塩田泰介

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塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年11月10日1938年2月5日)は、日本造船工学者、実業家。工学博士

三菱造船常務取締役[1]

経歴[編集]

岡山県赤坂郡今井村(現・赤磐市今井)に正好家の四男として生まれる。眞徳小学校に在籍していた1878年、松田金次郎の書生として上京する[注釈 1]

泰介は上京後すぐに松田の転勤に伴って大阪に行き、1881年(明治14年)に大阪商船学校に入学。数学や航海術を本格的に学び、造船製図手になる。

1887年に帝国大学工科大学造船学科に入学。端連の長男である花房義質子爵の書生となる。

帝大卒業後は三菱合資会社に造船技師として入社し、長崎に赴任。1895年、端蓮の妹である塩田鶴の養子となり塩田姓を名乗る。1897年からは造船事業視察のためイギリスに出向。

日本初の大型航洋商船である常陸丸の建造を建造主任として率い、その後も阿波丸加賀丸大冶丸などの建造主任を務める。1907年に三菱神戸造船所所長、1911年に三菱長崎造船所所長、1914年に三菱下関造船所所長を歴任。

1915年に東京帝国大学から工学博士号を授与される。同年に三菱造船本社常務取締役に就任。その後も日本鉄鋼協会会長、帝国海事協会理事などの公職につく。

1938年に逝去(70歳)。墓所は東京都府中市多摩霊園(9-1-2-18)にある[2]

家族[編集]

  • 父・正好熊五郞 ‐ 岡山県平民。[3]
  • 妻・小百合 ‐ 陸軍軍医監・前田政四郎長女。[4]
  • 養子・田鶴子 ‐ 小百合の妹。[4]
  • 養子・礼 ‐ 田鶴子の婿(のち離縁)。渡辺渡の二男。三菱製鉄社員。[5][4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 松田金次郎は初代岡山市長を務めた花房端連の次男で、のちに海軍造船技官を務める松田重直である。当時の松田はイギリスで造船術を学んで帰国し横須賀海軍工廠で勤務していた。

出典[編集]

  1. ^ 井上洋一郎「日本近代造船業確立期における三菱長崎造船所」『経営史学』1968年3巻1号、pp.33 - 50
  2. ^ 塩田泰介 - 歴史が眠る多磨霊園
  3. ^ 塩田泰介『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  4. ^ a b c 工学博士塩田泰介『大日本博士録』5巻、発展社、1930、工学p173-174
  5. ^ 人事興信録 第11版(昭和12年) 上「塩田泰介」

参考資料[編集]

関連文献[編集]