コンテンツにスキップ

ノート:乙川電力

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

形埜村への供給[編集]

額田郡形埜村への供給について、『額田町史』には「この乙川発電所を基点として、二つの方向に電灯網が延びて行った。(中略)もう一つは乙川沿いで、鍛埜、桜形と延び、大正一一年には保久にもともった。」(p544) という、発電所から形埜村鍛埜・桜形を通って下山村の保久まで配電がなされたという記述があります。一方、本文中に記した通り、逓信省『電気事業要覧』に記された供給区域はある段階から一時的に形埜村が消えています。『電気事業要覧』の方が誤り…という可能性もありますが、新聞連載の「山間に電気の光 乙川電力株式会社の沿革」に形埜村(下山村も)への言及がないことから『電気事業要覧』の方が正しかろうと判断しております。

また『下山村誌』(東加茂郡下山村、1962年)には同村の「大沼電灯」という電気事業者の記述があり、そこには1924年までに額田郡下山村や形埜村にも供給を拡張したとあります (p285)。大沼電灯に関しては、『電気年鑑』昭和5年版に1929年5月「形森村(字高味ヲ除ク)」への供給区域拡張を許可された旨の記載があります(NDLJP:1139432/33)。これを「形埜村(字大高味)を除く」の誤記だが内容は正しいととらえると、形埜村内での乙川電力による供給はあっても大字大高味だけで、他地域は大沼電灯側が行った、ということになるでしょう。この推定を確かめる史料は、おそらく存在しないわけですが…。--継之助会話2021年5月24日 (月) 09:07 (UTC)[返信]