八風街道

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八風街道(はっぷうかいどう)とは、伊勢国桑名藩朝明郡富田六郷富田一色(現在の三重県四日市市)から鈴鹿山脈八風峠を越えて近江国神崎郡八日市(現在の滋賀県東近江市)や蒲生郡武佐村(現在の近江八幡市)へと抜ける街道東海道中山道の短絡路であり、また伊勢湾および伊勢平野琵琶湖および近江盆地を結ぶ重要街道で、現在の国道421号に相当する。

概要[編集]

1204年元久元年)平家の残党が挙兵したため、八峯山八風峠)を封鎖したので上洛する人が居なくなったという記録があるので、それに先立つ平安時代には既に八風峠越えは行われていたと思われる。道を通った商人の初見は1468年応仁2年)に尾張の商人が上京の際に通っており、その一行は人足100人、護衛60人~70人、馬数知らずと大きな集団であった。

江戸時代の八風街道は、伊勢国側は東海道の桑名宿四日市宿の中間にあたる伊勢平野の富田一色村を起点として、朝明川沿いの松原村 → 大矢知 → 平津(八郷) → 田光(朝上)を経て八風峠に至る、延長距離52857間(約25km)の道路であった。現在のいなべ市内においては、富田 - 平津 - 田光 - 八風峠に通ずる道路を本街道といい、桑名 - 馬道 - 大社 - 梅戸 - 田光 - 八風峠に通ずる道を脇街道といった[1]。八風峠を越えた近江国側は、山あいの杠葉尾や政所から愛知川に沿って相谷の永源寺山上村を通って近江盆地に抜け、御園八日市を経て中山道の武佐宿に至る道路であった[2]

近江国と伊勢国を結ぶ街道には、中山道から草津宿で東海道に出る方法と、五個荘から八日市や日野を経て土山宿(現在の甲賀市)で東海道に合流する近道(御代参街道)もあったが、東海道の鈴鹿峠関所が厳しく、また盗賊が出没する危険なルートであった。そのため、八風街道は中世期には南側の千種街道(千草街道)とともに近江と伊勢を結ぶ重要な街道とされ、近江商人の通商路として、また京都尾張名古屋を結ぶ最短ルートとして軍事的にも政治的にも注目された。中世の八風街道は近江国蒲生郡得珍保の保内商人を中心とする四本商人(今堀家・蛇溝家・中野家・今在家など)が通商権を独占していた。

三重郡菰野町には八風街道由来の菰野町立八風中学校が設置されている。

富洲原(滋賀県間の道路網としての歴史)[編集]

八風街道の歴史はいつ頃この道路が近江国滋賀県)まで開通したか不明だが、四日市港を築港した稲葉三右衛門や保々地区の天春文衛衆議院議員が構想した明治時代勢江鉄道構想から昭和時代三岐鉄道を建設へと発展する。1756年頃(江戸時代中期)に富田一色村 - 松原西町間の海運橋がかけられた時に、富洲原地区の富田一色村から保々地区の小牧村までの道路が整備されたと記述されている。江戸時代享保期 - 幕末期の八風道路網は、大矢知村に忍藩の大矢知陣屋があったため、年貢米の運搬に使用されて馬や荷物車の往来が激しかった。また富田一色には塩役運河の陣屋河岸があって、ここから年貢米や諸物資が日本各地へ初代平田佐次郎などが海上輸送したため、八風街道は陸上輸送の要路となっていた。4代目伊藤平治郎は富田一色村民の通行を便利にして、などの運搬を速やかにするため、八風道路の改修に着手した。改修区間は、交通量の多い大矢知から富田一色港に至る、20余町(約2.4km)の距離で、八風街道の改修工事には多額に費用を費やした。平治郎は努力して私財を投入して沿道の田畑を買収して、八風街道の改修工事を推進した。1838年天保9年)8月ようやく八風街道の改修工事が完了した。総出費は136両2分であった。八風街道の改修の功績で、4代目伊藤平治郎は、翌年の1839年天保10年)5月に郷士格を賜った。江戸時代の旧道は曲がりくねった道筋であったが、昭和20年代に道路の付け替えが行われて、道幅の広い現在の八風道路である三重県道26号四日市多度線となった[3]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ http://www.kanko-inabe.jp/tourism/1188/
  2. ^ http://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E9%A2%A8%E8%A1%97%E9%81%93
  3. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌125頁5八風街道下段7行目~126頁

関連リンク[編集]