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右田 隆次(みぎた たかつぐ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。大内氏庶流右田氏の一門。
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周防国の戦国大名・大内義隆に側近として仕えた。
天文19年(1550年)8月の仁壁神社と今八幡宮で開催される例大祭に参詣する主君・義隆と相良武任を陶隆房(陶晴賢)方が襲撃するという噂が流れ、代理として隆次が参詣した。
翌天文20年(1551年)の大寧寺の変では大内義隆を守って、山口から長門国大寧寺まで義隆親子を警護し、身辺を守って討死した。
辞世の歌は「末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは」。
参考資料[編集]
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