ノート:東奥義塾高等学校

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  • 歴史の中で稽古館の創設について記述する理由が不明です。削除した方がよいのではないでしょうか?Rick Marches 2008年1月28日 (月) 12:16 (UTC)[返信]
  • 東奥義塾のHPで確かに藩校が明治に東奥義塾となったかのような記載がありますが、藩校稽古館がなぜキリスト教関係の学校として生まれ変わる必然性があったのでしょうか?元藩主の指令か何かであったのでしょうか?史実をきちんと示してほしいと思います。Rick Marches 2008年2月14日 (木) 13:16 (UTC)[返信]
  • 学校法人東奥義塾・財団法人東奥義塾協賛会『-資料で見る-東奥義塾の歴史』開学130年記念、2002年10月。により、次のことが判明。
    • p.89外を読むと、
      • 明治4年の廃藩置県に続き、明治5年に従来の官立学校が廃止となり、稽古館も閉鎖の憂き目に会うところを、旧藩主の財政支援があり、稽古館の管理者が集まって、新たに私立東奥義塾を設立していることがわかる。外国人教師を招聘しているが、宣教師であり、英語の教師であったと同時にキリスト教の伝道もしていたことが想像される。
      • その後、県内で義塾を中心とする民権派と保守派の政治対立があり、そのためか、旧津軽藩主の財政支援も打ち切られることとなった。財政難が理由かと思われるが、私立から弘前市立中学校、ついで、県立中学校となったが、1910年(明治43年)に県立弘前工業学校が開校されることをきっかけに廃校となった。
    • また、前出資料において、
      • 工藤協賛会理事長「津軽藩校『稽古館』の跡を受けて、私立東奥義塾が開校したときから、・・・・・。旧藩校である東奥義塾においてキリスト教を教えることに強い反発があったにもかかわらず、・・。」
      • 西沢東奥義塾長「東奥義塾は明治5年に稽古館の精神を受け継ぎ、・・・菊池九郎等の努力によって創設された。」
    • 以上から、「稽古館が私立東奥義塾として開校」とまではいえず、「藩校稽古館の廃止に伴い新たに菊池九郎等の有志により設立」というのが妥当ではないかと考えられる。Rick Marches 2008年2月16日 (土) 01:02 (UTC)[返信]