ノート:北条貞顕

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訂正のお願い 中務丞→中務大輔の訂正 1315年、連署就任 1333年の鎌倉合戦で化粧坂を守ったのは金沢左近大夫将監(名前不詳)。貞顕は北条高時とともに東勝寺にいました。ちなみに、金沢左近大夫将監は化粧坂の軍勢が孤立したため西側に脱出。長門・周防守護北条時直の子と合流して、建武二年に挙兵しています。

人物、逸話の節の、最後の記述、「幕府滅亡の責任の一端はあるともされる」ですが、永井氏は、「短絡的に『鎌倉幕府を滅ぼした責任の一端はお前にある』と言い切ってしまえば、貞顕の遺産は何も語り始めないだろう」(引用)と述べているだけであり、この記述を出典として、「幕府滅亡の責任の一端はあるともされる」と記載するのは、飛躍、情報の合成ではないかと思われます。--ShellSquid/履歴 2013年4月16日 (火) 03:28 (UTC)[返信]