ノート:畠山義綱

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

 生誕年が不明なのに1535年と表記されたり(1535年と表記されたのは『信長の野望』の影響かと思われます)、「永禄9年(1566年)には酒色に溺れたとして子」のように最新の研究を踏まえずに従来の見解がそのまま編集されてしまっています。  とりあえず、前の記事に戻し、前の記事の主観的な部分をウィキペディアの「中立的な観点」に基づき、できるだけ客観的な事実を述べるように勉めました。


2007/04/29 ドルチェットさんへ。畠山義綱は生誕年は一般的に不明とされています。ドルチェットさんが1535年とされるのはどこに出典がありますでしょうか。義綱が「酒色に溺れた当主」というのは長家家譜などの長家資料に多いことが東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号、国史学会、1972年坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局、2005年に書かれていますが、貴殿は何を出典に書かれていますか。議論の余地があるようなものを断定的に書くのは、ウィキペディアの「中立的な観点」に反するものだと思いますが、回答を頂きたいです。