バウレ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バウレ王国 (Baouléman)は、18世紀の終わり頃、ナナン・アブラ・ポクアサンテマンからコートジボワール中央部へと脱出したことによって建国された国である。「バウレマン」とはバウレ人の国(または王国)ということである[1][注釈 1]

歴史[編集]

17世紀の終わりから18世紀の初めにかけて、現在のガーナアカン人の間では何度も戦争がおこり、オセイ・トゥトゥ王の死後はアシャンティの王朝の中で争いが起こったため、人々は平和を求め、クマウィン川(コモエ川)西方へと波状に移住していった。 1701年、エドゥンク、フェヤセでの2つの決戦でデンキーラ軍は敗退した。ンティム・ギャカリ王の悲劇的な死にもかかわらず、バドゥ・アクラフィ・ブレムポンの率いるデンキラはアシャンティに必死に抵抗したものの、アシャンティに順番に捕縛された。その後、デンキーラ人の移動は四方に対して大規模なものとなった。デンキーラ人はワッサのムポホへ、アキエムへ、そして海岸の方角へと移住した。移民の大部分はアオウィンやセフウィの領土を通過して後のバウレに永住する。これが1701年から1706年にかけて起きたアランギラ入植である[3]

アサンテヘネの死去に伴って、オポク・ワレは、クシ・オボドムを即位させた後、アブラ・ポクの兄弟で正嫡出子のダコを暗殺してしまった。アブラ・ポクの支持者や親族の虐殺は、オセイ・トウトゥが建国したアシャンティ王国の大分裂につながった[4]。こうして、女王アブラ・ポクに率いられた平和と正義を愛するアシャンティ人の一部は、現在のコートジボワール中央部に定住し「バウレマン」を建国した [5]

アシャンティからの亡命の旅路の途中で、バウレ人は女王アブラ・ポクの姉妹の一人であるタノ・アジョが定住していたティアサレに立ち寄った。ブアケ地方に到着すると、ポクとその従者らはンドラヌアンニヤモヌに居を構えた。彼女が亡くなると、姪のアクワ・ボニが後を継いだ[注釈 2]。彼女は新たな土地を征服し、バウレマンに現在の地理的外形を与えた。バウレマンの範囲は約30,000平方キロメートルで、ブアケからティエビスーヤムスクロトゥモディベウミから白バンダマンジの間にあるダウクロディンボクロまで及ぶものである。ニヤモヌを離れたアクワ・ボニは、さらに西にワレボ(ウアレボ)村を作った。アクワ・ボニが1790年にヤウレで死ぬと、遺骨はワレボ村に持ち帰られて埋葬された。ワレボ村はその後サカソーと改名されたが、この地域と人々はワレボ(ウアレボ)という名前を保った。[6] · [7]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ バウレ人はすぐれた木彫制作で知られており、ことに霊魂や精霊を表現した仮面や彫像は祖先崇拝との関係が指摘されている[2]
  2. ^ バウレ人の社会的ないし政治的組織は母系リニージに基づいており、それぞれが祖先の魂を形象化した儀礼用腰掛を所有しているという。ただし、父系制も認められ、ある種の個人的・精神的資質が父系によって受け継がれるとも信じられており、首長と長老会議がリニージを代表して村落の行政を担っている[2]

出典[編集]

  1. ^ "Royaume Baoulé - Google Arts & Culture". Google Arts & Culture (フランス語). 2021年4月14日閲覧
  2. ^ a b バウレ族』 - コトバンク
  3. ^ Albert Van Dantzig, Les Hollandais sur la côte de Guinée à l’époque de l’essor de l’Ashanti et du Dahomey, 1680-1740, Société française d’histoire des outre-mers, 1980, p. 125 ISBN 2-85970-003-X
  4. ^ Ivor Wilks, Asante in the Nineteenth Century: The Structure and Evolution of a Political Order, Cambridge University Press, 1975, p. 332-333
  5. ^ Jean-Noël Loucou, Françoise Ligier, La reine Pokou : fondatrice du royaume baoulé, Henri Goursau, coll. « Grandes figures africaines », 1977 ISBN 978-2858090839
  6. ^ Kouamé René Allou, « Confusion dans l'histoire des Baoulé, à propos de deux reines : Abraha pokou et Akoua boni », Journal des africanistes, 2003, tome 73, fascicule 1, p. 137-143
  7. ^ "Rezo-Ivoire .net | le royaume baoule sous groupes et fractions". rezoivoire.net. 2021年6月16日閲覧

参考文献[編集]

  • Kouamé René Allou, Confusion dans l'histoire des Baoulé, à propos de deux reines, Abraha Pokou et Akoua Boni, 2003, pp 137-143
  • Kouamé René Allou, Eclairage sur l’histoire précoloniale des Baoulé de Côte d’Ivoire, UFR Sciences de l’homme et de la société, département d’histoire, Université de Cocody, Côte d'Ivoire
  • Kofi Agyekum, The Sociolinguistic of Akan Personnal Names, University of Ghana, Legon; Published in the Nordic Journal of African Studies 15(2): 206-235(2006)
  • N’Guessan Jean Paul Brou, Akawa, Royaume N’DRANNOUAN fondé par la Reine Pokou
  • Maurice Delafosse, Essai de manuel de la langue agni: parlée dans la moitié orientale de la Côte d'Ivoire
  • Pierre Etienne, « Les Baoulés et le temps », Cahier ORSTOM, volume n° 3, 1968, p. 31-32
  • Ivor Wills, Asante in the Nineteenth Century, Cambridge University Press, p. 332-333
  • H. Memel Foté et J.P. Chauveau, L’Identité politique baule (Côte d’Ivoire), O.R.S.T.O.M. Fonds Documentaire N° 30367 EX 1 (1989) p. 33-40
  • HRM King Baffour Gyanko Fofie, I Akan Kingdoms Ruler: The Imperial House of DAKO RA of the Akan Confederation of Empires, Kingdoms And States In Africa - ADAKO Dakon kingdoms Thrones HISTOTRY 1720-2011
  • Jean Pierre Chauveau, Contribution de la géographie historique de l’or en pays baule (Côte d’Ivoire), O.R.S.T.O.M. Fonds Documentaire n° 22668 EX 1 (1978) pp.15-69

関連項目[編集]

外部リンク[編集]