞通(きのえのこのまつ)は、春画の版本(色摺半紙本)で、その中の「[[蛸と海女]]」がよく知られる。文政3年([[1820年]])頃版行。
北斎が手掛けた[[狂歌本]]の中において『東遊』『東都名所一覧』『画本狂歌 山満多山』『絵本隅田川 両岸一覧』の4作は、四大風景集と位置付けられ、当該分野における北斎の代表作とされている{{Sfn|朴|2022|p=1}}。
{{-}}


『東遊』は寛政11年(1799年)に版元[[蔦屋重三郎]]より刊行された[[浅草庵市人]]の撰集した狂歌本で、「画工北斉」の落款がある<ref name="shimane"/>。全ての挿絵を北斎が担当している<ref>{{cite web|title=東遊|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h32-01.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。『東都名所一覧』は寛政12年(1800年)に同じく版元蔦屋重三郎より刊行された浅草庵市人の狂歌本で、「北斎辰政」落款がある<ref name="shimane"/>。初春の品川の景色など、江戸の名所が狂歌とともに描かれており、文化12年(1815年)に『東都勝景一覧』と改題され、再版された<ref>{{cite web|title=東都勝景一覧|url=https://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/87|access-date=2023-09-19|website=すみだ北斎美術館}}</ref>。『画本狂歌 山満多山』は文化元年(1804年)に刊行された[[大原亭主人]]撰集の狂歌本で、「北斎画」の落款がある<ref name="shimane"/>。[[朱楽菅江]]の七回忌を追善するために出版されたという説もあり、豪華な色摺の三十二図が収載されている{{Sfn|榎本|2005|p=26}}。『絵本隅田川 両岸一覧』は刊行年、作者不詳の全3冊二十四図の狂歌本で、[[隅田川]]両岸に広がる風俗景観を四季の変化とともに描いている<ref name="shimane_sumidagawa">{{cite web|title=絵本隅田川 両岸一覧|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h35-01.html|access-date=2023-09-17|website=島根県立美術館}}</ref>。刊行年については享和元年(1801年)、文化3年(1806年)など諸説があり、刊行年と画稿成立時期に時間差がある可能性も指摘されている{{Sfn|朴|2022|p=3}}。版元についても大阪の[[前川善兵衛]]などの伝存が確認されている他、版摺の違いも多々見られることから、刊行当時より大きな人気を博していたと考えられている{{Sfn|朴|2022|p=3}}。
== 作品画像 ==
代表作『[[富嶽三十六景]]』は単独項目を参照のこと。
{|
|[[ファイル:Portrait of chino Hyogo seated at his writing desk.jpg|thumb|left|270px|1]]
|[[ファイル:Hokusai Carps.jpg|thumb|left|483px|2]]
|}
:画像-1 :『五美人図』 肉筆画。文化5 - 10年([[1808年]] - [[1813年]])頃、北斎の号を使い始めた(落款は葛飾北斎筆)50歳前後の時期の作品。絹本着色。[[細見美術館]]所蔵。
:画像-2 :『鯉図』 肉筆画(紙本墨画)。文化10年([[1813年]])4月25日、北斎筆。紙本着色。左端の添え書きは北斎直筆で、弟子の[[葛飾北明]]に[[印顆]]と共に与えた作。[[埼玉県立歴史と民俗の博物館]]所蔵。公式サイトに解説あり([http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/?page_id=176 外部リンク])。
{|
|[[ファイル:Katsushika Hokusai 001.jpg|thumb|left|100px|3]]
|[[ファイル:Shunkosai Hokuei Obake.jpg|thumb|left|108px|4]]
|[[ファイル:Hokusai Sarayashiki.jpg|thumb|left|110px|5]]
|[[ファイル:Hokusai 1760-1849, Katsushika, Japan Selfportrait at the age of eighty three.jpg|thumb|left|95px|6]]
|[[ファイル:Portrait of a man of noble birth with a book.jpg|thumb|left|100px|7]]
|[[ファイル:Hokusai Phoenix.jpg|thumb|left|153px|8]]
|}
:画像-3 :『諸國瀧廻リ 木曽路ノ奥 阿彌陀ヶ瀧』(諸国滝廻り 木曽路の奥 [[阿弥陀ケ滝|阿弥陀ヶ滝]]) 名所絵揃物『[[#諸国滝廻り|諸国滝廻り]]』中の1図。美濃国は[[毘沙門岳]]山麓にある名滝。丸鏡のようにも見える上流の空間と滝の流れが織りなす幾何学的構図が荘厳と不可思議を演出している。
:画像-4 :『百物語 お岩さん』 『[[#百物語|百物語]]』全5図のうち、[[四谷怪談]]のお岩さん。[[提灯]]に浮かび上がる恨めしげなお岩の形相。
:画像-5 :『百物語 さらやし記』(ひゃくものがたり さらやしき) 『百物語』のうち、[[皿屋敷]]。北斎の独創性により、井戸から現れたお菊の[[幽霊]]は、その首が長い黒髪の絡まりで連なった皿になっている。
:画像-6 :『八十三歳自画像』 天保10年(1842年)、北斎82歳([[数え年]]83歳)のときの自画像。肉筆画(紙本墨画)。描かれたのは41、2歳の頃の作品についての質問に対する返信状であり、落款は八十三歳八右衛門。[[オランダ]]、ライデン国立民族学博物館所蔵。
:画像-7 :「武家」 肉筆画。
:画像-8 :『鳳凰図』 信州小布施、東町祭屋台天井絵(桐板着色肉筆画)。
{|
|[[ファイル:Hokusai Poppies.jpg|thumb|left|220px|9]]
|[[ファイル:Hokusai Kakurezato.jpg|thumb|left|220px|10]]
|[[ファイル:Two carp in a cascade.jpg|thumb|left|68px|11]]
|[[ファイル:View of lake Suwa.jpg|thumb|left|200px|12]]
|}
:画像-9 :『西村屋版大判花鳥集 [[ケシ|芥子]]』 花鳥画揃物全10図中の1図。天保4 - 5年(1833年 - 1834年)頃、前北斎為一筆。
:画像-10 :『北斎漫画』のうち「家久連里」(かくれざと) 日本古来の伝承「鼠の[[隠れ里]]」を描いた1図。
:画像-11 :『長大判花鳥図 滝に[[コイ|鯉]]』 花鳥画揃物全5図中の1図。天保5年頃、前北斎為一筆。
:画像-12 :『勝景奇覧 信州[[諏訪湖]]』 全8図中の1図。[[うちわ|団扇]]絵。天保元年 - 15年(1830年 - 1844年)、前北斎卍筆。
{|
|[[ファイル:Salted salmond and mice.jpg|thumb|left|390px|13 14]]
|[[ファイル:Hokusai Flat fish and pink.jpg|thumb|left|388px|15 16]]
|}
:画像-13 :『肉筆画帖 [[サケ|塩鮭]]と[[ネズミ|鼠]]』 北斎晩年の傑作『[[#肉筆画帖|肉筆画帖]]』全10図一帖中の1図。
:画像-14 :『肉筆画帖 [[アユ|鮎]]と紅葉』 上に同じ。
:画像-15 :『肉筆画帖 [[カエル|蛙]]と[[ユキノシタ|ゆきのした]]』 上に同じ。
:画像-16 :『肉筆画帖 [[カレイ|鰈]]と[[ナデシコ|撫子]]』 上に同じ。
{|
|[[ファイル:Hokusai tanuki tea kettle.jpg|thumb|left|110px|17]]
|[[ファイル:A merchant making up the account.jpg|thumb|left|228px|18]]
|[[ファイル:Hokusai, Hotei.jpg|thumb|left|115px|19]]
|[[ファイル:Hokusai Shoki riding a shishi lion.jpg|thumb|left|75px|20]]
|[[ファイル:Pecheur rocher Surimono.jpg|thumb|left|120px|21]]
|}
:画像-17 :『[[分福茶釜]]図』 肉筆画(紙本墨画)。寛政9年([[1797年]])頃。
:画像-18 :『節李の商家』 肉筆画。北斎と娘の葛飾応為の合作。[[オランダ商館]]医であった[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]が国へ持ち帰ったと伝えられる1枚。オランダ国立民族学博物館所蔵。
:画像-19 :『[[布袋]]図』 肉筆画(紙本墨画)。
:画像-20 :『[[鍾馗]]騎獅図』 肉筆画(紙本着色)。天保15年(1844年)、画狂老人卍筆。東京都、[[出光美術館]]所蔵。
:画像-21 :『[[煙管]]を吸う漁師図』 摺物(すりもの)。天保6年(1835年)、自画讃。自画像との説がある。


=== 諸国滝廻り ===
==== その他の狂歌本作品 ====
[[File:Enoshimashunbou.jpg|thumb|250px|『柳の絲』(1797年)に寄せた洋風表現の試みが見られる「江島春望」の図。]]
<div style="font-size:80%"><gallery perrow="4">
本節、特に断りのない文章は[[島根県立美術館]]が公開する[[永田生慈]]『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜<ref name="shimane"/>を出典としている。
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Kisoji No Okuami Dagataki.jpg|木曽路ノ奥阿弥陀ケ滝<br>(きそじのおくあみだがたき)
* 『狂歌歳旦 江戸紫』
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Kisokaidou Onono Bakuhu.jpg|木曾海道小野ノ瀑布<br>(きそかいどうおののばくふ)
: 寛政7年(1795年)、[[花江戸住|万亀亭花の江戸住]]撰、「宗理画」落款。
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Minokoku Yourou No Taki.jpg|美濃国養老の滝<br>(みのこくようろうのたき)
* 『帰化種』
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Shimotsuke Kurokamiyama Kirihurino Taki.jpg|下野黒髪山きりふりの滝<br>(しもつけくろかみやまきりふるのたき)
: 寛政8年(1796年)、[[清涼亭菅伎]]撰、「百琳宗理画」落款、[[シカゴ美術館]]所蔵。
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Soushuu Ooyama Rouben No Taki.jpg|相州大山ろうべんの滝<br>(そうしゅうおおやまろうべんのたき)
* 『四方の巴流』
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Toukaidou Sakanoshita Kiyotaki Kannon.jpg|東海道坂ノ下清滝くわんおん<br>(とうかいどうさかのしたきよたきかんのん)
: 寛政8年(1796年)ごろ、[[鹿津部真顔|狂歌堂真顔]]撰、「北斎宗理画」落款。
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Touto Aoigaoka No Taki.jpg|東都葵ケ岡の滝<br>(とうとあおいがおかのたき)
* 『柳の絲』
ファイル:A Tour of the Waterfalls of the Provinces-Washuu Yoshino Yoshitsune Umaarai No Taki.jpg|和州吉野義経馬洗滝<br>(わしゅうよしのよしつねうまあらいのたき)
: 寛政9年(1797年)、[[浅草庵市人]]撰、「北斎宗理画」落款。[[堤等琳]]、[[鳥文斎栄之]]、[[北尾重政]]らと共に、狂歌に合わせた江島春望の絵図を一図描いた<ref>{{cite web|title=柳の絲|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h30.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。全体構図や山、波の描写などから洋風表現の試行が見られ、[[司馬江漢]]の影響が確認できる<ref>{{cite web|title=江島春望|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459787|access-date=2023-09-15|website=文化遺産オンライン}}</ref>。
</gallery></div>
* 『さんたら霞』
: 寛政9年(1797年)、[[三陀羅法師]]撰、「北斎宗理画」落款、[[大英博物館]]所蔵。
* 『春興帖』
: 寛政10年(1798年)、[[森羅亭万象]]撰とされる、「北斎宗理画」落款。
* 『男踏歌』
: 寛政10年(1798年)、[[浅草庵市人]]撰、「北斎宗理画」落款、大英博物館所蔵。
[[File:Miyakodori (masski inari) LCCN2009615078.jpg|thumb|250px|『みやことり』(1802年)]]
* 『みやことり』
: 享和2年(1802年)、「画狂人北斎」落款。[[隅田川]]両岸の浅草、本所に暮らす庶民の様子を描いた全二十三図の狂歌本<ref name="shimane_miyako">{{cite web|title=みやことり|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h34-01.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。『絵本隅田川 両岸一覧』と並び、北斎狂歌本分野の傑作とされる<ref name="shimane_miyako"/>。
* 『五拾人一首 五十鈴川狂歌車』
: 享和2年(1802年)、千秋庵三陀羅法師撰、「北斎辰政」落款。五十人の狂歌師と「巫女の舞」一図が収められた狂歌本で、[[伊勢神宮]]への奉納を目論んでいたことが序文に記されている{{Sfn|濱田|2016|p=59}}。
* 『画本忠臣蔵』
: 享和2年(1802年)、[[桜川慈悲成]]作、「北斎辰政」落款。
* 『夷歌 月微妙』
: 享和3年(1803年)、[[樵歌亭校合]]作、「画狂人北斎画」落款。
* 『百囀』
: 文化2年(1805年)、[[二世桑楊庵]]撰、「画狂人北斎画」落款。
* 『蓮華台』
: 文政9年(1826年)、[[石川雅望|六樹園]]撰、「為一筆」落款。
* 『花鳥画賛歌合』
: 文政11年(1828年)ごろ、[[春秋庵永女]]、[[錦鳳堂永雄]]らによると見られる撰、「月癡老人為一筆」落款。表題に合わせた風情ある花鳥画を数図寄せている<ref>{{cite web|title=花鳥画賛歌合|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h97.html|access-date=2023-09-17|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『女一代栄花集』
: 天保2年(1831年)、[[秋長堂老師]]、[[春秋庵婦人]]らによる撰、「応需七十二翁前北斎為一筆」落款。花見の宴で酔った婦人図など3図を北斎が描いた<ref>{{cite web|title=女一代栄花集|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/iitsu/h98.html|access-date=2023-09-17|website=島根県立美術館}}</ref>。


===諸国名橋奇覧===
=== 摺物 ===
[[File:Paarden slippers Komageta (titel op object) Een serie met paarden (serietitel) Umazukushi (serietitel op object), RP-P-1958-286.jpg|thumb|250px|『馬尽 駒下駄』(1822年)]]
<div style="font-size:80%"><gallery perrow="4">
[[File:The groove shell (5758875979).jpg|thumb|250px|『元禄歌仙貝合』(1821年)]]
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Ashikaga Gyoudousan Kumo No Kakehashi.jpg|足利行道山くものかけはし<br>(あしかがぎょうどうさんくものかけはし)
==== 馬尽 ====
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Echizen Hukui No Hashi.jpg|ゑちぜんふくゐの橋<br>(えちぜんふくいのはし)
『馬尽』は文政5年(1822年)に刊行された二十八図{{efn|三枚続の図が一図あるため、三十図としている書籍もある{{Sfn|浅野他|1998|p=45}}。}}が知られている中判の揃物で「不染居為一筆」の落款がある作品{{Sfn|榎本|2005|p=50}}。前年に制作した『元禄歌仙貝合』と同じく四方側に属する狂歌師[[鹿津部真顔]]の依頼によって制作されたものと見られる{{Sfn|浅野他|1998|p=33}}。文政5年が午年であることに因んで馬に関連する歌を詠み、挿図した作品である{{Sfn|浅野他|1998|p=46}}。右図はその中のひとつ「駒下駄」といい、水引で結んだ駒下駄とお多福の面、三升を染め出した手ぬぐい、扇、注連飾りをつけた擂粉木と一緒に暴れ馬の凧が描かれている{{Sfn|浅野他|1998|p=46}}。上部には[[狂月亭真晴]]と四方歌垣真顔(鹿津部真顔)の狂歌が添えられている{{Sfn|浅野他|1998|p=46}}。二十八図のうち、二十六図が静物を主題としており、残りの二図は風俗、風景を主題としている{{Sfn|浅野他|1998|p=45}}。狂歌を寄せた狂歌師は[[秋長堂物簗]]、[[森島中良|森羅亭万象]]など55名に上った{{Sfn|浅野他|1998|p=45}}。浅野は本作について発想や絵組の独自性が際立っており、狂歌師たちの独創と北斎の構成力が上手く嚙み合った完成度の高い摺物であると評価している{{Sfn|浅野他|1998|p=48}}。
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Hietsu No Sakai Tsurihashi.jpg|飛越の堺つりはし<br>(ひえつのさかいつりはし)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Kameido Tenjin Taiko Hashi.jpg|かめゐど天神たいこはし<br>(かめいどてんじんたいこはし)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Koutsuke Sano Hunakashi No Kozu.jpg|かうつけ佐野ふなはしの古づ<br>(こうつけさのふなはしのこず)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Mikawa No Yatsuhashi No Kozu.jpg|三河の八ツ橋の古図<br>(みかわのやつはしのこず)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Sesshu Ajikawaguchi Tenpouzan.jpg|摂洲阿治川口天保山<br>(せっしゅうあじかわぐちてんぽうざん)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Sesshuu Tenmabashi.jpg|摂洲天満橋<br>(せっしゅうてんまばし)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Suou No Kuni Kintai Hashi.jpg|すほうの国きんたいはし<br>(すおうのくにきんたいはし)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Tôkaidô Okazaki Yahagi No Hashi.jpg|東海道岡崎矢はぎのはし<br>(とうかいどうおかざきやはぎのはし)
File:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Yamashiro Arashiyama Togetsukyou.jpg|山城あらし山吐月橋<br>(やましろあらしやまとげつきょう)
</gallery></div>


== 門人とその影響 ==
==== その他の摺物作品 ====
本節、特に断りのない文章は[[島根県立美術館]]が公開する[[永田生慈]]『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜<ref name="shimane"/>を出典としている。
[[File:Portrait_of_Katsushika_Hokusai_by_disciple_Keisai_Eisen.png|thumb|弟子の英泉が描いた北斎の肖像画。 渓斎英泉「為一翁」『戯作者考補遺』より。]]
* 『五代目市川団十郎の暫』
北斎の門人は数多くおり、[[蹄斎北馬]]、[[魚屋北渓]]、[[昇亭北寿]]、[[柳々居辰斎]]、[[葛飾北岱]]、[[葛飾北泉]]、[[葛飾北嵩]]、[[柳川重信]]、[[牧墨僊]]などがよく知られている。ただし『葛飾北斎伝』によれば北斎は「自ら教授することを好まず、其の門人たらんを請ふものあれば、自ら画きし刻板の画手本を出だし、先づ画かしめ、そここゝと、短所を指して、教へたるのみ」という態度だったという。
: 天明7年(1787年)、「春朗画」落款。[[ケルン東洋美術館]]所蔵。
* 『十六むさしで遊ぶ子供』
: 寛政元年(1789年)、「春朗画」落款。[[十六むさし]]で遊戯する童子を描いた摺物で、遊戯盤上には[[月の大小]]が判る暦が添えられている<ref>{{cite web|title=(十六むさしで遊ぶ子供)[津和野藩伝来摺物]|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h13-01.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『寛政三弓始(弓矢と的)』
: 寛政3年(1791年)、「葛飾住 春朗画」落款。
* 『冷水売り』
: 寛政5年(1793年)ごろ、「叢春朗画」落款。冷えた砂糖水に白玉を入れた「冷水」を売る少年が木陰で休息する様子を描いた作品<ref name="shimane_hiyamizu">{{cite web|title=冷水売り|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h14.html|access-date=2023-09-17|website=島根県立美術館}}</ref>。フランスの作家[[エドモン・ド・ゴンクール]]が1896年に上梓した『北斎』にその存在が言及されていたが、永らく存在が確認できなかった作品である<ref name="shimane_hiyamizu"/>。
* 『大筒』
: 寛政7年(1795年)、「宗理写」落款。
* 『座敷万歳』
: 寛政7年(1795年)、「宗理画」落款。
* 『懐通辰己楼』
: 寛政8年(1796年)、「百琳宗理画」落款。[[ベルリン美術館|ベルリン東洋美術館]]所蔵。
* 『元結作り』
: 寛政8年(1796年)、「宗理画」落款。
* 『花卉』
: 寛政8年(1796年)、「北斎宗理画」落款。俳句が添えられた珍しい摺物作品<ref>{{cite web|title=花卉|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-katsushikahokusai/katsushikahokusai/h47-03.html|access-date=2023-09-24|website=島根県立美術館}}</ref>。「北斎」の号が見られるもっとも古い作品{{Sfn|濱田|2016|p=17}}。
* 『曙艸(吉野山花見)』
: 寛政9年(1797年)、「北斎宗理画」落款。[[津和野藩]]藩主の[[亀井氏|亀井家]]に伝わっていた宗理様式時代の摺物作品のひとつ<ref>{{cite web|title=曙艸(吉野山花見)[津和野藩伝来摺物]|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h25-01.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。
[[File:Katsushika Hokusai, donna con un biglietto augurale dal tempio benten, 1797.jpg|thumb|250px|1797年の摺物『巳待の御札』。「宗理風」と呼ばれる独自の様式を確立させた。]]
* 『巳待の御札』
: 寛政9年(1797年)、「宗理画」落款。
* 『石なご遊び』
: 寛政10年(1798年)、「北斎宗理校合」落款。
* 『亀』
: 寛政10年(1798年)、「北斎辰政画」落款。宗理から北斎辰政へ改号した際に知人へ配ったとされる摺物<ref>{{cite web|title=亀|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h27-01.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。書家の[[稲葉華溪]]によって「宗理ぬしの改名に北辰の光りいよいよましなん事を 莟む花こや衆生のもてはやし」という賛が寄せられている{{Sfn|榎本|2005|p=18}}。
* 『風呂上がりの母子図』
: 寛政11年(1799年)、無款。
* 『屠蘇を飲む福禄寿』
: 寛政11年(1799年)、「宗理改北斎画」落款。
* 『宮詣の官女図』
: 寛政12年(1800年)、「先ノ宗理北斎画」落款。
* 『女刀鍛冶』
: 寛政12年(1800年)、「先ノ宗理北斎画」落款。
* 『玉虫と子安貝』
: 寛政12年(1800年)、「先ノ宗理北斎画」落款。[[タマムシ]]、[[タカラガイ|コヤスガイ]]ともに当時の安産祈願品であり、縁起の良い二物を描いた作品<ref>{{cite web|title=玉虫と子安貝|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h28.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『笠に蔬菜図』
: 寛政13年(1801年)、「画狂人北斎写」落款。[[太田記念美術館]]所蔵。
* 『大晦日掛取り』
: 享和2年(1802年)、「画狂人北斎」落款。
[[File:Syunkyou53danouchi seki.jpg|thumb|250px|『春興五十三駄之内 關』(1804年)坂の下ヘ一リ半。]]
* 『春興五十三駄之内』
: 享和4年(1804年)、「画狂人北斎画」落款。全五十九図からなる摺物揃物で、複数の狂歌連が出資したと見られ、絵図の中に狂歌がおさめられている<ref>{{cite web|title=(春興五十三駄之内)戸塚|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-sori/sori/h29-01.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『見立芝居看板』
: 享和4年(1804年)、「北斎画」落款。
* 『美人爪切り図』
: 享和4年(1804年)ごろ、「ほくさゐのふで」落款。
* 『盆踊り』
: 享和4年(1804年)ごろ、「画狂老人北斎画」落款。
* 『菅原の上』
: 文化2年(1805年)、「九々蜃北斎画」落款。
* 『山吹と桜』
: 文化2年(1805年)、「九々蜃北斎画」落款。
* 『西王母図』
: 文化3年(1806年)、無款。
* 『子供の遊び』
: 文化4年(1807年)ごろ、「葛飾北斎画」落款。
* 『還城楽』
: 文化6年(1809年)、「葛飾北斎写」落款。
* 『七福神』
: 文化6年(1809年)、「かつしか北斎画」落款。
* 『山姥と金太郎』
: 文化11年(1814年)ごろ、「北斎改戴斗筆」落款。
* 『おし鳥』
: 文化11年(1814年)ごろ、「北斎改戴斗」落款。
* 『寿老人』
: 文化13年(1816年)、「前北斎戴斗筆」落款。
[[File:Wu Zixu and Tomoe Gozen by Hokusai.jpg|thumb|250px|『空満屋連和漢武勇合三番之内』(1820年)に描かれた[[伍子胥]]と[[巴御前]]。]]
* 『空満屋連和漢武勇合三番之内』
: 文政3年(1820年)、「北斎戴斗改葛飾為一筆」落款。[[東京国立博物館]]所蔵。
* 『楉垣連五番之内和漢画兄弟』
: 文政4年(1821年)、摺物揃物、「月癡老人為一筆」落款。
* 『元禄歌仙貝合』
: 文政4年(1821年)、摺物揃物、「月癡老人為一筆」落款。
* 『美人カルタ』
: 文政6年(1823年)、「真行草之筆意北斎改為一画」落款。
* 『七代目市川団十郎 二代目岩井粂三郎』
: 文政7年(1824年)、「かつしかの親父為一筆」落款。
* 『汐汲み図』
: 文政13年(1830年)、「北斎改為一筆」落款。[[太田記念美術館]]所蔵。
* 『宝船』
: 天保4年(1833年)、「前北斎為一筆」落款。


=== 黄表紙 ===
[[歌川国芳]]、[[歌川国直]]、[[渓斎英泉]]ら多くの絵師にも影響を与えている。
[[ファイル:Zenzentaiheiki.jpg|thumb|250px|『前々太平記』(1786年)]]
[[ファイル:Shiwamiusekusuri.jpg|thumb|250px|『しわみうせ薬』(1795年)]]
本節、特に断りのない文章は[[島根県立美術館]]が公開する[[永田生慈]]『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜<ref name="shimane"/>を出典としている。
* 『白井権八幡随長兵衛 驪山比異(翼)塚』
: 安永9年(1780年)、作者不詳、「勝川春朗画」落款。[[東京都立図書館]](加賀文庫)所蔵。安永8年(1779年)に[[肥前座]]で興行された新作[[文楽|人形浄瑠璃]]『驪山比翼塚』を要約した作品{{Sfn|濱田|2016|p=42}}。
* 『はなし〈柱題〉』
: 天明2年(1782年)、自惚門人皆山五郎治作、「勝春朗画」落款。正式な表題は不明で、柱に「はなし」と題されていることから、このように仮称される5話の小咄が収められた咄本黄表紙である<ref>{{cite web|title=はなし〈柱題〉|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h16.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『親譲鼻高名』
: 天明5年(1785年)、可笑門人雀声作、「春朗改群馬亭画」落款。
* 『我家楽之鎌倉山』
: 天明6年(1786年)、作者不詳、「群馬亭画」落款。
* 『前々太平記』
: 天明6年(1786年)、自惚山人作、「勝春朗画」落款。[[平住専安]]が著した[[軍記物語]]『[[前々太平記]]』を元にした黄表紙で、多くの武者絵が収蔵されている作品である<ref>{{cite web|title=前々太平記|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h17.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。
* 『二一天作二進一十』
: 天明6年(1786年)、通笑門人道笑作、「群馬亭画」落款。
* 『昔々桃太郎発端説話』
: 寛政4年(1792年)、[[山東京伝]]作、「春朗画」落款。
* 『貧福両道中之記』
: 寛政5年(1793年)、山東京伝作、「春朗画」落款。裕福な家の子が零落し、貧乏な家の子が大成する様を描いた道中記{{Sfn|濱田|2016|p=46}}。
* 『福寿海无量品玉』
: 寛政6年(1794年)、[[曲亭馬琴]]作、無款。
* 『しわみうせ薬』
: 寛政7年(1795年)、本膳坪比良作、「勝川春朗画」落款{{Sfn|濱田|2016|p=49}}。いつの時代であっても金には苦労するという教訓が描かれた黄表紙である{{Sfn|濱田|2016|p=49}}。
* 『化物和本草』
: 寛政10年(1798年)、山東京伝作、「可候画」落款。1792年に上梓された[[森島中良]]の『画本纂怪興』をもとにした怪談が収められた黄表紙である{{Sfn|濱田|2016|p=50}}。
* 『児童文殊稚教訓』
: 寛政13年(1801年)、「画作時太郎可候」落款。
* 『三国昔噺 和漢蘭雑話』
: 享和3年(1803年)、曼亭鬼武作、「可候画」落款。
* 『真柴久吉 武地光秀 御伽山崎合戦』
: 享和4年(1804年)、作者不詳、「勝春朗画」落款。本作は[[豊臣秀吉]]を称揚する内容であったため、幕府より絶版処分または出版自粛を申し渡されたと見られ、1804年に絶版処分となった黄表紙で、永らくの間記録上のみの作品であった<ref>{{cite web|title=真柴久吉 武地光秀 御伽山崎合戦|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-syunro/syunro/h18-01.html|access-date=2023-09-22|website=島根県立美術館}}</ref>。


=== 春画 ===
=== 「葛飾北斎」を称した者 ===
[[ファイル:Tako_to_ama_retouched.jpg|thumb|250px|『喜能會之故眞通 [[蛸と海女]]』]]
全くの別人であるが、葛飾北斎を名乗る絵師が北斎の没後に数名いたと考えられている。[[葛飾北斎 (2代目)|二代目葛飾北斎]]のほか、江戸橋場町の神社の杉戸に絵を描いた人物も「葛飾北斎」を名乗っていたという。『葛飾北斎伝』には二代目北斎について述べたあと、以下のくだりがある。
[[春画]]については基本的に署名が無く、北斎がどの程度春画に携わっていたのかについては判明しておらず、研究者間での統一された見解も無い{{Sfn|浅野|2005|p=6}}。『葛飾北斎・春画の世界』を著した美術史研究家の[[浅野秀剛]]は、私見であることを断りつつ、『笑本股庫嘉里嫁志』『間女畑』『[[喜能会之故真通|甲の小松]]』『富久寿楚宇』『万福和合神』の五作は北斎作であるとしている{{Sfn|浅野|2005|p=7}}。浮世絵研究者の[[林美一]]や[[リチャード・レイン]]は『絵本春の色』『会本色の嫩』などを北斎の作として取り上げている{{Sfn|浅野|2005|p=11}}。


==== 喜能会之故真通 ====
:「又按ずるに、東京橋場町、真崎の石浜神社にある杉戸の牛馬の図に、安政屠維協洽之玄月<small>([[安政]]6年〈1859年〉9月)</small>、葛飾北斎謹画とあり、印章は左の如し<small>(印形をそのまま写す)</small>何人なるを詳らかにせず、画風は、葛飾にあらず、土佐の風に近し、甚だ拙なり」
{{main|喜能会之故真通}}
『喜能会之故真通』{{efn|読みは「きのえのこまつ」で『甲の小松』と書かれている書籍もある{{Sfn|浅野|2005|p=7}}。}}は、文化11年(1814年)に刊行された春画<ref>{{cite web|title=喜能会之故真通|url=https://lapis.nichibun.ac.jp/enp/Cover/List/225|access-date=2023-09-17|website=艶本資料データベース|publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。林美一や[[辻惟雄]]は、筆致が異なるとして北斎作ではなく、三女のお栄か門人の作であろうという立場を取っている{{Sfn|浅野|2005|p=12}}。一方で浅野秀剛は画の緩みや弟子任せの箇所があったとしても部分的であり、北斎構想による高い完成度を示した作品であるとしている{{Sfn|浅野|2005|p=13}}。この作品のなかで、2匹の蛸に若い海女が襲われている様子を描いた「[[蛸と海女]]」が良く知られており、[[ポルノグラフィ]]における「[[触手責め|触手もの]]」の先駆けとも言われている<ref>{{Citation|和書| author=佐藤優 | year=2020 | title=人物で読み解く世界史 |publisher=新星出版社 |isbn=978-4405108110 | page=429 }}</ref>。ほとんど全部が画中の登場人物の台詞で構成されているほか、[[擬声語|オノマトペ]]が書き入れられているのが本作の特徴で、喜悦の声や局所から出る音がカタカナで記述されている{{Sfn|浅野|2005|p=13}}。後の作品である『万福和合神』の主人公「おつび」「おさね」が一部登場している{{Sfn|浅野|2005|p=15}}{{efn|「おつび」「おさね」は『富久寿楚宇』にも登場する{{Sfn|浅野|2005|p=15}}。}}。


==== 富久寿楚宇 ====
「真崎の石浜神社」とは、現在の東京都[[荒川区]]にある石浜神社の事である。この神社の杉戸に「牛馬の図」があり、それに「葛飾北斎」という署名があったという。『葛飾北斎伝』は「何人なるを詳らかにせず」と述べ、すなわちこれは世に知られる浮世絵師の葛飾北斎ではなく、また二代目の北斎でもない別人としている。「画風は、葛飾にあらず、土佐の風に近し」ともあり、実際にはどのような素性の人物だったのか全くの不明である。
[[ファイル:Katsushika Hokusai - Fukujuso.jpg|thumb|250px|『富久寿楚宇』第10図、海女と漁師の交わり。]]
『富久寿楚宇』は刊行年については不明だが、様式などから文化12年(1815年)から文政前期ごろの作品と推定されている{{Sfn|浅野|2005|p=30}}。きわめて高い完成度を誇り、北斎作品とされる春画のうちで、唯一研究者間での見識が一致している作品である{{Sfn|浅野|2005|p=30}}。横大判錦絵十二図から成る作品で、[[鳥居清長]]の春画『袖の巻』および[[喜多川歌麿]]の春画『歌まくら』への崇敬と対抗意識が垣間見える絵作りがなされている{{Sfn|浅野|2005|pp=30-34}}。被せ彫りによって作られた『会本佐勢毛が露』『波千鳥』という再版本が存在するが、こちらに北斎自身が関与したかどうかについては判っていない{{Sfn|浅野|2005|p=34}}。


==== その他の春画作品 ====
『浮世絵師伝』は二代目北斎を名乗ったとされる橋本庄兵衛(橋本北斎)と、この石浜神社の杉戸絵を描いた「葛飾北斎」について、「橋本北斎が居所の山谷と該神社の真崎との地理的関係を考ふれば、或は両者同一人なりしやも知れず」と述べているが、これも定かではない。
* 『笑本股庫嘉里嫁志』

: 天明2年(1782年)の作品とみられ、春画分野における初作とされる{{Sfn|林|2011|p=47}}<ref name="murai_shihon">{{Citation|和書|last=村井|first=信彦|chapter=私本「葛飾北斎ハンドブック」改訂版 |chapterurl=http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-content/themes/standard_black_cmspro/img/2022/01/%E7%A7%81%E6%9C%AC%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF_compressed.pdf |page=33}}</ref>。序文に「寅の初春 闇雲山人著」、扉絵に「勝春朗画」の隠し落款がある{{Sfn|浅野|2005|p=8}}。林美一は闇雲山人は北斎の隠号であるとしている<ref name="hayashi_adehon">{{Citation|和書|last=林|first=美一|year=1989 |chapter=北斎 艶本への挑戦 |title=芸術新潮 |volume=3 |publisher=新潮社 |pages=41-42}}</ref>。
また安政元年(1854年)刊行の『雷公地震由来記』の口絵にも画中に「北斎筆」とあるが<ref>『江戸時代女性文庫』49(天空社、1996年)。</ref>、これも二代目北斎のことなのか、それとも違う人物が「北斎」と称して描いたものなのか明らかではない。
* 『絵本春の色』
: 寛政初期の作品とされ、リチャード・レインは1977年に上梓した自著『北斎の秘画』にて、「勝川春朗」の署名があると言及している{{Sfn|浅野|2005|p=11}}。
* 『間女畑』
: 寛政4年(1792年)ごろの作品と見られる{{Sfn|林|2011|p=47}}。序文に「鉄棒ぬらぬら」の花押があり、本文中に北斎の俗称である鉄蔵をもじった「隣の鉄ぼう」という人物が登場する{{Sfn|浅野|2005|p=9}}。[[尾崎久彌]]は『北斎肖像の研究』の中で天明元年(1781年)ごろの作品と推定しており、同作に登場する机に伏して寝ている丁髷男が、もっとも古い北斎の肖像画であるとしている<ref>{{Citation|和書|last=山本|first=陽子|year=2016 |chapter=葛飾北斎の肖像画における自己演出 |chapterurl=https://meisei.repo.nii.ac.jp/records/1299 |title=明星大学研究紀要 |volume=52 |publisher=明星大学研究紀要人文学部 |pages=37-38}}</ref>。
* 『会本松の内』
: 浮世絵研究者の[[林美一]]は、寛政6年(1794年)ごろ刊行されたとしている{{Sfn|浅野|2005|p=11}}。「紫色雁高」落款{{Sfn|浅野|2005|p=11}}。付文に「かやば丁のゑいせう」とあることから、[[鳥高斎栄昌]]の作ではないかとする説もある{{Sfn|浅野|2005|p=11}}。
* 『会本色の嫩』
: 寛政中期の作品とされ、リチャード・レインは1977年に上梓した自著『北斎の秘画』にて、「紫色雁高」の署名があると言及している{{Sfn|浅野|2005|p=11}}。
* 『好色堂中』
: 寛政12年(1800年)刊行<ref name="nichibun_kousyoku">{{cite web|title=好色堂中|url=https://lapis.nichibun.ac.jp/enp/Cover/List/99|access-date=2023-09-17|website=艶本資料データベース|publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。若い男女の大首絵など八図が描かれた春画で、表題は無く、序文に「好色堂中に序す」とあることから、この名で呼ばれている<ref name="nichibun_kousyoku"/>。図様より、浅野秀剛は本作品の作者について[[鳥橋斎栄里|礫川亭永理]]ではないかと指摘している{{Sfn|浅野|2005|p=64}}。
* 『艶本婦他美賀多』
: 文政2年(1805年)ごろの作品とされ、林美一は北斎の作品としているが、この見解に浅野秀剛は疑義を呈しており、刊行は享和年間(1801年から1804年)ごろとし、文化中期の北斎の作風を先取りするような画から、『好色堂中』と同じく永理の手によるものではないかと指摘している{{Sfn|浅野|2005|p=17}}。
[[File:Ehon tsuhi no hinagata 絵本つひの雛形 or Ehon tsui no hinagata (Picture-book Models of Couples) (BM 1972,0724,0.18).jpg|thumb|250px|『つひの雛形』]]
* 『つひの雛形』
: 文化9年(1812年)刊行<ref>{{cite web|title=つひの雛形|url=https://lapis.nichibun.ac.jp/enp/Cover/List/308|access-date=2023-09-17|website=艶本資料データベース|publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。北斎の作品かどうかについては見解が分かれている{{Sfn|浅野|2005|pp=21-26}}。浅野秀剛は明確に北斎様式を示しており、なんらかの形で北斎が関与しているだろうと指摘している{{Sfn|浅野|2005|p=26}}。
* 『東にしき』
: 文化9年(1812年)ごろの作品と見られ、北斎様式を踏襲しているが、北斎の作品かどうかについては見解が分かれている{{Sfn|浅野|2005|pp=21-26}}。
* 『誉おのこ』
: 文化9年(1812年)ごろ刊行<ref name="nichibun_homare">{{cite web|title=誉おのこ|url=https://lapis.nichibun.ac.jp/enp/Cover/List/69|access-date=2023-09-17|website=艶本資料データベース|publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。『欠題組物』と呼称される場合もある{{Sfn|浅野|2005|p=88}}。各絵には狂歌が組み込まれており、第1図には[[小野小町]]の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」を[[本歌取]]した「花のいろはうつりにけりなよそ言にうきことかさむ我が恋めかも」という歌が詠まれている<ref name="nichibun_homare"/>。北斎様式に限らず[[菊川英山]]などの諸様式が混在した作品となっており、作者の同定は困難を極める{{Sfn|浅野|2005|p=91}}。
* 『万福和合神』
: 文政4年(1821年)刊行<ref>{{cite web|title=万福和合神|url=https://lapis.nichibun.ac.jp/enp/Cover/List/64|access-date=2023-09-17|website=艶本資料データベース|publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。三冊の全図と三つの付文が同一設定のもとで構成され、「おつび」「おさね」という人物を主人公とした長編物語の様相を呈しているのが特徴と言える{{Sfn|浅野|2005|pp=14-15}}。
* 『津満嘉佐根』
: 刊行年不明だが文政前期(1818年から1821年ごろ)ごろと見られている<ref>{{cite web|title=津満嘉佐根|url=https://lapis.nichibun.ac.jp/enp/Cover/List/277|access-date=2023-09-17|website=艶本資料データベース|publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。北斎の作品かどうかについては見解が分かれている{{Sfn|浅野|2005|pp=21-26}}。
* 『多満佳津良』
: 刊行年不明だが文政前期(1818年から1821年ごろ)ごろと見られている{{Sfn|浅野|2005|p=21}}。北斎様式を踏襲しているが、北斎の作品かどうかについては見解が分かれている{{Sfn|浅野|2005|pp=21-26}}。
* 『偶定連夜好』
: 文政5年(1822年)刊行の中判錦絵{{Sfn|浅野|2005|p=21}}。『縁結出雲杉』と呼称される場合もある{{Sfn|浅野|2005|p=21}}。北斎様式を踏襲しているが、北斎の作品かどうかについては見解が分かれている{{Sfn|浅野|2005|pp=21-26}}。
* 『陰陽淫蕩の巻』
: 刊行年不明<ref>{{cite web|title=陰陽淫蕩の巻|url=https://lapis.nichibun.ac.jp/enp/Cover/List/92|access-date=2023-09-17|website=艶本資料データベース|publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。
{{-}}


== 関連事項 ==
== 関連事項 ==
北斎またはその作品に関連する施設・店舗、作品など。
北斎またはその作品に関連する施設・店舗、作品など。
=== 北斎作品専門の美術館 ===
* [[葛飾北斎美術館]]
: 浮世絵研究家の[[永田生慈]]が1990年に[[島根県]][[鹿足郡]][[津和野町]]に開館した北斎作品を専門とする美術館<ref name="shimane_nagatacol">{{cite web|title=永田コレクション|url=https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/nagata/index.html|access-date=2023-09-15|website=島根県立美術館}}</ref>。『北斎漫画』の初刷本が津和野で発見されたことにちなんでこの地で開館された{{Sfn|榎本|2005|p=79}}。2015年に閉館し、永田が所有する北斎作品2,398点は2017年に島根県へと寄贈された<ref name="shimane_nagatacol"/>。これらの寄贈品は「永田コレクション」と呼ばれ、[[島根県立美術館]]および[[島根県芸術文化センター グラントワ|島根県立石見美術館]]でのみ公開されている<ref name="shimane_nagatacol"/>。


=== 北斎館 ===
* [[北斎館]]
: 当時の町長[[市村郁夫]]が1976年に[[長野県]][[上高井郡]][[小布施町]]に開館した北斎作品を専門とする美術館{{Sfn|榎本|2005|p=79}}{{Sfn|神山|2018|p=265}}。1966年のソビエト連邦での北斎展が成功裏に終わった後、日本国内で北斎ブームが巻き起こった{{Sfn|神山|2018|p=256}}。これを好機と捕えた市村は1972年にNHKで放送された『[[スポットライト (歴史番組)|オーマイ北斎]]』に出演した際に「町おこしのために小布施に北斎館を作りたい」と、その意図を答えている{{Sfn|神山|2018|p=257}}。なお、小布施町は北斎の門人[[高井鴻山]]の地元であり、晩年の北斎も長期逗留したとされる所縁の地である{{Sfn|榎本|2005|p=79}}。絶筆とされる『富士越龍図』など、肉筆画を数多く収蔵している{{Sfn|榎本|2005|p=79}}。
{{Main|北斎館}}
晩年の北斎が4年間を過ごした信州小布施(現・長野県[[上高井郡]][[小布施町]]。「[[#生涯]]」の「天保15年」、および、「[[#信州小布施の肉筆画]]」参照)にある博物館。[[1976年]](昭和51年)完成、[[2015年]](平成27年)にリニューアルオープン。北斎の作品が多数展示されている。


=== 北斎通り ===
* [[すみだ北斎美術館]]
: 北斎の出生地であると同時に生涯の多くを過ごした地であるとして2016年に[[東京都]][[墨田区]]に開館した北斎作品を専門とする美術館<ref>{{cite web|title=すみだ北斎美術館が開館 所蔵1800点、初年度20万人来場目指す|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG22H3T_S6A121C1CC0000/|date=2016-11-22|access-date=2023-09-15|website=日本経済新聞}}</ref>。[[ホノルル美術館]]の研究員などを務め、世界的な北斎作品コレクターであったピーター・モースが蒐集した作品(ピーター・モースコレクション)や、 浮世絵研究家の[[楢崎宗重]]が蒐集した作品(楢崎宗重コレクション)などを展示している<ref>{{cite web|title=コレクション|url=https://hokusai-museum.jp/modules/Collection/|access-date=2023-09-15|website=すみだ北斎美術館}}</ref>。
[[ファイル:2018 Sumida Hokusai Museum 4.jpg|thumb|[[すみだ北斎美術館]]]]
東京都墨田区[[亀沢 (墨田区)|亀沢]]1丁目から[[錦糸公園]]の先の錦糸橋([[横十間川]])につきあたるまでの、かつての江戸・本所南割下水の排水路<!--地名と水路が同名なので限定の意。-->を[[溝渠#暗渠|暗渠]](あんきょ)化して道路にした通り。[[東京都江戸東京博物館]]の建設を機に整備され、この名に改められた。


=== 北斎を主題とした作品 ===
正確な根拠は不明ながら、生地とされる割下水の南部に位置することを基として、かつては亀沢側の起点付近に「葛飾北斎生誕の地」の碑が建っていたが、現在は撤去されている。また、亀沢から長崎橋跡([[大横川親水公園]])までの区間の照明灯には北斎の浮世絵が貼られ、携帯バーコード・サービスによって解説文の閲覧が可能となっていた([[NTTドコモ]]の提供、現在は終了)。[[2016年]][[11月22日]]には、通り沿いに[[すみだ北斎美術館]]が開館した。
==== 戯曲 ====
* [http://www.hokusai-dori.com/ 亀沢・北斎ネット - 北斎通りまちづくりの会(公式ウェブサイト)]
* 『[[北齋漫畫 (戯曲)|北齋漫畫]]』 - 1973年に発表された[[劇作家]]・[[矢代静一]]の作品<ref>“[https://natalie.mu/stage/news/323316 横山裕が葛飾北斎役に挑む主演舞台「北齋漫畫」上演決定、演出は宮田慶子]”. ''[[ナタリー (ニュースサイト)|ステージナタリー]]''. ナターシャ. (2019年3月11日) 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>。


=== その他 ===
==== 映画 ====
* 『[[北斎漫画 (映画)|北斎漫画]]』 - 戯曲『北齋漫畫』を原作とする1981年に公開された日本映画<ref>“[https://hominis.media/category/actor/post11210/ 緒形拳、田中裕子、西田敏行がユーモラスな演技を見せる映画「北斎漫画」]”. ''ホミニス''. [[スカパーJSAT]]. (2023年9月22日) 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref><ref>“[https://www.allcinema.net/cinema/87399 映画 北斎漫画 (1981)について]”. ''[[allcinema]]''. スティングレイ. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>。
<!--由緒は無いが、何らかの形で直接的に北斎を扱っている事項は、ここに。中でも上位ほど直接的。Cyclops-->
* 『[[百日紅 (漫画)|百日紅 〜Miss HOKUSAI〜]]』 - 漫画『百日紅』を原作とする2015年に公開されたアニメーション映画<ref>細木信宏 (2016年7月10日). “[https://www.cinematoday.jp/news/N0084411 原恵一監督『百日紅~Miss HOKUSAI~』北米配給決定!]”. ''[[シネマトゥデイ]]''. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref><ref>“[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C413473 百日紅 -Miss HOKUSAI-]”. ''[[メディア芸術データベース]]''. [[文化庁]]. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>。
* 北斎を題材とした小説・映画などの作品
* 『[[HOKUSAI]]』 - 2021年に公開された日本映画<ref>“[https://www.musicvoice.jp/news/186431/ 映画『HOKUSAI』台湾での公開決定、現地配給会社「とても期待」 約30カ国以上で]”. ''[[MusicVoice]]''. アイ・シー・アイ. (2021年4月15日) 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref><ref>“[https://www.allcinema.net/cinema/369382 映画 HOKUSAI (2020)について]”. ''[[allcinema]]''. スティングレイ. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>。
**小説『溟い海』 - [[藤沢周平]]の出世作となった短編で、1971年発表。第38回[[オール讀物新人賞]]受賞作、[[直木賞]]候補。晩年の北斎を主人公とし、『[[東海道五十三次]]』をヒットさせた気鋭・[[歌川広重]]への陰鬱な葛藤を主題とする。後年の藤沢作品とは異なる、暗澹とした展開と雰囲気が特徴。
**『小説 葛飾北斎』 - [[小島政二郎]]の代表作となった長編時代[[ロマン主義|浪漫]]小説
** 戯曲『[[北齋漫畫 (戯曲)|北齋漫畫]]』- [[劇作家]]・[[矢代静一]]の作品。[[昭和]]48年([[1973年]])発表、昭和56年([[1981年]])に映画化。
** 映画『[[北斎漫画 (映画)|北斎漫画]]』- 富士映画(のち、[[松竹富士]])による昭和56年(1981年)製作の日本映画。矢代静一原作の戯曲『北斎漫画』を映画化した作品。春画の大家としても知られる北斎とその娘・お栄(応為)の生涯と、刎頸の友{{efn|ふんけいのとも。[[刎頸の交わり]]で結ばれた友人。}}・曲亭馬琴との交流を描いている。監督・脚本:[[新藤兼人]]。演者:[[緒形拳]](鉄蔵〈葛飾北斎〉役)、[[西田敏行]](左七〈曲亭馬琴〉役)、[[田中裕子]](お栄〈北斎の娘・応為〉役)、[[樋口可南子]](お直、春画「蛸と海女」の海女のモデル役)。
**小説『応為坦坦録』[http://www.kawade.co.jp/np/isbn/4309003583] - [[山本昌代]]の作品。棟割り長屋で三食店屋物、絵以外は一切お構いなしで奔放自在に生きる北斎父娘。父の代筆もする娘応為の飄々とした生きっぷりを、江戸戯作者風才筆で活写する。現在は絶版 第20回文藝賞受賞 日本図書館協会選定図書 ISBN 978-4-309-00358-0
**小説『絵師の魂 渓斎英泉』- [[増田晶文]]の作品で2019年1月発表。渓斎英泉が私淑し、生涯の目標とした人物として北斎を描く。作中の北斎は再三にわたって英泉の画業を導き、慈父のような眼差しで彼を見守る。
* 北斎やその作品にちなむ事物等
<!--由緒も無く、関わると言っても名前程度である事項は、ここに。北斎という名の登場人物が「ただいるだけ」の作品も記すなら、ここ。Cyclops-->
** Googleのロゴ[https://www.google.com/doodles/birthday-of-katsushika-hokusai] - [[2010年]][[10月31日]]に限り、葛飾北斎の生誕250周年を記念して『神奈川沖浪裏』をモチーフとしたロゴに変更された。
** [[東京ディズニーランド]]の[[東京ディズニーランドのレストラン|レストラン]]『[[れすとらん北斎]]』 - 店名が葛飾北斎に由来しており、店内の装飾やメニュー表のデザインなどに北斎の作品が多用されている。
** サーフ系ブランド「[[クイックシルバー (ブランド)|クイックシルバー]]」のロゴ - 「[[#冨嶽三十六景]]」を参照のこと。
** 漫画『[[無限の住人]]』- [[沙村広明]]の作品。[[安永]]のころが舞台。作中に北斎をモデルにしたと思われる浮世絵師「宗理」が登場する。このほかにも北斎の画号と同じ名を持つ登場人物が多い。
** 小惑星「[[北斎 (小惑星)|北斎]]」 - 北斎にちなんで命名された[[太陽系小天体]]「12614 Hokusai」。


==== 小説 ====
== 北斎が登場するフィクション ==
* 『葛飾北斎』(1964年、[[小島政二郎]])<ref>{{NCID|BN15696389}}。</ref>
; 小説
* 『北斎秘画』(1969年、[[今東光]])<ref>{{NCID|BN06649355}}。{{国立国会図書館書誌ID|000001251817}}。</ref>
*[[今東光]] 『北斎秘画』 1969年(のち徳間文庫)
* 『溟い海』(1971年、[[藤沢周平]])<ref>{{NDLJP|4437274}}。{{Doi|10.11501/4437274}}。</ref>
*[[小島政二郎]] 『小説葛飾北斎』 光風社、1964年(のち旺文社文庫)
* 『応為坦坦録』(1984年、[[山本昌代]])<ref>{{NCID|BN07578401}}。</ref>
*[[仁田義男]] 『画狂一代 小説葛飾北斎』 集英社、1989年
* 『画狂一代 小説葛飾北斎』(1989年、[[仁田義男]])<ref>{{NCID|BA32461277}}。{{ISBN2|4087751279}}。</ref>
*[[高田郁]] 『[[みをつくし料理帖]]』 角川春樹事務所、2013年
* 『北斎と応為』(2015年、{{仮リンク|キャサリン・ゴヴィエ|en|Katherine Govier}})<ref name="北斎と応為">{{NCID|BB15811176}}。</ref>、(原題: "The Ghost Brush" 2010年<ref>{{NCID|BB16470423}}。{{ISBN2|9781554686438}}。</ref>{{R|北斎と応為}}、米国版: "The Printmaker's Daughter"<ref>{{ISBN2|9780062000361}}。</ref>{{R|北斎と応為}})
*[[山本昌代]]『応為坦坦録』河出書房新社
* 『北斎夢枕草紙 娘お栄との最晩年』(2017年、[[三日木人]])<ref>{{国立国会図書館書誌ID|028532889}}。</ref>
*キャサリン・ゴヴィエ『北斎と応為』2014年 (原題: "The Ghost Brush" 2010年, 米国版: "The Printmaker's Daughter" )
* 『絵師の魂 渓斎英泉』(2019年、[[増田晶文]])<ref>{{NCID|BB28832882}}。{{ISBN2|9784794223739}}。</ref>
*[[三日木人]]『北斎夢枕草紙 娘お栄との最晩年』 本の泉社、2017年
; 漫画
*[[上村一夫]] 『狂人関係』 [[青林堂]]、1977年{{efn|前出は初単行本化。初出は[[週刊漫画アクション]]([[双葉社]])連載 1973 - 1974年。}}
*[[杉浦日向子]] 『[[百日紅 (漫画)|百日紅]]』 [[実業之日本社]]、1983年 - 1987年(2015年にアニメ映画化→『[[百日紅 (漫画)#アニメ映画|百日紅 〜Miss HOKUSAI〜]]』)
*[[石ノ森章太郎]] 『北斎』 世界文化社、1987年
; 戯曲
*矢代静一 『北斎漫画』 河出書房新社、1973年(1981年に[[新藤兼人]]により映画化→『[[北斎漫画 (映画)]]』)
*長田育恵『燦々』2016年(同年「てがみ座」にて舞台化)
; テレビドラマ
*『[[必殺からくり人・富嶽百景殺し旅]]』 1978年
*『[[必殺スペシャル・新春 決定版!大奥、春日野局の秘密 主水、露天風呂で初仕事]]』1989年
*『[[眩〜北斎の娘〜|眩(くらら)~北斎の娘~]]』2017年
*『[[歴史迷宮からの脱出〜リアル脱出ゲーム×テレビ東京〜]]』 2020年
; 映画


==== 漫画 ====
*『[[北斎漫画 (映画)|北斎漫画]]』 1981年
* 『狂人関係』(1977 - 1978年、[[上村一夫]])<ref>“[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M306418 狂人関係 1]”. ''[[メディア芸術データベース]]''. [[文化庁]]. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref><ref>“[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M306414 狂人関係 2]”. ''メディア芸術データベース''. 文化庁. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>

* 『[[百日紅 (漫画)|百日紅]]』(1983 - 1987年、[[杉浦日向子]])<ref>“[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M206248 百日紅1]”. ''メディア芸術データベース''. 文化庁. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref><ref>“[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M206237 百日紅3]”. ''メディア芸術データベース''. 文化庁. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>
*『[[必殺! 主水死す]]』 1996年
* 『北斎』(1987年、[[石ノ森章太郎]])<ref>“[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M234750 北斎第一巻]”. ''[[メディア芸術データベース]]''. [[文化庁]]. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref><ref>“[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M234745 北斎3]”. ''メディア芸術データベース''. 文化庁. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>
*『[[HOKUSAI]]』2021年
; アニメ
*『[[タイムボカン24|タイムボカン 逆襲の三悪人]]』(2018年、タツノコプロ)
; ゲーム
*『[[スプラトゥーン]]』(2015年、任天堂 ※ブキの名前として)
*『[[ワールドチェイン]]』(2016年、セガゲームス)
*『[[Fate/Grand Order]]』(2018年、TYPE-MOON ※三女の応為と二人一組で登場)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
1,410行目: 1,567行目:
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
{{Reflist|3}}
=== 参考文献 ===
* {{Citation|和書|last=瀬木|first=慎一 |year=1973 |title=画狂人北斎 |publisher=講談社 |asin=B000J92J0G|ref={{SfnRef|瀬木|1973}}}}
* {{Citation|和書|last1=浅野|first1=秀剛|last2=吉田|first2=伸之|last3=田辺|first3=昌子|last4=大久保|first4=純一|last5=田沢|first5=祐賀|year=1998 |others=浅野秀剛・吉田伸之監修|title=北斎 |publisher=朝日新聞社 |isbn=4-02-257203-5|ref={{SfnRef|浅野他|1998}}}}
* {{Citation|和書|last=飯島|first=虚心|editor-last=鈴木|editor-first=重三|year=1999 |title=葛飾北斎伝 |publisher=岩波文庫 |isbn=4-00-335621-7|ref={{SfnRef|飯島(鈴木校注版)|1999}}}}
* {{Citation|和書|last=佐藤|first=道信 |year=1999 |title=明治国家と近代美術 美の政治学 |publisher=吉川弘文館 |isbn=978-4-642-03685-6|ref={{SfnRef|佐藤|1999}}}}
* {{Cite book|和書 |author=葛飾北斎 |author2=永田生慈 |author2-link=永田生慈 |title=北斎肉筆画大成 |publisher=小学館 |year=2000 |NCID=BA51509009 |ISBN=4096995819 |id={{全国書誌番号|20243583}} |pages=245-247 |ref={{harvid|北斎肉筆画大成}}}}
* {{Citation|和書|last=永田|first=生慈|year=2000 |title=葛飾北斎 |publisher=吉川弘文館 |isbn=4-642-05491-X|ref={{SfnRef|永田|2000}}}}
* {{Citation|和書|last=諏訪|first=春雄|year=2001 |title=北斎の謎を解く |publisher=吉川弘文館 |isbn=4-642-05524-X|ref={{SfnRef|諏訪|2001}}}}
* {{Citation|和書|last=榎本|first=早苗|year=2005 |others=永田生慈監修 |title=アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい葛飾北斎 生涯と作品 |publisher=東京美術 |isbn=4-8087-0785-3 |ref={{SfnRef|榎本|2005}}}}
* {{Citation|和書|last=浅野|first=秀剛|year=2005 |title=葛飾北斎・春画の世界 |publisher=洋泉社 |isbn=4-89691-903-3|ref={{SfnRef|浅野|2005}}}}
* {{Citation|和書|last=林|first=美一|year=2011 |title=【江戸艶本集成】第九巻 葛飾北斎|others=中野三敏・小林忠監修 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-309-71269-7|ref={{SfnRef|林|2011}}}}
* {{Citation|和書|last=内田|first=千鶴子|year=2011 |title=宇宙をめざした北斎 |publisher=日本経済新聞出版社 |isbn=978-4-532-26111-5|ref={{SfnRef|内田|2011}}}}
* {{Citation|和書|last=久保田|first=一洋|year=2015 |title=北斎娘応為栄女集 |publisher=藝華書院 |isbn=978-4-904706-11-4|ref={{SfnRef|久保田|2015}}}}
* {{Citation|和書|last=濱田|first=信義|year=2016 |title=葛飾北斎 世界を魅了した鬼才絵師 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-309-62324-5|ref={{SfnRef|濱田|2016}}}}
* {{Citation|和書|last=永田|first=生慈|year=2017 |title=葛飾北斎の本懐 |publisher=KADOKAWA |isbn=978-4-04-103845-1|ref={{SfnRef|永田|2017}}}}
* {{Citation|和書|last=神山|first=典士|year=2018 |title=知られざる北斎 |publisher=幻冬舎 |isbn=978-4-344-03330-6|ref={{SfnRef|神山|2018}}}}
* {{Citation|和書|last=小林|first=忠|year=2019 |title=浮世絵 |publisher=山川出版社 |isbn=978-4-634-21302-9|ref={{SfnRef|小林|2019}}}}
* {{Citation|和書|last=千野|first=境子|year=2021 |title=江戸のジャーナリスト 葛飾北斎 |publisher=国土社 |isbn=978-4-337-18764-1|ref={{SfnRef|千野|2021}}}}
* {{Citation|和書|last=ティモシー|first=クラーク|year=2022 |others=樋口一貴監訳、長井裕子・村瀬可奈訳 |title=大英博物館所蔵未発表版下絵 葛飾北斎 万物絵本大全 |publisher=朝日新聞社 |isbn=978-4-02-258713-8 |ref={{SfnRef|ティモシー|2022}}}}
* 論文
** {{Citation|和書|last=林|first=美一|year=1968 |chapter=北斎の父は中島伊勢 |chapterurl=https://www.jstage.jst.go.jp/article/ukiyoeart/17/0/17_208/_article/-char/ja/ |title=浮世絵芸術 |volume=17 |publisher=国際浮世絵学会 |pages=14-22 |ref={{SfnRef|林|1968}}}}
** {{Citation|和書|last=田中|first=英道|year=1971 |chapter=北斎、広重とヴァン・ゴッホ |chapterurl=https://nmwa.repo.nii.ac.jp/record/641/files/No.05_14Tanaka.pdf |title=国立西洋美術館年報 |volume=5 |publisher=国立西洋美術館 |pages=14-24 |ref={{SfnRef|田中|1971}}}}
** {{Citation|和書|last=由良|first=哲次|year=1974 |chapter=北斎の小布施遺作の文献的、実証的研究 |chapterurl=https://www.jstage.jst.go.jp/article/ukiyoeart/39/0/39_424/_article/-char/ja/ |title=浮世絵芸術 |volume=39 |publisher=国際浮世絵学会 |pages=5-17 |ref={{SfnRef|由良|1974}}}}
** {{Citation|和書|last=江戸|first=建雄|year=1976 |chapter=葛飾應為の生没について |chapterurl=https://www.jstage.jst.go.jp/article/ukiyoeart/47/0/47_470/_article/-char/ja/ |title=浮世絵芸術 |volume=47 |publisher=国際浮世絵学会 |pages=33-34 |ref={{SfnRef|江戸|1976}}}}
** {{Citation|和書|last=稲賀|first=繁美|year=2000 |chapter=北斎とジヤボニズム |chapterurl=https://inagashigemi.jpn.org/uploads/pdf/00art-forum21no2.pdf |title=美術フォーラム21 |volume=2 |publisher=醍醐書房編集部 |pages=122-129 |ref={{SfnRef|稲賀|2000}}}}
** {{Citation|和書|last=田中|first=久和|year=2004 |chapter=葛飾北斎筆『富嶽三十六景』に関する一試論 |chapterurl=https://opac-ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/webopac/TD00002454 |title=美術科研究 |volume=21 |publisher=大阪教育大学 |pages=1-21 |ref={{SfnRef|田中|2004}}}}
** {{Citation|和書|last=舟橋|first=萌絵|year=2016 |chapter=北斎と「菊花」 : 「野人対瓶花」に込めた思い |chapterurl=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009409375757312 |title=文明研究 |volume=35 |publisher=東海大学文明学会 |pages=117-148 |ref={{SfnRef|舟橋|2016}}}}
** {{Citation|和書|last=加藤|first=悦子|year=2018 |chapter=ドビュッシー交響詩《海》楽譜(初版)表紙画と北斎の〈波〉 |chapterurl=https://tamagawa.repo.nii.ac.jp/records/301 |title=玉川大学芸術学部研究紀要 |volume=9 |publisher=玉川大学 |pages=63-71 |ref={{SfnRef|加藤|2018}}}}
** {{Citation|和書|last=磯崎|first=康彦|year=2021 |chapter=北斎の風景・風俗版画 |chapterurl=http://hdl.handle.net/10270/5478 |title=福島大学人間発達文化学類論集 |volume=34 |publisher=福島大学人間発達文化学類 |pages=124-109 |ref={{SfnRef|磯崎|2021}}}}
** {{Citation|和書|last=朴|first=美姫|year=2022 |chapter=葛飾北斎の『絵本隅田川両岸一覧』について 描かれた隅田川の名所を読み解く |chapterurl=https://edo-tokyo-museum.repo.nii.ac.jp/records/246 |title=東京都江戸東京博物館紀要 |volume=12 |publisher=東京都江戸東京博物館 |pages=1-21 |ref={{SfnRef|朴|2022}}}}


== 関連書籍 ==
== 関連文献 ==
*[[楢崎宗重]] 『北斎 原色写真文庫』講談社、1967年
*[[林美一]] 『艶本研究 北斎』 有光書房、1968年
*尾崎周道 『北斎 ある画狂人の生涯』日本経済新聞社「日経新書」 1968年
*[[福本和夫]] 『北斎と近代絵画』 フジ出版社、1968年
*安田剛蔵 『画狂北斎』 有光書房、1971年
*[[小林太市郎]] 『北斎とドガ』 全国書房、1971年
*[[瀬木慎一]] 『画狂人北斎』 [[講談社現代新書]]、1973年
*[[矢代静一]] 『画狂人・北斎考』 PHP研究所、1981年
*桂木寛子 『葛飾北斎 世界の伝記』 ぎょうせい、1981年、新版1995年
*[[福田和彦]] 『北斎-華麗なるエロス』 実業之日本社、1984年
*永田生慈 『葛飾北斎年譜』 三彩新社、1985年
*林美一ほか 『北斎漫画と春画』新潮社〈とんぼの本〉、1989年
*[[中村英樹]] 『北斎万華鏡 ポリフォニー的主体へ』 美術出版社、1990年
*永田生慈 『北斎 世界を魅了した絵本』 三彩社、1991年
*荒井勉 『新訳・北斎伝 世界に挑んだ絵師』 信濃毎日新聞社、1998年
*[[諏訪春雄]] 『北斎の謎を解く 生活・芸術・信仰』 吉川弘文館〈[[歴史文化ライブラリー]]〉、2001年
*[[京極夏彦]]、[[多田克己]]、久保田一洋 『北斎妖怪百景』 [[国書刊行会]]、2004年
*[[内田千鶴子]] 『宇宙をめざした北斎』 日本経済新聞出版社〈日経プレミアシリーズ〉、2011年
*大久保純一 『北斎 ジャパノロジー・コレクション』 [[角川ソフィア文庫]]、2016年
*内藤正人 『北斎への招待』 朝日新聞出版、2017年
*日野原健司解説 『北斎 富嶽三十六景』 岩波文庫、2019年
*[[エドモン・ド・ゴンクール]]『北斎 十八世紀の日本美術』 隠岐由紀子訳 [[平凡社東洋文庫]]、2019年

== 参考文献 ==
* 史料
* 史料
** [[飯島虚心]] 『葛飾北斎伝』 蓬枢閣、1891 - 国会図書館デジタルコレクション [{{NDLDC|992198}} 上巻]&[{{NDLDC|992199}} 下巻]
** [[飯島虚心|飯島半十郎]] 『[{{NDLDC|992198}} 葛飾北斎伝 上巻][[蓬枢閣]]1893{{Doi|10.11501/992198}}
** 飯島半十郎 『[{{NDLDC|992199}} 葛飾北斎伝 下巻]』 蓬枢閣、1893年、{{Doi|10.11501/992199}}。
*** {{Citation|和書|last=飯島|first=虚心|editor-last=鈴木|editor-first=重三|year=1999 |title=葛飾北斎伝 |publisher=岩波文庫 |isbn=4-00-335621-7|ref={{SfnRef|飯島(鈴木校注版)|1999}}}}
*** 飯島虚心 著、[[鈴木重三]] 校注 『葛飾北斎伝』 [[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1999年、{{NCID|BA42661454}}。
* 単書
* 単書
** [[河野元昭]] 『北斎と葛飾派「日本の美術367」[[至文堂]]、1996
** [[楢崎宗重]] 『北斎』 [[講談社]]〈原色写真文庫〉1967、{{NCID|BN05370294}}。
** 永田生慈葛飾北斎』 [[吉川弘文館]][[歴史文化ライブラリー]]〉、2000
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* 画集
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** 永田生慈監修 『北斎美術館』全5巻 [[集英社]]、1990年
** 永田生慈 監修 『北斎美術館』全5巻 [[集英社]]、1990年(第1巻『花鳥画』{{ISBN2|4085970011}}。第2巻『風景画』{{ISBN2|408597002X}}。第3巻『美人画』{{ISBN2|4085970038}}。第4巻『各所絵』{{ISBN2|4085970046}}。第5巻『物語絵』{{ISBN2|4085970054}}。)
** [[リチャード・レイン]] 『伝記画集 北斎』 竹内泰之訳、河出書房新社、1995年
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* 展覧会図録
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* 概説書・事典類
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** [[藤懸静也]] 『[{{NDLDC|1068936/151}} 増訂浮世絵]』 [[雄山閣]]、1946年、230-236頁([[近代デジタルライブラリー]]、151-156コマ目、{{Doi|10.11501/1068936}}。
** [[日本浮世絵協会]]編 原色浮世絵大百科事典第2巻 [[大修館書店]]、1982年 ※90
** [[日本浮世絵協会]] 『浮世絵 [[大修館書店]]〈原色浮世絵大百科事典 第2巻〉、1982年、90、{{NCID|BN03621633}}。
** [[吉田漱]] 『浮世絵の見方事典』 北辰堂、1987年
** [[吉田漱]] 『浮世絵の見方事典』 [[北辰堂]]、1987年、{{ISBN2|4892871524}}。
** [[稲垣進一]]編 『図説浮世絵入門』〈『ふくろうの本』〉 [[河出書房新社]]、1990年
** 稲垣進一 編 『図説浮世絵入門』 [[河出書房新社]]〈ふくろうの本〉、1990年、{{ISBN2|9784309724768}}(新装版、2011年、{{ISBN2|9784309761602}}。
** [[小林忠]]監修 『浮世絵師列伝』 平凡社<別冊太陽>、2006年1月 ISBN 978-4-5829-4493-8
** [[小林忠]] 監修 『浮世絵師列伝』 平凡社別冊太陽、2006年、{{ISBN2|9784582944938}}。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commons|Category:Ukiyo-e prints by Katsushika Hokusai}}{{Wikiquote|葛飾北斎}}
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* [https://artsandculture.google.com/entity/m0bwf4?categoryId=artist 葛飾北斎 - Google Arts & Culture]
* 公共施設のウェブサイト
* {{Internet Archive author|name=Katsushika Hokusai}}
** [http://www.hum2.pref.yamaguchi.lg.jp/sk2/book/ 絵本の世界(内、{{JIS2004フォント|葛}}飾北斎)] - 山口県立萩美術館・浦上記念館公式ウェブサイト内資料。自然色で閲覧可能。ページごとの拡大閲覧も可能である。
** [http://hokusai-museum.jp/ すみだ北斎美術館] 墨田区開設
** [http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=476 北斎展 - 東京国立博物館] - 参考として、展覧会の作品リスト。
* 個人その他のウェブサイト
** [http://15.pro.tok2.com/~fwkf8336/bijyutu2/b2katusikahokusai.htm {{JIS2004フォント|葛}}飾北斎 - 記念切手] - 世界の人々が北斎画に何を見ているかは[[記念切手]]で確かめることもできる。
*[https://artsandculture.google.com/entity/m0bwf4?categoryId=artist 葛飾北斎 - Google Arts & Culture]
*{{Internet Archive author|name=Katsushika Hokusai}}
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2023年9月30日 (土) 14:17時点における版

葛飾 北斎
自画像(天保10年(1839年)頃)
誕生日 (1760-10-31) 1760年10月31日
出生地 日本の旗 日本 下総国葛飾郡本所割下水
死没年 (1849-05-10) 1849年5月10日(88歳没)
死没地 日本の旗 日本 江戸
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 浮世絵
代表作富嶽三十六景』『北斎漫画
影響を受けた
芸術家
勝川春章鍬形蕙斎
影響を与えた
芸術家
歌川広重歌川国芳印象派以降の西洋美術
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飾 北斎(かつしか ほくさい、飾 北齋、宝暦10年9月23日1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師化政文化を代表する一人。

概説

代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。安永8年(1779年)から嘉永2年(1849年)までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した[1]。その画業分野も版画(摺物)のほか、肉筆浮世絵黄表紙読本狂歌本絵手本春画など多岐に渡った。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、西洋由来の絵画技術にも大いに興味を示し、銅版画ガラス絵油絵などの描法を研究し試みた[2]。北斎の画業は欧州へと波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼした[3]

生涯

幼年期

北斎の出自を伝える確たる資料は見つかっておらず、自身が85歳の時に制作した肉筆画『大黒天図』の落款にある「宝暦庚辰年九月甲子ノ出生」から、生年月日は宝暦10年9月23日(1760年10月31日)とされている[4]。家系については川村氏または幕府御用であった鏡師の中島伊勢の子とされる場合や、川村の子として生まれ、4歳のころに中島伊勢の養子となったとする説[注釈 1]が一般的だが、確たる資料は発見されておらず、確定していない[4][6][注釈 2]。川村家については寛政10年(1798年)ごろに作成されたとされる「本所中絵図」内の南割下水近くにその名の家が2軒確認できるが、これらの家と北斎との関係性については明らかとなっていない[7]

また、母親については小林平八郎を曾祖父に持つ家系だったという説がある[7]。出生地は式亭三馬が「本所の産」としていることから、下総国本所割下水の傍[注釈 3](現在の東京都墨田区)であるとする説が有力である[4]。幼名に関しても複数の通説があり、時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある[4]。飯島虚心の『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしている[5][9]

北斎は『富嶽百景』や『画本彩色通』の跋文で、6歳頃から好んで絵を描いていたと回顧しており、少年期は貸本屋の小僧として働いていたとされるが[10][5]、『葛飾北斎伝』を校注した鈴木重三は、貸本屋で働いていたという説について出所が不明であると補記している[9]。また、14、15歳から19歳ごろまでは木版画の版下彫りを生業としていたと、石塚豊芥子が収集した雲中舎山蝶の『楽女格子』(1775年刊行)の識語に記されている[10]。その後、安永7年(1778年)には勝川派の頭領である浮世絵師勝川春章に師事し、絵師として活動を始めた[11]。しかし、当時の勝川派は浮世絵界における一大勢力であり、一介の版下彫りであった北斎がどのように春章と知り合い、師事するに至ったのかについては明確になっていない[12]

処女作のひとつとされる春朗時代の錦絵『四代目岩井半四郎 かしく』(1779年)

春朗時代

北斎が画界に登場するのは、春章に師事した翌年の1779年からで、寛政6年(1794年)までのおよそ15年間を勝川派の絵師として活動した[13]。この間に家庭を持ち[注釈 4]、子を設けたとされ、後に浮世絵師となる娘のお栄(葛飾応為)もこの時期に誕生しているとする説もある[15][注釈 5]。従来の研究者の間では北斎の20歳から35歳までのこの期間は「春朗時代」と呼ばれ、春章の様式を踏襲する没個性的で地味な期間であったとみなされていた[13]。こうした傾向について永田は2017年に出版した自著において、「近年の研究によりこの年代の絵師としては多作かつ多彩な内容であったと評価が改められつつある」と指摘している[16]

一般的に北斎の処女作として知られているのは吉原細見の『金濃町』(鱗形屋版)に寄せた挿図や、細判役者絵『かしく岩井半四郎』を始めとした役者絵3点であり、勝川春朗の名でこれらを描いた[13]。北斎について研究している永田生慈はこの画号について、春章の春の字と、別号の旭朗井の朗の字を与えられるという待遇は、それなりに将来が嘱望されていたのではないかと分析している[13]。ただし、寛政5年(1793年)には叢春朗[注釈 6]に画姓が変化しており、この時点で勝川派を離脱していた可能性も指摘されている[18]

春朗として手掛けた作品としては役者似顔絵、美人風俗、日本と中国の子供、動植物、金太郎、信仰画、和漢武者、伝説古典、名所絵、相撲などを題材とした浮世絵版画、黄表紙芝居絵本洒落本咄本談義本句集狂歌本の挿絵など多種多様なものを手掛けたことが確認されている[19]

春朗時代の画風について、春章に師事してから天明元年(1781年)ごろまでは習作期とも言え、人物表現などに粗やぎこちなさが目立つ[20]。その後の天明4年(1784年)ごろまでは勝川派の様式だけでなく北尾重政鳥居清長らの影響が見られるようになり、他派のスタイルをも受容しようとする研鑽の様子が窺える[21]。次の2年間は黄表紙の挿絵を中心に活動しており、作品によって完成度に大きな違いが見られた[21]。また、一時的に画号を群馬亭へと改めていることから、勝川派との問題が生じていた可能性も指摘されている[21][注釈 7]。天明7年(1787年)から寛政4年(1792年)までの期間は作品量が増加し、勝川派の様式を底に添えつつも新たな独自画風を確立した時期と言える[18]。そして春章が没した1793年以降は画号を叢春朗に改め、摺物や句集、狂歌本の挿絵など、これまでにない分野への進出が見られた[18]。確認されている中で春朗の落款が押されている最後の作品は、1794年8月の摺物『砧打図』である[22]。永田はこの年代を総じて「生涯で最も浮世絵師らしい作画活動を展開した年代」と位置付けている[22]

宗理時代

『二美人図』(1801年から1804年ごろ)「宗理風」と呼ばれる女性描写を確立させた。

寛政7年(1795年)から文化元年(1804年)頃までのおよそ9年間は「宗理時代」と呼ばれ、北斎独自の様式を確立させた年代と見なされている[23]。この間は百琳宗理北斎宗理宗理改北斎北斎時政不染居北斎画狂人北斎九々蜃北斎可候などの画号が用いられた[23]

どのように接触したかについては明らかとなっていないが[23]、北斎は寛政6年(1794年)の秋から冬にかけて琳派の領袖、俵屋宗理から宗理を襲名したと見られており、翌1795年にこの落款の使用が見られるようになった[22]。詳細は不明ではあるものの、叢春朗の活動期には既に宗理時代の萌芽と見られる作画傾向が確認できることから、この宗理襲名はある程度計画性のある出来事だったと考えられている[23]俵屋宗達によって創始された琳派は尾形光琳尾形乾山以降、沈滞の時を過ごしていたが、北斎が宗理を襲名する時代には俵屋宗理ら俵屋派一門の活動により、その勢いを取り戻しつつあった[23]。そして北斎が襲名した後は独自の様式を確立させて世評を得ることに成功し、目覚ましい活躍を見せた[23]。北斎は2年ほど宗理の名で活動した後に独立を果たし、寛政10年頃に北斎と改め、宗理の名は門人である宗二へと受け継がれたと大田南畝の『浮世絵類考』に記されている[24][25]

宗理を襲名していた期間には狂歌絵暦が流行していた背景も手伝って、高級な用紙で高度な彫りと摺りを駆使した狂歌本や狂歌摺物、絵暦が作品の中心となった[26]。一方で春朗時代に数多く制作していた浮世絵版画は見られなくなっており、永田はその理由について「宗理襲名にあたってのなんらかの取り決めがあったか、勝川派からのプレッシャー、あるいは北斎自身の遠慮があったのではないか」と推察している[27]。そして、独立を果たした寛政10年(1798年)以降に入ると、黄表紙の挿絵や浮世絵版画などの制作も確認できるようになった[27]。さらには最晩年まで取り組みが見られる肉筆画に傾注したのもこの時期からで、特に画狂人北斎を号した時期には夥しい数の肉筆画作品を描き上げた[28]

作風としては先に述べたように独特の様式を確立させるに至っており、楚々とした体躯で富士額に瓜実顔の画貌をした哀愁のある女性描写は「宗理型」あるいは「宗理風」と呼ばれ、大いに賞賛された[29]。また、様々な画題の注文を断ることなく即応し、複数の描法を混用させて斬新な作品を発表し続ける姿勢も、他の浮世絵師とは異なった北斎独自の魅力として世評を得ていたと見られている[29]

この期間における北斎の平素の生活ぶりを示す資料はほとんど確認できないが、大田南畝の私的日記に親交を伺わせる記述が見られる他、朝岡興禎の『古画備考』に寛政10年(1798年)ごろの話としてオランダのカピタンが北斎の絵を求めたことで、支払いを巡ってひと悶着があったという逸話がのこされている[30]。また、文化元年(1804年)には江戸の護国寺において百二十畳あまりの巨大な達磨半身像を揮毫したことが斎藤月岑の『武江年表』や大田南畝の『一話一言』に記されており、注目度の高い催事だったことが伺える[31]

葛飾北斎時代

曲亭馬琴椿説弓張月』(1807年)での北斎による挿絵。

北斎は文化2年(1805年)から文化6年(1809年)にかけて葛飾北斎と号した[32][33]。この頃に入ると宗理風の様式は姿を潜め、漢画の影響を強く受けた豪快で大胆な画風へと変化している[32]。こうした変化は江戸の流行が狂歌から読本へと移り変わり、その挿絵制作に注力し始めたためと考えられている[32]。北斎の携わった読本で最も古いものは1803年に刊行された流霞窓広住の『蜑捨草』だが、本格的な読本制作の開始は1805年からで、曲亭馬琴と提携して数多くの作品を作り上げた[34]。読本の挿絵は黄表紙の挿絵と異なり、複雑な内容に対して墨と薄墨で適切な場面描写を行う必要があり、絵師には高い技術や深い知識が要求された[35]。北斎の発想力は他の絵師の追随を許さず、読本の隆盛に大きく貢献したとされる[36]。また、真剣に向き合うあまり、挿絵の内容で馬琴と口論となり、後年には両者の間で確執が生じたと伝えられている[36]。また、名所絵として東海道五十三次をテーマとした作品や、『風流東部八景』『新板近江八景』などの鳥瞰での景観描写を試みた作品などが発表された[37]。その他、『日本堤田中見之図』などの洋風風景版画と呼ばれる一連の作品は透視画法を用いて明暗を強く意識した西洋絵画を髣髴とさせる作りになっている[38]。現存する数は少ないながら鳥羽絵組上絵の制作にも携わっていたことが確認されており、様々な分野に手を広げていたことが窺える[38]。宗理時代に引き続いて肉筆画の制作も行われており、美人画の他、動植物や古典を題材とした作品も増加しており、北斎へ注文する客層の広がりを示している[39]。なお、これまで借家暮らして所在を転々としていた北斎は、文化5年(1808年)8月に生涯唯一となる新宅を本所亀沢町に構えたが、翌年には両国の借家へと転居し、以降は終生借家または居候の生活を送っている[40]

戴斗時代

絵画の世界に多大な影響を与えた絵手本北斎漫画』(1814年初編刊行)

文化7年(1810年)に上梓した北斎としては初の木版絵手本『己痴羣夢多字画尽』に戴斗の号が使用され、以降文政2年(1819年)まで用いられた[41]。この頃から絵手本の制作に力を入れて取り組むようになり、その傾向は最晩年まで続いた[41]。この要因について永田は「門人の増加に伴い、その都度肉筆の手本を描き与える煩雑さから解放されるため」「直接の門人以外の私淑者にも北斎の画風を普及させる意図があったため」「各分野の職人たちの図案集として版本としたため」という3つの理由を推察している[42]。また、国内外に多大な影響を与えた絵手本『北斎漫画』の初編が刊行されたのもこの年代である[43]。読本挿絵の仕事がひと段落した北斎は文化9年(1812年)ごろに関西方面へ旅行に出かけたと言われており、秋ごろに名古屋の門人牧墨僊宅へ逗留し、三百余図の版下絵を制作した[44]。絵手本『北斎漫画』の初編はこの時描いた版下絵が元となっている[44]。文化14年(1817年)ごろには再度関西方面へ赴いたようだが、詳細な足跡については明らかになっていない[45]。しかし、同年に文化元年に行った催事同様、西掛所境内(本願寺名古屋別院)で百二十畳の大達磨揮毫を行ったという記録が残されており、刊行中だった『北斎漫画』の販促として大きく寄与したものと考えられている[46]

絵手本以外の分野では本格的な鳥瞰図の制作が挙げられる[47]。鳥観図は北尾政美が制作する作品が大きな人気を博していたが、これの後を追うように『東海道名所一覧』『木曽路名所一覧』といった作品を発表した[48]。肉筆画の分野では西洋画法を追及した試行作品が数多く残されており、線での表現を避けつつ、面で質感を表現しようとした『なまこ図』や輪郭線を排して明暗のみで表現した『生首図』などはその代表と言える[49]。一般的に戴斗時代はどちらかというと地味な活動期だったと捉えられる向きもあるが、晩年まで続く絵手本分野への進出や、新たな画風確立のための重要な時期であったと言える[50]。また、この時代に入ると娘のお栄とともに川柳に傾倒し、『誹風柳多留』への投句や句選活動が確認できる[51]

為一時代

文政3年(1820年)から天保4年(1833年)までの長きに渡って北斎は為一の画号を用いて活動した[50]。為一時代は大きく前期と後期に分かれるが、代表作とも言える『冨嶽三十六景』を始めとした風景版画を制作した時代でもあり、北斎という画人を象徴する期間と言える[52]。為一時代の前期は文政末から天保初とされ、狂歌に関する摺物や挿絵に力が注がれた[52]。特に色紙判と呼ばれる正方形の作品は同一テーマで複数の画が描かれたものがセットで発表され、これまで以上に統一された完成度を持っていた[53]。代表的な作品としては『元禄歌仙貝合』(全36図)や『馬尽』(全30図)などがある[54]。一方で為一時代後期は天保初からの4年間とされ、生涯のうちでもっとも浮世絵版画に傾注した時期とされている[55]。『冨嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』などの風景画や『江戸八景』『景勝雪月花』などの名所絵、古典画、花鳥図など、わずか数年の期間で多岐に渡る浮世絵版画が制作された[56]。これらの作品の多くは西村屋与八森屋治兵衛版元から出版されており、北斎と両版元との深い関係が窺える[57]

私生活では柳川重信と離縁した長女のお美与が連れ帰った孫の悪行に苦しめられた時代だったようで、尻拭いに奔走し疲弊し苦悩していたことが書簡などから明らかになっている[58]。そこには「当春は、銭もなく、着物もなく、口を養うのみにて」とあり、肉体精神だけでなく生活も困窮していた様子が認められており、こうした状況が少なくとも天保5年(1834年)ごろまで続いたと見られている[59]

冨嶽三十六景 凱風快晴
『冨嶽三十六景 駿州江尻
『冨嶽三十六景 尾州不二見原

画狂老人卍時代

富嶽百景 鳥越の不二』天文方の観測施設として設けられた浅草天文台を描いている。

75歳となった天保5年(1834年)3月に、北斎は富士図の集大成とも言える『富嶽百景』を上梓した[60]。『富嶽百景』の巻末では画狂老人卍と号した北斎が初めて自跋を載せ、これまでの半生とこれからの決意を語った[61]。一般的にはこの跋文発表以降が北斎の最晩年とされている[62]天保の大飢饉の影響によって休業状態となった版元たちを救済するため、唐紙や半紙に絵を描き、画帳にして販売することで糊口を凌いだという逸話が『葛飾北斎伝』に紹介されている[63]。また、天保5年(1834年)の冬ごろから天保7年ごろまで、北斎はなんらかの逼迫した事情から相州浦賀に潜居していたと言われ、三浦屋八衛門を名乗って生活を送っていたとされる[64]。これについて『葛飾北斎伝』では実子が法を犯した可能性などいくつかの説を取り上げているが、明確にはなっていない[64]。その後、天保10年(1839年)に起きた火事によって当時暮らしていた達摩横丁の住居を焼け出され、家財道具や商売道具のほとんどを失ったという[65]。逃げ出す際に筆だけは握って飛び出したが、その他の道具を焼失したため、徳利を打ち砕いて底を筆洗とし、破片を絵皿として絵を描いたという逸話が『葛飾北斎伝』に紹介されている[66]。火災に遭った翌年には房総方面へ旅をしている記録が残されているが、目的については明らかになっていない[67]。天保15年(1844年)には信州の門人高井鴻山に乞われて小布施へと向かい、同地での天井絵制作に携わったと言われている[67]

最後の作品は嘉永2年(1849年)の『富士越龍図』とされる[68]。ただし、美術研究家の久保田一洋は、最晩年の1849年に描かれたとする北斎の絵については不審な点が多数あるとして疑義を呈している[69]。特に絶筆とされる『富士越龍図』は、他の北斎の絵に無い特徴を備えている他、筆致や絵の画面配置などが娘の葛飾応為が描いた『夜桜美人図』に一致するとして、作品の全部あるいはほとんどを応為が手掛けたのではないかと推察している[70]

北斎は嘉永2年(1849年)4月18日の暁七ツ時(午前4時ごろ)に浅草聖天町遍照院の境内にあった長屋にて息を引き取った[71]。『葛飾北斎伝』には「翁病に罹り、医師薬効あらず」「門人およひ旧友等来りて、看護日々怠りなし」とあるため、病や事故などによる急死ではなく、老衰により往生したと見られる[72]。娘のお栄によって葬儀が直ちに執り行われ、遺体は浅草の浄土宗誓教寺にて葬られた[73]

年表

北斎出生地割下水の側を流れる立川を描いた『冨嶽三十六景 本所立川』
  • 宝暦10年9月23日1760年10月31日)江戸の本所割下水(現・東京都墨田区の一角)にて生を受ける。幼名は時太郎で、のちに鉄蔵と称したとされる[9]。父親は川村某、倉田某、二代中島伊勢の長男など諸説がある[5]。『葛飾北斎伝』では次男または三男であったとしている[74]
  • 宝暦13年(1763年・4歳)この頃に幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったとする説もある[5]
  • 明和2年(1765年・6歳)後年の作品『富嶽百景』『画本彩色通』などによれば、この頃より好んで絵を描くようになった[5]
  • 安永2年(1773年・14歳)『葛飾北斎伝』ではこの年または翌年に彫師の修行を開始したとされている[9]
  • 安永4年(1775年・16歳)雲中舎山蝶作の洒落本『楽女格子』の文字彫りを行った[5]
  • 安永7年(1778年・19歳)浮世絵師・勝川春章の門下となり、春朗の画号を与えられる[13]
  • 安永8年(1779年・20歳) 処女作となる役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」「岩井半四郎 かしく」を発表する[5]
  • 天明5年(1786年・26歳)この年から翌年にかけて「群馬亭」の号を用いて作品を発表した[5]
  • 天明7年(1787年・28歳)『葛飾北斎伝』では小伝馬町にこの頃居住したとされる[75]
  • 寛政2年(1790年・31歳)翌年に発表した摺物『弓に的』に「葛飾住春朗画」とあり、この頃葛飾に転居したとされる[5]
  • 寛政5年(1793年・34歳)『葛飾北斎伝』では隠れて他家の画法を学んでいたことを咎められ、本年または翌年に勝川派破門されたとするが、異論も指摘されている[5][76]
  • 寛政6年(1794年・35歳)2代目俵屋宗理を襲名したと見られ、翌年より落款の使用が見られるようになる[22]
  • 寛政7年(1795年・36歳)大田南畝の『浮世絵類考』に記述された情報より、本年または翌年に浅草の第六天神脇町に転居したと見られる[5]
  • 寛政10年(1798年・39歳)本年または寛政12年に本所林町三丁目にあった甚兵衛の店に転居したとされる[5]長崎屋に滞在していたカピタン(オランダ商館長)より絵巻の制作依頼を受けたと朝岡興禎の『古画備考』に記される[5]。『浮世絵類考』では、宗理の号を琳斎宗二に譲り、「北斎辰政」を号したとしている[24]
  • 享和2年(1802年・43歳)式亭三馬が刊行した『稗史憶説年代記』にて、春朗から北斎辰政までの画風解説がなされる[5]
  • 享和3年(1803年・44歳)この年の3月15日、大田南畝、烏亭焉馬らより亀沢町の竹垣氏別荘に招かれ、席画(即席で絵を描く宴席)が催されたことが大田南畝の日記『細推物理』に記されている[5]
北斎が大達磨を描く様子(文化14年ごろ高力種信『北斎大画即書細図』に描かれたもの)[77]
  • 文化元年(1804年・45歳)江戸の音羽護国寺にて、120畳超の大達磨半身像を描き上げたことが大田南畝の随筆『一話一言』に記されている[78]
  • 文化2年(1805年・46歳)「九々蜃」に改号して活動する[5]
  • 文化3年(1806年・47歳)春ごろから曲亭馬琴宅に寄宿した後、6月ごろより木更津へ旅に出る。水野清兵衛宅に逗留し、『唐仙人の楽遊』という襖絵を描いた[5]
  • 文化5年(1808年・49歳)柳亭種彦の日記に北斎の名が出てくるようになり、交流が持たれたと推察されている[5]。8月24日に亀沢町に居を構え、書画会が催された[5]
  • 文化6年(1809年・50歳)本所両国橋近辺に転居したことが『阥阦妹脊山』の奥付に記される[5]
  • 文化7年(1810年・51歳)北斎の絵手本『己痴羣夢多字画尽』の巻末広告より、「戴斗」の号を用いるようになったことが窺える[41]柳亭種彦の『勢田橋竜女本地』に葛飾に転居した旨が記される[5]
  • 文化8年(1811年・52歳)読本の挿絵を巡って馬琴と絶縁したとする説あり[36][79]
  • 文化9年(1812年・53歳)秋ごろより名古屋の門人牧墨僊の宅に逗留したと見られ、『北斎漫画』の下絵を制作した[80]。『葛飾北斎伝』にはその後、大阪、和州吉野、紀州、伊勢などへ旅に出たとしている[81]
北斎漫画』第十二編表紙。
  • 文化11年(1814年・55歳)『北斎漫画』の初編を発刊[43]
  • 文化12年(1815年・56歳)絵手本『踊独稽古』の序文に蛇山に居住している旨が記される[5]
  • 文化13年(1816年・57歳)『葛飾北斎伝』には「戴斗」の号を門人の亀屋喜三郎へ譲った旨が記されている[82]。一方『画狂北斎』には文政2年(1819年)ごろに斗円楼北泉へ譲ったとしている[5]
  • 文化14年(1817年・58歳) 『葛飾北斎伝』には春頃、名古屋に滞在していたとされ、10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く[83]。また、本年末頃に大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行したと言われている[5]
  • 文政3年(1820年・61歳)摺物『碁盤人形の図』などに「為一」の落款使用が見られるようになる[5]
  • 文政4年(1821年・62歳)『誓教寺過去帳』によれば11月13日に娘が死去したとされている。これは四女の阿猶と見られる[5]
  • 文政5年(1822年・63歳)春頃より堤等琳宅に寄宿したと『北斎骨法婦人集』に記される[5]。『葛飾北斎伝』には長女と門人柳川重信が離縁したとされている[5]。「画狂老人卍」の号を用いて『富嶽百景』を手がける[84]
  • 文政6年(1823年・64歳)川柳の号に「卍」が見られるようになる[5]
『富士越龍図』
肉筆画(絹本着色)。嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。「正月辰ノ日」は1月11日か1月23日とされ、確認されている作品のうち、最後に制作された一点とみられている[68][注釈 8]
  • 文政10年(1827年・68歳)『葛飾北斎伝』には文政末年に中風を患うが、柚子を原料とした自製薬で回復したとしている[86]
  • 文政11年(1828年・69歳)川柳の号に「万字」が見られるようになる[5]。『誓教寺過去帳』によれば6月5日に妻と死別した[5]
  • 文政12年(1829年・70歳)北斎の孫にあたる柳川重信の子のしでかす悪行の尻拭いに奔走したことが『葛飾北斎伝』に記されている[5]
  • 文政13年(1830年・71歳)1月、放蕩の孫を柳川重信に引き渡すため、上州高崎より奥州へ赴いた後に浅草へ転居したことが『葛飾北斎伝』に記される[5]
  • 天保5年(1834年・75歳)相州浦賀に転居したとされ、本年までに転居回数が56回に及んでいることが『葛飾北斎伝』に記される[5]。これについては疑義も呈されていると校注で鈴木が指摘している[87]
  • 天保6年(1835年・76歳)絵本『絵本和漢誉』より相州、豆州へ旅したことが記される[5]
  • 天保7年(1836年・77歳)絵本『和漢絵本魁』の序文より3月頃に深川の万年橋近辺へ転居したことが記される[5]。『広益諸家人名録』には居所不定と記載されている[5]
  • 天保9年(1838年・79歳)『新編水滸画伝』に「病床ノ画」とした挿絵があり、何らかの病に掛かったと見られる[5]
  • 天保10年(1839年・80歳)『葛飾北斎伝』では本所石原片町(現在の墨田区横綱)と達摩横町(現在の墨田区東駒形)に転居し、人生で初めて火災に罹ったと記される[88]
  • 天保11年(1840年・81歳)『唐土名所之絵』より房総方面へ旅していたことが窺える[5]
  • 天保13年(1842年・83歳)本所亀沢町へ転居したと見られる[5]
  • 天保15年(1844年・85歳)2月頃に向島小梅村へ転居したと見られる。翌月、信州小布施へ向かったことが高井鴻山の『高井鴻山宛北斎書簡』に記されている。その後、斎藤月岑『増補浮世絵類考』に浅草寺前へ転居したと記される。また、本年の長寿者番付に北斎の名が掲載された[5]
  • 弘化3年(1846年・87歳)春頃に西両国へ転居したと見られ、その冬より病に罹ったと書簡に記されているのが確認される[5]
  • 弘化4年(1847年・88歳)「三浦屋八右衛門」と自称していた[5]。2月頃より田町一丁目に転居したと見られる[5]
  • 嘉永元年(1848年・89歳)浅草聖天町にある遍照院の境内へと転居したと『葛飾北斎伝』に記される[89]
  • 嘉永2年(1849年・90歳)春頃病床に伏し、娘のお栄に「老病なり。医すべからず」と伝える[89]4月18日1849年5月10日)死没[90]。死亡通知書には暁七ツ時(午前4時ごろ)と記されていたことが校注されている[90]

人物

『店の前』(1780年)に記された「北斎辰政」の落款。
西瓜図』(1839年)に記された「画狂老人卍翁筆齢八十」の落款。

名前について

北斎の実名について、一般的な通説では「中島鉄蔵」とされ、日本芸術文化振興会が提供する「文化デジタルライブラリー」では「本名:中島鉄蔵、後に三浦屋八右衛門」としており[91]、『山川 日本史小辞典 改訂新版』では「本姓は川村のち中島。俗称時太郎、のち鉄蔵。」と紹介している[2]。飯島虚心の『葛飾北斎伝』には「姓は藤原、名は為一」と画号とは別に記されており[92]、飯島が何故このような記載方式としたか判っていないが、浮世絵や民俗学の研究などを行っている諏訪春雄は、藤原姓について養子となった中島家の先祖の血統を指す姓なのではないかと推察している[93]。一方で浮世絵研究者の内田千鶴子は、誓教寺の墓碑名より川村氏が藤原秀郷の後裔を称していたようだと指摘している[94]佐藤道信は藤原姓を名乗り始めたのは晩年になってからであるとし、自らの芸術の正統性を誇示するためだったのではないかと指摘している[95]。美術評論家の瀬木慎一は自著の中で「北斎その人は川村氏を名乗ったことは一度もなく、中島もしくは藤原と署名している。この藤原は、当時の画家がしばしば用いた姓であるので、画家名と見てよく、したがって彼の本姓は中島であるはずである」としている[96]。いずれにせよ、飯島虚心の『葛飾北斎伝』を基とした後年研究者達の主張であり、永田は北斎の名前や家系について2000年に刊行した自著にて「現在のところ虚心の記述以外にそれを覆すような資料の存在はいまだ知られていない」としている[6]

幼名に関しては複数の通説があり、時太郎、時次郎、時二郎、鉄蔵などがある[4]。飯島虚心の『葛飾北斎伝』では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしている[5][9]

画号について

画号は頻繁に改号したことで知られており、多くの書籍で30回以上の改号が行われたと紹介されている[97]。使用した画号例として「勝川春朗」「勝春朗」「叢春朗」「群馬亭」「魚仏[注釈 9]」「菱川宗理[注釈 10]」「辰斎[注釈 11]」「辰政」「雷震」「雷信[注釈 12]」「雷斗」「戴斗」「北斎」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「卍翁」「卍老人」「不染居」「九々蜃」「白山人[注釈 13]」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている[100]。また、戯号として「時太郎」「可侯」「是和斎」などが『葛飾北斎伝』に紹介されている[99]。実際の作品では落款の無いもの、「宗理改北斎画」「葛飾前北斎改戴斗画」など、改号前の画号と共に記した作品、「画狂老人北斎」「画狂老人卍翁筆」など複数の画号を組み合わせた作品、「齢七十二画狂老人卍筆」「八十七老卍筆」など年齢を加えた号など画号に用いた名称は様々に変化している[5]。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている[101]。また、春画を描く際は「紫色雁高」「鉄棒ぬらぬら」などといった画号を用いていたことが知られている[102]

現在広く知られる「北斎」は、宗理の号を譲った後に名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰(柳嶋法性寺)にちなんでいる[103][104]。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説[105]や、北斎の自己韜晦癖が影響しているとする説[106] もある。「北斎」の号も弟子の鈴木某[107]、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。

転居癖

『葛飾北斎伝』には狂言作家である四方梅彦の話として75歳までに56回の転居[88]、生涯に93回の転居を行ったと記載がある[108]。これを根拠として転居癖があったとされているが、具体的な数字に関して『葛飾北斎伝』には根拠が無く、信憑性に欠けるとの指摘もある[109]。同様に日に3度転居したという逸話に関しても、北斎の奇人さを補強するエピソードとして検証されることなく紹介される傾向にある[109]。ただし、北斎が転居をたびたび行っていたという事自体は当時から良く知られていたようで、曲亭馬琴の『曲亭来簡集』などでも取り上げられている[110]

度重なる転居の理由についても、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたという話や寺町百庵[注釈 14]に倣って百回の転居の後に死にたいという北斎の願望などが『葛飾北斎伝』に記されている[111]

臨終

娘のお栄が門人の北嶺に宛てた北斎の死亡通知書。

嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた[90]。『葛飾北斎伝』ではその時の様子が次のように伝えられている[112]

翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」といひ、暫くして更に謂て曰く、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と、言訖りて死す。 — 『葛飾北斎伝』より引用[112]

この日付でお栄が門人の北嶺に送付した死亡通知が現存しており、「四月十八日 深川下の橋北嶺様 栄拝 葬式明十九日朝四ツ時 卍儀病気の処 養生不相叶 今暁七ツ時に病死仕候 右申上度早々如此御座候 以上 四月十八日」と記されている[90]。これにより亡くなった時刻は午前4時頃とされている[73]

墓碑に刻まれた辞世の句は、

悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原[113]

人魂になって夏の野原をのびのび飛んでゆこう」というものであった[114]

また、戒名として「南総院奇誉北斎信士」が墓碑に刻まれており、誓教寺が所蔵する過去帖には「南牕院奇誉北斎居士」と記されている[113]

『八十三歳自画像』 天保10年(1842年)、北斎82歳(数え年83歳)のときの自画像。

家族

北斎には二度の結婚歴があり、それぞれの妻との間に一男二女[注釈 15]をもうけたと言われている[116]。先妻についての詳細は不明だが、後妻の名はこととされる[117]。どちらの妻とも死別とされ、文政11年(1828年)に最後の妻であることと死別して以降は三女のお栄と最期まで暮らした[118]

両親

北斎の父親については諸説あるが、飯島虚心が北斎の曾孫白井氏へ確認した際のやり取りが『葛飾北斎伝』に記されている[119]。これに拠れば川村家の子として生まれ、中島家へ養子となったとしている[119]。これが通説となり、幕府御用の鏡師である中島伊勢[注釈 16]の子あるいは養子とされているが、明確とされる根拠は無い[4]。浮世絵研究者の林美一は、1968年に「北斎の父は中島伊勢」と題した論文を発表し、北斎は川村家の実子であるとする論考が主流となっている状況に一石を投じた[121]。また、瀬木は北斎と親交のあった滝沢馬琴が所蔵する北斎から受け取ったという手紙にある「壮年その叔父御鏡師中島伊勢が養子になりしが、鏡造りのわざをせず、その子をもつて職を嗣せしが、その先だて身まかれり」という記述を支持して北斎の実父は中島伊勢の兄であるとの説を掲げている[122]

母親については吉良上野介の家臣であった小林平八郎の孫娘と言われており、北斎本人もそのように語っていたと『葛飾北斎伝』に記されている[123]。明治18年の『東洋絵画叢誌』には吉良上野介の孫にあたるとの記述も見られたが、飯島によって否定されている[124]

露木為一が描いた『北斎仮宅之図』。絵を描く北斎とそれを見る三女のお栄。

子供

長男は富之助と言い、鏡師を職としたことが『葛飾北斎伝』に記されている[125]。北斎の実家である中島家の職を継いだと見られるが[116]、放蕩無頼の性格で家には寄り付かず、早世したと言われており、没年も死因も明らかになっていない[126]

長女はお美与(阿美与)[注釈 17]という名で、1813年ごろに北斎の門人である柳川重信の元へ嫁いだが、関係は良好では無く、1822年頃に子を連れて実家へ戻ってきた後に死没したとされる[115]。孫にあたる遺児はしばらくの間北斎によって育てられていたが、悪童であり、手を焼いた北斎は重信へ子を引き渡している[126]。しかしながら1832年に重信が死去したため、再び北斎が面倒を見ることとなるが、大変な苦労をかけられていたという逸話が残されており、北斎物の物語の題材として取り扱われるほどであった[127]

次女はお鉄(阿鉄)[注釈 18]といい、絵師をしていたとされるが、嫁いだ後に夭折したとされる[115]。『葛飾北斎伝』では幕府御用達の某に嫁いだとされる[115]。一方、『続浮世絵類考』では、「他へ嫁ス、画工ニアラズ、早世」とあり、『葛飾北斎伝』の記述と異なっているため、詳細については分かっていない[115]

次男は幼名を多吉郎といい、御家人である加瀬氏に養子へ出された後、崎十郎と改められた[116]天守番あるいは御徒目付の職に就いたとされている[116]。俳諧を嗜み、椿岳庵木峨と号した[116]。崎十郎の孫にあたる人物によって北斎の墓が建てられたという寺僧の話が『葛飾北斎伝』に記されている[125]

三女はお栄[注釈 19]といい、葛飾応為として浮世絵師となった[116]。摘水軒記念文化振興財団が所蔵する『朝顔美人図』などを描いた「辰女[注釈 20]と呼ばれる絵師が存在するが、北斎のどの娘であるかは明らかになっていない[128]。位置付け次第では葛飾応為が三女であるという『葛飾北斎伝』が伝える通説自体が覆る可能性も指摘されている[128]。生年については『葛飾北斎伝』に記述された没年齢から逆算し、寛政12年(1800年)ごろとする説や、井上和雄が『浮世絵志』第2号で提唱した寛政4年(1792年)ごろとする説、四方梅彦二が出会った応為の年齢を基に享和2年(1802年)とする説などがある[15][129]。二十代の期間で南沢等明へ嫁いだが後に離縁し、北斎と行動を共にしたと言われている[116]。国立国会図書館に所蔵されている露木為一の『北斎仮宅之図』には、天保13年(1842年)ごろと思われる北斎とお栄が暮らす荒んだ家の様子が描かれている[15]。画号である「応為」は、北斎がお栄を「おい」「おーい」等と呼びつけることが多かったためとする説や、当時流行した大津絵節から取ったという説や、北斎の「為一」号の一字を与えたとする説などがある[15]。没年については『葛飾北斎伝』で北斎の死後、親戚の加瀬氏の家で一時的に生活したが、そこを出て以降の行方は分からなくなったとしており、「加州金沢に赴きて死す、年六十七」「徳川旗本の士某の領地、武州金沢の近傍に到りて死せり」「信州高井郡小布施村、高井三九郎の家に到りて死せり」などの説を紹介しているが、いずれも明確にはなっていない[15]

四女についてはお猶(阿猶)と言われるが、早世が伝えられるのみで詳細は分かっていない[116]

弟子の英泉が描いた北斎の肖像画。 渓斎英泉「為一翁」『戯作者考補遺』より。

門人・私淑者

北斎の門人や私淑者は数多く存在しているが、『美術年鑑』では10名ほどの名が、飯島虚心の『葛飾北斎伝』では47名の弟子の名が挙げられている[130]すみだ北斎美術館では2020年に北斎とその弟子たちによる作品の展示会を行ったが、孫弟子を含めて200名を超える弟子を抱えていたとしている[131]。実子である葛飾応為の他、渓斎英泉本間北曜柳々居辰斎魚屋北渓蹄斎北馬昇亭北寿などが良く知られている[117]。『葛飾北斎伝』によれば北斎は「自ら教授することを好まず、其の門人たらんを請ふものあれば、自ら画きし刻板の画手本を出だし、先づ画かしめ、そここゝと、短所を指して、教へたるのみ」という態度だったという。

ミニチュアで再現された北斎とお栄の暮らしぶり(東京都江戸東京博物館

衣食住

北斎は衣食住に頓着しない性格であったとされ、片付けも掃除もしないため、住居は荒れ果てていたと言われている[132]尾上梅幸が北斎宅を訪れた際に、足の踏み場も無いほどに荒れた室内に驚き、輿丁に敷物を敷かせて腰を下ろしたというエピソードが『葛飾北斎伝』に紹介されている[133]。行動を共にした三女のお栄も北斎と似通った性格の持ち主であり、室内は荒れるに任せていた[134]。頭から布団を被り、手元に尿瓶を置いてひたすら作品制作に没頭したとされる[135]。また、9月下旬から4月上旬までは昼夜炬燵を離れなかったと自戒している[136]

衣服は基本的に荒い手織り木綿を着て、寒い時にはその上から袖なしの半纏を羽織る程度で年中を過ごした[132]。衣服が破れていても気にしなかった[137]。訪問した者の「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という証言が残されている[132]。外出時は6尺あまりの天秤棒を杖替わりとし、草履を突っかけて出かけるのみで、下駄も雪駄も履かなかった[138]。また、法華経の念仏をぶつぶつと唱えながら歩いたため、人から話しかけられることもなかった[139]

食については北斎自身もお栄も料理をしなかったため、貰ってきたものや買ってきたものをそのまま食べるだけの生活であったとされている[140]。煮売酒屋の隣に居住していた期間は3食ともこの店から出前させていたという逸話も残されている[141]。酒は飲まず、茶の銘柄にも拘らなかったが、甘いものには目が無かったと言われている[141][142]

金銭にも無頓着で、画代を確かめもせず投げだしていたり、売掛金の支払いを確認もせず渡したりしていたという[143]。こうした杜撰さから常に赤貧で、金に困る生活を送っていたとされる[144]。また、放蕩の孫が博打などによって北斎の金を使い込むことが度々あったため貧乏であったという説もある[144]。しかし、林美一はひっきりなしに仕事を受注していた北斎が本当に極貧だったのは、無名だった天明年間および孫の対処に追われた天保以降のみで、常に貧乏だったとする言説は誤りではないかと指摘している[144]

評価

当時の北斎評価

北斎は一部作品の再版が行われていたことから、当時それなりの人気を博していたことが伺えるが、具体的な言及については次のようなものが残されている。朝岡興禎の『古画備考』に残されている北斎の逸話の中でカピタンが北斎に対して「サスガ俗画ニ致セ、都下ニ雷鳴致程ノ画師ハ、気性格別ノ事也ト某深ク感候」のように語ったとあり、寛政10年(1798年)時点で既に十分な評判が出来上がっていたことが判る[145]。また、翌年の寛政11年(1799年)に行われた三囲稲荷開帳において北斎の描いた作品が高く評価されたことが三田村鳶魚の『寛政紀聞』や原徳斎の『墨水志』に記されている[145]。永田は、『墨水志』に紹介されている高麗此太郎の書簡に「北斎宗理」とあることから、現代の研究者が想定している評価よりも相当に世評が高かったのではないかと指摘している[146]。文化年間に入ると北斎は読本制作に傾注していくが、『増補浮世絵類考』には北斎によって読本という分野が大いに隆盛したと評価している[147]。こうして一定の評価を得た北斎は門人の数を増やし続け、効率的に手解きを行うために絵手本の制作に意欲を見せるようになる[148]。文化13年(1816年)に刊行された『北斎漫画』四編序文に「今や葛飾戴斗先生、画に堪能にして其の名高く」、文政元年(1818年)に刊行された『北斎漫画』八編序文に「葛飾一風を興し画名世に高し」などと小枝繁と思われる門人によって記されており、世間の評価が相応に高かったことが触れられている[149]。一方で北斎に先駆けて鳥観図の制作に取り組んでいた鍬形蕙斎は、「北斎はとにかく人の真似をして自分で始めたものは何もない」と批判したと、斎藤月岑の『武江年表』に喜多村筠庭によって補注されている[150]。しかしながらこうした批判を実際に行ったかどうかについては確証が無く、前後の文章より永田は補注した筠庭による偏見から生じた独断だったのではないかと推察している[151]

日本での北斎評価

1997年に北斎の作品として初めて重要文化財に指定された肉筆画『潮干狩図』(1813年)

葛飾北斎の研究については1893年に美術史家の飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』を嚆矢とする[152]。しかしながら記載されている内容のほとんどは、飯島自身が関連文献や関係者から見聞きしたものを弁証することなく紹介しているのみであり、信憑性を欠いている虞があることを飯島本人が凡例で述べている[153]。今日の北斎像において、これらの逸話を検証なく取り込んで形作られているものも数多く存在しているため、時に矛盾したり、事実と異なる内容や、明確に事実であると確定していない事項が、公然と語られることがあるという状況となっている[153]

北斎の作品が日本で初めて重要文化財に指定されたのは1997年6月30日で、大阪市立美術館が所蔵していた『潮干狩図』である[154]。これは、勝川春章(1959年)、喜多川歌麿(1962年)、東洲斎写楽(1962年)、歌川広重(1964年)ら他の江戸時代の浮世絵師の作品が昭和30年代後半に集中的に重要文化財に指定されたのと比較するとあまりに遅く、国内評価は比較的低いものに留まっていた[155]。永田は当時の北斎人気の低さを示すエピソードとして、1960年代の自身の少年時代に、古本屋にて100円で北斎の和綴じ本『画本早引』という本[156]が買えたという実体験を2005年10月17日の『ほぼ日刊イトイ新聞』で語っている[157]。こうした国内評価を覆し、圧倒的な知名度と人気を誇る絵師へと変貌させたのは、1998年のアメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に拠るところが大きい[158]。各界有識者のアンケートを取りまとめたこの企画で北斎は86位となり、日本人として、19世紀の画家として唯一ランクインされた[158][159]。この事実は驚きをもって日本へと伝えられ、国外における北斎の評価の高さを日本へ突き付けることとなった[160]

しかしながら、国内評価は国外評価の結果によって急速に高まったが、作品理解や人物理解についてはあまり変化が無いと永田は指摘している[161]。『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』などの従来より知名度の高い作品のみが評価され、こうした作品が北斎の長い活動期間においての刹那的な業績の一部に過ぎないという点について見過ごされている状況にある[161]

日本国外での北斎評価

1910年に撮影されたクロード・ドビュッシーイーゴリ・ストラヴィンスキー。背景に「神奈川沖浪裏」などの絵画が飾られている。

日本国外において、北斎の名を知らしめることとなった作品は絵手本の『北斎漫画』で、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって欧州へ持ち込まれた[162]。一方で銅板画家のフェリックス・ブラックモンが1856年に日本から輸入した陶磁器を包んでいた紙を広げたところ、それが『北斎漫画』だったというエピソードも、北斎を国外へ伝えた逸話としてよく知られているが、信憑性に欠けるとして否定的な目で見られている[163]

1820年代の初頭に入ると、当時のカピタンヤン・コック・ブロンホフより「日本の生活風景」の制作注文を受けたと考えられ、文政12年(1829年)までに洋風表現などを用いた54点ほどの北斎肉筆画が国外へ渡った[164][注釈 21]。天保14年(1843年)には『北斎漫画』六編がフランス国立図書館に収蔵され、万延元年(1860年)には大英博物館が北斎の錦絵を購入したことが記録されている[164]。1867年に開催されたパリ万国博覧会には、他の作品とともに『北斎漫画』14冊を含む4種の北斎絵本が江戸幕府より出品された[164]

北斎を始めとした浮世絵師の作品は19世紀後半のフランスにおいて大きな影響を与え、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こした[163][165][166]。特に印象派ポスト印象派の画家への影響は多大で、エドゥアール・マネ[166]クロード・モネ[165][166][167]ピエール=オーギュスト・ルノワール[167]ポール・セザンヌ[167]エドガー・ドガ[166]フィンセント・ファン・ゴッホ[168][165][166][167]ジェームズ・マクニール・ホイッスラー[165][167]ポール・ゴーギャン[166]ら多数の画家が北斎の影響を受けたとされている。その他、音楽家のクロード・ドビュッシー[169]や彫刻家のカミーユ・クローデル[169]、ガラス工芸家エミール・ガレ[166]など、他の分野の芸術家への影響も言及されている。

ジャポニスムという言葉を初めて用いた19世紀後半のフランスの美術評論家フィリップ・ビュルティ

ジャポニスムの概念を創始したフランスの美術評論家フィリップ・ビュルティは、1866年に上梓した『工業美術の傑作』において『北斎漫画』について触れ、優雅さにおいてはヴァトーに、エネルギーにおいてはドーミエに、奇想においてはゴヤに、動態においてはドラクロワに比肩し、テーマの豊かさと鮮やかな筆さばきで北斎に匹敵する画家はルーベンスだけだと賞賛した[170]。また、美術史家のエルネスト・シェノー英語版は、パリ万国博覧会のレポート『芸術を競い合う諸国民』を1868年に刊行し、「日本の大家達の中でも最も自由で誠実」であると北斎を評した[170]。その後、日本での滞在歴もある美術評論家テオドール・デュレが1882年、『ガゼット・デ・ボザール』に「日本美術、挿絵本、刊行画帖、北斎」と題した論文を掲載し、「北斎は日本が産んだ最高の画家である」と位置付けた[171]。この論文は同誌の編集長であったルイ・ゴンス英語版によって1883年に刊行された『日本美術』に引用され、「北斎のような完璧かつ独創的才能は全人類の財産とすべき」として惜しみない賛辞を贈った[171]。一方こうした北斎を賞賛するフランスの風潮に対してアメリカ合衆国の美術史家アーネスト・フェノロサイギリスの日本美術コレクターウィリアム・アンダーソンらは北斎の如き単なる版画工を兆殿司雪舟周文らと比較するのは『パンチ』のジョン・リーチ英語版の風刺画をフラ・アンジェリコの描いた絵画と比較するような恥ずべきことだなどとしてゴンスの『日本美術』を激しく批判し、フランス人のこうした過大評価は日本における北斎の死後の名声に害を及ぼすとして警鐘を鳴らした[171]。1896年に『北斎研究』を上梓したミシェル・ルヴォンは、フランスのジャポニスムが北斎を過大評価しているとする言説について、仮に「日本人がポール・ガヴァルニをフランス美術界の頂点に位置付けている」とフランス人が知ったらどう思うか、などとして日本国内の北斎評価とフランス国内の北斎評価のギャップについて指摘した[172]

1960年にウィーンで開催された「世界平和評議会」においてレオナルド・ダ・ヴィンチレンブラント・ファン・レインと並んで「世界の文化三大巨匠」に北斎が選定され、注目を集めた[173]。その後、1966年にソビエト連邦モスクワプーシキン美術館およびレニングラードエルミタージュ美術館で開催された「北斎展」では延べ33万人以上が来館し、大きな話題を集めた[174]。また、1998年には先述の通り雑誌『ライフ』の「この1000年間で最も偉大な業績をあげた世界の100人」に選ばれ、世界的にその名を轟かせた[173]

代表的な作品

北斎は浮世絵師として役者絵美人画名所絵花鳥画春画等、多岐にわたる浮世絵を描いている他、絵手本肉筆画読本挿絵などさまざまなジャンルで足跡を残した。描いた作品総数は分かっていないが、永田生慈『葛飾北斎年譜』での「版木・版画作品目録」では、1,385点[107] で、これは2冊本も1点と数えており、実際には更に摺物と肉筆画が加わる。数え方にもよるが、挿絵なども1図と数えれば、3万点を越えるという意見もある[175]

『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏
「神奈川沖浪裏」がデザインされた2024年発行予定の千円紙幣裏面。

錦絵

冨嶽三十六景

『冨嶽三十六景』は文政13年(1830年)ごろより順次刊行[注釈 22]された大判錦絵揃物で、「北斎改為一筆」他で落款されている[5]。富士山を題材とした揃物錦絵で、当初三十六図を想定されていたが、人気が高かったためか、続編として十図が追加され、全四十六図が1830年から1834年にかけて刊行された[177]。追加の十図は「裏不二」と呼ばれた[178]。富士の表現や構図に関しては河村岷雪が出した『百富士』の影響が指摘されている[176]

個別の図案も良く知られているが、中でも赤富士を描いた「凱風快晴」は北斎の代表作のひとつとされている[179]。富士が大きく描かれた「凱風快晴」と「山下白雨」は、ともに最初に刊行された図案と考えられており[180]、版元の西村屋与八は広告文に「藍摺一枚、一枚に一景づつ追々出板、此絵は富士の形ちのその所によりて異なる事を示す」と掲載した[181]。「藍摺」とは「ベロ藍」「ベルリン・ブルー」「ベルリアン・ブルー」などとも呼称される輸入化学染料紺青を多用した色摺のことであり、1829年に初めて浮世絵に用いられた[182][183]。北斎はベロ藍を活用した最初期の日本人画家のひとりであった[182]。水に馴染みやすく、ぼかしが可能な鮮烈な青の色合いは、洋風の遠近法を活用した風景表現に必要不可欠なものとなった[181]

国際浮世絵学会会長の小林忠は、『冨嶽三十六景』の図案のひとつである「神奈川沖波裏」について、日本の絵の中でもっともよく知られた作品であり、世界中の人々から愛されているとしている[182]クロード・ドビュッシーが交響詩『』の着想をこの絵から得たとする主張[184] は俗説であるものの、初版スコアの表紙には神奈川沖浪裏から写した波が描かれている[185]。また、カミーユ・クローデルの彫刻作品『波』についても「神奈川沖波裏」の影響があるとされる[169]。その他、小林はポール・セザンヌサント・ヴィクトワール山の連作や、アンリ・リヴィエールの『エッフェル塔三十六景』などに北斎の『冨嶽三十六景』の影響が見られると指摘している[186]。一方で大阪教育大学田中久和は、ヨーロッパの近代芸術に『冨嶽三十六景』が影響を与えたとする論考に疑義を呈しており[187]、ジャポニスムという歴史的事実を論拠としてその影響を近代画家の個別事例に当てはめることは速断であり、誤解や混乱を招くと指摘し、こうした風潮を批判している[188]

現代日本においては2019年よりパスポートのデザインに『冨嶽三十六景』から24図が採用されたり[166][注釈 23]神奈川沖浪裏のデザインが2024年に発行予定の千円紙幣に取り込まれたりと、アイコンとしての受容が定着しつつある[181]

『冨嶽三十六景 山下白雨
『冨嶽三十六景 常州牛堀
『冨嶽三十六景 甲州石班澤
和州吉野義経馬洗滝

諸国瀧廻り

大判錦絵揃物である『諸国瀧廻り』は、天保4年(1833年)ごろの作品で、「前北斎為一筆」落款が見られる[5]。全八図から成る揃物[190]。江戸の版元西村屋与八から刊行されたと見られ、それぞれ「和州吉野義経馬洗滝」「下野黒髪山きりふきの滝」「木曽海道小野ノ瀑布」「木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧」「相州大山ろうべんの滝」「東海道坂ノ下清滝くわんおん」「東都葵ヶ岡の滝」「美濃ノ国養老の滝」と題され、水の落下する条件の違いによる変化を描き認めた[191]。民間信仰の対象となっている地を作画対象に選定しており、広く知られた名瀑のみを対象としていない点が、他の名所絵と異なる特徴であると言える[191]。各錦絵は東京国立博物館や葛飾北斎美術館などに分蔵されている[191]

その他の錦絵作品

本節、特に断りのない文章は島根県立美術館が公開する永田生慈『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜[5]を出典としている。

  • 『四代目岩井半四郎 かしく』
細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、永田コレクション[192]中村座の『敵討仇名かしく』をもとにした役者錦絵で、『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』とともに、北斎の処女作とされる[193]
『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』
勝川春朗画
  • 『三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん』
細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、永田コレクション[193]東京国立博物館所蔵[194]市村座の『新薄雪物語』をもとにした役者錦絵[193]
  • 『中村里好 ふく清女ぼう』
細判錦絵、安永8年(1779年)、「勝川春朗画」落款、東京国立博物館所蔵[195]
  • 『四代目岩井半四郎 おかる』
細判錦絵、安永9年(1780年)、「勝川春朗画」落款。
  • 『五代目市川団十郎 あげまきのすけ六』
細判錦絵、天明2年(1782年)、「勝春朗画」落款、日本浮世絵博物館所蔵。
  • 『市川団十郎 悪七兵衛景清』『市川門之助 畠山重忠』
細判錦絵、天明4年(1784年)、無款。
  • 『花くらへ 弥生の雛形』
大判錦絵、天明4年~5年(1784年~1785年)、無款、永田コレクション[196]礒田湖龍斎の影響が見られる春朗期唯一の大判錦絵[196]。制作年代は描かれた遊女からの推察[196]
  • 『三代目大谷廣次 濡髪の長五郎』
細判錦絵、寛政元年(1789年)、「春朗画」落款。
  • 『五代目市川団十郎 かげきよ』
細判錦絵、寛政元年(1789年)、「春朗画」落款。
  • 『五代目市川団十郎 ともへ御ぜん』
細判錦絵、寛政2年(1790年)、「春朗画」落款。
  • 『新板おどりゑづくし』
細判錦絵、寛政2年(1790年)ごろ、「春朗画」落款、永田コレクション[197]。主題に沿った絵を纏めてひとつの作品とする「もの尽くし絵」と呼ばれるジャンルの錦絵[197]。本作は16種の舞踊を纏めたもので、北斎作のもの尽くし絵は極めて珍しい[197]
『市川蝦蔵の山賊実は文覚上人』
春朗画。山賊に扮する文覚を演じる市川蝦蔵を描いた細判錦絵。
  • 『市川蝦蔵の山賊実は文覚上人』『三代目坂田半五郎の旅僧実は鎮西八郎為朝』
細判錦絵二枚続、寛政3年(1791年)、「春朗画」落款、東京国立博物館所蔵。
  • 『市川鰕蔵 かげきよ』
細判錦絵、寛政4年(1792年)、「春朗画」落款、永田コレクション[198]。春朗期終盤の作品で、これ以降1806年まで錦絵は見られなくなる[198]
  • 『仮名手本忠臣蔵』
大判錦絵、文化3年(1806年)、無款、東京国立博物館所蔵。
  • 『三国妖狐伝』
大判錦絵二枚続、文化4年(1807年)、「北斎画」落款、中右コレクション、東京国立博物館所蔵。
  • 『吉原遊廓の景』
大判錦絵五枚続、文化8年(1811年)ごろ、「かつしか北斎画」落款。
  • 『総房海陸勝景奇覧』
大々判錦絵、文政元年(1818年)ごろ、「葛飾前北斎改戴斗画」落款、永田コレクション[199]。北斎が最初に発表した大々判錦絵作品[199]。鳥瞰した風景構図は鍬形蕙斎の影響が見られる[199]
  • 『東海道名所一覧』
大々判錦絵、文政元年(1818年)、「葛飾前北斎戴斗筆」落款、永田コレクション[200]。江戸の日本橋から京都までの東海道宿場や名所を鳥瞰作画した作品[200]。宿場が双六のような構成になっている他、豆粒大の人像まで精緻に描かれている[200]
  • 『麦藁細工見世物』
大判錦絵四枚続、文政3年(1820年)、無款、東京国立博物館所蔵。
  • 『新板大道図彙』
四つ切判錦絵、文政8年(1825年)、無款[注釈 24]、東京国立博物館所蔵。
  • 『鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六』
大々判錦絵、天保2年(1831年)、「柳亭種彦撰・前北斎為一図」落款、新庄コレクション[201]。北斎唯一の道中双六作品[201]。双六をしまう袋については初版が北斎画、再版が歌川国芳画と考えられている[201]島根県立美術館所蔵。相模の52か所の景勝地を柳亭種彦が選定し、北斎が景観やその地の風俗を描いた玩具絵の一種[202]
中判錦絵揃物『百物語 さらやしき』皿屋敷を題材とした北斎の錦絵。
中判錦絵揃物、天保2年(1831年)ごろ、「前北斎筆」落款。江戸時代に流行した怪談『百物語』を題材とした錦絵で、「お岩さん」「皿屋敷」「笑ひはんにや」「しうねん」「小はだ小平二」の五図が確認されている[203]
  • 『奥州塩竈松蔦之畧図』
大々判錦絵、天保2年(1831年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。
大判錦絵、天保3年(1832年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。琉球使節が天保3年に江戸へ参府するということを当て込んで制作されたと見られる作品で、地誌『琉球国志略』を種本に北斎の想像で描かれた全八図から成る揃物の風景錦絵である[204]。葛飾北斎美術館などが所蔵している[204]
中判錦絵揃物、天保3年(1832年)ごろ、「前北斎為一筆」落款[205]葛飾北斎美術館などが所蔵[206]。全十図から成る揃物で、関東地方の海や川での漁労風景を収めた錦絵[205]。それぞれ「総州銚子」「総州登戸」「総州利根川」「相州浦賀」「甲州火振」「絹川はちふせ」「宮戸川長縄」「五島鯨突」「蚊針流」「待チ網」と題される[205]
  • 『詩哥写真鏡』
長大判錦絵揃物、天保4年(1833年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。版元は森屋治兵衛[207]。和漢の歌人と関連故事を題材とした錦絵で十図が知られている[208]。例えば「春道のつらき」は『古今和歌集』の「山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり」の詩が題材となっており、「少年行」は唐の詩人催国輔の『長楽少年行』内の一節を絵画化したものである[207]
  • 『狆』
団扇絵判錦絵、天保4年(1833年)、「前北斎為一筆」落款、太田記念美術館所蔵。
『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』
  • 『諸国名橋奇覧』
大判錦絵揃物、天保5年(1834年)ごろ、「前北斎為一筆」落款。東京国立美術館が所蔵する「飛越の堺つりはし」など、全国の橋を構図に捉えた全十一図の錦絵[209]。実在しない言い伝えのみが残されている橋も含まれている[206]。『諸国瀧廻り』などと同様、版元は西村屋与八である[206]
  • 『桜に鷹』
長大判錦絵、天保5年(1834年)、「前北斎為一筆」落款、すみだ北斎美術館所蔵。橋梁に佇む端正な鷹の姿と満開の桜を組み合わせた華やかな印象のある花鳥画[210]
  • 『百人一首うばがゑとき』
大判錦絵揃物、天保6年(1835年)ごろ、「前北斎卍」落款。版元は伊勢屋三次郎[211]。北斎が手掛けたとされる最後の揃物大判錦絵で、百人一首の歌意を題材として刊行を予定していたが、二十七図を刊行して中断された[212]。残りの未刊行六三図は版下絵が遺存している[212]フリーア美術館大英博物館などに分蔵されている[213]
  • 『群鶏』
団扇絵判錦絵、天保6年(1835年)ごろ、「前北斎為一筆」落款、東京国立博物館所蔵。
  • 『唐土名所之絵』
大々判錦絵、天保11年(1840年)ごろ、「総房旅客 画狂老人卍齢八十一」落款。現在六図が知られる大々判鳥瞰図のうち、もっとも晩年に発表されたもの[214]。中国大陸全土の各名所を俯瞰で精緻に描いており、万里の長城などが確認できる[214]
  • 『地方測量之図』
大々判錦絵、嘉永元年(1848年)、「応需 齢八十九歳卍老人筆」落款。確認されている北斎最後の錦絵であり、盛岡藩士だった梅村重得の依頼によって描かれた作品で、測量器具を用いた作業の様子が描かれている[215]

絵手本

北斎漫画

『北斎漫画』 八編(1818年出版)15丁より、座頭瞽女(ごぜ)
視力に障害を持って渡世する人々のさまざまな顔模様を描いてみせた。

『北斎漫画』は『冨嶽三十六景』と共に北斎の代表作のひとつとされる摺刷版本[216]。葛飾北斎美術館所蔵[217]。文化11年(1814年)に初編が刊行され、以降北斎の死後も含めて明治11年(1878年)まで全15編が刊行された[217]。文化9年(1812年)に関西方面へ旅した北斎は名古屋の門人牧墨僊宅に逗留し、300余の版下絵を制作した[216]。これらが1冊にまとめられ、絵手本『北斎漫画』初編として版元永楽屋東四郎から出版された[216]。当初はこの1冊で完結予定であったが、予想以上に人気となり版元角丸屋甚助なども絡み文政2年(1819年)までに10編が刊行され、北斎没後も刊行が続いた[216]。人物、動植物、建造物、日用品、風俗、神話、宗教など森羅万象がアトランダムに収載された図案の総数は3900余にも上り、欧州でもフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが持ち込んで以降、『ホクサイ・スケッチ』の名で広く親しまれた[218]

その他の絵手本作品

本節、特に断りのない文章は島根県立美術館が公開する永田生慈『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜[5]を出典としている。

  • 『己痴羣夢多字画尽』
文化7年(1810年)、「葛飾北斎戯画」落款。版元二代目蔦屋重三郎から刊行された、北斎初作と見られる絵手本である[219]。人物や物品の描線に文字を組み込む「文字絵」と呼ばれる分野に関しての教本となっている[219]。流伝部数が少なく、稀覯書としても知られている[219]
『略画早指南』(1812年ごろ出版)さまざまな略画の描法について図解されている。すみだ北斎美術館
  • 『略画早指南』
文化9年(1812年)ごろ、「北斎老人」落款。生物などの略画の描法について図解した絵手本である[220]。桶定規やぶんまわしを用いて骨格を捉える手法について解説されている[220]。前後編構成となっており、後編は文字絵の描法に関する教本となっている[220]
  • 『北斎写真画譜』
文化11年(1814年)ごろ、無款。全十五図から成る動物、鳥、草花、山水、観音などを題材とした絵手本で、いずれも見開き一図で描かれている[221]私家版と見られていたが、文化10年の割印帳に「版元売出」の記載があり、江戸の刊行物と改められた[221]
  • 『三体画譜』
文化13年(1816年)、「北斎改葛飾戴斗画」落款。版元角丸屋甚助刊行、菱屋久兵衛後摺[222]真行草の概念を取り入れた絵手本で、様々な主題を全て三種の描法で描き分けて図解している[222]
  • 『画本早引』
文化14年(1817年)前編、文政2年(1819年)後編、前編は「葛飾戴斗老人筆」落款、後編は「前北斎戴斗筆」落款。いろは48文字ごとに各文字から始まる物品や心情などについて描いた略図を1300図以上掲載した絵手本[223]
  • 『北斎画鏡』
文政元年(1818年)、「葛飾北斎筆」落款。名古屋の版元菱屋久兵衛が刊行した絵手本で、後に『秀画一覧』と改題されて色摺本として再版された[224]
  • 『北斎画式』
文政2年(1819年)、「葛飾戴斗筆」落款。関西の版元から刊行された絵手本で、恵比須、羅漢、角力、花鳥などの主題が見開きで彫り摺りされている[225]
  • 『一筆画譜』
『今様櫛きん雛形』(1823年出版)さまざまな櫛の図案が掲載されている。すみだ北斎美術館
文政6年(1823年)、「武蔵北斎載斗先生嗣意」落款。一筆書きの描法を集めた絵手本で、丹羽嘉言の一筆書きに触発されて出版されたと見られる[226]。本書は好評し、後年『一筆絵本』と改題して縮小模刻本が刊行された[226]
  • 『今様櫛きん雛形』(きんは手辺に竹冠に金)
文政6年(1823年)、「前北斎為一先生図」落款。櫛や煙管を制作する職人向けに刊行された絵手本で上中下の三冊に分かれている[227]。櫛の文様図案250、煙管の文様図案160が収められており、本書を用いて制作されたと見られる煙管が遺存している[227]
『画本彩色通』(1848年出版)北斎最後の絵手本となった。
  • 『新形小紋帳』
文政7年(1824年)、「前ほくさゐ為一筆」落款。
  • 『諸職絵本 新鄙形』
天保7年(1836年)、「齢七十七 前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。
  • 『絵本早引 名頭武者部類』
天保12年(1841年)、「北斎改葛飾為一筆」落款。
  • 『画本彩色通』
嘉永元年(1848年)、「画狂老人卍筆」落款。北斎が没したため、二編で刊行が中断された北斎最後の絵手本[228]。筆や刷毛の使用方法や絵の具の種類や調合方法などが細かに記載されており、絵画技法書と呼べるものとなっている[228]

肉筆画

肉筆画帖

天保6年(1835年)から天保15年(1844年)ごろにかけて刊行されたと見られる[229]。「前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。花鳥虫魚等を描いた十図から成る[229]。『葛飾北斎伝』では、天保の大飢饉時に絵草紙屋で売らせたと紹介されている[229]。しかしながら、当時複数の画帖を販売していたことが確認されており、『肉筆画帖』が該当するかどうかについては明らかになっていない[230]。全図に共通して鮮やかな彩色とモダンな構図が採用され、晩年を代表する佳作と評価されている[230]

それぞれ「塩鮭と鼠」[229]福寿草と扇」[231]「鷹」[232]「はさみと雀」[233]「ほととぎす」[234]「鮎と紅葉」[235]「蛙とゆきのした」[236]「蛇と小鳥」[237]「鰈と撫子」[238]「桜花と包み」[239]と題される。現在当初の並び順を知るのは不可能であるが、最初は「福寿草と扇面」、最後は「桜花と包み」だと考えられる[240]

塩鮭』『と紅葉』
ゆきのした』『撫子

日新除魔図

毎朝の日課として描いた『日新除魔図』

天保13年(1842年)から天保14年(1843年)にかけて北斎は「日を新たに魔を除く」として、毎朝獅子や獅子に関連する絵を描くことを日課としていた[241]。依頼によって描いた他作とは異なり、厄除けのために本人が描いたプライベートな性質を持つ作品である[241]。毎朝除魔を願った理由としては長寿を願ったとするものや、放蕩の孫を追い払うためという説などがあり、毎朝獅子を描いては丸めて家の外に捨てていたという[242]

平成9年(1997年クリスティーズカタログに掲載されオークションにかけられそうになるが、文化庁は本作は重要美術品で海外流出禁止なことをクリスティーズに伝え、オークション1日前に販売中止となる事件があった[243]。その後、東京の古物商の手に渡り、平成30年(2018年)九州国立博物館に寄贈された。九州国立博物館はもっともまとまった219枚の「日新除魔図」を保有している[241]。「日新除魔図」は他に、松代藩家老・小山田壱岐旧蔵の1帖10図(現在は法人蔵)、北斎晩年の門人・本間北曜旧蔵の12点(内10点は北斎館蔵、1点は個人蔵、1点は所在不明)[244]など、国内外に所蔵されている[241]

信州小布施の作品

信州小布施 東町祭屋台天井絵 『龍図』(桐板着色肉筆画)
岩松院 『八方睨み鳳凰図』(はっぽうにらみ ほうおうず)下絵

高井鴻山は古くは小田原北条氏の臣としての来歴を持つ、信州小布施村の豪家高井家の嫡男として天保3年(1832年)に生まれた[245]。鴻山は十五歳の折に京都へ遊学し、梁川星巌に漢学を、岸駒に絵画を、貫名菘翁に書道を師事した[245]。北斎と鴻山の接触については諸説があり、飯島虚心が『葛飾北斎伝』で古老より伝え書いたものが中心とされるが、遺存する作品との矛盾点や疑義も多く呈されている[246]。一般的には『北斎道中画譜』に描かれた古書店頭の絵の中に登場する帯刀した袴姿の武人と、横に並ぶ老人が鴻山と北斎の出会いを描出したものとされる[246]。しかしながら美術史家の由良哲次は、『北斎道中画譜』が刊行されたのは天保元年(1830年)であり、鴻山が星巌に従って江戸に来たのは天保3年(1832年)であることから時系列が合致しないことを指摘しており、浦賀潜居の後に江戸へ戻った天保6年(1835年)以降に出合ったのではないかとしている[246]。この縁によって北斎は天保12年(1841年)または天保13年(1842年)に小布施の地へ旅立ったと考えられている[246][注釈 25]。鴻山は北斎を賓客として丁重に持成し、「碧軒(へきいけん)」と名付けたアトリエをあてがうとともに、往年焼失した高井家菩提寺の再建にあたって、天井絵などの絵画制作を依願した[247]。北斎はこれを了承するも大がかりな仕事であるとして、娘の栄を助手として連れてくる旨を告げ、江戸へ戻った[246]。北斎は江戸で残した仕事を片付けたり、孫の厄介事を処理するなど多忙を極めながら鴻山と手紙のやり取りをして作品構想を練りつつ、天保15年(1844年)春に再び小布施へと向かった[248]。江戸と小布施の往復は少なくとも4回または5回は行われたとされており[249]、北斎は小布施の地で東町祭屋台天井絵『龍図』『鳳凰図』(天保15年(1844年))、上町祭屋台天井絵『男浪図』『女浪図』(弘化2年(1845年))、岩松院本堂大間天井絵『八方睨み鳳凰図』などの傑作を残した[250]

しかしながらこうした小布施での活動は、飯島の『葛飾北斎伝』にほとんど言及がないこともあり、戦前までは軽視される傾向にあった[251]。実際の美術史家の各書では、昭和19年楢崎宗重の『北斎論』「衰退が隠せない時代で絵手本や肉筆画に勤しみ、夢多き余生を送った」、昭和28年近藤市太郎の『北斎』「70歳前後で彼の芸術的生命は終わっていた」、昭和32年織田一磨の『北斎』「天保の頃の北斎は、もはや内容の脱落した形骸ばかりになっていた」といった論調が並んでいる[252]。こうした傾向は1966年のソビエト連邦で開催される「北斎展」準備のために小布施の作品調査が行われるまで続いた[253]。実地調査を行った研究者の一人である尾崎周道は、「晩年の小布施時代は北斎の凋落期とするこれまでの定説は、書き換えねばならないだろう」とつづった[254]。また、『北斎論』で批判していた楢崎宗重も、小布施の北斎館開館に寄せた挨拶で「私の北斎研究は今日から始まると皆様の前で申し上げます」と認識を改めたことを表明した[254]

その他の肉筆画作品

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 文化財指定 備考
婦女風俗図 紙本着色 2幅 右幅:107.0x52.2
左幅:106.8x52.7
島根県立美術館 1792-93年(寛政4-5年)頃 無款記 葛飾北斎美術館旧蔵。元は屏風の2扇分。
鐘馗図 絹本着色 1幅 53.6x26.0 島根県立美術館 「叢春朗画」 花押 葛飾北斎美術館旧蔵。春朗落款を持つ唯一の本画。
花魁図 紙本着色 1幅 94.3x27.6 ミネアポリス美術館 1795-98年(寛政7-10年)頃 「北斎宗理画」 「完知」白文方印 森羅亭賛
遊女図 紙本着色 1幅 70.9x24.0 フリーア美術館 1795-98年(寛政7-10年)頃 「北斎宗理戯画」 「完知」白文方印
漢武人一人立図 絹本着色 1幅 52.4x20.6 東京国立博物館 1795-98年(寛政7-10年)頃 「北斎宗理画」 「完知」白文方印
馬上農夫図 紙本着色 1幅 83.3x26.6 日本浮世絵博物館 1795-98年(寛政7-10年)頃 「北斎宗理画」 「辰政」朱文円印 稲葉華溪賛
黄石公張良図 紙本着色 1幅 114.5x47.0 日本浮世絵博物館 1795-98年(寛政7-10年)頃 「栄斎宗州応需 北斎宗理画」 「辰政」朱文円印 依頼した栄斎宗州なる人物は未詳。
夜鷹図 紙本淡彩 1幅 99.7x28.0 細見美術館 1795-98年(寛政7-10年)頃 「北斎宗理画」 「辰政」朱文円印
瑞亀図 紙本着色 1幅 34.9x49.4 奈良県立美術館 1795-98年(寛政7-10年)頃 「北斎宗理画」 「辰」「政」朱文白文連方印 稲葉華溪賛
風俗三美人図 紙本着色 3幅対 約93.0x24.9(各) 浮世絵太田記念美術館 1799年1月(寛政10年12月)以前 「北斎画」(各幅) 「辰政」朱文円印 3幅とも朱楽菅江
井手の玉川図 紙本着色 1幅 101.0x41.4 千葉市美術館 1798-1801年(寛政10年-享和元年) 「北斎画」 「画狂人」朱文方印 元は六曲一隻押絵貼屏風のうちの1図。現在は1幅ずつに改装されて諸家分蔵。
柳下傘持美人図 絹本着色 1幅 83.5x25.0 北斎館 1798-1801年(寛政10年-享和元年) 「画狂人北斎画」 「辰政」朱文円印 「辰政」朱文円印はこの時期のみに用いられた特徴的な印章。
日・龍・月 紙本着色 3幅対 光記念館 1798-1801年(寛政10年-享和元年) 「画狂人北斎」(各幅) 「辰政」朱文円印(各幅) 那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵
来燕帰雁図 絹本着色 1幅 82.7x26.0 法人 1801-04年(享和年間)頃 「画狂人北斎図」 「亀毛蛇足」朱文長方印 加藤千蔭
二美人図 絹本着色 1幅 110.6x36.7 MOA美術館 1801-04年(享和年間)頃 「画狂人北斎画」 「亀毛蛇足」朱文長方印 重要文化財
獅子図屏風 紙本金地墨画 四曲一隻 54.2x97.3 東京国立博物館 1801-04年(享和年間)頃 「画狂人北斎画」 「亀毛蛇足」朱文長方印
養老の孝子図 絹本着色 1幅 96.0x32.1 日本浮世絵博物館 1801-04年(享和年間)頃 「東陽 画狂人北斎画」 「亀毛蛇足」朱文長方印 浅草庵市人賛
見立三番叟図 紙本着色 3幅対 97.8x27.8(各) 浮世絵太田記念美術館 1803-04年(享和年間後期)頃 「画狂人北斎画」 「亀毛蛇足」朱文長方印
月下歩行美人図 紙本着色 1幅 98.4x26.3 出光美術館 1801-04年(享和年間)頃 「画狂人北斎画」 「亀毛蛇足」朱文長方印 山東京伝
東方朔と美人図 紙本着色 1幅 37.2x37.8 葛飾北斎美術館 1801-04年(享和年間)頃 「画狂人北斎画」 「亀毛蛇足」朱文長方印 芍薬亭長根賛
富士の巻狩図 板地着色 絵馬1面 139.3x180.4 日枝神社木更津 1806年(文化3年) 「画狂人北斎旅中画」 「之印」朱文方印 千葉県指定文化財 文化3年(1806年)木更津に旅行した際に描いた作品。
茶摘み図 絹本着色 1面 19.5x26.1 浮世絵太田記念美術館 1806年(文化3年)頃 「東陽 北斎席画」 「亀毛蛇足」朱文長方印
酔余美人図 絹本着色 1幅 26.5x32.3 鎌倉国宝館 1807年(文化4年)頃 「葛飾北斎画」 「亀毛蛇足」朱文長方印 林忠正旧蔵
波に燕図 紙本着色 扇面1面 23.9x51.1 鎌倉国宝館 1806-13年(文化3-10年)頃 「北斎筆」 「辰」「政」白文方連印
五美人図 絹本着色 1幅 86.4x34.2 シアトル美術館 1806-13年(文化3-10年)頃 「葛飾北斎筆」 「亀毛蛇足」朱文長方印
源氏物語図 絹本着色 1幅 84.5x36.5 浮世絵太田記念美術館 1806-13年(文化3-10年)頃 「葛飾北斎」 「亀毛蛇足」朱文長方印 ビゲロー旧蔵
化粧美人図 絹本着色 1幅 95.7x33.2 城西大学水田美術館 1810-11年(文化7-8年)頃 「葛飾北斎」 「亀毛蛇足」朱文長方印
汐干狩図 絹本着色 1幅 54.3x86.2 大阪市立美術館 1806-13年(文化3-10年)頃 「葛飾北斎」 「亀毛蛇足」朱文長方印 重要文化財
春秋美人図 絹本着色 双幅 82.9x33.8(各) 出光美術館 1806-13年(文化3-10年)頃 「葛飾北斎筆」 「雷震」白文方印 ビゲロー旧蔵。瀧精一の箱書きが付属。
鶴図屏風 絹本着色 二曲一隻 25.1x155.8 鎌倉国宝館 1806-13年(文化3-10年)頃 「北斎筆」 「雷震」白文方印
蛸図 紙本着色 1幅 102.5x29.2 鎌倉国宝館 1811年(文化8年)前後 「葛飾北斎筆」 「雷震」白文方印
桜花図 板地著色 絵馬1面 約46.0x191.0 長泉院秩父市 1811年(文化8年)奉納 「北斎燈下筆」 「雷震」白文方印 秩父市指定文化財
鎮西八郎為朝図 絹本着色 1幅 59.3x81.9 大英博物館 1811年(文化8年) 「葛飾北斎戴斗画」 「雷震」白文方印 滝沢馬琴賛。『椿説弓張月』五編二十八巻が完結したのを記念し、版元の平林庄五郎の依頼で描かれた作品。
鯉と亀図 紙本淡彩 1幅 27.6x92.4 埼玉県立歴史と民俗の博物館 1813年5月25日(文化10年4月25日) 「北斎」 「亀毛蛇足」朱文長方印 埼玉県指定有形文化財
武松候虎の図 絹本著色 1幅 105.5x48.5 法人 「北斎改為一筆」
鳳凰図屏風 紙本着色 八曲一隻 35.8x233.2 ボストン美術館 1835年(天保6年) 「齢年七十六歳 前北斎為一改画狂老人卍筆」 富士形印
西瓜図 絹本着色 1幅 86.1x29.9 三の丸尚蔵館 1839年(天保10年) 「画狂老人卍筆 齢八十」 印文不明
春日山鹿図 絹本着色 1幅 32.5x55.8 鎌倉国宝館 1839年(天保10年) 「画狂老人卍筆齢八十歳」 「葛しか」白文方印
若衆文案図 絹本着色 1幅 73.3x32.7 鎌倉国宝館 1840年(天保11年) 「画狂老人卍筆齢八十一」 「葛しか」白文方印
大黒に大根(見立児島高徳)図 絹本着色 1幅 86.3x42.7 鎌倉国宝館 1841年(天保12年) 「画狂老人卍筆齢八十二歳」 「葛しか」白文方印
雪中張飛図 絹本着色 1幅 132.6x43.9 鎌倉国宝館 1843年(天保14年) 「齢八十四歳画狂老人卍筆」 「葛しか」白文方印
桜に鷲図 絹本着色 1幅 97.2x45.7 鎌倉国宝館 1843年(天保14年) 「八十四歳卍筆」 「葛しか」白文方印
阿耨(あのく)観音図 紙本着色 1幅 81.3x30.0 鎌倉国宝館 1844年(天保15年) 「天保十五庚辰年正月元旦試筆画狂老人卍齢八十五歳」 「葛しか」白文方印
三番叟図 紙本着色 1幅 31.2x58.0 鎌倉国宝館 1830-44年(天保年間)頃 無款記 「葛しか」白文方印
小雀を狙う山かがし図額 絹本着色 1面 28.6x81.1 鎌倉国宝館 1830-44年(天保年間)頃 無款記
一枚物各種(いもの葉に虫図など) 紙本着色 11枚 鎌倉国宝館 1830-44年(天保年間)頃 無款記
画帖(若竹と雀図他) 紙本着色 1冊(4枚) 鎌倉国宝館 19世紀中頃 無款記 林忠正旧蔵
弘法大師修法図 紙本着色 1幅 約150x240 總持寺 (足立区) 無款記 重要美術品 10月第1土曜日の「北斎会(ほくさいえ)」で公開
須佐之男命厄神退治之図 板地着色 絵馬1面 約276x126 牛嶋神社旧蔵 1845年(弘化2年) 「前北斎卍筆 齢八十六歳」 富士形印 関東大震災で焼失し、白黒写真の印刷のみ現存。すみだ北斎美術館で色彩を推定復元、原寸大で展示されている[255]
予譲 紙本着色 1846年(弘化3年) 「八十七老卍筆」 朱文方印 那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵
七面大明神応現図 紙本着色 1幅 132.3x59.3 妙光寺 (古河市)(東京国立博物館寄託 1847年(弘化4年) 「八十八老人卍敬筆」 「百」白文方印
雷神図 紙本着色 1幅 129.9x55.4 フリーア美術館 1847年(弘化4年) 「八十八翁 卍筆」 「百」白文方印
狐狸図 紙本淡彩 双幅 122.5x56.8 個人 1848年(嘉永元年) 「卍老人筆 齢八十九歳」 「百」白文方印 重要美術品 萬野美術館旧蔵。松代の旧家に伝来。
寿布袋図 紙本淡彩 1幅 95.3x28.5 鎌倉国宝館 1848年(嘉永元年) 「齢八十九歳卍筆」 「百」白文方印
雨中の虎図 紙本着色 1幅 120.5x41.5 浮世絵太田記念美術館 1849年(嘉永2年) 「九十老人卍筆」 「百」白文方印
ほととぎす虹図 紙本着色 ニューオータニ美術館
蚊帳美人図 絹本着色 ニューオータニ美術館 落款判読不能 伝葛飾北斎
弁慶図 絹本着色 ニューオータニ美術館 無款。扇に「北□」の書込みあり 伝葛飾北斎筆
鬼は外図 紙本着色 ニューオータニ美術館 無款 伝葛飾北斎
十六羅漢図 紙本着色 ニューオータニ美術館 無款 伝葛飾北斎
日蓮 紙本着色 光記念館 「葛飾北斎戴斗拝画」 那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵
紙本着色 無款記 印章2顆 那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵
浅妻舟図 紙本着色 光記念館 「北斎」 「亀毛蛇足」朱文長方印 那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵
八朔太夫図 紙本着色 北斎館
雑画巻 紙本着色 1巻 フリーア美術館[注釈 26]
鶏竹図 絹本着色 ジョサイア・コンドルの旧蔵品で2016年11月に東京の美術商が落札[257]
雪中美人図 絹本着色 1幅
『五美人図』 肉筆画。文化5 - 10年(1808年 - 1813年)頃、北斎の号を使い始めた(落款は葛飾北斎筆)50歳前後の時期の作品。絹本着色。細見美術館所蔵。
『紙本着色鯉亀図』 肉筆画(紙本墨画)。文化10年(1813年)4月25日、北斎筆。左端の添え書きは北斎直筆で、弟子の葛飾北明印顆と共に与えた作。埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵[258]

読本

『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 前編』(1808年)、源為朝が自身の強靭さを誇示するために己の剛弓を蛮族に引かせる場面。

椿説弓張月

『椿説弓張月』は文化4年(1807年)に前編、文化5年(1808年)に後編、続編、文化7年(1810年)に拾遺、文化8年(1811年)に残編が刊行された曲亭馬琴作の読本である[259]。全28巻29冊に渡って北斎が挿絵を担当した[260]。馬琴と共作した初の作品であり、両者の代表作となった[261]源為朝を主役とした史実とは異なる英雄流転譚[注釈 27]で、大衆の判官贔屓心理に訴えかける人気作となった[259]。北斎の挿絵も主題に違わない勇壮なものが多く見られた[261]

新編水滸画伝

『新編水滸画伝』は中国の白話小説『水滸伝』を曲亭馬琴が訳出したもので、初編が文化2年(1805年)に刊行された[262]。後編の挿絵を巡って馬琴と北斎が衝突し、刊行中断の危機に陥ったが、版元の仲裁もあって、訳出者を馬琴から高井蘭山に変更することで文化4年(1807年)に二編以降が刊行された[261]。九編全九十一冊が刊行され、「画伝」のタイトルの通り多くの挿絵が描き込まれている[263]。彩色に制約がある中で多くの迫力ある場面を描き上げた[262]

その他の読本作品

本節、特に断りのない文章は島根県立美術館が公開する永田生慈『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜[5]を出典としている。

『古今奇譚 蜑捨草』(1803年)確認されている北斎の読本挿絵で最も古い作品。
  • 『古今奇譚 蜑捨草』
享和3年(1803年)、流霞窓広住作、「画狂人北斎画」落款。確認されている北斎の読本挿絵で最も古い作品とされている[264]
  • 『復讐奇話 絵本東嫩錦』
文化2年(1805年)、小枝繁作、「画狂老人北斎」落款。江戸で人気を博した戯作者小枝繁の処女作であり、山東京伝の『復讐奇談安積沼』の影響が見られる作品[265][266]。北斎が手掛けた読本挿絵で頻繁に登場する幽霊図の初例とされる[267]
  • 『そののゆき 前編』
文化4年(1807年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎画」落款。版元は角丸屋甚助だったが、出版後に版木が京都の版元に売り出されるなどのトラブルに見舞われ、後編は出版されずじまいとなった[266]
  • 『墨田川梅柳新書』
文化4年(1807年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎筆」落款。
  • 『近世怪談 霜夜星』
文化5年(1808年)、柳亭種彦作、「かつしか北斎画」落款。
  • 『國字鵺物語』
文化5年(1808年)、芍薬亭長根作、「葛飾北斎」落款。
  • 『阿波之鳴門』
文化5年(1808年)、柳亭種彦作、「葛飾北斎画」落款。近松半二浄瑠璃傾城阿波鳴門』をベースに創作された柳亭種彦の初期作品[268]
  • 『三七全伝南柯夢』
文化5年(1808年)、曲亭馬琴作、「葛飾北斎画」落款。宮戸川艶容女舞衣などで知られるお花半七の心中事件を題材とした馬琴の代表作[269]
  • 『山桝太夫栄枯物語』
文化6年(1809年)、梅暮里谷峨作、「葛飾北斎」落款。
  • 『忠孝潮来府志』
文化6年(1809年)、談洲楼焉馬作、「葛飾北斎画」落款。
  • 『飛驒匠物語』
文化6年(1809年)、六樹園飯盛作、「画匠葛飾北斎画」落款。飛騨国の職人を主人公とする伝奇小説[270]。著者の六樹園飯盛こと石川雅望は、本書の序文で出版の経緯について北斎の勧めであった旨を記している[270]
前編の挿絵を北斎が担当した『於陸幸助 恋夢艋』(1809年)の表題絵部分。
  • 『於陸幸助 恋夢艋』
文化6年(1809年)、楽々庵桃英作、「葛飾北斎」落款。前編三冊は北斎が挿絵を担当し、後編五冊は門人の馬円が担当した[271]
  • 『勢田橋竜女本地』
文化8年(1811年)、柳亭種彦作、「葛飾北斎」落款。
  • 『寒燈夜話 小栗外伝 初編』
文化10年(1813年)、小枝繁作、「葛飾北斎」落款。
  • 『釈迦御一代記図会』
弘化2年(1845年)、山田意斎作、「前北斎卍老人繍像」落款。最晩年の数少ない読本作品で、釈迦の一生について書かれたもの[272]
  • 『源氏一統志』
弘化3年(1846年)、松亭中村源八郎保定輯作、「前北斎為一老人八右衛門画」落款。

絵本

富嶽百景

『富嶽百景 海上の不二』
75歳北斎の未来に向けた決意が記された『富嶽百景』初編の跋文。

半紙本全三冊百二図からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明[273]。初編は「七十五齢前北斎為一改画狂老人卍筆」落款、二編は「七十六齢前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。河村岷雪の『百富士』に倣い、様々な富士の山容を描き上げた作品で、『北斎漫画』と並び、版本分野における北斎の最高傑作と評価されている[274]。この作品を受けて晩年の歌川広重は、『富士見百図』序文に北斎に対する評価と自身の作品との違いについて記している[186]

しかし、これらの作品よりも多く取り上げられるのは、尋常ならざる図画への意欲を著した、初編での跋文である[273]

己六才より物の形状を写の癖ありて
半百の此より数々画図を顕すといへども
七十年前描く所は実に取るに足ものなし
七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十歳にしてハ益ゝ進み九十歳にて猶其奥意を極め
一百歳にして正に神妙ならん歟
百有十歳にしてハ一点一格にして生るがごとくならん
願くハ長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし — 『富嶽百景』初編跋文[273]

「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」[273]

その他の絵本作品

本節、特に断りのない文章は島根県立美術館が公開する永田生慈『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜[5]を出典としている。

『画本東都遊』(1802年)
  • 『画本東都遊』
享和2年(1802年)、「画工北斉」落款。
  • 『潮来絶句集』
享和2年(1802年)ごろ、富士唐麿詩、柳亭陳人編、無款。遊女の慕情を謳いあげた富士唐麿の狂詩に合わせた女性像を描いた全十六図の絵本[275]。美人画中心の絵本は北斎唯一の作例とされている[275]。豪華な彩色摺が原因で発禁処分となったと作詩した富士唐麿が後年記している[276]
  • 『絵本 浄瑠璃絶句』
文化12年(1815年)、「葛飾北斎筆」落款。
『踊独稽古』(1815年)
  • 『踊独稽古』
文化12年(1815年)、「葛飾北斎画」落款、藤間新三郎補正。踊りの稽古を行うために「登り夜舟」、「気やぼうすどん」、「悪玉おどり」、「団十郎冷水売」の4曲の踊り所作の振り付けがコマ撮りのように描かれている[277]。1835年に『おとり獨稽古』と改題されて再版した[277]
  • 『絵本庭訓往来 初編』
文政11年(1828年)、「前北斎為一写」落款。
  • 『忠義水滸伝画本』
文政12年(1829年)、「葛飾前北斎為一老人画」落款。
  • 『新編水滸画伝 二編前帙』
文政12年(1829年)、高井蘭山作、「北斎戴斗老人画」落款。
  • 『唐詩選画本 五言律』
天保4年(1833年)、高井蘭山作、「前北斎為一画」落款。
  • 『絵本忠経』
天保5年(1834年)、高井蘭山作、「葛飾前北斎為一老人画」落款。
  • 『諸職絵本 新鄙形』
天保7年(1836年)、「齢七十七 前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。
『和漢絵本魁』(1836年)
  • 『和漢絵本魁』
天保7年(1836年)、「齢七十六前北斎為一改画狂老人卍筆」落款。
  • 『絵本武蔵鎧』
天保7年(1836年)、「齢七十七前北斎画狂老人卍筆」落款。日本武尊上杉謙信武田信玄などといった日本の武者を描いた絵本[278]。柱刻に「画本魁 二編」の記述が認められ、同年の『和漢絵本魁』二編として出版されたものと見られている[278]
  • 『唐詩選画本 七言律』
天保7年(1836年)、高井蘭山作、「画狂老人卍翁筆」落款。
  • 『絵本早引 名頭武者部類』
天保12年(1841年)、「北斎改葛飾為一筆」落款。
  • 『絵本孝経』
嘉永2年(1849年)、高井蘭山作、「東都葛飾前北斎為一翁画図」落款。

狂歌本

四大風景集

『画本狂歌 山満多山』(1804年)

北斎が手掛けた狂歌本の中において『東遊』『東都名所一覧』『画本狂歌 山満多山』『絵本隅田川 両岸一覧』の4作は、四大風景集と位置付けられ、当該分野における北斎の代表作とされている[279]

『東遊』は寛政11年(1799年)に版元蔦屋重三郎より刊行された浅草庵市人の撰集した狂歌本で、「画工北斉」の落款がある[5]。全ての挿絵を北斎が担当している[280]。『東都名所一覧』は寛政12年(1800年)に同じく版元蔦屋重三郎より刊行された浅草庵市人の狂歌本で、「北斎辰政」落款がある[5]。初春の品川の景色など、江戸の名所が狂歌とともに描かれており、文化12年(1815年)に『東都勝景一覧』と改題され、再版された[281]。『画本狂歌 山満多山』は文化元年(1804年)に刊行された大原亭主人撰集の狂歌本で、「北斎画」の落款がある[5]朱楽菅江の七回忌を追善するために出版されたという説もあり、豪華な色摺の三十二図が収載されている[282]。『絵本隅田川 両岸一覧』は刊行年、作者不詳の全3冊二十四図の狂歌本で、隅田川両岸に広がる風俗景観を四季の変化とともに描いている[283]。刊行年については享和元年(1801年)、文化3年(1806年)など諸説があり、刊行年と画稿成立時期に時間差がある可能性も指摘されている[284]。版元についても大阪の前川善兵衛などの伝存が確認されている他、版摺の違いも多々見られることから、刊行当時より大きな人気を博していたと考えられている[284]

その他の狂歌本作品

『柳の絲』(1797年)に寄せた洋風表現の試みが見られる「江島春望」の図。

本節、特に断りのない文章は島根県立美術館が公開する永田生慈『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜[5]を出典としている。

  • 『狂歌歳旦 江戸紫』
寛政7年(1795年)、万亀亭花の江戸住撰、「宗理画」落款。
  • 『帰化種』
寛政8年(1796年)、清涼亭菅伎撰、「百琳宗理画」落款、シカゴ美術館所蔵。
  • 『四方の巴流』
寛政8年(1796年)ごろ、狂歌堂真顔撰、「北斎宗理画」落款。
  • 『柳の絲』
寛政9年(1797年)、浅草庵市人撰、「北斎宗理画」落款。堤等琳鳥文斎栄之北尾重政らと共に、狂歌に合わせた江島春望の絵図を一図描いた[285]。全体構図や山、波の描写などから洋風表現の試行が見られ、司馬江漢の影響が確認できる[286]
  • 『さんたら霞』
寛政9年(1797年)、三陀羅法師撰、「北斎宗理画」落款、大英博物館所蔵。
  • 『春興帖』
寛政10年(1798年)、森羅亭万象撰とされる、「北斎宗理画」落款。
  • 『男踏歌』
寛政10年(1798年)、浅草庵市人撰、「北斎宗理画」落款、大英博物館所蔵。
『みやことり』(1802年)
  • 『みやことり』
享和2年(1802年)、「画狂人北斎」落款。隅田川両岸の浅草、本所に暮らす庶民の様子を描いた全二十三図の狂歌本[287]。『絵本隅田川 両岸一覧』と並び、北斎狂歌本分野の傑作とされる[287]
  • 『五拾人一首 五十鈴川狂歌車』
享和2年(1802年)、千秋庵三陀羅法師撰、「北斎辰政」落款。五十人の狂歌師と「巫女の舞」一図が収められた狂歌本で、伊勢神宮への奉納を目論んでいたことが序文に記されている[288]
  • 『画本忠臣蔵』
享和2年(1802年)、桜川慈悲成作、「北斎辰政」落款。
  • 『夷歌 月微妙』
享和3年(1803年)、樵歌亭校合作、「画狂人北斎画」落款。
  • 『百囀』
文化2年(1805年)、二世桑楊庵撰、「画狂人北斎画」落款。
  • 『蓮華台』
文政9年(1826年)、六樹園撰、「為一筆」落款。
  • 『花鳥画賛歌合』
文政11年(1828年)ごろ、春秋庵永女錦鳳堂永雄らによると見られる撰、「月癡老人為一筆」落款。表題に合わせた風情ある花鳥画を数図寄せている[289]
  • 『女一代栄花集』
天保2年(1831年)、秋長堂老師春秋庵婦人らによる撰、「応需七十二翁前北斎為一筆」落款。花見の宴で酔った婦人図など3図を北斎が描いた[290]

摺物

『馬尽 駒下駄』(1822年)
『元禄歌仙貝合』(1821年)

馬尽

『馬尽』は文政5年(1822年)に刊行された二十八図[注釈 28]が知られている中判の揃物で「不染居為一筆」の落款がある作品[292]。前年に制作した『元禄歌仙貝合』と同じく四方側に属する狂歌師鹿津部真顔の依頼によって制作されたものと見られる[293]。文政5年が午年であることに因んで馬に関連する歌を詠み、挿図した作品である[294]。右図はその中のひとつ「駒下駄」といい、水引で結んだ駒下駄とお多福の面、三升を染め出した手ぬぐい、扇、注連飾りをつけた擂粉木と一緒に暴れ馬の凧が描かれている[294]。上部には狂月亭真晴と四方歌垣真顔(鹿津部真顔)の狂歌が添えられている[294]。二十八図のうち、二十六図が静物を主題としており、残りの二図は風俗、風景を主題としている[291]。狂歌を寄せた狂歌師は秋長堂物簗森羅亭万象など55名に上った[291]。浅野は本作について発想や絵組の独自性が際立っており、狂歌師たちの独創と北斎の構成力が上手く嚙み合った完成度の高い摺物であると評価している[295]

その他の摺物作品

本節、特に断りのない文章は島根県立美術館が公開する永田生慈『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜[5]を出典としている。

  • 『五代目市川団十郎の暫』
天明7年(1787年)、「春朗画」落款。ケルン東洋美術館所蔵。
  • 『十六むさしで遊ぶ子供』
寛政元年(1789年)、「春朗画」落款。十六むさしで遊戯する童子を描いた摺物で、遊戯盤上には月の大小が判る暦が添えられている[296]
  • 『寛政三弓始(弓矢と的)』
寛政3年(1791年)、「葛飾住 春朗画」落款。
  • 『冷水売り』
寛政5年(1793年)ごろ、「叢春朗画」落款。冷えた砂糖水に白玉を入れた「冷水」を売る少年が木陰で休息する様子を描いた作品[297]。フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールが1896年に上梓した『北斎』にその存在が言及されていたが、永らく存在が確認できなかった作品である[297]
  • 『大筒』
寛政7年(1795年)、「宗理写」落款。
  • 『座敷万歳』
寛政7年(1795年)、「宗理画」落款。
  • 『懐通辰己楼』
寛政8年(1796年)、「百琳宗理画」落款。ベルリン東洋美術館所蔵。
  • 『元結作り』
寛政8年(1796年)、「宗理画」落款。
  • 『花卉』
寛政8年(1796年)、「北斎宗理画」落款。俳句が添えられた珍しい摺物作品[298]。「北斎」の号が見られるもっとも古い作品[299]
  • 『曙艸(吉野山花見)』
寛政9年(1797年)、「北斎宗理画」落款。津和野藩藩主の亀井家に伝わっていた宗理様式時代の摺物作品のひとつ[300]
1797年の摺物『巳待の御札』。「宗理風」と呼ばれる独自の様式を確立させた。
  • 『巳待の御札』
寛政9年(1797年)、「宗理画」落款。
  • 『石なご遊び』
寛政10年(1798年)、「北斎宗理校合」落款。
  • 『亀』
寛政10年(1798年)、「北斎辰政画」落款。宗理から北斎辰政へ改号した際に知人へ配ったとされる摺物[301]。書家の稲葉華溪によって「宗理ぬしの改名に北辰の光りいよいよましなん事を 莟む花こや衆生のもてはやし」という賛が寄せられている[302]
  • 『風呂上がりの母子図』
寛政11年(1799年)、無款。
  • 『屠蘇を飲む福禄寿』
寛政11年(1799年)、「宗理改北斎画」落款。
  • 『宮詣の官女図』
寛政12年(1800年)、「先ノ宗理北斎画」落款。
  • 『女刀鍛冶』
寛政12年(1800年)、「先ノ宗理北斎画」落款。
  • 『玉虫と子安貝』
寛政12年(1800年)、「先ノ宗理北斎画」落款。タマムシコヤスガイともに当時の安産祈願品であり、縁起の良い二物を描いた作品[303]
  • 『笠に蔬菜図』
寛政13年(1801年)、「画狂人北斎写」落款。太田記念美術館所蔵。
  • 『大晦日掛取り』
享和2年(1802年)、「画狂人北斎」落款。
『春興五十三駄之内 關』(1804年)坂の下ヘ一リ半。
  • 『春興五十三駄之内』
享和4年(1804年)、「画狂人北斎画」落款。全五十九図からなる摺物揃物で、複数の狂歌連が出資したと見られ、絵図の中に狂歌がおさめられている[304]
  • 『見立芝居看板』
享和4年(1804年)、「北斎画」落款。
  • 『美人爪切り図』
享和4年(1804年)ごろ、「ほくさゐのふで」落款。
  • 『盆踊り』
享和4年(1804年)ごろ、「画狂老人北斎画」落款。
  • 『菅原の上』
文化2年(1805年)、「九々蜃北斎画」落款。
  • 『山吹と桜』
文化2年(1805年)、「九々蜃北斎画」落款。
  • 『西王母図』
文化3年(1806年)、無款。
  • 『子供の遊び』
文化4年(1807年)ごろ、「葛飾北斎画」落款。
  • 『還城楽』
文化6年(1809年)、「葛飾北斎写」落款。
  • 『七福神』
文化6年(1809年)、「かつしか北斎画」落款。
  • 『山姥と金太郎』
文化11年(1814年)ごろ、「北斎改戴斗筆」落款。
  • 『おし鳥』
文化11年(1814年)ごろ、「北斎改戴斗」落款。
  • 『寿老人』
文化13年(1816年)、「前北斎戴斗筆」落款。
『空満屋連和漢武勇合三番之内』(1820年)に描かれた伍子胥巴御前
  • 『空満屋連和漢武勇合三番之内』
文政3年(1820年)、「北斎戴斗改葛飾為一筆」落款。東京国立博物館所蔵。
  • 『楉垣連五番之内和漢画兄弟』
文政4年(1821年)、摺物揃物、「月癡老人為一筆」落款。
  • 『元禄歌仙貝合』
文政4年(1821年)、摺物揃物、「月癡老人為一筆」落款。
  • 『美人カルタ』
文政6年(1823年)、「真行草之筆意北斎改為一画」落款。
  • 『七代目市川団十郎 二代目岩井粂三郎』
文政7年(1824年)、「かつしかの親父為一筆」落款。
  • 『汐汲み図』
文政13年(1830年)、「北斎改為一筆」落款。太田記念美術館所蔵。
  • 『宝船』
天保4年(1833年)、「前北斎為一筆」落款。

黄表紙

『前々太平記』(1786年)
『しわみうせ薬』(1795年)

本節、特に断りのない文章は島根県立美術館が公開する永田生慈『葛飾北斎年譜』を元に作成された北斎年譜[5]を出典としている。

  • 『白井権八幡随長兵衛 驪山比異(翼)塚』
安永9年(1780年)、作者不詳、「勝川春朗画」落款。東京都立図書館(加賀文庫)所蔵。安永8年(1779年)に肥前座で興行された新作人形浄瑠璃『驪山比翼塚』を要約した作品[305]
  • 『はなし〈柱題〉』
天明2年(1782年)、自惚門人皆山五郎治作、「勝春朗画」落款。正式な表題は不明で、柱に「はなし」と題されていることから、このように仮称される5話の小咄が収められた咄本黄表紙である[306]
  • 『親譲鼻高名』
天明5年(1785年)、可笑門人雀声作、「春朗改群馬亭画」落款。
  • 『我家楽之鎌倉山』
天明6年(1786年)、作者不詳、「群馬亭画」落款。
  • 『前々太平記』
天明6年(1786年)、自惚山人作、「勝春朗画」落款。平住専安が著した軍記物語前々太平記』を元にした黄表紙で、多くの武者絵が収蔵されている作品である[307]
  • 『二一天作二進一十』
天明6年(1786年)、通笑門人道笑作、「群馬亭画」落款。
  • 『昔々桃太郎発端説話』
寛政4年(1792年)、山東京伝作、「春朗画」落款。
  • 『貧福両道中之記』
寛政5年(1793年)、山東京伝作、「春朗画」落款。裕福な家の子が零落し、貧乏な家の子が大成する様を描いた道中記[308]
  • 『福寿海无量品玉』
寛政6年(1794年)、曲亭馬琴作、無款。
  • 『しわみうせ薬』
寛政7年(1795年)、本膳坪比良作、「勝川春朗画」落款[309]。いつの時代であっても金には苦労するという教訓が描かれた黄表紙である[309]
  • 『化物和本草』
寛政10年(1798年)、山東京伝作、「可候画」落款。1792年に上梓された森島中良の『画本纂怪興』をもとにした怪談が収められた黄表紙である[310]
  • 『児童文殊稚教訓』
寛政13年(1801年)、「画作時太郎可候」落款。
  • 『三国昔噺 和漢蘭雑話』
享和3年(1803年)、曼亭鬼武作、「可候画」落款。
  • 『真柴久吉 武地光秀 御伽山崎合戦』
享和4年(1804年)、作者不詳、「勝春朗画」落款。本作は豊臣秀吉を称揚する内容であったため、幕府より絶版処分または出版自粛を申し渡されたと見られ、1804年に絶版処分となった黄表紙で、永らくの間記録上のみの作品であった[311]

春画

『喜能會之故眞通 蛸と海女

春画については基本的に署名が無く、北斎がどの程度春画に携わっていたのかについては判明しておらず、研究者間での統一された見解も無い[312]。『葛飾北斎・春画の世界』を著した美術史研究家の浅野秀剛は、私見であることを断りつつ、『笑本股庫嘉里嫁志』『間女畑』『甲の小松』『富久寿楚宇』『万福和合神』の五作は北斎作であるとしている[313]。浮世絵研究者の林美一リチャード・レインは『絵本春の色』『会本色の嫩』などを北斎の作として取り上げている[314]

喜能会之故真通

『喜能会之故真通』[注釈 29]は、文化11年(1814年)に刊行された春画[315]。林美一や辻惟雄は、筆致が異なるとして北斎作ではなく、三女のお栄か門人の作であろうという立場を取っている[316]。一方で浅野秀剛は画の緩みや弟子任せの箇所があったとしても部分的であり、北斎構想による高い完成度を示した作品であるとしている[317]。この作品のなかで、2匹の蛸に若い海女が襲われている様子を描いた「蛸と海女」が良く知られており、ポルノグラフィにおける「触手もの」の先駆けとも言われている[318]。ほとんど全部が画中の登場人物の台詞で構成されているほか、オノマトペが書き入れられているのが本作の特徴で、喜悦の声や局所から出る音がカタカナで記述されている[317]。後の作品である『万福和合神』の主人公「おつび」「おさね」が一部登場している[319][注釈 30]

富久寿楚宇

『富久寿楚宇』第10図、海女と漁師の交わり。

『富久寿楚宇』は刊行年については不明だが、様式などから文化12年(1815年)から文政前期ごろの作品と推定されている[320]。きわめて高い完成度を誇り、北斎作品とされる春画のうちで、唯一研究者間での見識が一致している作品である[320]。横大判錦絵十二図から成る作品で、鳥居清長の春画『袖の巻』および喜多川歌麿の春画『歌まくら』への崇敬と対抗意識が垣間見える絵作りがなされている[321]。被せ彫りによって作られた『会本佐勢毛が露』『波千鳥』という再版本が存在するが、こちらに北斎自身が関与したかどうかについては判っていない[322]

その他の春画作品

  • 『笑本股庫嘉里嫁志』
天明2年(1782年)の作品とみられ、春画分野における初作とされる[323][324]。序文に「寅の初春 闇雲山人著」、扉絵に「勝春朗画」の隠し落款がある[325]。林美一は闇雲山人は北斎の隠号であるとしている[326]
  • 『絵本春の色』
寛政初期の作品とされ、リチャード・レインは1977年に上梓した自著『北斎の秘画』にて、「勝川春朗」の署名があると言及している[314]
  • 『間女畑』
寛政4年(1792年)ごろの作品と見られる[323]。序文に「鉄棒ぬらぬら」の花押があり、本文中に北斎の俗称である鉄蔵をもじった「隣の鉄ぼう」という人物が登場する[327]尾崎久彌は『北斎肖像の研究』の中で天明元年(1781年)ごろの作品と推定しており、同作に登場する机に伏して寝ている丁髷男が、もっとも古い北斎の肖像画であるとしている[328]
  • 『会本松の内』
浮世絵研究者の林美一は、寛政6年(1794年)ごろ刊行されたとしている[314]。「紫色雁高」落款[314]。付文に「かやば丁のゑいせう」とあることから、鳥高斎栄昌の作ではないかとする説もある[314]
  • 『会本色の嫩』
寛政中期の作品とされ、リチャード・レインは1977年に上梓した自著『北斎の秘画』にて、「紫色雁高」の署名があると言及している[314]
  • 『好色堂中』
寛政12年(1800年)刊行[329]。若い男女の大首絵など八図が描かれた春画で、表題は無く、序文に「好色堂中に序す」とあることから、この名で呼ばれている[329]。図様より、浅野秀剛は本作品の作者について礫川亭永理ではないかと指摘している[330]
  • 『艶本婦他美賀多』
文政2年(1805年)ごろの作品とされ、林美一は北斎の作品としているが、この見解に浅野秀剛は疑義を呈しており、刊行は享和年間(1801年から1804年)ごろとし、文化中期の北斎の作風を先取りするような画から、『好色堂中』と同じく永理の手によるものではないかと指摘している[331]
『つひの雛形』
  • 『つひの雛形』
文化9年(1812年)刊行[332]。北斎の作品かどうかについては見解が分かれている[333]。浅野秀剛は明確に北斎様式を示しており、なんらかの形で北斎が関与しているだろうと指摘している[334]
  • 『東にしき』
文化9年(1812年)ごろの作品と見られ、北斎様式を踏襲しているが、北斎の作品かどうかについては見解が分かれている[333]
  • 『誉おのこ』
文化9年(1812年)ごろ刊行[335]。『欠題組物』と呼称される場合もある[336]。各絵には狂歌が組み込まれており、第1図には小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」を本歌取した「花のいろはうつりにけりなよそ言にうきことかさむ我が恋めかも」という歌が詠まれている[335]。北斎様式に限らず菊川英山などの諸様式が混在した作品となっており、作者の同定は困難を極める[337]
  • 『万福和合神』
文政4年(1821年)刊行[338]。三冊の全図と三つの付文が同一設定のもとで構成され、「おつび」「おさね」という人物を主人公とした長編物語の様相を呈しているのが特徴と言える[339]
  • 『津満嘉佐根』
刊行年不明だが文政前期(1818年から1821年ごろ)ごろと見られている[340]。北斎の作品かどうかについては見解が分かれている[333]
  • 『多満佳津良』
刊行年不明だが文政前期(1818年から1821年ごろ)ごろと見られている[341]。北斎様式を踏襲しているが、北斎の作品かどうかについては見解が分かれている[333]
  • 『偶定連夜好』
文政5年(1822年)刊行の中判錦絵[341]。『縁結出雲杉』と呼称される場合もある[341]。北斎様式を踏襲しているが、北斎の作品かどうかについては見解が分かれている[333]
  • 『陰陽淫蕩の巻』
刊行年不明[342]

関連事項

北斎またはその作品に関連する施設・店舗、作品など。

北斎作品専門の美術館

浮世絵研究家の永田生慈が1990年に島根県鹿足郡津和野町に開館した北斎作品を専門とする美術館[343]。『北斎漫画』の初刷本が津和野で発見されたことにちなんでこの地で開館された[344]。2015年に閉館し、永田が所有する北斎作品2,398点は2017年に島根県へと寄贈された[343]。これらの寄贈品は「永田コレクション」と呼ばれ、島根県立美術館および島根県立石見美術館でのみ公開されている[343]
当時の町長市村郁夫が1976年に長野県上高井郡小布施町に開館した北斎作品を専門とする美術館[344][345]。1966年のソビエト連邦での北斎展が成功裏に終わった後、日本国内で北斎ブームが巻き起こった[346]。これを好機と捕えた市村は1972年にNHKで放送された『オーマイ北斎』に出演した際に「町おこしのために小布施に北斎館を作りたい」と、その意図を答えている[347]。なお、小布施町は北斎の門人高井鴻山の地元であり、晩年の北斎も長期逗留したとされる所縁の地である[344]。絶筆とされる『富士越龍図』など、肉筆画を数多く収蔵している[344]
北斎の出生地であると同時に生涯の多くを過ごした地であるとして2016年に東京都墨田区に開館した北斎作品を専門とする美術館[348]ホノルル美術館の研究員などを務め、世界的な北斎作品コレクターであったピーター・モースが蒐集した作品(ピーター・モースコレクション)や、 浮世絵研究家の楢崎宗重が蒐集した作品(楢崎宗重コレクション)などを展示している[349]

北斎を主題とした作品

戯曲

映画

小説

漫画

脚注

注釈

  1. ^ 曲亭馬琴の『曲亭来簡集』には、中島伊勢の養子となったのは壮年期のこととしている[5]
  2. ^ 『画狂北斎』の著者安田剛蔵は、『曲亭来簡集』の記述を精査し、北斎は叔父の中島家にいったん養子に入った後、ほどなく川村家に戻ったと推測している[7]
  3. ^ 割下水とは、田畑の用水路として使用されていた溝を改修した掘割を指す[8]
  4. ^ 林美一は最初の妻を娶ったのは天明2年(1782年)か天明3年(1783年)ごろではないかと想定している[14]
  5. ^ お栄は生没年不詳の人物であり、その誕生年については諸説ある[15]
  6. ^ 画姓の「叢」の読みについては諸説あり、通説では「くさむら」とされるが、飯島虚心は「むぐら」、安田剛蔵は「むら」を支持している[17]
  7. ^ 一般的には『浮世絵類考』や『増補浮世絵類考』で式亭三馬が書き入れた内容を根拠として、春章存命時に勝川派を破門となったとする説が有力視されている[17]
  8. ^ ただし、「九十老人卍筆」の落款がある作品だけでも、現在15点ほども確認されている。当時は数え年なため、正月から死ぬまでの5ヶ月弱でこれだけの作品を描いたことになる。北斎の生命力が尽きかけていること、年紀がない作品や現在失われた作品もあるだろうことを考慮すると、これらの中に贋作が含まれていることを指摘する見解もある[85]
  9. ^ この画号を用いた作品は確認されていない[92]
  10. ^ 北斎の宗理使用期に菱川姓の使用は見られず、飯島の誤認ではないかと指摘されている[98]
  11. ^ この画号を用いた作品は確認されていない[92]
  12. ^ この画号を用いた作品は確認されていない[92]
  13. ^ 門人である北為の画号であり、北斎の画号ではないとの校注あり[99]
  14. ^ この百庵は『続俳家奇人談』に載り、嘉永6年版『俳林小伝』にも見える人物で、転居百回の後、下谷七軒町で亡くなったという[108]
  15. ^ 『葛飾北斎伝』では、後妻との間の子は一男一女とし、一説に一男二女としている[115]
  16. ^ 北斎の叔父にあたるという説もある[120]
  17. ^ この名称は説のひとつであり、確定はしていない[116]
  18. ^ この名称は説のひとつであり、確定はしていない[116]
  19. ^ この名称は説のひとつであり、確定はしていない[116]
  20. ^ 落款には「北斎娘辰女筆」とある[128]
  21. ^ これらの作品はライデン国立民族学博物館に29点、フランス国立図書館に25点が分蔵されている[164]
  22. ^ 柳亭種彦が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)刊行説、エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などがある[176]
  23. ^ 10年用パスポートが24作品、5年用パスポートが16作品採用[189]
  24. ^ 永寿堂の広告に「前北斎為一筆」の記述あり。
  25. ^ これは、この年の年紀ある北斎作品が小布施に遺存していること、この頃に描かれた『日新除魔図』が小布施に保存されていることなどを根拠としている[246]
  26. ^ フリーア美術館には他にも北斎肉筆画とされる作品が多くあるが、これらは北斎の真筆に比べると、どことなく「ドライ」な画風で、筆勢の力強さが遥かに劣っており、華やかさも創造的な面白さもなく、凝縮力のある劇的な観点に欠けるとして、これらを贋作とする意見もある[256]
  27. ^ 題名の「椿説」は「珍説」の意[261]
  28. ^ 三枚続の図が一図あるため、三十図としている書籍もある[291]
  29. ^ 読みは「きのえのこまつ」で『甲の小松』と書かれている書籍もある[313]
  30. ^ 「おつび」「おさね」は『富久寿楚宇』にも登場する[319]

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参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク