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呉成

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呉 成(ご せい、生年不詳 - 宣徳8年12月5日1434年1月15日))は、明代軍人本貫遼陽府遼陽県

生涯[編集]

遼陽行省右丞の通伯の子として生まれた。もとの名は買驢といった。洪武20年(1387年)、ナガチュ麾下の全国公観童が明に降ると、通伯と買驢の父子もともに降った。買驢は姓を呉、名を成と改めた。総旗となり、たびたび北伐に従軍した。建文元年(1399年)、永平衛百戸に任じられた。燕王朱棣に降り、靖難の変に従軍して戦功を挙げ、都指揮僉事に累進した。

建文4年(1402年)、永楽帝(朱棣)が即位すると、呉成は都指揮使に任じられた。永楽8年(1410年)、永楽帝の漠北遠征に従い、オノン川オルジェイ・テムルと戦った。アルクタイに対する征戦に従い、朱栄の兵と合流して先鋒をつとめ、闊湾海まで追撃した。召還されると、都督僉事に進んだ。さらに三たび永楽帝の漠北遠征に従った。洪熙元年(1425年)1月、後軍左都督に進んだ[1]。陽武侯薛禄に従って大松嶺に遠征し、先鋒をつとめて、功績を挙げた。7月、清平伯に封じられ、世券を与えられた[2]。宣徳元年(1426年)、漢王朱高煦が反乱を起こすと、呉成は楽安の征討に従い、薛禄とともに先鋒をつとめた。反乱が平定されると、呉成は興和に出向して守備した。呉成は狩猟を好んで防備を怠り、猟に出た隙に敵が城に侵入し、妻子を拉致して去った。宣徳帝はこの報告を受けたが、呉成を処罰しなかった。まもなくアルクタイが明に朝貢すると、呉成の家族の身柄が返還された。宣徳2年(1427年)5月、呉成は副総兵となり、食糧輸送を護衛して開平に赴いた[3]。宣徳3年(1428年)9月、宣徳帝が北征すると、呉成は従軍してウリャンカイを寛河で破った。宣徳4年(1429年)2月、清平侯に爵位を進めた[4]。宣徳8年12月甲寅(1434年1月15日)、死去した[5]。渠国公の位を追贈された。は壮勇といった。

子の呉忠が先だって死去していたため、呉忠の子の呉英が清平伯の爵位を嗣いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻18
  2. ^ 『国榷』巻19
  3. ^ 『国榷』巻20
  4. ^ 『国榷』巻21
  5. ^ 『国榷』巻22

参考文献[編集]

  • 明史』巻156 列伝第44