ナクサ

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アレンビー橋を渡ってヨルダンに退避するパレスチナ避難民(難民)
アレンビー橋を渡ってヨルダンに退避するパレスチナ避難民(難民)

ナクサアラビア語: النكسة‎、al-naksa[1]またはan-naksa、アン=ナクサ、挫折、敗北または後退の意[2][3][4]英語: Naksa)とは、1967年の第三次中東戦争中およびその余波で、イスラエルが占領した領域から約28万人から32万5千人のパレスチナ人[5]が退避を余儀なくされ、土地や故郷を追われた[6]ことを指し、これにはイムワス英語版ヤロ英語版バイト・ヌバ英語版、スリト、ベイト=アワ英語版、ベイト=ミルセム、シュユーフ英語版アル=ジフトリク英語版、アガリス、そしてフセイラトといった多数のパレスチナ村落の破壊や、アカバト・ジャベル英語版およびエイン・エッ=スルタン英語版の難民キャンプの「無人化」が含まれる[7]。イスラエルが六日戦争と呼ぶ、第三次中東戦争そのものに対するパレスチナでの呼び方でもある[8]

概要[編集]

1948年の第一次中東戦争でイスラエルは旧イギリス委任統治領パレスチナの78パーセントの地域を把握し、残りの22パーセントはヨルダンエジプトが統治していた[2]。1967年6月にイスラエルがシリア、エジプト、ヨルダンを相手に戦った第三次中東戦争において、イスラエルはわずか6日でその残りの22パーセントのパレスチナ地域、つまり東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区ガザ地区、そしてシリアのゴラン高原とエジプトのシナイ半島を掌握した[2]

同年12月までに、24万5千人がヨルダン川西岸地区とガザ地区からヨルダンに逃れ、1万1千人がガザ地区からエジプトに逃れ、11万6千人のパレスチナ人とシリア人がゴラン高原からシリアに逃れた[9]。1967年以前は、全パレスチナ人の約半数が旧委任統治領パレスチナの境界内に住んでいたが、1967年以降は大多数が領域外に住むことを余儀なくされた[9]

1967年のパレスチナ難民のうち約14万5千人は、1948年の第一次中東戦争からの難民だった[9][4]

記念[編集]

ナクサは毎年6月5日ナクサの日として記念され、1967年の強制移動の出来事を思い起こす日となっている[10]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ Shaked 2022, p. 1.
  2. ^ a b c Tahhan, Zena Al (2018年6月4日). “51 years on: How Israel devoured the rest of Palestine” (英語). アルジャジーラ. 2024年6月2日閲覧。
  3. ^ Shaked 2022, p. 7.
  4. ^ a b ガザ:「ナクサの日」に誓う占領への抵抗”. 毎日新聞. 2024年6月3日閲覧。
  5. ^ Bowker 2003, p. 81.
  6. ^ イスラエル・パレスチナにおける注意喚起、安全対策5/24” (PDF). 外務省 (2018年5月24日). 2024年6月3日閲覧。
  7. ^ Gerson 1978, p. 162.
  8. ^ Shaked 2022, p. 7
  9. ^ a b c McDowall 1989, p. 84
  10. ^ Mohammed Zaatari (2011年5月31日). “Army may prevent June 5 protesters reaching border fence”. The Daily Star. オリジナルの2012年10月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121007075117/http://www.dailystar.com.lb/News/Local-News/2011/May-31/Army-to-hold-back-Naksa-Day-border-protesters.ashx#axzz1Nz8p6RfW 2011年6月1日閲覧。 

参考文献[編集]