ノート:山田又七

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 Wikiは使った事がありますが、Wikipedia編集についてあまり詳しくないので、書くべきところではない部分に書き込んでしまっていたら申し訳在りません。ご指摘ください。

 この山田又七の記事に1つ間違いを見つけました。間違いであると考えているのは、下記文章です。

「1887年(明治20年)、小坂松五郎が浦瀬村で石油の露頭を発見し、東山油田の存在が脚光を浴びるようになると、又七は紡績業から石油事業に転向。」

 そもそも東山に石油が出る事は明治以前より知られており、天然露出する地は「草生津」(信濃川沿いの「草生津」ではありません)などど呼ばれていました。また明治以降、記録に残っている範囲で最初期の東山油田開発は、明治4年に長野石炭油株式会社を設立した石坂周造で、明治6年に長岡支社を設立し東山油田を開発し、若干の石油採掘に成功しています。しかし、産業的に満足な量に満たなかったため長野石炭油株式会社は撤退します。後に東山油田の西入口に開発着手の功績をたたえられ碑が建てられています。

 さらに時代が下って、明治20年にWikipediaの記事に掲載されている部分の出来事が発生します。しかし、この部分についても誤解がある様に思えます。小坂は資本的に余裕があったため山田よりも先に鉱区出願を得ましたが、先に石油サンプルの採取と検査をしているのは山田です。山田が精油家をつれて東山に出かけ、古井戸にたまっていた石油を採取・検査させ、良質であることを確認しました。山田は早速これを事業化しようとしますが、これを人づてに聞いた小坂が先に事業化してしまったのです。

 これらの事は宝田石油の社史『宝田二十五年史』に掲載されています。当時の社員の調査や、山田又七、殖栗順平の語りも含まれているため、百科事典の記事作成にはよい資料になると思います。最近の文献では『山田又七小伝』が最も山田又七についてまとまっており素晴らしい本です。さらに記録・原文を容易に得るのであれば、山田又七本人については『奮闘の長岡』の談話、山田をとりまく宝田石油を中心とした東山油田の事情については『こしのたからもゆるみず』が参考になります。 (あと追加ですが、新潟大学工学部の前身となった長岡高等工業学校の設立を要請しつづけたのは、長岡市のテクノポリス構想の源流として記事にする価値は十分あると思います。山田又七についてはあまり注目されず、地元でも長岡に新潟大学のキャンパスがあったことは疑問に思われていますが・・・。) --114.184.77.53 2010年12月15日 (水) 06:19 (UTC)[返信]

こんにちは、Wikipedia日本語版へようこそ。赤の旋律と申します。書く場所は間違っておりません。ご安心ください。さて、記事内容に誤りがあるということですが、見つけたら直していただければよいのです。多少間違ったWiki文法を使用していても、他の利用者の方が直してくれます。不安があれば冒頭に{{wikify}}でも貼っておけば問題ありません。そういったたくさんの人の編集によってWikipediaは成り立っています。間違いを恐れる必要はありません。あなたの情報によりこの記事がよりよいものになることを願っております。それでは。--赤の旋律(会話履歴) 2010年12月15日 (水) 06:22 (UTC)[返信]
ご助言ありがとうございます。間違いである部分・誤解を生み易いと考えた部分については、百科事典としての信頼度に関わるでしょうから取り急ぎ編集しました。wikify、活用させていただきました。--114.184.77.53 2010年12月15日 (水) 16:44 (UTC)[返信]
素晴らしい!見てみましたが、全く問題ないです。加筆いただきありがとうございました。これからもWikipediaをよろしくお願いします。--赤の旋律(会話履歴) 2010年12月16日 (木) 01:47 (UTC)[返信]