匡才

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匡 才(きょう さい、1188年 - 1252年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。

元史』には立伝されていないが『雪楼集』巻5「匡氏褒徳之碑」にその事蹟が記され、『新元史』にはこれらを元にした列伝が記されている。

略歴[編集]

匡才は邳州の出身で、元々は金朝に仕えて武略将軍に任命された人物であった[1]。モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの親征によって1232年壬辰)に金朝が滅ぶと、1234年甲午)に匡才はモンゴル軍の大帥岱齊に降った。この時、匡才は 「邳州・徐州は南宋の北辺に近く、付近にある南宋領の銅郡・孟山・宿遷・桃源・睢口は皆要害の地です。今勝勢に乗じてこれらの要塞を奪取しなければ、邳州・徐州を守ることは難しいでしょう」と進言し、大帥もこの進言を認めて南宋領への出兵を匡才に委ねた。匡才は百家奴とともに上記の五城を攻略した上、南宋軍の馬都統・王都統を捕虜とする功績を挙げた。この功績により、匡才は沂・邳東河監軍に任じられている[2]

1236年丙申)、邳人の袁万が叛乱を起こした上、密かに南宋の将軍である李都統と結託して邳州を襲った。しかし匡才は南宋軍を撃退することに成功し、南宋兵1万を斬ったという。 この功績により沂・邳東河監軍・諸路兵馬使の地位を加えられた[3]

1238年戊戌)、徐州守将の張彦が叛乱を起こし、南宋の将鮑大尉とともに攻めてきたが、匡才はこれも撃退し、鮑大尉ら20人あまりを捕虜とした。これによって匡才の地位は沂・邳東河元帥に進んでいる。しかし1252年壬子)に再び南宋軍が大挙して侵攻してきた時には、衆寡敵せず、敗れて65歳にして亡くなった[4]

家族[編集]

匡才の妻の高氏は誇り高い人物として知られており、以下のような逸話が知られている。1240年庚子)に匡才が始めてモンゴル軍の陣営を訪れた時、賊が隙を狙って邳州を急襲し、高氏は攫われてしまった。しかし高氏は駕籠に乗せられても屈せず、自ら刀で顔に傷を付けて地に倒れ、これを見た賊が死んでしまったと判断したことにより、高氏は逃れることができた。匡才は後に賊を討った後、その田を「夫人荘」と名付けたという。匡才が討ち死にしたとき、夫人は35歳であったが、誰にも再嫁しないことを誓ったとされる[5]

匡才と高氏の間の生まれたのが匡国政で、匡才が戦死した時は僅かに6歳であった。匡才を討った南宋軍が州に迫った時に高氏と匡国政は逸れてしまい、高氏は命の危険を冒して死体の間を捜し歩き、無事再開することができたという。1262年(中統3年)に李璮が叛乱を起こしたときには、これに乗じて邳州に出兵した南宋軍の攻撃を避けて淮安に逃れている[6]

1276年(至元13年)に南宋が滅ぶと、匡国政は配下の300戸あまりを率いて北方に移住し、承事郎の地位を授かった。母の高氏が50歳頃に病にかかった時には薬を求めて快癒に努め、最終的に高氏は89歳の長命を保ち亡くなった。周囲の者達は「父は忠義に死し、母は貞節を守り、子は孝行を尽くした。どれか一つであっても行うのは難しいのに、全てを果たしたのはいかに困難であったか」と評したという[7]

脚注[編集]

  1. ^ 『雪楼集』巻5匡氏褒徳之碑,「公雄勇多智、好読孫呉書、仕金為武略将軍邳、徐兵馬都巡使」
  2. ^ 『雪楼集』巻5匡氏褒徳之碑,「歳壬辰、金亡。甲午、率所部帰国属大帥岱齊麾下、令招收散亡、還守邳境。公言『邳・徐逼宋北辺、而銅郡・孟山・宿遷・桃源・睢口皆要地、今不早乗勝攻取、則邳・徐不可守矣』。帥大然之、益兵、俾与裨将百家奴進擊。不旬月、五城皆破、獲馬都統・王都統、以帰板授沂・邳東河監軍」
  3. ^ 『雪楼集』巻5匡氏褒徳之碑,「丙申、邳人袁万作乱、陰連宋将李都統兵襲邳。公出戦、大敗之、獲袁万。加沂・邳東河監軍・諸路兵馬使」
  4. ^ 『雪楼集』巻5匡氏褒徳之碑,「戊戌、徐守張彦叛、合宋将鮑太尉等来攻、復敗之、擒其将丘太尉等二十餘人。進沂・邳東河元帥、兼建武軍節度副使。壬子、宋兵大入境、戦不利、死之、時年六十五」
  5. ^ 『雪楼集』巻5匡氏褒徳之碑,「夫人高氏、儒家子、亦負竒操。歳庚子、公計事幕府、邳賊夏興乗虚襲破邳、執夫人以去。夫人大罵不屈、賊怒、抜刀斮面仆地、賊以為死、獲免。百家奴破賊、分其産以畀之、幕府因名其田曰夫人荘以旌之。公死時、夫人年始三十五、誓死不嫁」
  6. ^ 『雪楼集』巻5匡氏褒徳之碑,「子国政、六歳而孤、所依唯母。一日、宋兵暴至、母子相失。母哭曰『天乎、吾子死、匡氏絶矣。我生不如死』。乃冐鋒鏑、求於乱屍中得之、卒幸全。中統三年、李璮叛、宋人伺間擊破邳、尽俘邳人、国政与母与焉、居之淮安」
  7. ^ 『雪楼集』巻5匡氏褒徳之碑,「至元十三年、宋亡、国政率其衆三百餘戸北帰、従淮東行枢密院伯竒爾穆蘇朝於上都、賜宴便殿、錫以衣服鞾帽、授承事郎、揚子県丞、歴睢寧、汶上主簿。丁母艱、起佐濮州、遷睢州判官、虞城県尹。所至以廉恵称、事母尤極孝。母年五十、疾甚、刲肝活之。復疾、復刲肝。後数載、又疾、又剔腦和薬以進、疾竟愈。母聡眀康強、八十九而終。国政廬墓終喪、有麞時至廬所、若素豢者。郡邑聞而異之、曰『父死忠、母守貞、子尽孝、有一猶難、矧兼之耶』」

参考文献[編集]