ノート:萬龍

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恒川柳作のメモ(つねかわりゅうさく、1854-1914年) 

  • 横須賀製鉄所のお雇い外国人レオンス・ヴェルニーの元で学ぶ。
  • 明治29年、横浜の横浜船渠第2号ドック建設。(ヘンリー・S・パーマーの死去後、計画を引き継ぐ)※民設ドック
  • 明治31年、横浜の横浜船渠第1号ドック建設。
  • 明治33年、浦賀の川間ドック建設。
(この他、呉、佐世保のドックを担当)。
  • 茨城県鹿島郡東下村にて」生まれた(出典:『わしが国さ』 伊藤金次郎著 (刀江書院, 1926))というのは誤り。東下村は父親の出身地で、当時、父母は日本橋に住んでいた(小野「女、女、女」にあり)。
  • 「春本からの依頼で、身元がわからぬよう、届け出は浅草新福富町生まれの蛭間静子とされた」という記述は出典の小野「女、女、女」に、戸籍上、母親の住所は新福富町になっていた、という記述を誤読したのであろう。
  • 「贔屓筋からは「他の芸者を3人呼ぶより萬龍ひとりのほうが面白い」と言われ」(出典:『商店の経営と広告』末次良輔著 (末次良輔商店クラブ社, 1926) )という記述について、同書は出典として適切と言えない。著者末次氏の来歴は不明であるが、福岡在住の人らしく(同書奥付)、萬龍のことを知る人とは考えにくい。有名芸者の例として萬龍を引き合いに出したまでではないかと疑われる。また、引用箇所以外の書きぶりも他の諸資料と整合しない。

 --忠太会話2018年3月9日 (金) 12:06 (UTC)[返信]