涼茂

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涼茂
後漢
太子太傅
出生 生年不詳
兗州山陽郡昌邑県
拼音 liáng mào
伯方
主君 曹操
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涼 茂(りょう ぼう[1])は、中国後漢末期の政治家。曹操に仕えた。伯方本貫兗州山陽郡昌邑県。

生涯[編集]

若年から学問を好み、論議においては常に経典に依拠して是非を唱えた。曹操に招聘されて司空となり、高第に挙げられ、侍御史に補された。当時、泰山郡には盗賊が多かったが、涼茂が太守になると、10ヶ月の間に千家余りも移住者が増えた。

のち楽浪太守に転任。任地へ向かう途中で遼東公孫度に拘留されたが、あくまで屈服しなかった。曹操がを留守にした時、公孫度がその攻撃を図ると涼茂は「曹公は国家の危敗を憂い、人民の苦毒を哀れみ、天下のために義兵を率いて残賊を誅滅しています。功は高く、徳は広く、無二の方と言うべきです」「将軍(公孫度)は挙兵して西に向かおうと(曹操に戦争を仕掛けようと)していますが、それでは朝を待たずに存亡は決するでしょう」と咎めた。公孫度はこの言に従って挙兵を中止したという[2]

召還された後、魏郡太守や甘陵国相を務め、いずれの任地でも治績を挙げた。曹丕が五官中郎将になると、涼茂はその長史となり、また左軍師に移った。建安18年(213年)、が建国されると同国の尚書僕射となり[3]、後にまた中尉・奉常に移った。曹丕が東宮になると太子太傅となり、太子少傅何夔らと共に、太子や諸侯の官属を選抜した[4]

没年は不詳だが、在官中に死去した。延康元年(220年)3月には涼茂らの早逝と子孫の衰微を憂い、彼らの男子を郎中に任じる布令が出されている[5]

羅貫中の小説『三国志演義』には登場しない。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本語読みはちくま学芸文庫正史 三国志 2』308頁より。
  2. ^ ただし『三国志』注釈者の裴松之は、曹操が鄴攻略以降に遠征した時には、公孫度は既に没していると指摘する(公孫度の死去と曹操の鄴攻略が共に建安9年)。
  3. ^ 『三国志』魏書 武帝紀、及び注に引く『魏氏春秋』 s:zh:三國志/卷01
  4. ^ 『三国志』魏書 何夔伝 s:zh:三國志/卷12#何夔
  5. ^ 『三国志』魏書 文帝紀 s:zh:三國志/卷02