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ノート:等乃伎神社

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カテゴリーの作り方が、分かりません。説明通りに[[を入れても、リンクづけされるだけで…。--Rc2eF4br会話) 2018年5月28日 (月) 17:18 (UTC) やっと、カテゴリーの作り方が分かりました。太字のときもそうでしたが、ヘルプの説明と、私の画面とでは、やり方が違います。私の画面では、画面の上部にバーがあり、そこに、太字仕様とか、カテゴリー設定の項目があります。--Rc2eF4br会話2018年5月30日 (水) 12:22 (UTC)[返信]

意見[編集]

歴史の箇所に加筆ありがとうございます。ただこの大部分の記述は、この神社の歴史ではありませんね。私はこの神社のホームページを閲覧しこの記述を読みましたが、神社の歴史ではないと判断して記述しませんでした。記述しなかった理由は、神社のホームページに出典が明記されていなかったからです。私なりにいろいろな文献に当たってみましたが、この殿木連がうんぬんとか、藤原仲麻呂云々とかは、ただの伝承に過ぎないと思います。もし確かな文献が見つかったとしても、それは神社の歴史ではなく、高石市あるいは取石村の記述として用いるべきでしょう。--Rc2eF4br会話) 2018年6月25日 (月) 20:56 (UTC) よって、この部分に関しては残念ですが削除させていただきます。あと、アマノコヤネノミコトは誤りで、正しくはアメノコヤネノミコトだと思います。これも訂正しておきます。--Rc2eF4br会話2018年6月26日 (火) 10:29 (UTC)[返信]

完全削除のつもりでしたが、神社の案内板に記されていることもあり、その記述と歴史的な記録との整合性を示す記述を入れて残置しました。--Rc2eF4br会話2018年6月26日 (火) 10:36 (UTC)[返信]
コメント 「殿木連がうんぬんとか、藤原仲麻呂云々とか」は、神社成立の背景を考察するうえで重要な要素であり、一概に排除するのは了見が狭すぎるかと存じます。「伝承がある」とする言及に留めるべきで、「この伝承と当神社の関連については定かでない」と論じた記載こそ(Rc2eF4brさん個人のお考えでなければ)出典が必要だと思います。また神の読み仮名は1つに縛られるものではなく、アメをアマとする文献も多々存在する(『日本国語大辞典』「天児屋命」項)ので、その点もご留意願います。--Saigen Jiro会話2018年6月27日 (水) 10:08 (UTC)[返信]

お話、ありがとうございます。確かに、この伝承と神社の関係は密接であると思います。同じ地域のしかも中心的な位置に神社があるわけで、まったく関係がないとは言い切れません。神名はもちろん、この神社の呼び名についても「とのき」「とのぎ」両方の呼び方があります。地元の住民は「とのぎ」と濁って読んでいますが、延喜式には「とのき」とありますね。多様性を寛容する気持ちが必要だと痛感しました。ご意見ありがとうございました。--Rc2eF4br会話2018年6月29日 (金) 20:58 (UTC)[返信]

ご理解に感謝申し上げます。--Saigen Jiro会話2018年7月1日 (日) 11:43 (UTC)[返信]

いったん終了した議論を再び蒸し返す形になりますが、まだ納得しがたい気持ちがあります。殿木氏とこの神社の関連性について、たしかにつながりがないという証拠はない。しかしつながりがあるという証拠もない。唯一の手掛かりは神社が案内板でそれを記したという一点。神社は、果たしてどういう意図でそれを記したのでしょうか。 この殿木氏という豪族は、かつて私が調べた文献によると草部郷の豪族で鎌倉時代悪党として活動し城郭を構え幕府と敵対したが、ついに討滅されたとありました。つまり、この殿木氏がこの旧大字富木付近に本拠を構えていたのか疑問な点があります。ちなみに草部郷には上条・中条・下条の3地域があり、上条が草部(現在の堺市西区草部・原田付近)、中条が富木(現在の取石1~3丁目付近)、下条が取石(現在の取石4~6丁目付近)を指します。この、かつて調べた文献がカギになりそうです。文献を見つけましたら、また報告します。--Rc2eF4br会話2018年7月15日 (日) 06:08 (UTC)[返信]

報告します。調べたところ、元徳2年(1330年)12月16日付の悪党討伐両使のひとり堀江秀清が六波羅探題に結果報告をした請文があり、そこに八田助房(和泉国御家人。のち楠木正成の配下)が蜂起して地頭の田代氏の下地中分に抵抗したとき八田助房が劣勢となるや自邸を焼き草部郷中条の殿木兵衛入道邸に拠点を移し抵抗を続けたとあります。この草部郷の場所ですが、行基が定めた四十九院の一つ清浄士院の尼院が日下部(くさべ)郷高石村にあったという記述があり高石市を含んでいるのは間違いないと思われます。以上の史料により、殿木氏は高石市富木付近の豪族と思われることが判明しました。なお上記に殿木氏が鎌倉幕府に討滅されたと書きましたが、この史料によれば楠木氏配下として南北朝時代に活動しおそらく足利北朝勢力により討滅されたと思われます。--Rc2eF4br会話2018年7月16日 (月) 10:54 (UTC)[返信]

ただ、まだ疑問は、3点あります。

ひとつは、続日本紀に見える「殿来連」と、上記鎌倉時代史料に見える「殿木氏」とが、果たして同一系統であるか。

二つ目は、天平勝宝4年(752年)に藤原武智麻呂がこの地に来たという記述がおかしいこと。武智麻呂は、737年に没しています。

三つめは、武智麻呂と仲麻呂がこの地に来たという記述が、続日本紀に掲載されていないこと。この記述は神社の案内板にあり、その出典を検証する必要があります。これについては、また報告します。

つまり以上何を言いたいかというと、神社の案内板が自神社寄りへの偏向あるいは独自研究である可能性です。ネット上の多くのこの神社についての記述のほとんどがこの案内板の記述を引用していますが、そのことは正確さを表すという理由にはならないと思います。--Rc2eF4br会話2018年7月21日 (土) 16:53 (UTC)[返信]

追伸。そしてしいて言うならば、「殿来連」とこの神社との間に関係があるという史料は、存在しません。この神社は本来は雨乞神社であり(江戸時代の記録「天神社」。ちなみに天神さんとは無関係)、神社が自らの由緒について殿来の由来を高貴な人が来たからだというどこの史料にも記載されていない独自研究をしており、それをこのウィキペディアで追認するのはよくないと思います。ウィキペディアがうわさ話サイトならいいでしょう。しかし仮にも百科事典を称しているのですから、慎重に検証する必要があります。--Rc2eF4br会話2018年7月21日 (土) 17:07 (UTC)[返信]

あと、これも蒸し返しになります。上記の「コメント」の「関係がないということの証拠を示せ」という部分についてです。

コメントしていただいたお方は、このウィキペディアではベテランでここのことをよくわかっておいでだろうと思います。それに対して私は、アカウントを取得したばかりの新米であります。ただ私も万を超える子供たちに歴史を教えてきたものの端くれとして、一言だけ言い置くべきことがございます。もちろんそれがウィキペディアにそぐわないということであれば、ひっこめますが。

歴史とは、ある事象があったのではないかと語られ、それを裏付ける証拠(出典)が発見されて裏付けるというようなものではないと思います。まず証拠出典があり、それをもとに推論するこれが歴史だと思います。「神社の案内版の記述と神社が関係ないならその証拠を示せ」という論理は、歴史学的に誤りだと思います。「証拠がある」から「関係があると判明」するのであって、「関係がない、つまりゼロ」の証拠を示せと言われてものような証拠は100%存在しません。

もちろんウィキペディアがゼロである証拠を求めるならば、いたしかたなく引きさがります。なおこの記述を侮辱と受け止めるならば、投稿ブロックなどの処分を受けます。--Rc2eF4br会話2018年7月21日 (土) 21:32 (UTC)[返信]

コメント 長々と書かれていますが、以上のことはWikipediaにおける「独自研究は載せない」のルールに抵触するものだと認識します。神社仏閣の歴史なんて分からないことばかりで、例えば東日本の神社はヤマトタケルが創建したという神社ばかりですし、西日本の寺院は行基や弘法大師が創建したという寺院ばかりです。しかし非現実的でも、なぜそういった創建伝承が共有されるのかといった意味等で、真実の歴史を知るための重要な情報・要素になります。しかしRc2eF4brさんが主張されているのは、そういった要素(真実の歴史を知るきっかけ)すら除去しよう、というものです。結局のところ、Wikipediaのルールで言えば、歴史として論考するのはWikipediaの編集者ではなく歴史家の役割であり、殿来連関連は『大阪府の地名』(平凡社)富木村項でも言及されているので、掲載するべき重要な要素だと思います。藤原武智麻呂・仲麻呂の伝承については、私の方でも言及している現代文献は見つけられていないので(たぶん『式内社調査報告』には記述されていると思うのですが未確認)、Wikipediaのルールで言えば「掲載しても良い」程度の情報であって「掲載するべき」情報でも「掲載しないべき」情報でも無いと思います。個人的には、これが「殿来」の由来になるかはさておき、当神社と中臣氏との関連を示唆する重要な要素になると思うのですが。付言すると、江戸時代には古代と性格が変わっている神社がほとんどであり、「本来は雨乞神社」という認識は必ずしもあたりません。また、(確かに説明板はあまり良い文章ではありませんが)説明板の文章的には「天平勝宝4年」がかかるのは竹田売の奉祀までかな(藤原武智麻呂・仲麻呂の来訪が天平勝宝4年というわけではないのかな)、と思います。--Saigen Jiro会話) 2018年7月21日 (土) 22:08 (UTC)(追記)--Saigen Jiro会話2018年7月21日 (土) 22:13 (UTC)[返信]

ご回答、ありがとうございました。現状維持ということで、議論は以上とします。--Rc2eF4br会話2018年7月23日 (月) 23:06 (UTC)[返信]