死と文化

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C. Allan Gilbertによる"All IsVanity"。生と死の間の絡み合いを示唆している。
歌川芳艶による崇徳天皇の絵。怨霊で有名な同氏だが、怨霊は本質的には不完全な生が死に直面して起こる。

死と文化(しとぶんか、death and culture)では、世界中の様々な文化におけると、その文化、死に関する倫理的問題等について取り上げる。とは、生命維持プロセスの恒久的な終結、すなわち人間のすべての生物学的システムが機能しなくなった時を指す。死とその精神的な影響は、世界中であらゆる方法で議論されている。ほとんどの文明においては、霊的な伝統を通し、発達した儀式で死者を処分している。

遺体処理[編集]

火葬

ほとんどの文化ではエンゼルケアが終わった後、肉体の著しい崩壊が始まる前に親族や友人などによって、体の儀式的な処分を手配される。アメリカ合衆国では、これはしばしば火葬土葬のどちらかとなっている。

種類[編集]

火葬
土葬
鳥葬
ミイラ化 - 多くの宗教で聖者や偉人の遺体を長期間保存し、崇拝対象とした。
  • 【キリスト教】不朽体
  • 【仏教】即身仏
  • 【インカ】皇帝の遺体が高度な技術でミイラ化され、聖地であり首都のクスコに祀られた[1]
  • 【エジプト】オシリス神のように死後に復活するため保存された[2]。神殿に祀るため、神の化身である数百万匹の動物が人工的にミイラ化された[3]

人文科学・社会科学[編集]

歴史学[編集]

歴史学者かつホロコースト研究者ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』によれば、死や殺害価値意味を見出すことには危険が伴う[4]。一つは、価値・意味といったものが、死や殺害と同一視される危険である[4]。もう一つは、そのような価値や意味を求めることで、死亡数や殺害数がさらに増加する危険である、と言う[4]

現代の記念文化は、記憶が必ず殺人を防ぐものと思い込んでいる。これほど多くの人々がを落としたのなら、何か途方もない価値のあることのために死んだはずだと思いたくなるのが人情だ。公開して、発展させて、適切な形で政治的な記憶として残していけるはずだと。

そうすると、途方もない価値民族ないし国家の価値へと変わる。何百万人もの犠牲者は、ソ連が「大祖国戦争」に勝つため、アメリカが「よい戦争」に勝つために死んだにちがいない。ヨーロッパ平和主義的教訓を学んだはずだ。ポーランド自由伝説を、ウクライナ英雄を持つ必要があったのだ。ベラルーシはその美徳を証明しなければならず、ユダヤ人シオニストとしての使命を果たさなければならなかった。

しかしあとからこのように正当化することは、国政や国民心理、民族心理にまつわる重要な真実を伝えはするが、記憶そのものとはほとんど関係がない死者は記憶されるが、死者は覚えていない。ほかの人間[要曖昧さ回避]を持ち、彼らの死に方を決めた。

後世もやはりほかの者が彼らの死の原因を決めている。殺害から意味が引き出されれば、さらなる殺害さらなる意味を生み出す危険性が出てくる[4]

文学・芸術に描かれた死[編集]

オフィーリア』、ジョン・エヴァレット・ミレー画(1852年)
フィリップ・ド・シャンパーニュの油彩画『ヴァニタス』 ("Vanitas"、17世紀)。花・髑髏・砂時計がそれぞれ命・死・時間を象徴している。

文学作品の多くは、死とその風景をモチーフ、あるいは利用してきた。

モチーフとしての用い方としては以下のようなタイプがある[要出典]という。

死の風景は時代と場所によってその描かれ方に類型が見られる。ギリシャ叙事詩においては、戦士達の誇り高き死が頻繁に現われる。近代フランス文学では、例えば、『ゴリオ爺さん』や『ボヴァリー夫人』に見られるようなベッドの上の死の情景と、陰で遺産の計算をする看病人逹の冷やかな様子が頻繁に描かれた。日本の私小説作家達は、自殺心中のモチーフを頻繁に用いた。

文学的な人物の死とは何か、というテーマに関しては、文学理論家のミハイル・バフチン(1895-1975年)は「の条件は空間的な境界と時間的な終りを持つことであり、死は文学作品の人物を美的形象とする契機となる[要出典]」という考え方を提示した。

西洋では20世紀の前半に、ハイデッガーやユンガーブランショらが、死すべき存在としての人間を肯定的に捉えようとした。

古井由吉(1937年-)は『仮往生伝試文』をはじめとする作品群の中で、死と自己とのかかわり合いを特異な文体で描き出した。死が、対立事項でもなく、恐怖の対象でもなく、ともかくも生が続く限り常にからめとられざるを得ないもの[要出典]として、描かれている。

死にまつわる様々なイメージ[編集]

死の舞踏ハンス・ホルバインによる版画。(1493年)
タロットの「死神」。15世紀の作品。

かつて、死は死神悪魔によってもたらされる、というイメージで理解されたり語られたりすることも多かった。 ロシア語で「死」を意味する単語(смерть)が女性名詞であるため、ロシアでは、死は一般的に老婆の姿でイメージされる。

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では、死はで表現されることが多い。トリアージでは、死亡及び救命不可能をあらわすカテゴリー0 は黒で表現される。喪服は一般に黒であり、訃報は俗に黒枠(black letter)とも呼ばれる。これは欧米において死者が白い服を着ているというイメージから、白が死を連想させる色として忌み嫌われたため[要出典]である。死神の像は、鎌を持った髑髏が、黒いマントを着た姿で表現される。これも花嫁の衣装が魔物から身を守るために幽霊の着るような白い色をしているというのを鑑みれば、むしろ死神は死者ではなく異界からの殺人者(生者)の象徴であるといえよう[要出典]。 また、のイメージである系統の色が死の表現として用いられる場合もあるが、逆に血の色のイメージから活発、健康といった生のイメージをも指す場合も多い。 中国では白が喪服の色であるため、白い色が死を連想させやすい。また、日本でも西洋の文化が急速に入ってくるまでは喪服も死装束も白であった。

数字[編集]

また死と数字については、日本など漢字文化圏の国では数字のの読みが「死」を連想させることから、ホテル、旅館、モーテル、国民宿舎などの宿泊施設の客室番号などで「4」が避けられることがある。(階番号は除く(例:401号室))更に、日本では、数字の 42(四十二)の「し・に」の読みが「死に」に聞こえるとして凶運とされ、客室番号やナンバープレートでは「42」が避けられる場合が多い。(プロ野球等のスポーツ背番号においても「42」は外国人選手が付ける場合が多い)。一方キリスト教圏では13が避けられる。これはキリストが十字架に掛けられ処刑されたきっかけとなったユダに関連づけられていることがある[6]

タロット[編集]

タロットカードにおける死のカードは、死そのもののほか、破滅、損失、失敗、災難、危険、愛の終わりなどを象徴する。マルセイユ版タロットカードでの死は「13番」と呼ばれ、明確な名前はない。それは「死」を口に出してはならないからである。

再生、安らぎのイメージ[編集]

死は「新たな旅立ち」や「再生」を意味することもある。この中には大地への帰還(地より生まれて地に帰る)の思想のほか、再生に絡み胎内回帰的なイメージを持つ場合もある。沖縄亀甲墓女性子宮を意味しており、胎内回帰と再生を祈ったシンボルであるという。この他、死を「永遠の安らぎ」や「安息」と称することもある。

人々は元来、日常的に多くの人の死を自分の眼で見ていた。だが、今日の日本を含む先進国に限れば、病気や怪我による死は病院の中で扱われ、老衰による死は老人ホームの中で扱われるなど、死は人々の日常から切り離されており、人々は死について曖昧模糊としたイメージしか持たない傾向が見られる、という[要出典]。死が常に日常と隣り合わせにあった時代には、より密接で現実的なイメージを持っていた。 「現代社会では、死は記号化され、曖昧なイメージしか持たない[7]」と述べる人もおり、「終わり」や「開放」[要出典]、更には死のイメージにカタルシスを求める者すら見られる、ともされる。

死についての名言[編集]

  • 「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(論語
  • 「死は人生の終末ではない 生涯の完成である」(マルティン・ルター
  • 武士道というは、死ぬことと見付けたり」(葉隠
  • 「死に至る病とは、絶望のことである」(キェルケゴール
  • 「吾死スルトモ自由ハ死セン」[8](「板垣死すとも自由は死せず」)(板垣退助
  • 「人は死ぬ。だが死は敗北ではない。」(ヘミングウェイ
  • 「戦士は死ぬ。だが、思想は死なない。」(フィデル・カストロ
  • 死後の世界[編集]

    古代エジプトの『死者の書』は死者のための死後世界マニュアルであった。

    宗教では、いわゆる「死」とは、あくまで現世における肉体が滅ぶことに過ぎず、霊魂)は永遠に生き続ける、としていることが多い。多くの文化で、死に関して様々な表現を用いている。「死」は、信仰や世界観が異なると表現も大きく異なる。

    古代エジプト[編集]

    古代エジプトでは、人は死によってが一旦肉体を離れるものの、再び同一の肉体に戻ってくるとされていた。再び戻ってくるための肉体を残しておくためにミイラを作成した。

    キリスト教[編集]

    ダンテの『神曲』。主人公とベアトリーチェが天国の至高天に臨む場面。(19世紀の挿絵)

    キリスト教においては、「死」とは人類の祖であるアダムとイブが神から離反したことによる罪とされている。イエス・キリストを信じることでこの罪は清算され、永遠の生命を得て復活すると考えられている。多くの教派ではそれらを簡便に天国に行くこと、としていることが一般的である。多くのキリスト教では「帰天」「昇天」「召天」と表現し、正教会では「永眠」と表現する。非キリスト教徒(洗礼を受けていないことを基準とする)の場合は地獄煉獄へ行くとされることも多いが、「復活する」という教義を根拠に「死」を無存在状態と定義し、永遠の責め苦たる地獄を否定する教派も存在する(聖公会セブンスデー・アドベンチスト教会など)。洗礼を受ける前に死んだ幼児の扱いは歴史的に議題となってきた。キリスト教徒の悪人の行方は宗派や神学者ごとに異なる。

    聖書[編集]

    アダムが罪を犯した際、「あなたは塵だから塵に帰る」と神に言われた[9]。死者は基本的には何も出来ない状態とされている[10]。死人には復活の可能性がある事をイエスは教えた[11][12][13]。復活の奇跡を何件か行なっており[14][15][16]、イエス自身も復活した事になっている[17][18][19][20]。死は「最後の敵」と形容され、除き去られる事になっている[21][22]。死者は罪から開放されているとパウロは述べた[23]

    インド発祥の宗教[編集]

    古代インドのヴェーダ聖典においては、人間の肉体は死とともに滅するが、その霊魂(アートマン)は不滅だと信じられていた[24]ウパニシャッドでは、肉体の死の後、アートマンの前には2つの道があり、一方はブラフマンに至る道であり、他方は地上において再び1つの肉体を得て再生する道である、とされた(輪廻)。

    「入寂」する仏陀

    釈迦が説いた教え(仏教)でも、インド哲学に基づく輪廻の考えを引き継ぐが、常一主宰の自我(アートマン)の存在を否定して無我説に立つ。釈迦は「死んだら無になる」といった唯物論(断見)を、六師外道として位置付け否定している。

    日本の神道と仏教[編集]

    古事記』においては死の起源は、イザナギが、カグツチノカミを産んで「神避り」したイザナミ黄泉の国へと再会しに行き、その姿を見て慄いた事により追われ、現界へ逃げ帰る時に、イザナミが「1日に1000人殺す」と脅した事とされている[25]。一方でイザナギは「1日に1500人を生まれさせる」と返しており[25]、これは世代交代の起源であると見ることができる。この説話にちなみ、イザナミには黄泉津(よもつ)大神の異名が与えられている[26]

    神道では、黄泉の国・彼岸へ行くと考えられたりもした。日本では、神道的な世界観に基づいた表現である、「冥土へ旅立つ」「帰幽」(幽界へ帰る)などの表現を用いる人も多い。また日本では、古代に言霊の思想などもあり、「死」という語を声に出したり書にしたためたりすることは忌まわしいと考え、これを禁忌(タブー)として扱ってきた。

    阿弥陀二十五菩薩来迎図。鎌倉時代知恩院所蔵。

    日本の仏教では、宗派により考え方は異なっており、輪廻転生があり、悟りを得た者は輪廻から解放される(解脱する)としている宗派もあるが、輪廻転生はしないという宗派もあり[27]、そのような事柄については、どちらだとも説明しない宗派もある[28]。 ただ、信者の死は、輪廻転生思想に準じた「あの世へ行く」「他界」「往生」「成仏」などと言うことが多い。高僧の死は「寂」「入寂」「入滅」「遷化」などともいった。

    また「鬼籍に入る」という、勧善懲悪的な世界観に基づいた表現、あるいは仏教での表現、も用いられることがある。

    その他の日本における死の表現[編集]

    上記の各宗教における表現以外にも、様々な場面で、「死」という表現に代わる婉曲的な表現を用いる。親族の死には「不幸」などの表現が用いられることが多い。場面に応じて、「臨終」「物故」「亡くなる」などとも言う。又、「逝く」「逝去」「世を去る」「帰らぬ人となる」など「行ってそのまま帰らない」という言い方や、「土に帰る」など、様々な表現が用いられてきた。なお、「逝」の字義は「行ってそのまま帰らない」である。

    日本では病院で入院患者が死亡すると、医師看護師は死亡患者と同室だった他の入院患者に対して「〜さんはお帰りになりました」といった穏やかな表現をつかうことが多い[29]

    「不幸」はそれ自体が死を意味する語だが、不幸な境遇や異常な状況下で死ぬことにも、当然のことながら多くの婉曲表現が用いられてきた。無念の死を「果てる」、空しい死を「朽ちる」、戦場での死を「散る」、旅先での死を「客死する」、さらにそれが辺鄙な地や思いがけない場所の場合は「行き倒れる」とも言った。内心では死んでしまえと思うような奴や、世間に害を成す悪人や罪人の死にさえ、日本人は「くたばる」という間接表現を使って「死」そのものを口にすること避けてきた。ただし、「万死に値する」といった表現もあり、程度問題である。

    チベット[編集]

    チベットには『死者の書』があり、死後の世界でどう対処すればよいのか、それを読み学ぶ。チベットのある宗派では、人は病などで死期が近づくと家族からは離れて僧侶と2人きりで時を過ごすという。僧侶は枕元に座り、まさに死の時にどうすべきかを繰り返し説く。が見えるので、迷わずそのの方向へ向かってまっすぐに進め、現世に残した家族に執着して立ち止まったりしてはいけない、と説くという。

    現世的な身分の上下を重視した人々[編集]

    現世での政治的な身分の上下に拘る者たちは、死の表現まで身分ごとに異なる表現を用いた。中国の古典の『礼記』曲礼篇によると、「天子の死を崩(ほう)と曰(い)ひ、諸侯は薨(こう)と曰ひ、大夫は卒(そつ)と曰ひ、は不禄(ふろく)と曰ひ、庶人は死と曰ふ」とある。これにならい、日本でも古くから、王や女王および四位五位位階を持つ貴人の死を「卒去(そつきょ)」と言い、皇族三位以上の公卿の死を「薨去(こうきょ)」、最高権力者である天皇皇帝の死は「崩御(ほうぎょ)」や「登遐(とうか)」などとも表現してきたという。また、貴人が死ぬことは「身罷(みまか)る」、「お隠れになる」とも表現されてきた。

    三国志の著者陳寿は、当時の歴史観で正統とされるの皇帝に対し「崩」の字を用い、異端とされたの皇帝は諸侯として「薨」の字を用いた。しかし自らが仕えたの皇帝には、『尚書』において帝舜に用いられた「殂」の字を用いた。この字は「崩」に通じる。

    脚注[編集]

    1. ^ Heaney, Christopher (2015), "The Fascinating Afterlife of Peru's Mummies," http://www.smithsonianmag.com/travel/fascinating-afterlife-perus-mummies-180956319/, accessed 17 Mar 2017
    2. ^ 著:近藤二郎 「決定版ゼロからわかる古代エジプト」 p71
    3. ^ Egyptian Animals Were Mummified Same Way as Humans”. news.nationalgeographic.com. 2008年11月2日閲覧。
    4. ^ a b c d スナイダー, ティモシー 著、布施由紀子 訳『ブラッドランド:ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』筑摩書房、2015年、267頁。ISBN 978-4-480-86130-6 
    5. ^ 評論家小説家笠井潔は、「推理小説は第一次世界大戦が生んだ無意味な死体の山から生まれた[要出典]」と述べたという。
    6. ^ 13 (忌み数)
    7. ^ 養老孟司 2004.
    8. ^ 板垣退助は暴漢に襲われた後、起き上がり、出血しながらこう述べたという。当時、板垣の動向を偵察していた岐阜県御嵩警察署の御用掛の岡本という男が提出した「探偵上申書」[1](『公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年』に収められている文書)にそう明記されている。出典:国立公文書館アジア歴史資料センターHP
    9. ^ 創世記(口語訳)#3:19
    10. ^ 伝道の書(口語訳)#9:5,6
    11. ^ マタイによる福音書(口語訳)#22:31,32
    12. ^ ヨハネによる福音書(口語訳)#5:28,29
    13. ^ ヨハネによる福音書(口語訳)#11:25
    14. ^ マルコによる福音書(口語訳)#5:35-42
    15. ^ ルカによる福音書(口語訳)#7:12-15
    16. ^ ヨハネによる福音書(口語訳)#11:38-44
    17. ^ マタイによる福音書(口語訳)#27:64
    18. ^ マタイによる福音書(口語訳)#28:6
    19. ^ マタイによる福音書(口語訳)#28:11-15
    20. ^ 使徒行伝(口語訳)#4:2
    21. ^ コリント人への第一の手紙(口語訳)#15:26
    22. ^ ヨハネの黙示録(口語訳)#21:4
    23. ^ それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。ローマ人への手紙(口語訳)#6:7
    24. ^ 吹田隆道『ブッダとは誰か』2013年、41-44頁。ISBN 978-4393135686 
    25. ^ a b 古事記』 鈴木種次郎 編 三教書院 p.12(国立国会図書館)
    26. ^ 古事記』 鈴木種次郎 編 三教書院 p.13(国立国会図書館)
    27. ^ 中には、死者の全てが成仏すると考える宗派もある。
    28. ^ ブッダは来世があるとも来世は無いとも明言しなかった、ともされている。そのような姿勢を「無記」という。知らないことや語り得ないことについては断定的に語ることは避けるという姿勢である。
    29. ^ ただし医師や看護師の間ではドイツ語で死亡を意味する「ステルベン」またはそれを動詞化して「ステる」という隠語が用いられることもある。

    関連項目[編集]