ノート:京都

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コメント[編集]

微妙ですね。歴史的京都と京都市を分けて書くかどうかの悩みどころでしょうか。これって江戸のところでもこういう感じのことがあったようですけど。0null0 05:36 2003年10月6日 (UTC)

京都市の記事があるので現在の市についてはそちらに任せて歴史上の京都のつもりで加筆しました。というか他府県の人に京都の範囲が今の京都市よりもはるかに小さい範囲というのを知らせるつもりで書いたのですが。ついでに言うと「京都人」という語はその昔の京都の範囲に代々すんでいる人を指すので私を含め多くの京都市民は自分達を決して京都人とは言わないというのも言いたかったりしますが。tanuki_Z 05:44 2003年10月6日 (UTC)
こういうことは他の地名でも起こりえますし、ちゃんと議論してルールを定めておきたいですね。個人的には、地名で記事をつくることには賛成です。その地の歴史・文化を記述するには、地方公共団体名の記事より、地名での記事の方が適当でしょう。実を言うと、私は過去に大阪という記事をつくっております。Ojigiri 11:41 2003年10月6日 (UTC)
私も過去に東京で同様なことを感じました。こういったもののほか、秋葉原高井戸のようなものは必要か(駅や区市町村などと統合できないか)、無くなった地名はどうするかなど、議論が必要なように思われます。Tarosan 08:11 2003年10月7日 (UTC)
私も地名の記事作成には賛成します。ちなみにこの記事に関してはすでにスタブ的にあったので加筆したに過ぎず、一からでは私は書かなかったでしょう。
ところで、他に地名の記事としてはどんなものがあるでしょうか?思いつくところでは歴史的な地名の鎌倉飛鳥とかでしょうか。tanuki_Z 09:36 2003年10月7日 (UTC)

地図を見てくださいとあったので見てみました。確かに同じ川と言い切るのは行きすぎでした。どうも京都に住むと、賀茂川→鴨川→桂川→淀川という認識で固まってしまうようです。

で、地図を見て気付いたんですが、「鴨川と桂川が蛇行しながら南へ流れている」の部分はおかしくないですか?鴨川にしろ桂川にしろ、いわゆる洛中を流れているわけではありません。記憶が確かなら、京都は東に鴨川で四神相応としていたと思いますが。ちょっと記憶があいまいです。ただ上に挙げた現在の表現はちょっと違うかと思います。U.S.S.Momotaro 15:21 2004年1月17日 (UTC)


記事中のコメント<!--この地を選んだのは、母の系統である[[百済]]系の一族がいたからとされる。(この説はきいたことがない。裏を取ったほうがよいのでは?)-->についてですが、手元の本『古代の日本と渡来人』によると、桓武天皇の母親が百済系というのは明白だそうです。また京都には秦氏という有力な渡来人系の豪族がいたことも有名で、彼らが平安京の造営に協力していたと思われるともかかれていました。ということでコメント部分は大筋ではあっているといえるのではないでしょうか?tanuki_Z 05:48 2004年3月6日 (UTC)


1月に京町家のセクションを勝手に作ったものです。京町家を充実させようと思っているのですが、皆さんの意見はどうでしょう。別の記事にしたほうがよいでしょうか?Baba 07:04 2004年5月10日 (UTC)

京都では「学区」(あるいは元学区)や自治会が(歴史的に見ても)特別な意味を持っているので書きたい内容があります。独立した記事になるとは思っていないので、ここに追加したいと思いますが、どうでしょう?Baba 07:04 2004年5月10日 (UTC)

京都に原爆が落とされる可能性もあったらしい。--以上の署名のないコメントは、219.162.253.107会話)さんが 2004年8月16日 (月) 15:10 UTC‎ に投稿したものです。

首都[編集]

「現在においても京都を日本の首都とする説がある。」などという記述がありますが、誰がそんなことを言い出したのでしょうか?ネット上の俗説ならこんな目立つ位置に書く必要は無いでしょうが、ちゃんとした論文みたいな物があるなら説明して欲しいです。220.104.11.71 2005年6月28日 (火) 04:39 (UTC)[返信]

これは結構昔から言われていることで、東京奠都の際に「東京を都と定める」旨の詔が出ていない、もともと東京は「東亰」と表記されていた(ゆえに「京」ではない)、廃藩置県の際、「東京府・大阪府・京都府」と三箇所のみ府政が施行されたのは、この三箇所が複合的に首都機能を果たすためだった(東京は政都、大阪は商都、京都は祭都とする予定だった)などの理由があるようです。 が、私はこれらを裏書する史料を持っていないので、ノートに書くだけにとどめます。ただ、ネット上の俗説では決してないことだけは申し添えておきます。--Arumakan 2006年4月14日 (金) 05:49 (UTC)[返信]

2007年1月13日版の編集について。
日本の首都に定義がない(首都が定められていない)ことは日本の首都で説明されているとおりです。日本の首都の独立した項目があるのですから、内容の齟齬を避ける為にも一括して日本の首都で取扱った方が良いと思います。インターネット上の議論のなかの意見についてこれらの意見の問題点は、首都(capital)という欧米由来の概念を、近代以前の日本に無理に当て嵌めることにある。との論についても同じく論者が必要かと思います。--58.70.17.40 2007年1月14日 (日) 18:18 (UTC)[返信]
欧米由来の概念を、近代以前の日本に無理に当て嵌めることにある。 これは、明治以前には首都が無かったと解釈すべきか?あるいは江戸時代の首都は江戸とすべきか?江戸が首都なら鎌倉時代の首都は鎌倉になる。--Haguii 2007年2月10日 (土) 11:20 (UTC) [返信]

「これらの意見が現実社会で主張されることはない」とありますが、京都には実際にこういうことを言う人はいますよ。歴史の教師とかでも。まあ、だから何かしているという訳でもないですけど。Zunda 2007年5月16日 (水) 11:48 (UTC)[返信]

「此の国、山河襟帶して、自然に城をなす。この景勝によりて、新号を制すべし。よろしく山背国を改めて、山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同辞して号して平安京という。また近江国滋賀郡の古津は、先帝の旧都なり。いま輦下に接し、昔号を追い、大津と改め称すべし。」(『日本紀略』)詔を引用した部分にはどこにも都を遷すとは書いていない。また京都も東京も語源がどうであれ現代においては全く固有名詞にすぎない。高御座の所在地が皇居であり、首都であるという一般的な同意もない。このような項目は内容的にここに記述すべきものではないと考える。

•••もしも東京が本当に首都に定められたのであれば、京都は西都と改名されなくてはならない筈です。 京都のいわば関東出張所的な都市すなわち東都でしかないからこそ、今でも東京と呼ばれている事実を忘れている人が多いのは遺憾な限りですね。--124.255.16.134 2008年6月4日 (水) 05:09 (UTC)Hadrianvs et antinovs[返信]

観光名所[編集]

見難かったので、区分けしました。門蹟寺院が良く分からなかったので、とりあえず宮内庁管轄と京都市、宗教法人と区別できそうでしたので分けました。訂正や追加記入当有りましたらよろしくお願いいたします。(BUBU@ 2006年10月6日(金) 12:20)

利用者‐会話:219.29.25.143はお読みでしょうか? 連続投稿を避けるためプレビューをお使いください。--+- 2006年10月6日 (金) 23:48 (UTC)[返信]

「明治維新以前の京都」の内部には含まれていない観光名所は削除すべきではないでしょうか。--ハルノ アキハ 2006年12月29日 (金) 10:59 (UTC)[返信]

観光名所の「京都」の範囲を「上京区・中京区・下京区・東山区の全部と北区・左京区(北山通以南)、南区(九条通以北)」としました。この範囲は概ね1918年~1931年の京都市の範囲に相当します(京都府の変遷 を参照)。1879年の上京区・下京区の範囲とするともう少し狭くなり、下鴨神社、大徳寺、金閣寺あたりも「京都」から外れます。時代とともに「京都」の範囲が広がっていくため、どこまでを「京都」の範囲とするかが難しいのですが、このあたりが落としどころだと考えました。--春野秋葉 shining blue 2007年5月27日 (日) 14:28 (UTC)[返信]

行政区分に基づく項目は京都府や京都市があるので、ここでの地理的範囲は曖昧でもいいように思います。嵐山大原桂離宮などが京都でないとするのは違和感があります。いわゆる洛外も京都の範疇でよいと思いますし実際の使われ方もそうではないでしょうか。歴史的に範囲が変遷しているのは本文に記載もあり観光地は現在が基準でよいと思います。--+- 2007年5月27日 (日) 21:19 (UTC)[返信]
なお手元の京都という名のついた観光ガイドでは宇治や滋賀県の延暦寺も含み、一方京都府にある天橋立は入ってません。wikipediaは観光案内ではないとどこかに書かれてましたが、定義する上で重要な要素とは思います。--+- 2007年7月2日 (月) 20:58 (UTC)[返信]
京都という呼称ができたのは明治維新以降ということはないでしょうか? ここ([県名の由来])ではそうともとれる説明になってます。これが正しいなら明治維新以前という前提と合わなくなります。--+- 2007年7月1日 (日) 21:10 (UTC)[返信]
「京都」は分かりませんが、「京」なら明治維新以前から使われています。--Haruno Akiha loves blue. / Talk / History 2007年7月2日 (月) 13:25 (UTC)[返信]
京都所司代というのを思い出しました。言葉としては昔からあったようです。したがって前言は取り消しますが、この項目を明治維新以前と限定すること自体には、やはり疑問を感じます。wikipedia独自の定義とならないでしょうか。--+- 2007年7月2日 (月) 20:58 (UTC)[返信]

考え直しました。このように「京都の観光地」の範囲を巡って議論が起きるのは、明治維新以前の「京都およびその周辺地域の観光地」と現在の「京都市およびその周辺地域の観光地」とを区別する必然性が見出せないからだと思います。大原は現在は「京都の観光地」であることは間違いなく、現在は行政的にも京都市左京区に属するわけですが、「大原が昔から(遅くとも1949年の京都市左京区への編入前から)『京都の観光地』の範囲内に含まれていたか」ことに疑問の余地が残るのです。私が京都の記事から1918年~1931年の京都市に含まれていない観光地を除去した理由もここにあります。
そこで提案なのですが、いっそのこと京都からは観光地の記述を全部除去して京都市#観光および古都京都の文化財を参照せよ」とだけ書いておくのはどうでしょうか。京都市外の延暦寺(滋賀県大津市)や平等院(京都府宇治市)も古都京都の文化財に含まれており、一応ひと通りの「京都の観光地」は網羅された形になっていると思います。--Haruno Akiha loves blue. / Talk / History 2007年7月6日 (金) 12:26 (UTC)[返信]

反対意見がありませんでしたので、観光地の記述を除去しました。--Haruno Akiha loves blue. / Talk / History 2007年7月14日 (土) 13:29 (UTC)[返信]

明治維新での区分について[編集]

観光地を削除すればよいということではなく、繰り返しになりますが根本的に冒頭で明治維新以前とすることに違和感を覚えます。行政区分、歴史、観光を含めた包括的内容でよいように思います。本文はそういう印象です。 「この項目では明治維新以前の京都について記述しています。明治維新以後の京都については京都市を...」を「この項目では京都の概要ついて記述しています。行政区分については京都市を...」ではどうでしょうか。--+- 2007年7月14日 (土) 22:11 (UTC)[返信]

日本の政治・日本の文化の中心地[編集]

冒頭に「日本の政治・日本の文化の中心地となった」とありますが、現在はそうではないわけですし、この記述の仕方は誤りで修正すべきだと思いますが反論はありますか?--220.210.177.251 2009年8月31日 (月) 00:37 (UTC)[返信]

少し修正--121.102.97.180 2013年2月19日 (火) 04:52 (UTC)[返信]

二年半出典無し部分を移動[編集]

豊臣秀吉の京都改造の際に1587年頃より洛中の検地を行い[要出典]、続いて1591年には京都中心部を囲うように御土居を建設して、御土居の内側を洛中・外側を洛外[要出典]として、洛中内部において更に農村として扱った上野[要出典]・西ノ京・中堂寺・九条・塩小路などの村々を除いた洛中地域を特に京中(きょうちゅう)として上京・下京のそれぞれの町年寄による一定の自治を認めた。これによって「惣組」(上京・下京)-「町組」(「組町」とも)-各町という近世京都の地縁共同体が形成される事になる。その後、京中を越えて洛中全域そして洛外にも都市部が拡大し[要出典]

--121.102.97.180 2013年2月19日 (火) 04:52 (UTC)[返信]

Kyōtoは英語?[編集]

出典付きでKyōtoが英語とされていますが、これは英語でしょうか?英語の文献に採用されているようですが、そういう意味では英語に入っているといえなくもないですが(ただしここでの出典は百科事典であって英語の辞書ではないですし、仮に辞書の見出し語になったとしても)、日本語のローマ字表記をそのまま採用しているということだけではないでしょうか?--Xapones会話2014年1月18日 (土) 08:24 (UTC)[返信]