ノート:佐和山藩

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三成時代の佐和山[編集]

少し佐和山藩の項目で扱える範囲を超えてしまっているので 佐和山藩の内容から外れ過ぎてる部分はコメントアウトしました。 佐和山藩と関わりが薄い三成の人物評価、関が原の戦いの部分についてはそれぞれ石田三成関が原の戦いの項目でお願いします。 (61.127.131.158さん、Kanoe付記)

今回コメントアウトした理由は上記の通りです。前回コメントアウトされた理由を三成の悪い評価を認めたくないからと誤解されてるようです。今回のような早合点を避けるためにも本文がコメントアウトされた場合は一度ノートにも目を通すようお願いします。 (61.199.19.198さん、Kanoe付記)

しかし、三成のいいところばかりを藩政に描いて、悪いところを描かないと言うのはどうでしょうか。それなら、三成はいいところしかなく、悪いところは無かったとも取れますよ。 (202.224.95.188さん、Kanoe付記)

61.127.131.158さんに同意します。このページは佐和山藩について記述するページであって、三成について記述するページではありません。三成の不遜云々について加筆したいのならば、佐和山藩に関係する「悪いところ」に絞って書くべきです。仮に治世では「悪いところ」がなかったのであれば、「三成は性格的には傲岸不遜であったが、善政を敷いた」といった旨を記述すれば良いのであって、佐和山藩に直接関係しない傲岸不遜であった事例を挙げる必要は無いと思います。 Kanoe 2005年10月8日 (土) 04:27 (UTC)[返信]

ええと、そもそもという用語自体が江戸幕府の後期に漢学者が中国の用法を日本に引っ張ってきて使いだした用法ですし、慣例的に藩とする対象は江戸時代のみのはずではないでしょうか?すなわち井伊氏が移動してきてから彦根に移るまでの数年のみを本記事の叙述対象とすべきで、だったら彦根藩にまとめてしまうのが妥当と考えます。Aboshi 2005年11月12日 (土) 16:29 (UTC)[返信]

ここ以外でも話題に上がっていますが、豊臣政権の大名および支配地を「藩」として項目立てしている文献(新人物往来社『三百藩藩主人名事典』)もあるので、江戸時代のみに限定しても良い(あるいはすべきである)とする根拠も存在しないのですよね……。--水野白楓会話2013年6月5日 (水) 22:00 (UTC)[返信]