佐藤美子

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佐藤美子
佐藤敬・佐藤美子夫妻(1935年6月)
基本情報
生誕 (1903-05-25) 1903年5月25日
出身地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市[1]
死没 (1982-07-04) 1982年7月4日(79歳没)
学歴 東京音楽学校本科
ジャンル オペラ
活動期間 1926年 - 1982年

佐藤 美子(さとう よしこ、1903年5月25日 - 1982年7月4日)は、日本の声楽家オペラ歌手である。日本国内で初めて『カルメン』を演じ、「カルメンお美」と呼ばれる。

生い立ち~留学[編集]

1903年5月25日、日本人の父・佐藤友太郎とフランス人の母・ルイズのもと、5人兄弟の末っ子として生まれた[2][1]。4歳の頃、父の横浜税関への転勤をきっかけに横浜に住む。1911年、横浜市老松小学校に入学したが「あいのこ」であることを理由にいじめられたことをきっかけに、1911年9月に横浜紅蘭女学校(現横浜雙葉学園)に転校する[3]。幼少期に父に連れられて横浜山手で初めて見たゲーテ座のオペラ『カルメン』を見たことをきっかけにオペラ歌手を目指す。

1923年、東京音楽学校(現東京芸術大学)声楽科に入学し、1926年に卒業した[4]ネトケ=レーヴェに師事[5]。1926年にNHK初のオペラ放送にメゾ・ソプラノ歌手として出演した[4]田谷力三松平里子内田栄一らと「ヴォーカル・フォア」を結成した[4]。1929年ヴォーカル・フォアが『カルメン』全曲のコンサートを開き、以後「カルメンお美」と呼ばれるようになる[3]

帰国後の活動[編集]

1932年にフランスから帰国し、山田耕筰の『カルメン』に出演。1935年に洋画家佐藤敬と結婚し、横浜市鶴見に住んだ。戦中は横浜交響楽団を引率して音楽挺身隊に従事した。

1954年には、全国初の音楽堂建設の推進団体音楽懇話会の代表として関わり、神奈川県立音楽堂開館を実現する[6]。同館の開催する音楽教養講座の講師ともなった。1964年には、創作オペラ協会を設立する。また、1964年には横浜市教育委員に就任するなど音楽教育・音楽文化の振興に努めた。

晩年[編集]

1972年紫綬褒章神奈川文化賞受賞[7]、1974年には横浜文化賞を受賞した[8]

1978年勲四等宝冠章[7]。 1980年2月、中島敦『山月記』原作の創作オペラ『虎月伝』を上演した[7]

『虎月伝』は同年10月に第8回ウインナ・ワールドオペラ賞特別賞、さらに12月には第4回音楽の友社賞とレミー・マタン賞も受賞した[3]

1981年オペラ団体協議会会長に就任、オペラハウス建設に尽力した[1]

1982年オペラの稽古中に発病、死没[7]。横浜市西区久保山墓地に眠る。[1]

出演作品[編集]

  • 『春香』
  • ミカド
  • 『カルメン』
  • ラ・ボエーム
  • アイーダ
  • ローエングリン
  • 『こうもり』
  • 『泥棒とオールドミス』
  • 『安達ヶ原の鬼女』
  • 『真説カチカチ山』
  • 『芥子の天人』
  • シャンソン「思い出」「真夜中の居酒屋」「ラ・セーヌ」
  • 民謡「杓子売りの唄」

出典[編集]

  1. ^ a b c d 江刺昭子『時代を拓いた女たち』史の会、2005年、136頁。ISBN 4876453586 
  2. ^ 『日本人名大辞典』野間佐和子。ISBN 4062108003 
  3. ^ a b c 矢野晶子『カルメンお美』有隣堂、1988年、152頁。ISBN 4896600819 
  4. ^ a b c 『女性芸術家の人生』木下一雄。 
  5. ^ 千田恭子, 森田信一「わが国における洋楽導入と声楽の専門技術修得の過程」『富山大学人間発達科学部紀要』第2巻第2号、富山大学人間発達科学部、2008年、45-56頁、doi:10.15099/00000665ISSN 1881316XNAID 120002694425 
  6. ^ 神奈川県立図書館・音楽堂 編『神奈川県立図書館・音楽堂10年史』神奈川県立図書館音楽堂、1965年、p23頁。 
  7. ^ a b c d 木下一雄『女性芸術家の人生 4』集英社、1980年、46頁。 
  8. ^ 原ひろ子『母たちの世代』1981年、229頁。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]