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ノート:土橋基胤

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記事検証の要請[編集]

本記事は、利用者:蝦夷の防人会話 / 投稿記録 / 記録氏=利用者:徹夜グミ会話 / 投稿記録 / 記録氏の多重アカウントとしてブロックされています=によって立項されたものです。google検索がすべてというわけではありませんが、戦国武将といういわばメジャーな素材で、紀伊国の戦国史について扱ったウェブサイトも少なからずあるにもかかわらず、「土橋基胤」なる人物がwikipedia関係以外で一切検索にかからないのは奇妙なことです。「牟婁郡の根来衆」という奇妙さ、「記述は乏しく」「詳しく描写している」という矛盾する記載、立項者のアカウントによる最初の投稿が記事破壊([1])であったことを鑑みるに、虚偽記事の可能性があります。検証を依頼します。--桂鷺淵会話2016年5月8日 (日) 12:49 (UTC)[返信]

国立国会図書館デジタルコレクションで「土橋基胤」「土橋刑部」等で調べましたが、天保3年(1832年)に「土橋刑部子孫 弥太郎」という人物が安楽寺に墓を建てたという記述が見つかったのみで(白井祐伯編著『新編郷土資料 紀伊名所風土記 第一巻』山路出版社、1979年、238頁(要登録))、他にそれらしいものは発見できませんでした。記事にある『海草郡誌』で土橋氏に関する記述のある「土橋善太夫」の項などを見ても該当する人物は見当たらず。兄とされる土橋重隆に直接つながる人物は、父重勝・兄重胤・長男守重・次男重治のみです。天正10年(1582年)に守重が殺された際、その子らが牟婁郡に逃げたとされますが、その場面に基胤や土橋氏の縁者が登場するということもありませんでした(和歌山県海草郡役所編『和歌山県海草郡誌』名著出版、1974年〈原著1926年〉、1026–1031頁(要登録))。--YasuminB会話2023年12月25日 (月) 00:40 (UTC)[返信]