大平晟
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大平 晟(おおだいら あきら、1865年7月22日 - 1943年1月19日[1])は、日本の教育者、登山家。新潟県小千谷市出身[2]。清津峡の名付け親。幼名は友三郎[1]。
来歴[編集]
1887年(明治20年)に新潟師範学校を主席で卒業後、片貝小学校、高梨小学校の訓導・校長として生涯を教育一筋に従事した[2]。教え子の中には日本山岳会発起人の一人である高頭仁兵衛(高頭式)がいる。
1878年(明治11年)に学友と米山へ登って以来本格的な登山を始め、1906年(明治39年)に日本山岳会に入会し(会員番号31)、高頭らと共に白馬岳、針ノ木岳、立山に登る[3]。日本山岳会の会報『山岳』には第1年第1号から紀行文を寄せるなど積極的に活動に寄与した。
日本の近代登山黎明期に新潟県内や日本各地の山に数多く登り、主に日本山岳会の活動を通じて世に広く知らしめた。他にも樺太(鈴谷岳)、朝鮮半島(金剛山)、台湾(玉山、南湖大山、大屯山)といった山々に先駆的な足跡を残した[3]。
1919年(大正8年)には、ウォルター・ウェストン、志賀重昂に続いて日本山岳会3人目の名誉会員に推挙される[3]。
1935年(昭和10年)の夏には、功績を讃えて日本山岳会および新潟県内の登山家らによって苗場山の山頂付近に寿像碑(レリーフ)が建てられた[2]。
1970年(昭和45年)には、羽下修三(羽下大化)が保管していた苗場山頂のものと同型のレリーフが小千谷市公民館へ贈られた[1]。