ノート:河田長親

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天正6年(1578年)信長公記

小相撲の事 九月廿四日、斎藤新五、越中へ出陣を仰せ付けらる。国中、大田保の内、つけの城、御敵、椎名小四郎、河田豊前人数入れ置き侯。尾、濃両国の御人数打ち向ふの由、承るに及び、聞き落ちに退散いたし、則ち、つけの城へ神保越中、人数入れ置き、斎藤新五、三里程打ち出だし、陣取り侯て、在々所々へ相働く。

越中御陣の事 寅十月四日、斎藤新五、越中国中、大田保の内、本郷に陣取る。御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠り侯、彼の城下まで放火侯て、未明より罷り退かるゝのところに、人数を付け侯、斎藤新五、節所へ引きかけ、月岡野と云ふ所にて人数立ち合ひ、既に一戦に及び、追ひ崩し、頸かず三百六十討ちとり、此の競を休めず、懸けまわり、所々人質執り固め、神吉越中所へ相渡し、帰陣侯なり。

いずれも、河田豊前。--Sabkakusikaku 2009年5月4日 (月) 03:42 (UTC)[返信]