江良房栄
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正12年(1515年) |
死没 | 天文24年3月16日(1555年4月7日) |
官位 | 丹後守 |
主君 | 大内義隆→陶晴賢 |
氏族 | 江良氏 |
兄弟 | 賢宣、房栄 |
子 | 彦二郎、白井晴胤[注釈 1]室 |
江良 房栄(えら ふさひで)は、戦国時代の武将。大内氏、陶氏の家臣。
生涯[編集]
大内義隆、次いで大内義長を傀儡とする陶晴賢に仕えた。名前の「房」の字は晴賢の初名「隆房」の偏諱を与えられたものと推測される[注釈 2]。
度々大将として軍を率いて安芸国や備後国に幾度も出陣して活躍した。天文20年(1551年)の大寧寺の変では、宮川房長と共に軍勢を率いて防府から山口に侵攻した。
天文21年(1552年)2月28日、陶晴賢は房栄を奉行として、厳島の商業振興に関する七ヵ条の掟を出している[1]。
天文22年(1553年)10月に、陶晴賢の命で備後旗返山城の城代を任じられる。
義隆の死後に、吉見正頼が反乱(三本松城の戦い)を起こすと、天文23年(1554年)に毛利氏も大内・陶氏の勢力から独立する(防芸引分)。毛利元就は陶方の重臣である房栄を味方にすべく内応の打診をし房栄は天文24年2月、内応に応じたが、見返りとして内示された300貫の給地では満足せず、さらに加増を要求していたことが知られる(『毛利家文書』709号)[2]。そのため元就は服属後の房栄の態度に不安を感じていた[2]。そこで元就は房栄内応の事実を晴賢に密告したとされる[3]。
同年3月、房栄は警固衆(水軍)140艘余りを率いて佐東郡や厳島を襲撃する[4]。しかし、岩国に帰陣した翌日の3月16日に琥珀院にて、晴賢の命令を受けた弘中隆包らによって暗殺された[3]。これにより、兄・賢宣を除く江良一族が一掃された。房栄は元就の実力を熟知しており、陶に毛利との和平を説いたが、元就が房栄から元就に宛てた内通の偽文書をつくり、これを陶方に握らせその裏切りを信じさせたとも記されている(『陰徳太平記』巻24)[5]。
宮本義己は「元就としては、あえて無理をして房栄を味方に加える必要はなかった。したがって晴賢に謀殺させたことは、敵方の帷幄を消し去ったばかりか、晴賢家中の結束にクサビを打ち込む効果があった」と主張している[3]。
生き残った兄・賢宣は、晴賢が厳島の戦いで討たれた後も大内家に仕えたが、防長経略で山崎興盛らと須々万沼城に籠城、攻め寄せた毛利氏に降伏した。
居館[編集]
現在の周南市鹿野にある本生山龍雲寺の境内に江良氏居館跡があり、かつては堀・土塁・櫓などの城郭構造を備えていたとされる[6]。陶弘長が長門国守護代に任じられた時に江良広慶が小守護代(守護代の代理)となった後、江良賢宣まで同居館が使われていた(『長門国守護代記』)。
関連作品[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 河合正治『安芸 毛利一族』新人物往来社、1984年。
- 山本浩樹『西国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史12〉、2007年。
- 宮本義己「毛利元就「調略戦」の神髄 人道主義に根ざした合理性の追求」(『毛利戦記 歴史群像シリーズ』49号、1997年)