コンテンツにスキップ

ガイウス・リウィウス・サリナトル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ガイウス・リウィウス・サリナトル
C. Livius M. f. M. n. Salinator
出生 紀元前234年
死没 紀元前170年
出身階級 ノビレスプレプス
氏族 リウィウス氏族
官職 按察官紀元前204年
法務官紀元前202年
執政官紀元前188年
指揮した戦争 第二次ポエニ戦争
第二次マケドニア戦争
ローマ・シリア戦争
ローマ・ガリア戦争
テンプレートを表示

ガイウス・リウィウス・サリナトルラテン語: Gaius Livius Salinator紀元前234年 - 紀元前170年)は、紀元前3世紀終わりから紀元前2世紀初頭の、共和政ローマ政務官紀元前188年執政官(コンスル)を務めた。

出自[編集]

プレプス(平民)であるリウィウス氏族の出身である。リウィウス氏族はラティウムに起源を持ち、紀元前338年以降にノビレス(新貴族)としてローマの政治に登場してくる。紀元前324年にマルクス・リウィウス・デンテルが独裁官ルキウス・パピリウス・クルソルマギステル・エクィトゥム(騎兵長官・独裁官副官)を務めており、その軍事的能力を評価された。同名の息子マルクス・リウィウス・デンテルが、紀元前302年に氏族として最初の執政官に就任し、続いて紀元前300年にはポンティフェクス(神祗官)の一員となった。歴史家フリードリッヒ・ミュンツァーはこの執政官デンテルがサリナトルの曽祖父と推定している[1]。父および祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)は共にマルクスであり、父は紀元前219年と紀元前207年に執政官を務めたマルクス・リウィウス・サリナトルと推察される[1]

経歴[編集]

キケロは、マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)と同年齢としており[2]、これが正しければ紀元前234年生まれということになる[3]

紀元前211年、死去したマニウス・ポンポニウス・マトに代わって、神祇官の一員となった[4]

紀元前204年アエディリス・クルリス(上級按察官)に[5]、紀元前202年にはプラエトル(法務官)に就任した[6]第二次ポエニ戦争はまだ続いており、サリナトルは2個軍団を率いてブルティウムカルタゴ軍と戦った[7]

第二次マケドニア戦争中の紀元前199年ローマ艦隊の司令官に任じられたが、前任者のルキウス・アプスティウス・フッロは秋まで権限委譲をせず、さらに紀元前198年春には新しい司令官ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスバルカン半島に到着したため、結局何もしなかった[3]

紀元前193年、執政官ルキウス・コルネリウス・メルラの下で騎兵部隊を指揮した[8]ムティナの戦いでローマの勝利を決定づけたのは、彼の突撃であったという[9]。この年行われた執政官選挙は、マニウス・アキリウス・グラブリオら7人の有力者が乱立する[10]激しいもので、ここに立候補して落選した可能性がある[11]

紀元前191年、2度目のプラエトルとなり[12]ローマ・シリア戦争では艦隊を率いてアンティオコス3世アエトリア同盟の連合軍と戦った。ケファロニア島ザキントス島を服従させ、さらにペルガモンの艦隊も加え、小アジアの海岸に移動した。ここでポリセニデスが率いるシリア艦隊を撃破した[13]。ポカイアで冬営の後、ルキウス・コルネリウス・スキピオ(後のスキピオ・アシアティクス)が率いるローマ陸軍のヘレスポントス海峡渡海を支援した。その後ルキウス・アエミリウス・レギッルスと交代して、紀元前190年末にはローマに戻った[14]

紀元前188年、執政官に選出され、同僚のパトリキ執政官はマルクス・ウァレリウス・メッサッラであった[15]ガリア・キサルピナでの戦争を担当した。ここでフォルム・リウィイ(現在のフォルリ)を建設している[16]

サリナトルは紀元前170年に死去した[17][18]

子孫[編集]

紀元前130年ごろ、プラエトルにサリナトルのコグノーメン(家族名)を持つ人物が記録されている。個人名、氏族名は不明であるが、ミュンツァーはサリナトルの子孫と考えている[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Livius, 1926, s. 811-812.
  2. ^ キケロ『老年について』、7.
  3. ^ a b Livius 29, 1926, s. 888.
  4. ^ Broughton, 1951 , p. 276.
  5. ^ Broughton, 1951 , p. 306.
  6. ^ Broughton, 1951 , p. 316.
  7. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXX, 27, 7; 41, 1.
  8. ^ Broughton, 1951 , p. 349.,
  9. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXV, 5, 8-10.
  10. ^ Broughton 1991, p. 5.
  11. ^ Broughton 1991, p. 13.
  12. ^ Broughton, 1951 , p. 353.
  13. ^ アッピアノス『ローマ史:シリア戦争』、22.
  14. ^ Livius 29, 1926 , s. 889-890.
  15. ^ Broughton, 1951 , p. 365.
  16. ^ Livius 29, 1926 , s. 890.
  17. ^ リウィウス『ローマ建国史』、ХLIII, 11, 13.
  18. ^ Broughton, 1951 , p. 422.

参考資料[編集]

古代の資料[編集]

研究書[編集]

  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Broughton, T. R. S. (1991). “Candidates Defeated in Roman Elections: Some Ancient Roman "Also-Rans"”. Transactions of the American Philosophical Society (American Philosophical Society) 81 (4): i-vi+1-64. JSTOR 1006532. 
  • Münzer F. Livius // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1926. - Bd. XIII, 1. - Kol. 810-814.
  • Münzer F. Livius 29 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1926. - Bd. XIII, 1. - Kol. 888-890.
公職
先代
グナエウス・マンリウス・ウルソ
マルクス・フルウィウス・ノビリオル
執政官
同僚:マルクス・ウァレリウス・メッサッラ
紀元前188年
次代
マルクス・アエミリウス・レピドゥス
ガイウス・フラミニウス