ノート:前橋城

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2009年6月28日の改訂について[編集]

2009年5月10日 (日) 11:59 までの版に記載され、事実確認できなかったものを今回修正しています。主なものは下記の通りです。

  1. 利根川と広瀬川を天然の外堀とする渦郭式の... - 現利根川は16世紀頃に人為的な流路変更があったと見る人もある様で[1]、また広瀬川は仮に利根川旧河道を利用したとしても最終的には用水路として整備されたもの[2]。天然である確証が取れない。
  2. 当時の城主長尾賢忠が再び築城... - この「長尾賢忠」なる人物が不確かで[3]、一字違いで「長野賢忠」(=長野方業)がある。従って、この版までの「長尾賢忠」は前出の「長野方業」そのものであるとみるのが自然か。
  3. 酒井忠挙の時代、慶安2年(1649年)には「厩橋」から「前橋」に改称... - 「酒井忠挙」(2009年3月14日 (土) 00:22版)によれば、忠孝が生まれたのは1648年、家督相続は1681年。前橋への改称が、忠挙の代であればもっと年はもっと後になるはずで、記載通り1649年だったとすればこれはその先代忠清の治世。今回の改訂ではとりあえず幅を持たせておく。
  4. 天保年間(1830年 - 1843年)に石田与重により利根川の改修... - 「石田与重」なる人物が確認できず[4]、この石田与重の記述を削除。調べを進めると川越から「安井与左衛門」が前橋に派遣された旨が多数あり[5][6][7]
  5. 市内総社町に城門が、市内上泉に瓦葺荒塗りの土蔵郷倉が、それぞれ移築され... - 上泉郷倉[8]が前橋城から移された事実が確認できず。

a perfect fool 2009年6月27日 (土) 19:57 (UTC)[返信]

「長尾賢忠」についてコメントいたします。『前橋風土記』などにでてくる名前で、誤記ではありません。『前橋市史』は総社長尾家(長尾氏の一流)の一族で、長尾忠房(石倉城築城者)の4世孫といい、長尾氏の系譜に見えないので長尾景忠の別称などとしてます。しかし『室町・戦国期上野の地域社会』(久保田順一、2006年)・『群馬県史』(1972年)などでは「長尾賢忠」は「長野賢忠」のこととし、また『前橋風土記』では厩橋長野氏(上野長野氏の一流)の、固山宗賢(厩橋初代)-道安-道賢-賢忠と続く4代目としてます。これらから「長野氏」に改めるのは同意します。なお長野賢忠は永禄年間に活動していたようです。ただ「長野方業」に問題があります。『群馬県史』などで方業は同じ宮内大夫の名を持つ厩橋長野氏2代目の「道安」に比定されています。長野賢忠=長野方業=固山宗賢の出典が無いので、長野賢忠としたほうがよいのでは?--KurmUmy 2009年6月30日 (火) 12:24 (UTC)[返信]
一部訂正します。『日本城郭大系』の前橋(厩橋)城で、長野賢忠=長野方業=固山宗賢としていました。上の出典が無いとの発言は取り消します。また『前橋市史』は長尾忠房の記述とは別の場所で、史料考察の結果「長尾賢忠」は「長野賢忠」としていました。しかし、長野方業=固山宗賢は県史などが認めていますが、長野賢忠=長野方業は『日本城郭大系』と『群馬県人名大事典』ぐらいで、県史や市史、近年の『群馬新百科事典』、『箕輪城と長野氏』(近藤義雄、1985年)で別人扱いです。厩橋長野氏の歴代は混沌として賢忠を書くとややこしくなるため、上野長野氏が拠ったとするくらいにしたらどうでしょう。--KurmUmy 2009年7月1日 (水) 10:58 (UTC)[返信]