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川島 栗斎(かわしま りっさい、1755年(宝暦5年)- 1811年9月9日(文化8年7月22日))は、江戸時代の儒学者・神道家。名は正臣・寛正、のち直正。通称は専蔵、栗斎・清々翁と号した[1]。
来歴・人物[編集]
近江国大津で生涯を送る。
山崎闇斎学派の奥野寧斎、のち西依成斎に学んだ。文化8年に死去(享年57)。大津の傳光院に葬られた。
門人に上原立斎・内堀英長・中村益斎等がいる。著書に『撃壌集』『喪葬私考』『或問雑説』等があり、『論語講義』『神代巻講義』他、多くの講義録が伝わっている[2][3]。
- ^ 大津市私立教育会(編)『大津市志』?巻、淳風房、1911年[要文献特定詳細情報]
- ^ 近藤啓吾「川島栗斎所講『論語講義』について―崎門朱子学概説―」『続々山崎闇斎の研究』神道史学会〈神道史研究叢書〉、1995年、[要ページ番号]
- ^ 松本丘「大津崎門派 川島栗斎―伝記・著述及び学問思想の一斑―」『皇学論纂』(皇學館大学創立百四十周年・再興六十周年記念)皇學館大学、2022年、pp.371 - 409