アバボルギ

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アバボルギ(名前の由来はアラビア語の「アブー・バクル[1]、生没年不詳)は、ドルベン・オイラト(オイラト部族連合)の首長のトゴン・タイシの息子で、エセン・ハーンの弟。「大同王」と称しており、明朝の史書では大同王阿巴把乞児[2]、モンゴル年代記の一つ『アルタン・トプチ』ではアバボルギ・ダイトン(Ababorgi Daitong)と記されている。また、『明実録』に記される「阿孛伯」と「伯都王」はそれぞれ「阿巴把乞児」と「大同王」の別表記である。

概要[編集]

アバボルギが最初に登場するのは土木の変の直後、正統14年(1449年)9月のことで、この時明朝の通事の李譲は密かにエセンと講和するため、自らの娘を大同王アバボルギの息子に娶せようとしていた。しかし李譲の密通は上官の大同総兵官都督同知郭登に知られてしまったため、兵部の指示によって郭登が密かに李譲を殺し、この取引が以後どうなったのかは不明である[3]

同月の朝貢ではエセン・タイシ、第二知院バヤン・テムル、平章アラク・テムルらと名前を並べており、エセンの配下の中でも側近中の側近であることが確認される[4]。オイラト軍の捕虜となった英宗のため、エセンが宴を開くと大同王・賽罕王兄弟もこれに参加した。大同王らは明の英宗に酒を捧げ、天の計らいによって明朝皇帝と会えたのは幸いであると語ったという[5]

土木の変の翌年(1450年)、明朝で英宗に代わって景泰帝が即位すると、改めてオイラト軍は明朝領に攻め入った。この時、大同王アバボルギはエセン及び賽罕王率いる本隊とは別に、1700の人馬を率いて偏頭関を攻撃した。しかし明朝側の于謙らの活躍によってオイラト軍は明朝との折衝に苦慮し、同年中に英宗を返還することとなった[6]。また、景泰3年(1452年)の記録ではエセン、バヤン・テムルらオイラト諸侯に続いて、第五位に名前が列せられている[7]

この後、アバボルギの兄のエセンはタイスン・ハーンを弑逆して自らハーンの地位に即いたが、モンゴル・オイラト諸侯の叛乱を招き、最終的に腹心の部下のアラク・テムルによって殺されてしまった。更にエセンの死後間もなくアラク・テムルも殺されてしまったため、オイラトの諸勢力の分裂は決定的となってしまった。このような状況の最中、アバボルギは兄の仇のアラク・テムルの息子のエンケと同盟を組むことでアラク・テムルを殺したハラチン部のボライ・タイシに対抗しようとした[8]

天順3年(1459年)以降、アバボルギはハミル王家に嫁いでいた自らの姉を頼り、ハミル王国に滞在した[9][10]。ハミル王国に寓居するアバボルギ及びその甥のケシクは明朝の保護を頼り、天順5年(1461年)に都督僉事の職を与えられた[11]。これ以後のアバボルギの動向は不明である。[12]

家族[編集]

アバボルギの家族関係について明記している史料はないが、「エセンの弟(也先弟)」と記されていることから、順寧王トゴンの息子の一人であることが分かる。

アバボルギの他にももう一人エセンの弟がおり、明朝ではこれを「賽罕王」と称しているが、実名は明らかではない。賽罕王はアバボルギと並んで史料に現れることが多く、アバボルギと同格の地位にあったと見られる。

オイラト・チョロース首領の家系[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Shidalga2006,94頁
  2. ^ この表記は「乞」と「児」を転倒しており、「阿巴把児乞」と直すとAbaborgiに一致する
  3. ^ 『明英宗実録』正統十四年九月丙申「大同総兵官都督同知郭登奏、通事指揮李譲以講和為由潜結也先、約許幼女為也先弟大同王児婦。又密受也先賞馬四匹・被虜婦女二口、将各城指揮姓名尽報与也先。又詐伝上皇聖旨、令臣与也先相見……事下兵部、議以為欲加誅戮恐激辺患、欲取赴京恐致奔竄。宜令郭登、密切処置。従之」
  4. ^ 『明英宗実録』正統十四年九月丁未「是日、瓦剌使辞帰、命齎金帛帰、賜也先並其弟大同王・賽罕王・迭知院伯顔帖木児・平章阿剌知院等」
  5. ^ 『明英宗実録』正統十四年十一月癸巳「是日、上皇車駕至蘇武廟、得知院宰馬設宴……大同王・賽罕王皆跪奉酒曰、中国上人天縁幸会也」
  6. ^ 『明英宗実録』景泰元年三月辛未「正月内也先与賽罕王部分諸酋入寇、欲自領人馬一万七千寇大同陽和、大同王領人馬一千七百寇偏頭関……」
  7. ^ 『明英宗実録』景泰三年十一月辛酉「瓦剌太師也先・知院伯顔帖木児・頭目阿剌帖古迭児・寧王撒因孛羅・大同王阿巴把乞児・副枢虎禿不丁答剌罕等奏……」
  8. ^ 『明英宗実録』天順元年五月壬午「都督同知馬政自虜中附奏……今訪得也先弟阿孛伯・阿剌的児子昂克禿等欲与孛来讎殺……」
  9. ^ 『明英宗実録』天順三年八月庚戌「陞哈密忠順王使臣都指揮同知把禿帖木児為都指揮使、伯都王使臣指揮僉事失剌力為指揮同知、命克失禿王使臣故都督僉事、把伯子把禿孛羅為指揮僉事。伯都王・克失禿王皆自瓦剌寓居哈密者」
  10. ^ 『明英宗実録』天順三年八月癸亥「哈密使臣都督脱脱不花・指揮虎都帖木児等陛辞宴、賜如例仍命齎勅並綵幣・表裏、帰賜忠順王卜列革及瓦剌也先弟伯都王」
  11. ^ 『明英宗実録』天順五年四月甲申「命瓦剌也先弟伯都王為都督僉事、姪兀忽納為指揮僉事。伯都王即哈密王母之弟、兀忽納母之姪也。因也先乱後、倶依哈密居住。至是、王母弩温答失里上書、乞与伯都王一職、兀忽納亦自上書、求陞。故有是命」
  12. ^ Buyandelger2000,37/50頁

参考文献[編集]

  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • 宝音德力根(Buyandelger)「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6輯、2000年
  • 希都日古(Shidalga)『关于明代蒙古人的宗教信仰』、2006年