ノート:大井の方

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「その他」の節のふたつの文章。典拠なき論評に思えますので、要出典を貼らせて頂きました。晴信の教養と大井夫人の存在を結びつける論は無いこともないかなと思えるのですが、何かしらの典拠文献がおありでしょうか?--でここ 2007年9月13日 (木) 21:44 (UTC)[返信]

要出典の付いていた2文、および主観に基づくと思われる記載について、本日除去しました。復帰される際は、言い回し、出典、双方をご考慮の上記載してください。--影綱 2009年1月28日 (水) 06:14 (UTC)[返信]

一点だけ、上記で指摘している晴信の教養に関して大井夫人の薫陶があったのではないかとする見解は、成立する可能性が高いのではないかと思いますし、できれば出典情報が確保されるまでコメントアウト内でも残しておければと思うのですが。--でここ 2009年1月28日 (水) 08:10 (UTC)[返信]

ご指摘の「見解」は「信玄が戦国大名のうちで目立って教養豊かで四書五経や孫子・呉子に通じ、詩歌や書画を愛したのも大井夫人の配慮の賜といえよう。」の部分でしょうか。えーと、これは所謂「第三者評価」ですよね。事典と言う性質上、「評価」は要らないんじゃないかと思い、除去しました。仮に、「大井夫人が信玄や信繁、信廉に対して四書五経、孫呉、書画などの指導をした(或いはそういった書籍を与えた)」という書き方であれば、戻してもいいかと思います。無論、出典が(後付でも)必要にはなってくるんですが。ご検討頂きたく。--影綱 2009年1月28日 (水) 23:08 (UTC)[返信]

ちょっと最近は中世史から離れていて出典がすぐに確認できないのですが、記憶では『山梨県史』通史編2中世において、確か黒田基樹さんによる戦国期の教養に関する総説があって、晴信周辺の人物として大井信達の教養などが紹介されていた覚えがあります。それと、柴辻俊六さんの『武田信玄合戦録』にも晴信の教養に関する記述があって、大井夫人の薫陶によるものと記されているかどうかはわかりませんが、記憶ではそれに近い説明がなされていた覚えがあります。ですから、私は晴信の教養の形成において「大井夫人の薫陶」が説明されている典拠が存在する可能性が高いと考えております。私のほうでもそのうち確認作業をするつもりですが、影綱さんのほうで対処できましたら宜しくお願いします。--でここ 2009年1月28日 (水) 23:41 (UTC)[返信]

でここさん、出典をご提示頂き有難う御座います。すぐに調べられるかはわかりませんが、ご提示頂いた2書籍を探し、確認したいと思います。もし、俺より先にでここさんの方で確認が取れました際は、記述を戻していただいて構いません。ご協力に心よりお礼申し上げます。--影綱 2009年1月29日 (木) 00:20 (UTC)[返信]

影綱様、そういえば柴辻文献のなかに、信玄の修練や教養に関しては、研究が進展していないと記されておりませんでしたか?武田氏研究のなかで研究史の回顧などが行われていたりするのですが、戦後の武田研究というものは領国支配とか在地支配などが主軸であって、実は一般に関心の高い武将など個人人物の事績というものは、まぁ領国形成の研究などで付随的に明かになっていることもあるのですが、現在に至るまでけして主流ではないのですよね。

影綱様は「信玄は長男か?」の議論に参加されておりましたが、私はあの議論の流れを見ていて、そういえば信玄出生における武田内部の立場とか、そういうことをきちんと論じたものは無さそうだなと考えておりました。

武田関係は思い入れのある方がたくさんいらっしゃって、記事の整備が進む一方で頭の痛い事態も発生している印象なのですが、きちんと書くのであれば、手元に『甲陽軍鑑』『甲斐国志』は必要で、それと『山梨県史』『戦国遺文』などで文書や記録類の確認ができないといけない。幸い武田は一般的関心が高く、柴辻さんはじめ専門研究者が一般向け著作で信頼性の高い情報を発信しています、『武田信玄大辞典』とか『新編武田信玄のすべて』などですね。ですから、影綱様のように問題意識さえあれば、専門文献や上記の史料類を参照することが困難でも、記事の訂正作業には携われるものであると考えています。

わたしも武田関係は何とかしなくてはならないと考えていて、勉強しながら少しずつ触っていたりするのですが、セミプロ級に詳しい方が現れてくれる可能性を期待しつつ、一人でも多くの同志が得られればと考えております。わたしはけして武田はじめ戦国史に通じている人間ではありませんけど、専門文献にはアクセス可能な環境にありますから、もし今回のように何か疑問に思われたことがあったら、わたしの方に尋ねて頂ければお力になるかもしれないと考えております。ひとつ宜しくお願いいたします。--でここ 2009年1月29日 (木) 23:25 (UTC)[返信]

ありがとうございます。本文の方を、一部編集いたしました事をご報告いたします。(ご提示いただいた『山梨県史』・『武田信玄合戦録』の二書のみから得た情報になります。)
「武田信玄」の議論の際に、『新編武田信玄のすべて』と『甲陽軍鑑』、それから『武田信虎のすべて』ですね、こちらに関しては一通り目を通してはいるのですが、確かに教養に関しては言及した部分が少なかった覚えがあります。(柴辻氏の著では無いかもしれませんが、『武田勝頼のすべて』は未見です。)あとは『戦国遺文』ですね。こちらは「板垣氏」関連の際に少しだけ目にしました。(余談ですが、晴信の傅役が板垣駿河と言うのはまだ「説」に過ぎないんですね^^;驚きました。)
どちらかといえば、俺の場合、板垣氏関連を軸に調べる事が多いので、武田家の記述についてはまだまだ調べ足りない自覚があります。こちらこそ宜しくお願い致します。--影綱 2009年1月29日 (木) 23:59 (UTC)[返信]

犬千代の母についての出典はノート:武田信玄でも言及した『戦国人名辞典』([1])です。「武田犬千代」と「瑞雲院殿」の項目を確認していただいた上で、掲載すべきか否かを判断してください。一次資料があるというわけではなさそうで、武田氏の研究者の間では犬千代の母も大井の方であろうと推定されている、というレベルの情報だとは思います。--Kangoshiyouichi 2009年2月15日 (日) 02:51 (UTC)[返信]

Kangoshiyouichiさん、資料のご提示を頂き有難う御座います。恐らく、版によって掲載されているかどうかが変わると思う(俺も二冊ほど調べたのですが、いずれも「犬千代」の項が無かった)ので、何ヶ所か図書館、書店を回って確認します。また、再掲載、というか再加筆については、微妙な問題もありますので、今しばらくお待ち頂ければとお願い致します。但し、両者の親子関係を完全否定するつもりはない事を追記させていただきます。--影綱 2009年2月15日 (日) 23:14 (UTC)[返信]
ついでにつけたしておきますと、『武田信玄のすべて』(最近でた方)には犬千代の母は明記されていませんでした。「一次資料があるというわけではなさそう」っていう推測の根拠はその程度のものです。--Kangoshiyouichi 2009年2月16日 (月) 13:35 (UTC)[返信]
補足を頂き、お礼申し上げます。最近のものかはわかりませんが、「武田信玄のすべて」に目を通したことをご報告します。確かに名前と戒名(法名?)、没年、享年のみですね。俺もノート:武田信玄との兼ね合いがありまして、なんとか協力者を募ろう、一次に限らずなるべく資料を集めようと努力している次第です。ご協力に心より感謝します。--影綱 2009年2月16日 (月) 23:27 (UTC)[返信]
(追記)『戦国人名辞典』2006年版を参照する事が出来ました。Kangoshiyouichiさんの仰るように、「瑞雲院殿(大井の方)が大永三年に犬千代(伊春?)を産んだと思われる」ことが確認できました。恐らく元資料としては広瀬広一氏の『武田信玄伝』が相当するかと思いますので、時間が取れ次第、そちらの確認を致します。(俺としては、『武田信玄伝』を確認したら掲載の復帰をしようかと考えますが、先に他の方のご判断で復帰をされることに異議は唱えません。)--影綱 2009年2月17日 (火) 05:20 (UTC)[返信]
(さらに追記)『武田信玄伝』を確認し、それに沿って記事を編集しました。結構古い本だったので、理解するのに時間がかかりましたが、大意で以下のようになると思います。
『高野山成慶院過去帳に「芳厳伊春大禅定門。甲州、武田犬千代殿、七歳。享禄二年己丑三月二十四日、使者、跡部宮内丞」とあり、また同山引導院過去帳に「戌千代殿芳厳伊春大禅門、武田殿御曹子。享禄二年己丑二月十九日逝去」とある。逆算すると大永三年の生まれで弟が二人いる事になる。一連寺過去帳には厳阿弥陀仏、享禄二年二月二十日、武田伊春とある(逝去日が引導院と一日違うが、成慶院は位牌建立の日を記したようだ)。[付記]国史庶部に一蓮寺過去帳を元として武田伊春を山宮としているが、これは全くの誤りである。』
以上になります。--影綱 2009年3月2日 (月) 01:08 (UTC)[返信]